14
階下へと降りて行くと、何か出汁のようないい匂いと、コーヒーの匂いが混じった安心するような空気が流れていた。
食堂へ入って行くと、そこはあれだけ派手に飛び散っていた血糊も何も無くなっていて、何事もなかったように宮脇が朝の料理をテーブルの上に並べていた。
「ああ、どうぞお好きな席へ。コーヒーはいかがですか?」
あまりに穏やかな朝の風景に戸惑いながら、三人は身を寄せ合うように並んで席についた。
宮脇は、言った。
「どうぞ、お召し上がりください。パンはまだありますので。パン屋が朝から配達してくれたんですよ。」
様々なパンが、目の前の籠に入れられてあり、ふんわりと美味しそうな匂いが漂う。
湊は問い掛けるような美里達に頷いて、そのパンを手に取った。
「あの…宮脇さんは、体調は?」
美里が、おずおずと言うと、宮脇は片方の眉を上げた。
「私は大丈夫ですが、皆様はお顔の色がお悪いですね。ゆっくり眠れませんでしたか?」
弥生が言った。
「あの…悪夢を見て…。」
宮脇は、それに眉を寄せた。
「そうですか。枕が変わると寝苦しいといいますしね。」
湊は、我慢しきれず言った。
「あの、ニクラス教授は?来ているとおっしゃってましたよね。どこに居るんですか。」
宮脇は、コーヒーを皆のカップに注ぎながら答えた。
「主人は書斎に。ここはお客様をお呼びするような事もないので、居間がありません。いつも書斎でお話をされます。」
書斎の扉は、壊してしまったはず。
湊は、パンを齧りながら、言った。
「あの…扉は何もありませんでしたか?」
宮脇は、それこそ何を言っているんだと怪訝な顔をしたが、答えた。
「扉ですか?いえ、何も。何か不都合でも?」
やはり全部元に戻っているのだ。
何もなかったことになっている…ならば、美里達だけでも、あれが夢だったのだと思ってくれれば。
湊は宮脇の不審な視線に、これ以上何も言うまいと、黙って朝食を摂った。
大河と理久も慌てたように入って来て、準備されてあった食事を終えると、宮脇は言った。
「では、主人が書斎でお待ちです。二階の、階段を上がって右側の扉を開いてくださればそこが書斎ですので。二階へどうぞ。」
大河と理久は、頷いて立ち上がった。
湊も、仕方なく立ち上がると、その後をついて食堂を出た。
宮脇が、背後で食器を片付けている音を聴きながら、玄関ホールで立ち止まった大河が、言った。
「二階、見てきたんだ。」湊が驚いていると、大河は続けた。「理久と二人で。地下室を見に行った後、二階も確認しておこうと見に行った。そしたら、書斎の扉は元通りだし、主の部屋の鍵も掛かっていなくて。覗いてみたら、あの粉々になったはずのビスクドールもそこに座ってた。多分、もう一個の人形も同じだろう。」
やはり全部元通り。
湊が息を飲むと、理久は言った。
「…やっぱり湊だってあの夢を見たんだな。あれは、幻覚なのかもしれないけど、オレ達は同じものを見て、同じ経験をした。それは事実だけど、みんな無事だし全部元通りなんだ。もしかしたら、邪神が関与したのかもしれない。オレ達にあんな幻覚を見せたんだ。でも、今は無事。だから、もうニクラス教授の前でこの事を話題にするのはよそう。」
美里が、訴えるように言った。
「でも!あなた達、これからも教授の仕事を請け負うんでしょう?教授は確かに関係ないのかもしれないけど、連続して同じ人に関わってこんな目に合ってるのよ?邪神が教授の動きを見て、合わせてるのかもしれないわ。あたかも教授が首謀者であるみたいに、あの人の姿を借りて行動しているのよ。あの人には、関わらない方がいいわ。この仕事は、断った方がいいんじゃない?」
大河は、首を振った。
「理久と話し合ったんだ。そうだとしても、今回の事だけは受けて、やらないとって。そこから別の人の依頼が来るかもしれないだろう?オレ達、まだ駆け出しだし、仕事を選んでられないんだ。他の人の依頼を受けてるうちに、教授とは切れてくかもしれないだろう?」
あくまでも、これからの生活のためと大河と理久は考えているのだ。
サラリーマンの湊と違い、いきなり起業した二人にとって、この仕事は重要なのだろう。
だが、命が懸っているのに。
これからも教授と関わる事の危険性を、二人は知らない。だが、それを言ってしまう勇気もまた、湊にはなかった。
