銀鈴の花
「おかしい。昨日はあんなにも吹雪いていたのに」
木々の梢の間に光風が吹き流れると、暖かな陽射しが葵を迎え入れた。
梅まで色づき始めているようで、辺りには新芽も覗かせ、麗かな木漏れ日に眠気さえも覚えるほどで、雪など少しも残っていなかった。
昨夜埋もれていたのが嘘のよう。もしかしたら、自分は冬の間中眠っていたのではないかという錯覚まで覚える始末。
「この山は雪解け山と申しまして。名の通りに、雪が積もると、一夜にして雪解けて春になると言う、摩訶不思議な山でございます」
紅殻(べんがら)が着物の裾をついっと持ち上げると、純白の足袋が覗き、金の蒔絵(まきえ)の薄下駄に、桜の鼻緒に指を通すと、小屋の敷居(しきい)を跨(また)いできた。
少しぼんやりとした、青色の空の中へ、鮮烈(あざ)やかに浮き出した紅殻(べんがら)の小袖が花と咲いたようで、春の色香まで漂ってきそう。
「ここは一体何処なんだ?」
「ここは鬼の棲まう世界の山じゃ。雪の中を彷徨い歩いているうちに、迷い込んだのでしょう」
「そんな……まさか」
「まさかと申すのは勝手でございますが。まあ、先を急ぎましょうか」
ぱんっと、蛇の目傘を開くと、森の中を先導するように歩く。
紅殻の後ろ姿のなんと艶(あで)やかで美しき様に、葵はつい見惚れてしまう。この世の者ではない美しさに、やはり鬼なのだと実感したのだった。
花は錦、歩けば百合、気品は物腰に現れ、彼女の美しさを際だたせた。
「しまった……。ちょっと、待ってくれ!」
ぼーっと見蕩れてしまった葵は、危うく紅殻に置いて行かれそうになる。
慌てて小走りで追いかけると、紅殻とはまったく逆の、どたどたと煩い足音を立てるのであって、優雅や気品さなど欠片ほどもありはしない。なんと穢(むさ)い姿だろうか。
葵が紅殻に追いつくと、彼女が口を開く。
「して葵は、なにゆえこんな所に迷い込んでしまったので?」
「まあ、旅をしていたんだ」
と、外に出た時に、雪の中に埋まっていたはずの鞄を回収していた。
だが、旅行をするにしても、あまりにも荷物が少ない。
「然り。なれどちいっとばかし荷物が少ないように見えまするが」
「一泊分の荷物しか持ち歩かない主義で」
「まあ、なんと面妖な」
少し進むと、切り立ったとは言わないが、そこそこに高い崖に出くわした。
紅殻は、とんっと跳び上がると、いとも簡単に下へと降りてしまったが、そんな人間離れしたことなど葵に出来るはずもなく、途方に暮れる。
「ちょっと待ってくれ……人間はこんな高さ跳べないんだ。足を折ってしまう」
「ああ、人とはなんと難儀なことじゃ……。そこの木に蔦でも縛って降りてくればよろしいかと」
「ああ、確かロープならあったはず」
葵は鞄の中をがさごそと漁ると、一本の丈夫そうな麻のロープを取り出した。
そこそこ長さのあるそれを丈夫そうな木に巻き付けると、そろそろと崖から降りたのだった。
「まあ、用意がよろしいことじゃ。まさかそれで、行きずりのおなごでも縛ろうという心づもりじゃございませぬか?」
「何てひと聞きの悪いことを言うんだ! これは、まあ、ついお土産屋で買ってしまって……。特産品らしくてさ……」
「そんなに言葉を選ばんでも良かろうに。ああ、これ以上突くと蛇でもでそうじゃ。この話はこれで仕舞いじゃ。怖や怖や」
「まって紅殻。いや、紅殻さん! 俺のことを変態か何かだと疑っているだろう? 違う、違うから!」
などと必死な形相で弁解する葵だったが、紅殻は涼しい顔をして、そして先ほどよりも葵から離れた間隔で進むのだった。
そのうち紅殻の気もすんだようで、距離が再び戻る。
鬱蒼と茂る森の中を、四半刻ほど歩いた頃に、紅殻が一本の木を指さして言った。
「その木の実は、大変おいしゅうございます。お一つ捥(も)いでみては如何かえ?」
「へぇ、そうなのか」
見たことのない大きな木であるが、枝は妙に地面へと垂れ下がって、葵の手に取りやすい位置にあった。その爛熟(らんじゅく)して落ちた実の、なんと甘い香りか。きっと落ちぬ実も甘いのだと思うと、葵の喉がごくりと鳴った。
「ひとつくらいなら食べても構わないだろう」
「ああ、忘れておりました。実は大変に美味でございますが、その実に釣られた動物を食すお化け木でございました。もちろん人も、鬼でさえもぱくり、と」
「ええっ!」
葵に枝が絡みつくように伸びると、その先から蔦や棘やと生えてくる。模様に見えた木の幹が、ぽかりと口を開くと、まるで東西の妖怪図鑑で見た化け物のようで、口の奥は光さえも届かないのか、ただただ黒い穴が広がっているだけであった。
なんとか枝を上手くくぐり抜けると、紅殻に捲くし立てた。
「それは早く言ってくれ! 危うく食べられる所だったじゃないか」
「ちょっとした戯れじゃ。楽しんで頂けましたかえ?」
「ちっとも楽しく無い!」
などと言う遣り取りを、数度と繰り返すことになる。
そして先導していた紅殻が足を止めると。
「ほら、着きました」
「これが、花?」
森の一端に咲き乱れるのは、銀色の鈴。
まるで銀細工職人が何日もかけて造り上げたような、そんな細やかで美しい造形。
「銀鈴花(ぎんりんか)と申しまする。その名の通り、鈴のような花を咲かせます。その花を軽く叩くと、清(すが)しい音色が鳴るのでございます。故人に供える花としては、最高の手向けになると言われておりますれば。わたくしの最後の感謝の心として送りたいと、思し召した次第でございます」
「確かに。とても綺麗だ……」
――ちりぃん。
と、風が吹き抜けると、一斉に花が鳴いた。
その風鈴とも、音叉とも違う、美しい音色に耳を向ける。
金属とも、ガラスとも、鉱石ともつかず、きっと花の音というものがあれば、このように涼やかなのだと葵は思った。
その心の裡(うち)には物悲しい、哀愁にも似た感情が込み上がって来た。
「一輪だけ頂いて戻りましょう。さて、それでは麓までご案内いたしましょう」
紅殻は、そっと、大事そうに花を摘んだのだった。