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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

不条理なマナー

作者: 一三千

カツカツとピンヒールを石畳が叩く。

重心が前へ前へと押しやられる靴の中では、親指が折れ曲がり、摩擦がマメを作って、由佳の外反母趾を促進しているのはわかっている。

そのうえ、バランスがとりにくいものだから、ゆっくり歩いてはいられない。

普段よりも幾分か速足になりながら、人の群れを追い越していく。


スマートフォンを操作しながら歩くサラリーマン。

腕を組んでいるカップル。

やけに幼い服装の彼女は、大学生だろうか。


ビル風を受けて、ワンピースの裾が翻る。

シフォン素材のプリーツは心許なく、由佳を守るという役割をまったく果たせていない。

山田由佳はスカートが嫌いだった。

太もものあたりが空気を孕みひんやりとするし、履きなれていない。

毎日着ていたのは中高生の頃のことだから、もはや七年前である。

当時もまったく好んで纏っていたわけではない。

校則に従っただけのことだ。

それでも、ピンク色の、ウエストから下がプリーツになっている、フェミニンかつフォーマルなワンピースに身を包んでいるのは、それがマナーであるからだ。


購入したマナー本曰く、パンツ姿はビジネスシーンを連想させるのでよろしくないのだと言う。

ワンピースが理想的で、柄のないシンプルなものが理想と言いながらも、地味過ぎず華やかになるような着こなしを心がけなければならないなど、聊か矛盾を孕んだ文言が見え隠れする様子に、由佳は閉口した。


だって、あまりに馬鹿馬鹿しい。


靴だって、普段はいているフラットシューズはダメで、ハイヒールが望ましいなどと書かれているのだ。

あまりに個人の都合を無視しすぎている。

由佳は足の形状的に、市場に出ている大抵のパンプスを履くことができない。

そういった細かい事情をまるっきり蔑ろにして、このマナー講師とやらは言いたい放題だ。


そもそも、マナーというものの中には、ビジネスの都合で捏造されたものがあることを、由佳は知っている。

マナー講師という仕事が成り立つためには、人々が知らないマナーを作り上げなければならないのだ。

一般に知られていない作法に、いったいどんな意味があるというのだろう。


理不尽なのはそれだけではない。

黒い装いは禁止なのだと言う。

理由は、葬儀を連想させるからなのだそうだが、今時黒い服を着ているからといって葬式を思い起こす人など存在するだろうか。


その上、革製のバッグやファーのボレロは、殺生を想起させるからご法度なのだとか。

死を彷彿とさせると言うなら、披露宴に並ぶ食事などは、生き物の死そのものを直接的に表しているのに、どうして禁止されないのか、甚だ理解に苦しい。


極めつけは、祝い事の日は始終笑顔で過ごすべきという、マナー講師の言葉である。

そもそも由佳は感情を表に出しにくい性質だから、常ににこにこしていると言われても土台無理な話である。

口角を無理やり挙げてみても、すぐに頬の肉が痙攣してしまい、普段笑い慣れていないことがわかってしまうのだ。

そんな醜態をさらすくらいなら、無表情のままでいた方が、いくらかマシであるような気がする。


このように、由佳はマナー本に難癖をつけているのだが、それでもしきたり通りの衣装をトレンチコートで隠し、慣れないパンプスで指を潰しながらも、会場に向かっている由佳こそ、おかしい。