「これ以上待たせるわけにはいかない。」理久が、一方的に会話を打ち切った。「行こう。」
先に立って上がって行く理久と大河の後ろに続きながら、湊は話すべきかと未だに迷っていた。
書斎の前に到着すると、確かに扉は元通りで、何もなかったようにそこにあった。
大河が、ノックする。
「ニクラス教授?お見積をお持ちしました。」
すると、あの聞き覚えのある良い声が答えた。
「入れ。」
扉を開いた。
あの時はカーテンも閉じていて薄暗かった部屋が、朝の光を受けて明るく解放感のある場所になっていた。
全員の目が、まず正面にあるビスクドールへと止まる…あの時、玄関で砕け散った、小さい方の人形だった。
それは、普通にそこにあり、こちらを見返していた。
奥のソファに座るニクラスが、相変わらず美しい顔でこちらを見ていた。
「よく来たな。とはいえ、もう君達の手を煩わせる事はなくなったのだ。私はそれを知らせに来た。」
大河が、驚いた顔をする。
「え?どういう事ですか?」
ニクラスは、微笑んで自分の向かい側のソファを指した。
「そこに座ってくれ。」
五人は、並んで大きなソファへと座る。
ニクラスは、言った。
「この屋敷の買い手がついてね。前からここはほとんど使わないので、面倒も起こっていたし手放そうと思っていたのだ。なので新しいシステムは必要なくなった。」
理久が、焦ったように言った。
「でも…じゃあ、この見積りは?」
ニクラスは、苦笑した。
「すまないが破棄してくれたまえ。とはいえ、君達にはご足労を掛けたので、今回の日当は支払うつもりでいる。」
理久が、あからさまに失望した顔をした。
大河が言った。
「あの…まだ駆け出しなので、このお仕事はとても重要だったんです。オレ達の力量を見て戴こうと思って…。」
ニクラスは、片眉を上げた。
「ほう?それはすまなかったな。ならば…そうだな、私の別の別荘の方のセキュリティを見てもらっても良い。祖母から譲られたものでね。大層古いのだ。あちらは特にトラブルもないし、そのままでも良いかと思っていたのだが、君達がそれほどに仕事を欲しがっているのなら、一度見直す場所はないか見てもらって、新しいシステムを導入するべきならやってもらって構わない。時々手を入れるだけで、無人の屋敷だがな。」
理久は、目に見えて明るい顔をした。
「本当ですか?!じゃあ、そちらにまた調査に行かせて頂きます!」
ニクラスは、微笑んだ。だが、その笑顔が湊には罠のような気がした。
「待て、場所も聞かずに受けていいのか。遠すぎたら無理なんじゃ…他の仕事に差し支えないか?」
大河が言った。
「ちょっとぐらい大丈夫だ。他は現場に行かなくても大丈夫な仕事ばかりだし、あってもリモートで出来るから。問題ない。」
大河の目が睨むように湊を見ていて、余計な事を言うな、と止めているようだった。
ニクラスが言う。
「何も海外でもあるまいに。航空機を使えば問題なく移動出来るだろう。少し西だが、海が見える良いロケーションだぞ?建っているのは郊外なので、また車を迎えにやろう。詳しい事は、追って連絡する。」と、手を振った。「では、宮脇に駅まで送らせよう。口座番号などは宮脇に伝えて欲しい。日当を振り込ませてもらうよ。車を準備しているはずなので、このまま外へ出るといい。」
大河と理久は、立ち上がって頭を下げた。
「ありがとうございます。では、ご連絡をお待ちしております。」
そうして、意気揚々とそこを出て行った。
美里と弥生も立ち上がったが、座ったままじっと睨むようにニクラスを見つめる湊に気付いて、慌てて言った。
「ほら…湊くん。行くわよ。お待たせしちゃいけないわ。」
湊は、仕方なく立ち上がった。
美里と弥生に連れられて出て行く湊の背を見てククと笑ったニクラスに、湊は振り返った。
「…私も楽しみにしているよ。」
その顔には、嘲るような笑みが浮かんでいた。
湊はゾッと背筋を落ちる冷たいものを感じたが、何も言えずにその場を後にしたのだった。
ワゴン車は、あれほど大破したのにそのままの姿でそこにあった。
もちろん、シートも何の汚れもなく、全てが元通りだ。
五人はそのまま、宮脇の車に乗せられて最寄り駅というにはあまりに遠い駅まで二時間揺られ、そして、無事に帰って来た。
