第八節 Machtkampf(権力争い)
我らに徒なす、矮小なる者どもよ。自ら守られておきながら、なんたる姿か。
ああ、お前たちはこれ以上わしを傷つけて、一体何を成さんというのだ。
『ソンネントラーネ叙事詩』
スピエゲル王の嘆きより
身構えた三人の前に現れたのは、エルフェの姿をした少女だった。
いくらか灰がかった白い髪と褐色の肌をもち、空を映したような青い瞳をして、見た目はステルンよりもやや幼い印象を受ける。
それが、空中に浮いているのだ。鴉のように真っ黒な、それもエルフェが決して着ないであろう華美なドレスを纏い、赤い唇を三日月の形に吊り上げている。
「しゅ……シュネイ……ガイゲ……!」
「人間?!」
「ステルンちゃん?!」
ブランドとガイゲがほぼ同時に声をあげ、三人は滞空する少女を見上げる。
腕にはステルンの体が抱えられていた。ぶらんと宙吊りになるような形で小脇に抱えられたステルンは、黒い少女の腕の中で泣きそうなほど顔をゆがめている。
ふと、黙り込んだままのシュネイに視線を移したガイゲは、彼が目を見張ったまま立ち尽くしているのに気がついた。固まったままで凝視する先は、抱えられた茶髪の少女ではなく、褐色の肌の少女の方。
「……アー、レ……?」
やがてシュネイの口から飛び出したのは、ガイゲも何度か耳にしたことのある名前だった。風に溶けてしまいそうなほどか細い呟きには、驚きと共に懐かしさが幾分か混じる。
「まてよ、アーレって確かお前の……」
つらそうに体を起こしながら、ブランドが何かを言いかける。すると白髪の男はゆっくりとうなずいた。
シュネイは信じられないといった顔で一度瞬きをし、ふたたび二人の少女を見る。つられてよくよく見てみれば、彼女たちの顔は互いによく似ていた。
「アーレ、ってかわいい名前ねぇ。誰の名前?」
「…………」
「あら、意地悪なお兄さん。……もしかしたらこの体の名前?」
少女の何気ないつぶやきに、シュネイは一瞬、苦しげに眉をひそめた。するとそれはにたりと嫌な笑いを浮かべて、甲高く耳障りな声の高笑いをする。
「きゃはははははっ、面白いわね! エルフェがかくまってた人間だし、すぐに食べてやろうと思ったけれど」
唇の形をゆがめたまま、高飛車に笑った「アーレ」はシュネイを見つめた。
「まさか死ぬ前の知り合いが近くにいた、なんてね。いいわ、ご馳走は後のお楽しみ……大事なものみたいだから、チャンスをあげましょう」
くすくすという声が妙に耳について離れない。
ガイゲは少女をにらみながら、ゆっくりと弓に手をかける。困惑した顔で震えるシュネイに、視線はむこうに向けたままでささやくように声をかける。
「シュネイ、よく見て。あれは影だ、シュネイの知ってる誰かじゃない」
「……でもあれは」
「“魂核を正しく割れなかった”なら、ありうる話だろ。姿は似てても、中身はちがう」
「……わかってる……けど……」
煮え切らないシュネイの態度にため息をついて、ガイゲは弓をつがえずに目測を始めた。
眉をひそめ、友人の口から漏れた声を無視するように、今度は言葉を成さない歌を歌う。センゲル同士にだけ通じるかすかな音の流れで、意志を伝えた。
『僕がこれからあの影を射る。そしたらシュネイはステルンちゃんを助けて、村まで逃げるんだ。いま一番動けるのは僕だから、ブランドは何とかする』
「…………」
白髪の男は答えない。困惑するようにガイゲと空中の少女とを交互に見やる。
『いくよ?』
一応訊いてはみたが、黙りこむ彼の答えを待っている暇はなかった。ガイゲは吃と口を真一文字に結ぶと、例のごとく流れるように矢をつがえ、放つ。
しん、とその場が凍りついた。
矢はまっすぐに少女の額に刺さったが、影特有の核の割れた音がしなかった。
その代わり当たったはずの矢がぱきん、とむなしい音を立てて折れ、雪の上に落ちた。黒の少女は口を三日月の形にゆがめたままで、まるで外見には不相応な表情をガイゲに向ける。少女の核を守る「殻」の思いがけない堅さに驚いたガイゲは、矢を放った姿勢のまま硬直した。雪上に膝をついているブランドや、少女に抱えられたままのステルンも、同じく目を丸くした。
「馬鹿ねえ。エルフェの矢ごときで壊れるとでも思って?」
