エピローグ
それから、数週間が経過した。
大河達とのやり取りは、基本要がニクラスとして対応し、メールのみだった。
ニクラスはドイツに帰っているということになっているので、メールだけでも問題はなかった。
要は、何もかも彰から任されているので、施行時期は遅らせるのも造作なかった。
向こうは生活がかかっているので早く早くとうるさいが、こちらは海外に居るという事を武器に、まだ日程は決まっていなかった。
今は世界的におかしなウィルスが流行っているので、渡航にも制限があり、理由が付けやすい。
そんなわけで、まだ次はいつかなど、決まってはいなかった。
彰に報告のために執務室を訪れると、彰はモニターを前に難しい顔をしていた。
「彰さん?どうしましたか。」
彰は、ちらと視線を上げて、言った。
「要。」と、息をついた。「なに、クライアントから、なぜにここで例のウィルスの特効薬を作らないのかと矢のような催促でな。」
要は、そういえば、と彰を見た。
「そういえば彰さんはどのチームにもそれを命じていませんね。」
彰は、またため息をついた。
「あれは、私の専門ではない。そもそもウィルス関連なら、私より優秀な頭脳達が連日そればっかりやって励んでいる。それでも駄目なのに、ぽっと参入した私が作れると思うか?世界にどれ程の研究機関があると思う。それに、この国には検体が少ない。人体は同じといってそうではないのは、君も知っているだろう。地域によって、遺伝的に持っている物もまた違う。こんな小さな島国で、少ない検体で作ったものが世界で完璧に機能すると思うか?私は思わないがな。ならば私がずっとやっている、悪性腫瘍の自然治癒の研究に没頭した方が、余程人類のためになるというものだ。物事には、適材適所というものがある。私はウィルスはあまり扱って来なかったからな。人類が戦っているのは、何もあのウィルス由来の病ばかりではない。他の病で苦しんでいるもの達のための研究を止めないのも、また私達の役目だと思っている。」
要は、頷いた。
自分も、人狼化した真司達を元に戻すヒントを、細菌学からとしばらくは細菌を扱っていたが、今では彰のチームでヒトの細胞ばかりを扱っている。
細菌は奥深く、専門にやっていないと簡単に、一朝一夕で理解出来るものではない。それこそそればかりを、何十年も突き詰めてやって来た優秀な人達に、任せた方が効率的なのだ。
もちろん、こんなこんな風なので細胞学的に何かあるかと聞かれたら、それに答える事は出来るだろうが、今のところ合同で何かやろうという話はなかった。
彰も言うように、世界中にはたくさんの研究機関があって、それぞれに優秀な頭脳集団を抱えているのだ。
「…でも、クライアントは遊んでいると思ってるんですね。」
彰は、頷いた。
「そうだ。私は神ではない。何もかも分かっているわけではないのに、医者ならなんとかするだろうと、素人の傲慢な考えだな。」と、キーボードを叩いた。「まあいい。やんわり断っておく。こいつらは結局のところ、自分さえ良ければいいのだろう。私の時間を何に使うかは、私が決める。私は世界人口の大部分を救うための研究に時間を使いたい。こんな小さな島国だけを救うために時間を消費する暇はないのだ。全ての人類が救われるためでなければ動かない。そもそも、ハリーのあの薬にしても、脳の機能障害の患者を救うために開発しているものであって、本当はあんな遊びに使うものではないからな。どうせならとあんな使い方をしているが、本来の目的は他にある。そろそろ、潮時なのかもしれんな。」
要は、眉を寄せた。
「どういう事ですか?」
彰は、カタカタとキーボードを叩きながら言った。
「遊んでいる場合ではないということだ。まあ、次の約束をしてしまったのは私なので、それはやっても良いが、もうそれまでということだ。あいつらから記憶は消して、無かったことにする。最近では、人狼ゲームにしても私達の余暇の楽しみぐらいになっているだろう?私の薬は問題なく万人に機能している。ただ…死んでから、24時間の壁は越えられないがな。あれは、私が関わるのはここまで。続きは他のチームに引き継がせる。」
要は、それこそ驚いた顔をした。あの、死んでからでも24時間は細胞を維持することが出来る薬を、出来たら四十八時間にしたいと言っていたのではなかったか。災害などで、捜索に時間が掛かるので発見までなんとか維持出来るようにと…。