それはそうだろう。

不満があるのだから、本に従わなければいいのだ。

否、これほど不本意なのだから、原因となったイベントそのものを欠席すれば済んだ話でもある。

でも、由佳は来た。


ここで今日、由佳は失恋をするのだ。


タクシーの列を横目にレッドカーペットの上を進むと、自動ドアが開き、由佳を招き入れる。

いらっしゃいませ、と頭を下げるカウンターの二人に、反射的に会釈する。

どうせ相手には見えていないのに。



右側に、本日の主役の名が並んでいる。

どこにでもある、野暮ったい苗字の下に続く彼女の名前に、由佳の眉間に皺が寄る。

彼女の名前は、もっと華やかだった。

満開の桜の木を思わせ、散りゆく花びらの中にたたずむような、美しい光景を思わせる名前。

実際、彼女には桜がとてもよく似合った。

生まれつきの茶髪も、色素の薄い瞳も、鴇色に染まる花びらに程よく調和していて、さながら桜の精のようだった。

こんな平々凡々とした姓は相応しくない。


初めて名前を知ったのは、高校入学の日だった。

同じクラスになった彼女は、自己紹介の時間に春名美咲と名乗った。

美咲が纏う空気だけが、他のだれとも違っていた。

そのことに気を取られて、自分の順番が回ってきても、まともな言葉を紡げなかったのだけれど。


そのペンケース、可愛いねー―。

美咲が由佳に対して初めてかけてきた言葉は、入学から数日経った頃だと思う。

缶でできた、キャラクターがデコレーションしてあるペンケースだ。

誕生日祝いに母からもらったもので、由佳の好みではなかったけど、けして嫌いではないので使っていただけの代物だ。

けれど、美咲はそれを褒めてくれていた。

そのうえ、由佳はセンスがいいんだね――と言ってくれた。

何かを返さなければと動転したまま飛び出したのは、名前――というただの単語だった。

名前――?

