12
ふと、その湊の目に、森の辺りが動くのが映った。
「あれは…?」
最初、森が動いたのかと思った。だが、そうではない。暗闇の中でうごめくそれは、人の形をした生き物だった。それは、遠く森の淵を全て動かしたように、そちらに向かって疾走する車の方向へと一斉に移動して行く。
個々人の動きは、おかしな形で走っていたり、カエルのように飛び跳ねるような動きをしていたり、だが特徴的なのは、その生き物の手足が、不必要に大きく見えた事だ。
…まさか…!インスマス?!
魚人は、気を付けろと言っていた。言葉が通じないからと…。もしかしたら、一部始終を見ていて、あの魚人が爆発したのも見ていたかもしれない。そして、それが他でもない、湊や大河、理久たちのせいだと思っていたとしたら…?
「そんな…そんな、まさか!」
森へと差し掛かった車は、その人型の何かに一斉に飛び掛かられて行く。
それでも車は走っていたが、まるで黒い山が動いているように湊には見えた。
「あああああ!!やめろ!やめてくれ!!」
湊は、必死に叫んだ。車は、ぐるりと方向を変えて、こちらへ向けて進路を換えた。恐らく、この状態のままあの狭く暗い森の道へと入って行くのは危険だと判断した大河が、こちらへ戻ろうとしているのだろう。
その急な方向変換とスピードで、何体かの生き物は落下して行ったが、それでも無数に居るその黒い影は後から後から、車へと向かって行っては襲い掛かっていた。
「逃げろ!逃げるんだ、こっちは駄目だ!」
近付いて来るにつれて、車の窓ガラスが割れていて中へと体を突っ込んでいる個体が居るのも見て取れた。フロントガラスも割れている。
怪物があまりに多く覆い被さっていて、中が全く見えなかった。
湊は、必死に目を凝らした。どんどんと車は速度を上げてこちらへ走って来た。車が走っているのだから、大河はまだ運転しているはず…無事なはずなのだ。
ワゴン車が、どんどんと近付いて来て、屋敷の中から漏れる灯りに照らされて、車の中が透けて見えた。
車はまだ走っている。だが、ハンドルを握る運転手の首は、もうとっくに無かった。
「大河…!!」
湊は、絶望の声を上げた。
恐らくは足はあるのだろう。足はアクセルを踏み続けているのだろう。車の速度は緩まることなく、そのまま、湊がへたり込む玄関へと向けて、真っ直ぐに突っ込んで来て衝突した。
目の前へ突進して来た車は、そこでひっくり返ってようやく止まった。
その衝撃で、車に群がっていたその気味が悪い化け物達は、一斉に弾き飛ばされて芝の上へと落下する。
目の前で停止した車の中には、もはや現物を留めていないほどひしゃげた顔の美里と、それでもまた顔があるだけマシであろうと思われるほどに、美里を庇うようにして腕をその体らしきものに巻き付けたままくの字に折れ曲がった頭の無い理久だったものの肉塊、運転席で首と腹の中央を失っている肉塊になってしまった大河だった成れの果て、そして、助手席には大河の頭を膝に乗せた弥生だったらしい何かがあるのが見えた。
「大河!理久!美里さん、弥生さん…!」
湊は叫んだ。しかし、今の今までここで湊に戻って来ると力強く言っていた四人は、何も返すことはなかった。
湊が茫然とその凄惨な様に放心状態で居ると、弾き飛ばされて芝の上に居た化け物達が、一斉に湊目掛けて走って来た。
しかし、もはや何も感じない湊は、まるで見えないかのように、そこで座り続けた。
…と、目の前の化け物達が、一斉に爆発した。
「ギギ、ギギギ!」
化け物達は、何事かと怯えたように辺りを見回す。
すると、森の方から、どう見ても歩いているのに、車よりも早いスピードで、長い黒髪に、裾を引きずるほどに長い着物姿の、それは美しい男が、顔に薄っすらと笑みを浮かべて近づいて来た。
「ギー!!」
化け物達は、一斉に蜘蛛の子を散らすように逃げ出して行く。
「愚かよ。」
その男は、フッと嘲笑を浮かべる。すると化け物達は、視線を向けられることもないまま次々に爆発して肉塊となり果てて暗い芝の上へと赤い花を咲かせて行った。
そんな肉の花火が上がる中、その男は茫然と自分を見上げる湊に向かって、蔑むような視線を向けた。
「…まあ少しは楽しんだ。それにしても、何をショックを受けている。お前はこんな有様を見るのが好きなのだろう?深淵を覗きたくて仕方がないのではないのか。」
ニャルラトホテプ…!
二度と、会いたくないと思っていたのに。
湊は、友達を失ったショックから、涙を流したくても何も出て来ない状態になっていた。それでも、ニャルラトホテプらしいその男を見上げて、言った。
「どうしてこんなことを…!オレを、オレをここに残して殺すつもりだったんでしょう?!なのに友達を、こんな…こんな殺し方をするなんて!ひど過ぎる…!」
それを聞いたニャルラトホテプは、フフンとわざと困ったような笑みを浮かべた。
「何を言っているのだ。これを選んだのはお前達だろう。皆が皆、生き残る道もあったのだ。少し過保護かと思うぐらいにヒントを出しておいてやったのに。あの魚人とも上手くやったから、これは退屈な事になるかと一時は失望していたぐらいだ。だが、お前達はあれが皆の血を飲む事を止めなかった。あれほどハッキリと書いて残しておいてやったろう?誠に…愚かであるわ。」
確かに、気付かなかった。
「…もし、魚人が問題なく外へと出ていたら、みんなは無事に帰れたんですか?」
邪神は、その口許に笑みを浮かべて頷いた。
「問題なくな。あれらに言葉は通じないと言っていただろう?その行動しか、あれらは見ていない。無事に出ていたら、仲間の元へと戻り、帰ろうと促していただろう。何しろお前達は上手くやっていた。いきなり殺すことも出来たのに、お前達はそうしなかった。魚人さえ生きていたら、ここを出られたなら問題なく帰ることが出来たのだ。つまりは魚人が死ねば、その時点で何をやっても無駄。こうなる結末が待っていた。我は知っていた…あやつらがここを窺っていたことを。だからこそ、利用しようと考えたのだ。」
湊は、やっと涙が流れて来るのを感じた。上手くやっていたのだ…途中までは。あの時、魚人が他の血を飲むのを止めてさえいたら…!
