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目を開くと、大河と美里が湊の顔を覗き込んでいた。
湊は、ハッとして慌てて身を起こすと、そこは管理室の床の上だった。どうやら、誰かが地下からここへと、連れて来てくれたようだった。
「…ごめん、倒れたのか。」
大河が、心配そうな顔で頷く。
「オレが背負って運んで来た。もう地下には用はないし、降りなくて良いからな。気にするな。」
湊は、頷いたが怪訝な顔をした。
「でも…Wi-Fiは?」
大河と美里は、顔を見合わせる。
そして、美里が言った。
「あのね、大河くんと理久くんが見てくれたんだけど、完全に水没していて、上からポンプで水を吸い上げて抜くしかないなって…。溝は細すぎてどこへ繋がっているのか見えないし、行けなかったの。それで…どうしても、脱出しなきゃならないって。」
大河は、頷いた。
「今、弥生さんと理久が、宮脇さんかどうか…美里さんは宮脇さんだと言う肉の中に、鍵が無いか探しに、食堂へ行った。オレ達は、湊を見てるために残ったんだ。」
湊は、弥生が行ったのだ、と思った。自分が行くと大きな口を叩いていたが、魔導書を見つけただけで、気を失って倒れてしまった…。
「…オレが行くって言ってたのに。」と、湊は立ち上がろうとした。「見て来ようか。」
美里は、とんでもないと首を振った。
「あなた倒れたのよ?やめた方が良いわ。魔導書を見つけただけで倒れたんだもの、あれが本当に宮脇さんだと知ったら…。」
美里は、口をつぐむ。
確かに、自分は頼りにならないだろう。こうなって来ると、また謎が魔術などという非現実的な物を宿して自分達の前に迫って来るのだ。
「でも、侵入者は居なかったし。水没してたなら、誰も入って来れないから、ここは逆に安全ってことだな。」
湊が言うと、大河が言った。
「そうだよな。オレ、水が入ってたから奥まで行けなかったけど、奥は結構な広さがあって、どこに繋がってるのか知らないが、人が入って来れそうだなと思ったんだ。水路みたいになっちまってて、どこまで続くのか分からないからそこを通って外へ行くのは無理だが、逆に向こうからも来られないって事だし。侵入者は、水浸しの時は安心だ。」
美里が、顔をしかめて言った。
「もう入って来てない限りわね。大丈夫だと思うけど…どの部屋も、誰も居なかったんでしょう?」
大河は、頷いた。
「居なかった。宮脇さんも。でも…主の部屋だけ、入れないんだ。鍵が掛かっていて。」
美里は、言った。
「じゃあ、侵入者だって入れないわ。だって、鍵がないでしょう?」と、傍のキーボックスを指した。「ほら、そこのキーボックスの中も、主の部屋って書いてある場所だけ、鍵が掛かってないじゃない。」
大河と湊は、言われてキーボックスを見上げた。
そこには、きちんとテプラでどこの鍵なのか書いてあって、鍵に札が付いている状態でぶら下げてあった。
だが、主の部屋の鍵は、確かに無かったのだ。
「うわあああ!!」
理久の声。
「なんだ?!」
大河が、立ち上がる。
湊は、まだふらつく足を必死に踏ん張って立ち上がった。
「何かあったんだ!行こう!」
大河が、先に駆け出す。
湊は、美里に気遣われながら、出来るだけ急いで食堂へと向かった。
食堂では、理久が入り口付近で頭を抱えており、弥生が青い顔でガクガクと震えている。
壁や辺りに飛び散った血しぶきのまだらな模様が、暗くなり始めたために着けたであろう明かりに照らされて、ハッキリと見えた。
それは、時間が経って黒く変色して来ているが、それでもやはり、本能はその色を警戒して胸の鼓動は早くなる。
一番見たくなかったので意識的に避けていた床の上の肉の塊の方へと、覚悟と共にゆっくりと視線をやった湊は、途端に息を飲んだ。
肉片は、無くなっていたのだ。
正確には、皮の部分や小さな破片は乱雑にまき散らされるようにして落ちていたが、あの、人だったのか食材なのか分からない肉の塊が、ない。
辛うじて形は残っていた脚の部分も、骨が少しあるぐらいで、空になった靴と、ズタズタになったズボンの布片が落ちているだけだった。
「ど、どういうことだ…?」