な、名前、知ってたの――。

自己紹介したじゃない――と、美咲が微笑んだ。

あ、でも全員覚えているわけじゃないのよ、興味のある人だけ。

そういって悪戯っぽく笑った美咲は、誰かに名前を呼ばれて、すぐに行ってしまった。

けれど、それ以来由佳は美咲と話をするようになった。

家族のこと。

好きなアイドルのこと。

入部する部活のこと。

と言っても、美咲が一方的に喋っていることが殆どだったけれど。

美咲は一人っ子で、テクノ系女性アイドルグループが好きで、部活はバスケットボール部に入るらしい。

勉強も得意らしく、中学の時は進学校だったそうだけれど、地元の友達と離れがたくて、区立の高校に決めたらしい。

特に英語が好きだというので、いざとなったら助けてもらおうと思ったものだ。


左手に見える受付の文字。

綺麗にカールした髪型の女性が、由佳を誘うように片手を差し出した。

由佳は抗うことなくそれに従い、「この度はおめでとうございます」と頭を下げた。

「ありがとうございます」」と、女性が微笑む。

黄色のドレスに黒いボレロを羽織った女性へ、袱紗の中からご祝儀袋を差し出す。

中には三万円が包まれていた。

二万円にすると縁起が悪いと言われていたから、あえてそうしてやろうとも思ったが、由佳はそこまで大胆な性格ではない。

美咲がその事実を知ってしまったら、甚く悲しむのではないかとも思えた。

尤も、ご祝儀を誰がいくら払ったかなんて、調べる術があるのかどうかは定かではない。

由佳は社交的ではなく、二十五になった今でもあまり友人は多くない。

結婚式に呼ばれることも少なかった。

早い人はご祝儀貧乏と呼ばれるものになり始める頃合いであるから、運がいいと言われればそうなのかもしれない。

おまけに自分には、結婚など、縁も所縁ものないものであるから、詳しい内情を知らないのも当然のことだった。


芳名帳に名前と住所を書いて、受付の女性の案内通りに控室へと向かう。

既に多くの人が到着しており、由佳は居心地が悪そうに隅の方に佇んだ。


由佳は高校を卒業後短期大学へと進んだが、美咲は四年制大学へと進学していた。

その間に出会った人たちだろうか。

同僚や上司かもしれない。

年齢層の幅が広い人々と美咲が交流があるのだと思うと、不思議な焦燥感に駆られた。

それが美咲への嫉妬なのか、美咲の今を知る人々への羨望なのか、定かではない。


「あれ、山田だ」


ふと名前を呼ばれて振り返る。

尤も、山田姓の人間は多いので、別人が呼ばれている可能性もあったのだけど、それは要らない心配だったらしい。

声の主である女性が、由佳の方へと小走りでやってきたからだ。

「元気にしてる? 今何やってるの?」

「医療事務している」

残念ながら、由佳は相手の名前を思い出すことができない。

しかし、どこかで見たことがあるように感じる。

美咲と共通の知人ということだから、高校時代の同級生かもしれない。

言われてみれば、美咲の取り巻きの一人に、こんな顔の人がいたような気がしなくもない。

はっきりと思い出せないのは、メイクで印象がだいぶ変わってしまったからだろう。


「それにしても山田は変わらないね」

「そう?」

「うん、シンプル・イズ・ベストって感じ」


褒められているのか、けなされているのか、判断しにくい。

正しい反応がわからない。

辟易していると、由佳の気持ちを知ってか知らずか、相手は美咲の結婚相手について語り始めた。


高校時代の同級生曰く、美咲の旦那になる人は大手不動産会社に勤めているらしい。

美咲も不動産業界にいると言っていたから、おそらく同僚か先輩なのだろう。

親が資産家だという相手方の影響で、結婚式は大規模になっているらしい。

ということは、ここにいる人間の過半数は、新郎側の参加者なのだろう。

由佳は納得した。

明らかに今日の主役の友人とは思えない年齢層の人物の多さを、不思議に思っていたところだったからだ。


顔もうろ覚えなクラスメイトは、色めきたった声で囁いた。

顔を近づけられて、由佳は身体を引いた。


「お金持ちの男の人と出会えるチャンスってことよ」


由佳は曖昧に相槌を打ったが、内心では元クラスメイトを侮蔑していた。

あまりに低俗な会話だ。


そもそも、由佳は色恋にあまり関心がない。

恋愛をするよりも本を読んでいる方がよっぽど有意義であったし、特別気に入る相手がいなかったからだ。

理想が高いわけではない。

とにかく他人に興味が無かった。

恋着などは、暇人の嗜みである。

少なくとも、由佳はそう思っていた。

だから、学級――否、学校中が惚れた腫れただの、誰かが誰かと交際をはじめただの、はたまた某人が恋人と別れただの、とにかく敬慕かまけているのが理解に苦しかった。


思えば、由佳の記憶の中の美咲も、恋慕をしていた。


高校二年生の夏休み、図書館からの帰り道に、美咲と鉢合わせたことがある。

進級するとクラス編成で離れ離れになってしまったが、二人は会えば話す程度の関係を続けていた。

部活の帰りだという美咲に連れられてコンビニに入って、二人でアイスを分けながら食べた。

友人の少ない由佳にはそれが新鮮で、まるで今日のことのようによく覚えている。


由佳はさ――と、チューブのアイスの容器をちぎり、片方を由佳に差し出しながら、口を開いた。

受け取ると、手のひらの体温を受けて、アイスが溶けていくのがわかる。

吸い口を開いて一口。

カフェオレ味だった。


美咲の方へと顔を向けると、彼女は躊躇いがちに言った。

由佳は、好きな人いる――?

そうした話題は、普段は顔を顰めてだんまりを決め込むことにしていた。

世間はひどい恋愛至上主義で、それを楽しまない人間を嘲うことを生業にしている輩が多かったからだ。

しかし、なぜか美咲に問われるのは、嫌ではなかった。

それに、美咲は由佳が恋愛をしていなかったとしても、馬鹿にしないような気がした。


いないよ――と、由佳ははっきりと答えた。

すると、美咲は驚いた表情で由佳を見つめ返した。

本当にいないの――?