ねっとりとした声で三人の男を見下す「アーレ」。その視線の先で歯噛みするガイゲとブランド。
シュネイだけは驚きとともにすこしだけ安堵したような、なんともいえない表情を浮かべていた。やはり自分の妹と同じ顔をしたものが死ぬところを見るのは、気が引けるのだろう。
「影なんかと一緒にしてるなら教えてあげる。私たちは『闇』、ガルデ・シアの眷属でも上位の存在」
「……闇、だと?」
「そうよ。黄金王の手で直に魂を掬い上げられた、嘆きと恨みの声」
「嘆きと……恨み……」
少女の言葉を繰り返すようにつぶやき、シュネイはようやく表情を変えた。まだ困惑の色は抜けないが、真っ直ぐに空中の姿を見つめるその目に、光が戻る。
「ガイゲ、弓を収めたほうがいい。今やりあっても勝ち目はなさそうだ」
もう一度矢をつがえようと構えるガイゲを片腕で制し、シュネイは諦めたように頭を振った。
「何でだよっ」
「お前だって影と戦った後だし、あれは疲れてる様子がない」
「ふふ、賢明な判断ね」
褒められても嬉しくはないと、シュネイはアーレの形をしたモノに向けた視線を険しいものに変える。睨みつける青年を優越に浸るような表情で見下ろしながら、少女はにたにたと笑い続ける。
「さっき何か言いかけたな? そんな人間の子供なんか攫って、何をするつもりだ」
「あら、何よその言い方。大事なものじゃなかったの?」
「一応は村の客人だが。……それがどうした?」
「ふぅん……まあいいわ。もしこの娘、助けたいならお探しなさいな。宝探しって所かしら。ほうっておけば、人間なんかすぐに壊れちゃうのは分かってるわよね?」
まるでおもちゃの人形を隠すの、とでも言いたげなその台詞に、シュネイはぎり、と歯噛みする。いまここで戦う力のないことが、もどかしい。
「ちょっと、いい加減にしなさいよ! 黙ってれば人を物みたいに言っちゃって、あんた何様のつもり?!」
抱えられたステルンが急に声をあげた。黙り込んでいたのが嘘のように、手足を幼子のようにばたつかせて暴れだす。「アーレ」は腕の中で暴れだした人間に目を丸くして、それからすぐ眉をひそめて不快そうに彼女をにらみつけた。
「うるさいわね……これだから人間は嫌なのよ。力もないくせにぎゃあぎゃあわめくし、一人じゃ臆病なくせに集団になると途端に強気になってみたり」
喋り続ける青い目が細められ、ふいに金色に煌くのをシュネイはみた。吐き出される言葉のひとつひとつが、まるで復讐に駆られていた頃の自分と似た感情であることに気付く。
「そういえばだまし討ちも得意なのよね? 弱ったふりをして油断させていきなり傷つけたり、一人だと思わせておいて、火を放って混乱させたところに襲ってきたり?」
「人間がみんなそうだと思ったら大間違いよッ」
「じゃあ人間はだれもそんなことをしないとでも? 事実そうやってあたしは人間に殺されたのよ。誰かの腕の中から急にもぎとられて、わけもわからないうちに殺されたわ」
「っ! ……それ、は……」
言い返され、ステルンは顔を真っ赤にすると、唇を噛んで黙り込む。そんな彼女をみて、「アーレ」は鼻で笑った。それ以上何も言わないと分かると、つまらなそうに視線を三人の方へ戻す。
宙を漂う黒の少女が何を思い出してそう言っていたのか、シュネイにはすぐに検討がついた。
……やはり彼女は、妹のアーレなのだろう。本人は気づかずとも、その口が語る記憶が嫌でも確信させてくれる。
「……気が変わったわ。うるさいからやっぱり殺して血をすするのがいい――」
「そうはいかんぞ、音無しの化け物」
「?!」
言い終わらぬうちに、細身の槍が背中から小さな胸を貫いた。アーレが驚く間もなく槍の柄がぐん、と横に振られ、ステルンを抱えた腕が下に向くような格好で、白い地面にその体が叩きつけられる。
容赦なく少女を地面にひれ伏させたのは、銀槍を操る金糸交じりの長い髪。ペリドットの瞳を凍らせて、自分を見上げる青い目を静かに睨み返す。
「隊長?!」
「義姉さん?!」
「まったく、男のくせに情けないな貴様ら……それでも私の隊のメンバーか?」
ガイゲとブランドが同時に声をあげたところへ、ビルケはため息をついて首を振る。二人は心の中でそっと、それはあんたが化け物なんだと抗議したが、何かを察知したらしい彼女のひと睨みで身をすくめた。