大河と理久は、嬉々として今回の遠征の日当の請求書をメールで送り、そのまま振り込まれた。
湊はこれからの運営資金のためにとそれを受け取らず、大河と理久に返したが、美里と弥生は僅かばかり受け取ったらしい。
報酬の受け取りに事務所にしている理久のマンションに集まった五人は、今後の事を話し合った。
「次の連絡が来たんだ。泊まりになるだろうなって。関西なんだよ。」
理久が、上機嫌で言う。
美里と弥生は顔をしかめた。
「私達は就活もあるし…そう何日も無理だわ。役にも立たないんじゃない?専攻が違うんだもの。今回だって、ただの社会勉強のつもりだったもの。」
大河が、答えた。
「でも、あくまでもオレ達五人を信頼してって言うんだよ。ま、お目付け役みたいな感じかな?オレ達がサボらないようにさ。」
理久も頷く。
「そうそう、お金になるんだし、ほんの数日じゃないか。来てくれないと困るんだよな。」
美里と弥生は、顔を見合わせた。
湊が、言った。
「強要するなよ。オレだって日程によっちゃ行けないかもしれないぞ。会社があるんだからな。うちは副業ダメなんだし、堂々と行けないんだ。」
オレが行かなければ、何も起こらないかもしれない。
湊はそう思って言ったのだが、それには、大河が顔をしかめた。
「まあ、無理は言えないけどよ…オレ達だけで、仕事くれるかな?」
理久が、怒ったように言った。
「もういいよ。」と、軽く湊を睨んだ。「オレ達が立ち上げた会社だ。最初から湊達に頼ってちゃいけなかったんだ。ニクラス教授には正直に言おう。オレ達だけで行くって。嫌々来てもらったって仕方がないよ。」
美里が、ムッとしたような顔をした。
「そんな言い方ないんじゃない?私達だって役に立つなら行くわよ!でも、お給料もらうだけじゃない。気が退けるのよ。」
「もういいって。」理久は、聞く耳もたないように横を向いた。「もう気にすんな。オレ達でやる。もう帰ってくれる?教授と打ち合わせするから。」
湊は、焦って言った。
「待てよ、二人だけって…」
もし、二人で行って何かあったらどうしたらいいんだろう。
しかし、理久は湊に背を向けた。
「もういいって!出てってくれ。オレ達はオレ達でやる。仕事があるんだろ?もう帰れ。」
湊は、いくらなんでも言い過ぎだと思って、言った。
「あのな!こっちは心配してるんだ!オレは…オレは知ってるけど、邪神が関わってるんだ!お前達だって危ないんだぞ!二人きりで行って、何かあったらどうするんだ!」
理久は、湊を睨んで言った。
「行けないんだろう?!もう放って置いてくれ、帰れって!邪神邪神って、あれは夢なんだって言ってたくせに!お前はおかしいんだよ!もう前からずっとな!」
湊は、ショックを受けた顔をした。そんな風に思っていたのか。
美里が、脇から言った。
「帰りましょう。もういいじゃないの、勝手にやるそうだから。」
そうして、美里に促されて、湊は弥生と三人で、そのマンションを出た。
エントランスまで来た時、大河が、追いかけて来て、言った。
「ごめん、あいつ、熱くなって。でもさ、湊はおかしいとこあったぞ?TRPGだって回せなくなってさ。不必要に怖がったりして、オレ達が困ってたのは確かだ。今回の事は、確かに思い出したら怖いけど、でもオレ達は思い出さないようにしてる。夢だったって。ほら、実害はなかったんだし。オレ達は大丈夫だ。仕事しに行くだけだし。この仕事は、オレと理久で行って来る。理久にはまた謝るように言っておくから。お前もちょっと、自分の言動を考えてくれ。」
大河は、そう言うとこちらの話も聞かずに、サッと戻って行った。
湊は、それを見送りながら、自分の言動と言われてドキとした…ニャルラトホテプにあんな願いをしてしまって、大河、理久、美里、弥生はもっと恐ろしい思いをしながら、のたうち回って死んで逝く未来が、いつかやって来るのは、全て湊のせいだ。
あれより恐ろしい思いをするのなら、確かに死んだままの方が良かったのかもしれないのに。
湊は、自分のせいでやって来るだろう仲間達の絶望的な未来に、ただただ項垂れるしかなかった。
そんな湊の肩に、美里がそっと手を置いて、そうして三人は、そこを出て家路についたのだった。