うん、いない――。

何度か同じフレーズを応酬して、美咲が折れた。

汗ばんだ首筋に、長い髪が張り付いている。


私は、いるよ――。


美咲はアイスを吸う合間を縫って、自身の片思いを打ち明けた。

相手は男子バスケ部で、クラスは違うが、親しい友人のような関係なのだという。

その人は背がとても高くて、体つきは細く、長い脚はかなりの俊足で、しかし勉強は得意じゃないのだという。

美咲の語る人物が誰なのか、学内情報に疎い由佳にはわからなかった。

美咲も、それを見越して語りだしたのだろうと、今となっては思う。

意中の彼の話をする美咲の横顔は、夏の夕日を浴びて、きらきらと輝いていた。


楽しそう――。


思わず、由佳は感嘆の声を漏らした。

本心だった。

これまで誰かの色恋沙汰を聞いても、さしたる感動はなかったのだが、美咲の恋は確実に由佳の心を揺さぶった。

楽しいよ、とても楽しい――。

破顔してみせる美咲が眩しくて、由佳は立ち止まった。

一歩由先を行った美咲が、由佳を振り返る。

車の多い細い道、夕日を背にした美咲の表情が、やけにはっきりと見えた気がした。


いつか、由佳も恋をするかも――。

そうかもね――。


気のない返事をしながらも、確かに感じていた胸の高鳴りの正体を知るのは、それから一年後のことだった。


「山田も、いい出会いあるといいね」

「そうだね」


適当な相槌を打っていると、彼女の連れが表れたらしい。

顔を上げて名前を呼びながら、由佳には挨拶もせずに、親しい間柄の友人のもとへと駆けて行った。

由佳など、所詮繋ぎだったのだろう。

特別不愉快なわけではなかったけど、騒がしい人物が去ったことに、由佳はほっとした。

この人の多い中に一人ぼっちでいるのも寂しくはあったが、なるべく会話は避けていきたかった。

人付き合いが得意ではない由佳にとって、沈黙が息苦しい相手と一緒にいるよりは、一人の方が断然呼吸が楽だった。


沢山の人で控室が混雑し始めた頃、スタッフがチャペルへと案内を始めた。

新郎側に座る人たちが、こぞって移動を始める。

年齢層の高そうな人物は、やはり新郎側だったらしく、ぞろぞろと群れを作って移動を始めた。

しばらく待機したら、今度は新婦側の案内である。

新郎と比べるとゲストが少ないが、それでも、三十人前後はいる。

これから増えるかもしれないし、増えないかもしれない。

元クラスメイトの言う大規模に該当するのかどうか、由佳には判別がつかなかった。

ただ、美咲はやはり友人が多いのだなということと、そのうちの一人に自分が数えられているという事実が、妙に嬉しかった。

新婦側の座席へと案内されるままに、人々が着席していく。

由佳はあえて最後尾を歩いた。

一番後ろの席がよかったのだが、期待は裏切られ、かなり中途半端な場所に腰を据えることになった。

人々が何かを囁き合い、そのささやかな声が集まっておおきなどよめきに代わる。

教会を模した作りの式場では、声がよく響いた。


いよいよ、式が始まろうとしている。

由佳は目を閉じて、高校生の美咲の姿を思い浮かべた。


身長も女子にしては高い部類だった美咲は、学内でもとびきりの美人だった。

目鼻立ちはすっきりしていて、何より笑顔がチャーミングなのだ。

おまけに華やかな雰囲気を纏っているものだから、男女問わずに人気があった――のだと、由佳は思っている。

推測の域を出ないのは、由佳が人嫌いであるからだ。

由佳のような野暮天には、人々の機微などわかるはずもない。

それでも、美咲の周囲にはいつも人がいた。

だから、人望が厚いのだろうと、薄ぼんやりと察していた。


そんな美咲を袖にした男のことを、由佳ははっきりと覚えている。


それは、受験生の秋の頃だった。

滑り止めのAO入試には合格していたが、本命の入試を冬に控えていた由佳は、学校の図書室で勉強することを習慣にしていた。

すると、室内に美咲の姿を見付けた。

ひとりではない。

座っていても身長があることがわかる男子が一緒だった。

その瞬間に、由佳は閃いた。

彼こそが、一年前の夏に美咲が言っていた好きな人なのだろう。

運動部らしい短髪を掻きむしりながら、少年は問題を解いている。

その横で、美咲がヒントを出してあげている。

仲睦まじい様子が、鈍い由佳にもよくわかった。

由佳が知らない間に、二人は交際をはじめたのだろうか。