「それは後悔の涙か?」ニャルラトホテプは、興味深げに湊を眺めた。「面白い。命懸けの恐怖を好むのではなかったか。それなのに、仲間が死ねば悲しむのか。お前は矛盾しているな。しょっちゅう心の中で我を想うくせに、こうして対面したら恐怖におののき後悔するのか。」
やはり、バレていたのか。
湊は、思った。
確かに自分はしょっちゅう邪神のことが頭を離れなかった。だが、会いたかったのではない。ただ二度と会いたくないのに、恐怖のあまり頭に浮かんでしまうのだ。
生き残ったのが、悪いのだ。
湊は、そう思っていた。
生き残ったからこそ、いつも邪神を思う。だがいつもそれは恐怖の対象だけではなく、時に平凡な日常から逃避するエッセンスでもあった。
今、こうなってみて思うのは、自分はニャルラトホテプを恐れながら、またニャルラトホテプにこの、非日常の世界へと誘われる事をどこかで求めていた。
恐怖の感情でそれに蓋をしていたが、実際はまた、見たこともない世界を見てみたいと願っていた。
そして、生き残りたいと望むのだ。
勝手な話だが、湊の中には矛盾した二つの想いがせめぎあっていたのだ。
この涙は、後悔の涙だ。
自分がそんなだったばっかりに、仲間を巻き込んでこんな残酷な死を与えてしまったのだ。
空が、うっすらと白んで来ている。
まだ夜明けまではあるが、着実に夜明けは近付いていた。
「…オレも、爆発しますか。」
ニャルラトホテプは、フッと笑った。
「お前は殺さない。」
湊は、目を見開いた。オレは殺さない…?
「どういう事ですか?」
ニャルラトホテプは、ハッハと笑った。
「お前は面白い。我の罠にも、お前は慎重でなかなか掛からなかった。今回、お前が出られなかったのは、私が決めた事だった。結果的に失敗し、お前は仲間を失ったが、こうしてお前は後悔し、そしてまた知恵を付けただろう。」と、手を上げた。「我を楽しませよ。我を敬え。さすれば再び会いまみえる時まで、お前を生かしておいてやろう。まあ、気が変わったら殺すかもしれぬがな。」
「待て!」湊は、叫んだ。「そんな、生き地獄のような事…!仲間をあんな殺され方をしたのに、まだ生きろって言うんですか?!」
ニャルラトホテプは、クックと笑った。
「面白い。実に面白い。己で巻き込んでおいて、仲間を殺されたと我を恨むか。己で殺しておいて、慈悲深くも逃げ道を用意した箱の中で遊ばせてやった我を。愚かな人間よ。だが、これ以上の慈悲を我に乞うのは無礼であるぞ?」
湊は、歯を食い縛ってニャルラトホテプを見上げた。
相変わらず、残酷なまでに美しい姿で、それでも怯まずにはおられないほどの暗い色をその瞳に宿して、自分を見下げている。
自分が殺した…ニャルラトホテプを心の中に住まわせ、呼び続けた自分が皆を殺した。ニャルラトホテプにしたら、誰でも良かったのだろう。ただ、湊が苦しみさえしたら…。
「どうか、どうかお願いします。あなたになら出来るでしょう。あの四人を、助けて下さい。そうしたら、オレはどんな試練に放り込まれてもそこでまたあなたを楽しませます。どうか、お願いします。」
ニャルラトホテプは、面白くないという風に舌打ちした。
「なんだ、平凡な。前と同じではないか。別にあれらが生きようと生きまいと、我は戯れにお前を恐怖の底に落とすだろう。だが、そうだな…ならば、これが最後だ。次はない。」
湊が、パアッと明るい顔をすると、ニャルラトホテプはそれを遮るように手を上げた。
「喜ぶのは早い。次にお前を恐怖の底に突き落とす時は、またあれらも共に落とす。もっと残虐に、もっと苦しんであれらは死ぬだろう。今回の苦しみなど一瞬だったが、次はこれほど簡単には楽にならぬ。じわじわと苦しんで死ぬ。それでも、お前はあれらを生き残したいか?もう充分に苦しんで死という平穏に身を委ねているあれらをまた引きずり戻し、再びそれ以上の恐怖を与えてもがき苦しむ様を見たいか?」ニャルラトホテプは、言っている間に面白くなってきたのか、戸惑う湊に構わず、高笑いを上げた。「なんと残虐なやつよ!面白い、それに乗ってやろうではないか!次はこれほどに甘くはないぞ?我もあれらがもがき苦しむ様を見たい。お前と同じよ。ならば戻るが良いわ!」
湊は、慌てて言った。
「待ってください!そんな、そんなことは望んでいません!」と、体の力が抜けて、ガクンと絨毯の上に崩れ落ちるのを感じた。「ニャル様…!」
湊は、目の前が真っ暗になるのを感じた。
邪神に、願ってはいけなかったのに。
湊が最後に思ったのは、それだった。