「まあ、そういうなビルケ。この様子だと三人とも相当力を使ったようだ、仕方なかろう」
「ドンネル隊長……」
「! 影たちはどうしたのよ?!」
二人の「隊長」が現れたことで、アーレが驚きに声を張り上げる。
ドンネルは地面に叩きつけられて気を失ったステルンに一瞥だけをくれると、低く笑って重そうなポールアックスの刃をアーレの目の前に突き立てた。
「さっきの『歌』を聞いていなかったのかね。あれは我々の耳に音の届く範囲の影を『還す』ための長歌。お嬢さんこそ、エルフェをずいぶんと甘く見ていたのだな」
「……還す? 還すですって? 輪廻から外れた影を? そんなことが」
「できる。今のところ、ヤーレスツァイトではただ一人だけだがな」
ビルケがちらりと見やった先にいるのは白髪の青年。ぎちりと悔しげに歯を鳴らして、アーレは褐色の肌のセンゲルを睨む。
が、やがてその顔がふたたび笑みに変わると、少女は甲高い声で笑い出した。
「あは……あはははははッ! まさかそんな面白いエルフェがいるなんて、思ってもみなかったわ! きゃはははッ!」
「……っ! こいつ?!」
狂ったように笑う彼女を押さえつけようとした、ビルケの槍がずぶりと地面に沈む。急いで引き抜こうとするが、粘ついた黒に捕らわれた槍はびくともしない。塗りつぶしたような黒いしみとなって地面に溶け込んでゆくアーレの体は、いつの間にかビルケの足をも飲み込んでいる。
「ビルケ!」
「……くそっ、抜けん!」
慌ててドンネルやガイゲがビルケの腕をつかんで引き抜くのを手伝うが、ブーツごと足までが取り込まれているようで、いくら引っ張ったところで地面から抜けはしない。それどころか、逆に柔らかな雪にとられた足が滑り、ビルケは一気に膝までを飲み込まれた。
「きゃはははははッ! 黄金王さまにお教えしなくっちゃね!」
目を見開いて笑いながら、ずるずると影に溶けていく少女の姿は、奇妙にゆがんだ空想画のような気味の悪さを伴う。
必死に抵抗するビルケに黒い蔦のようなものが巻きつき、抗えぬほどの力で縛り上げていた。そしてその手を引いて取込ませまいとする男たちの腕から、あざ笑うように彼女の体を地の底に奪い去った。
「そこの人間の替わりにもらっていくわ。そのほうが必死になるでしょ? ……じゃあね」
とぷん、と天から落とされた水滴が地に染みるように黒が消え、ざらついた声と無数の足跡だけがそこに残される。
……白の森に静けさが戻り、凍えた空気が張り詰めていた。
「ふむ……ビルケがのう」
影の襲撃がおさまってから一アルワズ半ほど後。ヤーレスツァイトの長・ミステルは、今回の影の襲撃の顛末を伝え聞いて眉をひそめる。広間には五人の長老格のエルフェたちが集まっていた。その中央に、先ほどの騒動でビルケが連れ去られるのを見ていたエルフェ……シュネイたち四人が控えている。
「……どこまで本当のことやら」
「と、いうと?」
「彼らは人間に加担しておるのでしょう? 人間が災いを招いたのだとすれば納得がいく」
一人の言葉に、他の四人の長老が各々うなずいた。
シュネイは思わず声を出しそうになったが、ドンネルの静かな、しかし鋭い視線にぐっと声を飲み込んだ。今、この場での彼らの発言は許されていない。
「まあ、そう言いたくなる気持ちもわかるがの、ヒンメル。しかしドンネルの人間嫌いはお主が一番よく知っておろう?」
「お言葉ですがミステル様」
深い皺の刻まれた顔をかすかにゆがめ、ヒンメルと呼ばれた男は一度言葉を区切る。
「人間と共にいたというだけで、影を招いたという疑いは深まります。それはどんなによく知っていようと……たとえ我が息子であっても変わりはない」
顔を伏せたドンネルにちらりと視線をよこし、ヒンメルは頭を横に振る。その彼に賛同するように、隣にいた初老の女がうなずいた。
「そもそも影とは、我らエルフェの影。人間に魂核をうばわれ、人間の気配に強く惹かれて生き物を無差別に襲う抜け殻だという事は、それこそミステル様が良く知っておられるでしょう?」
「ふぅむ……」
ミステルは長老たちの言葉に少し考え込み、瞼を軽く伏せた。
「……あの人間を殺してしまえば、何も問題はないのでは?」
静寂に突如として刻まれたヒンメルの提案に、シュネイは思わず顔を上げた。金色の目を見開き、長老衆のうなずきにただただ絶句する。