疑問に思いつつ、声をかけるのは憚られたので、由佳は少し離れた、しかし二人の表情が見える席に座って、参考書と赤本を広げた。


まったく集中はできなかった。

美咲と彼の会話に聞き耳を立てるのに忙しかった。

盗み聞きをするつもりはまったくなかったのに、ふたりが何を話しているのかばかりを気にしたまま、無為に時間を過ごした。

どのくらいそうしていたのかわからない。

三十分程度かもしれないし、一時間経過していたかもしれない。


やがて、彼が席を立った。

つられるように、由佳も顔を上げた。

少年は帰り支度をはじめていて、美咲は机に残ったままだった。

スマートフォンの連絡を気にしながら、男子が美咲に手を上げて、その場を後にする。


去っていく彼の背中を追う美咲の眼差しに、どくりと心臓が鳴った。


魅入られているうちに脈は早まり、どんどん呼吸が浅くなっていく。

あまりにも切ないその目線は、二人が結ばれていないことを如実に表していて、行かないでほしいと伸ばしかけた手を引っ込めるいじらしさがまた、由佳の鼓動を速めていった。

あまりに物憂げで悩ましい、痛切な表情に、由佳は見とれてしまった。


同時に、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。

美咲の整った顔立ちを、悲しみに歪ませる男への怒りだ。

美咲の視線は、彼が出ていった扉を見つめている。

由佳は参考書をかき集めて、美咲の前へと歩いていった。

隣、いい――?

美咲は目を見開き、すぐに細めた。

いいよ――。

それから、由佳は美咲に英語を教わった。

英単語の暗記苦手な由佳に、美咲は覚えやすい語呂合わせなどを教えた。

美咲の好きな男の話はしなかった。

由佳の前では屈託なく笑って見せたので、あえて話す必要は感じなかった。

ただ、その男は止めたほうがいいと、止めたい気持ちだけは募っていった。

美咲の魅力がわからないような男に片思いなどしても、けして幸せにはなれない。

もっと一途な人間がいい。

無口で、無骨で、美咲のことだけを思うような。

――まるで、由佳のような。

そう考えて、漸く気が付いた。


美咲のことが好き。

憧れに似た、なんとも稚拙な感情だ。

しかし、すとんと、胸のつっかえが下りたような気がした。

あの夏の日から抱えていた思いに名前がついたことで、由佳は非常にすっきりした気持ちになった。


だが、それを美咲に告げようとは思わなかった。

美咲への好きは、宝物だ。

むやみやたらと晒すものではない。

それに、彼女には、思い人がいる。

由佳の思いを知っては、きっと困らせることになるだろう。

それは、由佳の本意ではない。


何より、自分と交際したからといって、美咲が幸せになれるとは、到底思えなかった。

うだつの上がらない、平凡な女子高生では駄目だ。

だから、黙っていることにした。

思いを胸に秘めて生きようと、由佳は決めた。

窓の外を落ち葉が彩るのを視界の端でとらえながら、二人はひたすら英単語の勉強に没頭した。


美咲の結婚相手は、同級生ではない。

高校生の時代など僅か三年の灯だ。

卒業後の人生の方が長い。

美咲の一途な片思いが、成就したという話は聞かなかった。

失恋をした、ということになるのだろう。

美咲ほどの女性が失恋を経験しなければならないという事実がやるせなくて、苦しくて、たまらなかった。


なので、結婚式の招待状を受け取ったときは、素直に嬉しかった。

美咲が、彼女の魅力をわかってくれる人と巡り合った事実が、喜ばしかった。

相手の男のことは評価している。

まだ見ぬ美咲の結婚相手は、見る目だけは確かだ。

そして、果報者である。

美咲ほどの見目が良く、賢い女性は、どこを探したっていやしない。


会場に音楽が流れだし、由佳は顔を上げる。

スピーカーから、マイクのスイッチが入った音がした。


「お待たせいたしました。新郎新婦、入場です」


司会者の合図とともに扉が開き、二人が姿を現す。

花嫁の表情はヴェールに隠れてよく見えない。

それに対し新郎の顔立ちは、はっきりと見て取れた。

肌の色が浅黒く、身長は高くないが、体躯はしっかりとしている。

何か野外スポーツをしていそうな肌色だ。

着ている白いタキシードとのコントラストがあまりにはっきりしていて、なかなか滑稽だったが、ここは笑う場面でないことはわかっていたので、由佳はおとなしく拍手で二人を迎えた。