大河が、掠れた声で言った。確かに塊で、ここにあった物がない。
理久は、半狂乱で言った。
「あ、あ、足跡…!廊下に、続いてる…!」
湊は、足元を見た。そこには人の裸足の足跡が変形したような、少し大きめのものが、点々とあちらこちらについていた。それは、肉塊が存在した辺りを踏み荒らし、その後、出入り口へと向かったようだ。そこからは、廊下のワインレッドの絨毯のせいか、足跡はよく見えていなかった。
新聞記事と同じ。
湊が戸惑っていると、理久が、急に震え出した。
「これ…これって、他の誰かが居るってことだよな…?もしかしたら…、」
その後の言葉を続けようとして、理久は込み上げて来るものを堪えるように口を押さえる。
減った肉塊。さっきは無かった足跡。そう考えたら、必然的に、その何かは、宮脇だったかも知れない肉塊を、食べたのでは。
「き…」美里が、声を上げた。「きゃあああ、う、」
美里の声は、屋敷に響き渡る前に途切れた。察した湊が慌ててその口を塞いでいたのだ。
「待て!誰か居るなら、叫んで居場所を知らせたりしたら駄目だ!落ち着け、とにかく今はまだ、オレ達は侵入者と遭遇していないんだ。幸い宮脇は小さくなってるんだから、鍵だけ探して、ここを出よう。」
美里は、ジタバタともがいていたが、湊の言葉に我に返ったのか、静かに頷いた。湊はそれに頷き返して、ゆっくりと美里から手を放した。美里は、まだ青い顔をして、見るからに具合が悪そうだったが、震えながらも、言った。
「ごめんなさい…。もう、もう怖くて。だって、本当に宮脇さんだったのに。爆発した上、食べられちゃうなんて…。」
湊は、頷いて自分も震えて来るのを必死に止めながら、宮脇のズボンだった残骸を見下ろした。
「オレが探す。お前は、入口の方を見張っててくれ。」
そうして、宮脇のズボンのポケットを探った。信じたくないが、こうして改めて見ると、確かに宮脇の着ていた服なのだ。いつも持っている、電気作業用の薄い手袋をはめたが、それは見る間に赤黒く変色して行く。しかしそこには、鍵はなかった。
「…無い。上着のポケットだったのかな?」
ふと、視線を上げた湊は、テーブルの上に何かがあるのに気付いた。最初、そこにも飛び散った血痕だと思ったが、よく見ると違う。
そこへ歩み寄ると、そこには血だらけになったメイカーのエンブレムが着いた金属のキーホルダーに繋がれた車の鍵と、まるで活字のような筆跡で書かれた、何かの覚書のような、A4ほどの大きさの紙を見つけた。
「あったぞ!食えないから避けたのか?」と、紙を見た。「…これ、見てくれ。」
大河が、入口を気にしながらテーブルへと歩み寄ると、その紙を手に取った。
「…なんだこれは。さっきは確かに何も無かったのに。」
「とにかく先に戻ろう。」湊は、手袋越しに感じる、車の鍵を握りしめて言った。「管理室に戻ってから読もう。こうなって来ると、うろうろするのは危険だ。」
大河は頷いて、美里を見る。美里は、まだ震えている弥生の肩を抱いて、先に管理室の方へと歩いて出て行く。
大河は、理久に手を差し出した。
「理久、とにかく戻ろう。」
理久は、震える足を押さえながら、その手を握って立ち上がった。
湊と大河と理久は、美里と弥生の後を追い、見つけた車の鍵とその紙片を持って、急いで管理室へと音を立てないようにと周囲を警戒しながら戻って行った。
管理室へと入って念入りに扉を閉め、鍵を掛けると、五人はその薄暗い中で顔を合わせた。
…あれは、宮脇だった。
皆が、そう確信していた。
何より、湊の手の中にある血まみれの鍵が、それを証明していた。
宮脇は、本当に美里の目の前で爆発していたのだ。
そして、なんだか分からない侵入者に、食べられてしまった。
弥生が、震えて言った。
「あれは、宮脇さんだったんだわ…。美里が言った通り、早くここを出ないと、私達も順番に爆発させられて、食べられてしまう!早く…早く逃げないと!」
美里が、落ち着いた様子で言った。
「落ち着いて。私が逃げなきゃって言ったのに、出られないと言っていたのはあなた達でしょ?それで、鍵は?一つなの?」
湊は、手の中の鍵をその辺で拾ったウエスで拭きながら、答えた。