「それもひとつの手ではあるがの」
人間など全て殺してしまうべきだという、常の彼の意見を知っているからこそ、それをいさめるようにミステルは重い口を開いた。
「あの娘の心に邪心はないのだよ。心根が影を呼ぶのだと何度も言っておろう? この期に及んで、お前はまだわしの力を信じぬというのか」
「いいえ。ですが我らには確かめようがないのも事実。危険性がある以上、排除するのは当然のことでしょう」
ミステルの翠玉の視線にヒンメルは一瞬ひるんだが、それでもやや口ごもるようにして反抗した。
「おぬしとやり合っておると埒があかんな」
軽い嘆息と共に、小さな老女は本音を吐き出した。それからシュネイたちのほうへ顔を向ける。
「どうじゃ、伝え聞きではなく、お前たちの口から直接話を聞きたいのじゃが」
「ミステル様?!」
「ぬしらは黙っておれ。公正な判断をするためには必要なことじゃろう?」
静かに燃える緑を向けられ、ざわついた長老衆はいちどきに黙り込む。
「さて、四人とも顔をあげい。先ほどこやつらはああ言ったがの。お前たちの中でそれが偽りだと思うこと、もしくは伝え漏れや意見があるならば申してみんか?」
ミステルの言葉に従い、四人は戸惑うように顔を上げた。そのうちの若い三人は目線だけを交わして、何を言っていいものか迷っているようだ。
「恐れながら申し上げます」
一番初めに口を開いたのはやはりドンネルだった。きれいに整えられたひげのある顔を長老衆にむけ、一度深く礼を取ってから話し始める。
「我々は人間に加担したわけではありません。無駄な報復を避けるため、あの人間を傷つけてはならぬというミステルさまの命に従ったまでのこと。ビルケが連れて行かれてしまったのは、彼女が捕らえた『闇』とやらの能力に絡め取られてのことです。結果的には人間が残ってしまいましたが、それは単なる偶然」
ですから、と彼は言葉を続ける。
「また捕らえられることのないよう、あの人間を閉じ込めておけばいいのでは?」
人間嫌いのドンネルらしい言葉だ。ミステルは小さく片眉をあげただけで、ほとんど微動だにせずにそれを聞いている。ドンネルの発言を聞いて、今度はガイゲが反論した。
「恐れながら僕にも意見させてください」
ミステルがうなずいて促すと、ガイゲも礼を取った。
「襲撃が起きたとき、人間……ステルンは僕が一時的に監視しておりました。あの時、何か不審なことをする様子はなかった……だから彼女に影を呼ぶ暇はない。確かに僕が家を出るとき、彼女を家の中に残していきました。ですが、あの周辺に影の目に映らなくする歌仕掛けをしているのは、長老衆もご存知とは思いますが」
「加担しておればそんな言い訳は通用せん。目を離せば同じであろうが。それに監視を言いつかったのはシュネイなのだろう? なぜお前が監視しておったというのかね?」
必死に説明するガイゲを、ヒンメルが耳ざとくとがめた。言いよどむガイゲ。沈黙に包まれる詮議の場。
だが、冷え込んだその空気を破ったのは一つの告白だった。
「おれが、監視を一時放棄したのです。俺が放置してしまったステルンをたまたま見つけて保護したのが、ガイゲとブランド。そこでブランドは俺を呼びに、ガイゲは監視に残ったと聞きました。彼が監視をしていたのはそのためです。……それから先は、先ほどご報告申し上げたとおり」
シュネイが頭を下げて言い終えると、彼を見ていたドンネルがふと思い出したように付け加えた。
「そういえば、ビルケをさらった『闇』とやら……あの人間とそっくりの顔をしておりましたな。ところが奴め白髪の褐色肌……ここに控えるシュネイと、似たような色をしておりましたが」
「! それ、は……!」
思いがけない発言に、シュネイは思わず声をあげて呻いた。長老衆が再びざわつき、白髪の彼をにらむ。シュネイは助けを求めるように最長老のミステルを見やるが、彼女は諦めろとでも言うように首を横に振った。
「そうじゃのう。シュネイ、わしは話さずとも分かるが、隠し立てせず皆に話しなさい」
ぐ、と息をのむ。ためらうように瞳が宙をさまよい、それから観念したのか、彼はうなだれて話し出した。
「……ドンネル隊長の言う『闇』は、実の妹――アーレの『影』……だと思われます」