入場曲は聞いたこともない洋楽だった。

おそらく流行りの音楽なのだろう。

一歩一歩進む二人を目で追いかける。

たっぷり三分はかけて、新郎新婦は祭壇の上にたどり着いた。


美咲に会うのは、七年ぶりだ。

交流はさほどあったわけじゃない。

けれど、毎年年賀状だけはかならずやり取りをしていた。

高校を卒業した後、初めて迎えた冬に、それは届いた。


彼女は四年制大学に進学し、友人も多く、楽しくやっているらしかった。

写真入りの年賀状に、手書きで添えられたメッセージに、由佳の心は踊った。

美咲は、恋人ができたと報告してきたと思いきや、翌年には破局してしまったり、新しいバイトを始めたり、短期留学をしたり、家族が増えたとペットの写真を挿入してきたこともあった。

小さなハガキに簡潔にし、しかしわかりやすく書かれた近況を読むのが楽しみだった。


届いたからには返事を出さなければいけない。

他に年賀状を書く相手もいなかったから、毎年コンビニエンスストアで年賀ハガキを一枚だけ購入し、最低限の情報だけを手書きで綴った。

短期大学での日常。

資格の勉強をしていること。

就職後の生活。

質素で渺渺たるやり取りが、嬉しかった。


どうして美咲が由佳に、わざわざ年始の挨拶を寄越したのかはわからない。

住所を交換したわけでもなかったから、本当にわざわざ調べて送ってきたことは間違いなかった。

深く詮索しない由佳との距離感を、心地よく感じたのかもしれない。

むしろ、そうであったなら、この上なく嬉しいと思う。


こうしたささやかな交流の果てに、結婚式に招かれている。

実に不思議な縁だ。

学年で一番の美人が、由佳のような些末な存在を気に留めているという事実が今なお信じられなかった。


中央に立った牧師が、二人に問いを立てている。

イントネーションでそうとわかるだけで、内容はほとんど耳に入らない。

聞き取りにくい声をしているのも原因のひとつだろう。

白髪の牧師は外国人で、日本語も片言だった。

新郎が緊張気味に「はい、誓います」と答えた。

それに続いて、牧師は新婦へと問いかける。

やはり模糊とした抑揚に対し、美咲が「誓います」と回答する。

司会が明朗な声で「それでは、指輪の交換に入ります」と告げると、わっと人々が撮影を始めた。

スマートフォンを掲げる腕が邪魔で、由佳は何度も上体を動かさなければならなかった。


小さなトレイに乗った指輪が、牧師によって二人の手に渡される。

新郎が小さなリングを、新婦の薬指にはめていく。

それに倣って、美咲が新郎の指に指輪を収めた。

会場を拍手が包み込むのにつられて、由佳も小さく手を叩いた、

司会進行役が誓いのキスを示唆すると、新郎が美咲の被ったヴェールに手をかけ、美咲が少し屈んでみせる。


持ち上がったヴェールの下を見て、由佳は息を飲んだ。


ブライダルメイクに彩られた美咲は、奥ゆかしくも明媚で、その場の誰もの視線を一瞬で奪い去るほどに美しかった。

日焼けした男が美咲の肩に手を添えて、二人はそっと口づけを交わす。

割れんばかりの賞賛の拍手が巻き起こり、会場の空気を震わせる。


由佳は放心したまま、美咲を見つめ続けた。


長い髪をアップにしたヴェール越しのうなじの艶やかさに、今更になって気が付いた。

二人が会場を振り返る。

美咲を呼ぶ声が方々から聞こえてくる。

中にはすすり泣く声もあった。

美咲のご両親かもしれない。

美咲がちらりとこちらを見た。

正確には、会場を見渡しただけだろう。

それでも、由佳を捉えた瞳が、僅かにほほ笑んだ。

由佳も笑い返した。

きっと歪な表情になっただろうけど、構わなかった。

由佳は今日失恋をしに来たのだ。


さようなら、初恋。

さようなら、美咲。


マナー本の最後を飾った言葉を思い出しながら、由佳は自分の恋心に別れを告げる。


こんな日も笑顔で過ごさねばならないなんて、なんて不条理なマナーなのだろう。


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