「一つだよ。車の鍵。家の鍵はなかった。」
理久が、いくらか落ち着いて来て、言った。
「あんなもの、さっきはなかったのに。テーブルの上にあったら気が付くのに。」
大河は、言った。
「誰かが置いてったんだろう。宮脇の死体が明らかに少なくなってて、そこから廊下へ向けて足跡が点々と続いていた。ということは、侵入者は、居る。オレ達がまだ遭遇してないだけで、屋敷の中に居るんだ。知らない間に、地下からどこかへ出て行ってたんだろう。」
弥生が、息を飲んで口を押え、呼吸を荒くし始めた。美里が、急いで弥生に駆け寄って肩を抱き、その背を撫でながら言った。
「大丈夫よ。まだ出会ってないし、私達がどこに居るのか知らないはずはないと思うの。それなのに、接触して来ないってことは、あちらも隠れたいんじゃないかしら。」
湊が、まだ鍵を拭きながら言った。
「そうだな。足跡は一つだったし、あちらは一人なんだろう。こっちには五人居るし、男が三人。勝てないと思ってるんじゃないのか。」
「向こうも閉じ込められてるのかもしれないしな。」大河は言った。「おそらく狂ってる奴だ。おかしいんだ。それでも、オレ達に挑んで来ない良識は残ってるんだろう。ここは刺激しないように、様子を見よう。こっちはこっちで、何が起こってるのか調べてここを脱出する策を練ろう。」
湊は、ふと鍵を拭く手を止めて、言った。
「だが、この紙はなんだ?血しぶきが飛んでないのを見ても、これが後から置かれたのは間違いないんだが。」
皆は、その紙片を見た。そこには、まるで活字のようにきちんとした文字で、しかし手書きで箇条書きのようにこう書いてあった。
・誰もここから出ることは出来ないが、生きてる人と二人なら一緒なら出ることが出来る
・でも扉を抜けられるのは一人ずつ
・最後の一人は出られない
・最初の一人は肉片になる
・夜が明けたら仲良くみんなでおいしいご飯になるだろう
・だが気を付けて。一緒になれない人が一人混じっている。一緒になったらその場ですぐにご飯になるよ
「何、これ。」美里は、呆然とそれを見下ろした。「二人一緒なら出られるのに、扉を抜けられるのは一人だけって?矛盾してるわ。」
理久は、むっつりと黙りこくって考えている。湊は、鍵を拭き終わってそれを尻のポケットに入れると、手袋を外してそれを放り投げた。
「最初の一人は死ぬってことだろう?肉片になるってのは。最後の一人は出られない、のはそのままだな。何の謎かけだ。この紙に書いてある通りだとしたら、全員が無事にここを出るのは無理ってことだろう。」
大河は、言った。
「犠牲を出さなきゃ誰も出られないシステムってことか。」
弥生が、ガクガクと震えながら言った。
「でも…でも夜が明けたらみんなおいしいご飯になるって。それって、どういうこと?ねえ夜明けまでに解決できなかったら、私達みんな殺されるの?宮脇さんみたいに…」
時計を見ると、今の時間は午後五時半。夜明けまでにはまだ時間はある。何とか、ここをみんなで脱出する方法は…。
「…要はこんな状態を打破出来たらいいんだものね。」と、魔道書を手に取った。「これが侵入者がおこなっている呪術なんだって言うなら、それを無効に出来たらいいんじゃないかな。この魔導書に、ヒントがあるはずだよ。もしかしたら、結界とかあるかも。術を施している場所を探し出して、それを壊せばいいんだよ。」
理久は、そう言って湊にそれを手渡した。
これを読めるのは、今湊しか居ない。
「呪術?お前は、これが呪術だって言うのか?」
湊が戸惑いながら言うと、理久は頷いた。
「そうだよ。だって、そうとしか考えられないじゃないか。人が爆発したんだぞ?そしてそれを食べてる奴が居る。日誌には、地下室に落書きされたって書いてあるし、こんな魔道書なんかあるし、頭のおかしな奴が絶対なんかやってる!頼むから、これを読んでくれ。この中じゃ、お前が一番早く読めるんだ。オレ達には単語から調べなきゃ無理なんだからな。」
湊は、今にも放り出したい気持ちになるそれを、見つめた。魔道書…でも、この中にヒントがあるのなら、怖がっている場合じゃない。
湊は、仕方なく覚悟を決めて、魔道書を開いた。