「…あれを四十八時間にして、皆に携帯させて、いざとなったら自分で投与して蘇生に備えさせるって言っていたのではなかったですか。」
彰は、キーボードを打つ手を止めて、要を見た。
「…私は今年四十だ。私が本来作りたかったのは、癌患者を無用な苦痛なく、その癌細胞だけを消すための薬の開発だ。君が見つけた自殺細胞を持つ細菌からヒントを得て、癌細胞に命じて自殺に導く流れが出来つつある。だが、私が死んだらどこまで出来る?まだ途方もない時間が必要なのだ。何としても生きているうちに、私はそれを完成させたい。私抜きでは、出来る者が居ない。居れば任せて死ねるが、今のままでは中途半端で私のやっていたことが、私が死ぬと同時に消えてなくなるのだ。私はどうしてもこれだけはやり遂げたいのだ。」
ドイツに居た頃、癌で懇意にしていた教授を亡くした経験を持つ彰は、誰より癌という病を憎んでいた。
死ぬまでに、どうしても根絶したいと、恐れる必要のない病に成り果てたのを見届けてから死にたいと言うのだろう。
「…分かりました。」要は、言った。「彰さんの気持ちはとても。オレでは彰さんの代わりは出来ませんが、手伝う事は出来ますから。」
彰は、フッと表情を弛めると、言った。
「君は助けになっている。あの細菌を見つけたからこそ、私はまた前進出来たのだしな。とはいえ…まだ、手探りだ。」と、息をついた。「だが、諦めるつもりはない。なんとか臨床実験出来るまでになれば…。」
要は、そんな様子を見て、彰は人嫌いで知られているが、本当は誰より人を大切に思っているのではと思った。
彰の基準で愚かだと思った人には容赦ないが、善良に一生懸命真っ直ぐ生きている人に対しては、彰はとても寛大だ。人狼ゲームで知り合った男にも、相手がそうだと知ると、相手が自分を忘れてしまうことが分かっていても、仕事を紹介してやったりと、それなりに手を差し伸べる。
そこに何の見返りも求めてはいなかった。
だが、ハッキリ言って、女性にはかなりきつかった。それがどうしてかと言われても、彰の問題なので、分からないのだが。
要は、彰がデスクから離れてこちらへ来たので、彰がソファに座るのを見て、自分も彰の前へと座った。彰は、足を組んで背にそっくり返って、言った。
「何か言いたそうだな?」
要は、話してくれるだろうか、と思ったが、思えば彰は、聞けば何でも答える。過去の事は、気を遣ってあまり聞いて来なかったので、聞いていないだけかもしれなかった。
なので、思い切って言ってみた。
「あの、彰さんには、隠し子とか居ませんよね?」
彰は、あっさりと首を振った。
「居ない。今思えば、少々リスクを負っても作っておいたら良かったのかもしれないがな。どうしても、絶対に粘膜に触れたくなくて、それを避けて来たので、万が一にもどこかで私の子が育っているという事も無いのだ。ちなみに、私は口づけたことだけはまだ一度も無い。」
要は、目を丸くした。前にも聞いた事がある事だったが、今でも本当にないのだ。昔から潔癖なのだろう。というか、ヒトが細菌の温床だと知ってしまったから駄目なのだろう。
「じゃあ、子供は望めませんね。兄弟とか?そういえば、彰さんの家族の事を聞いたことがありませんでした。聞いてもよろしいですか?」
彰は、それにもすんなり頷いた。
「いい。弟が居るが、今頃どうしているか…ただ、普通の人の男だった。」と、息をついた。「…そう、私の実家というものは、本当に普通の家庭だった。少々両親が小金を持っていたぐらいで、頭脳は一般的。私だけが、こんな風で。」
彰は、息をついた。思い出したのか、遠い目をしている。
と、その時、部屋にハリーが入って来た。
「ジョン、この間のゲームの時のデータをまとめて報告に来ました。」と、要と話しているのを見て、眉を上げた。「出直しますか?」
彰は、手を振った。
「ああ、聞こう。」と、要を見た。「また時間が開いたら君が知りたいことを話そう。今は仕事だ。」
要は、やっと話が聞けると思っていたので残念だったが、頷いて立ち上がった。
「はい。では、また。」
要は、そこを後にした。
大河たちとの邂逅は、まだいつになるのか見当も付かなかった。




