目覚め
葵が再び目を覚ましたときには、少女は少し離れた場所で座っているようで。何やら鍋でぐつぐつと煮ている。
火のそばに居るせいか、小屋の中は少し暑いくらいで、葵は体に掛けられていた麻布を押しのけると、ゆっくりと上半身を起こした。そして寝ぼけ眼を擦ると、半ば夢の中にいる意識を手繰り寄せる。葵は瞼(まぶた)に落ちる光が、こんなにも眩しい物だと知らなかったほどで、暗がりをずっと見ていた眸(ひとみ)には強烈に映った。
不意に、花の香りのような少女の芳しい匂いが鼻に通ると、昨夜の痴態が呼び戻され今度は耳朶(じだ)を真っ赤に染め上げ、恥ずかしさのあまり手で顔を覆う。
「おまえさま。これを召しませ」
「……これは?」
「見ての通り粥(かゆ)でございます」
白い湯気が立ち昇る、木皿に注がれた粥を眺めていると、ごくりと、唾を飲み込んだ。
葵の、今し方まで忘れていた腹の音が鳴ると、気恥ずかしさもどこか遠くに吹き飛び、好物を目の前にした犬のように誰かに取られまいと急いで掻き込む。
「これ、そんなに慌てて食べなくても良かろうに」
「すごく腹が減って。はふはふ………………それにしても、米とは違うような……」
「ああ、この山中には米に似た食感の実がなっておりまして。米とは違って、すこぅしばかり苦いのじゃが。丁度良い気付けになりましょう」
「確かに、少し苦い。が、うまい」
その苦みが、体の感覚を取り戻すようで、どこか心地良かった。
葵は、皿の中の粥をすべて食べ干すと、少女に向き直る。
「助けて頂いたようで、感謝します」
「まあ、なんと殊勝な心がけ。あれほどがっついていた者とは思えませぬ」
葵は少女の言葉に乾いた笑みをこぼす。
「ははは……名乗るのも何だか烏滸(おこ)がましいが。俺は双葉葵だ」
「…………フタバアオイとは、なんと風情あるお名前で」
「今の間はなんだ間は。どうせ、顔に似合わずとでも言いたいのだろう」
「はて、何のことやら。それにそう思し召しているのはおまえさま自身じゃありませんかえ?」
「うっ……それは……」
日頃から名前負けしていると思っていた。
痛いところを突かれ、煙に巻かれる葵であった。
「わたくしも名乗るほど大層な名ではございませんが。この着物の色と一緒。紅殻(べんがら)と、お呼び召しませ。見ての通り、鬼でございます」
そういう彼女の額には、二本の角が生えていた。
先ほどから気になっていたが、作り物だと思っていた葵は。
「それは飾りじゃなかったのか」
「ええ、触れてみますかえ?」
ずいっと紅殻が葵の側までやってくると、わざとらしくしどけなく着崩した着物の胸元を見せるようで、小柄な少女だというのに、その艶(つや)めいた色気に、胸が少し高鳴る。
葵はやめてくれとばかりに手を振ると、悪戯めいた笑みを浮かべた紅殻が離れ、扮装(みなり)を正したのであった。
「大きな借りが出来てしまったようで。俺に出来ることならどんなことでも言ってくれ」
「では、あなたさまの肉を削ぎ落として、わたくしに頂けないでしょうか?」
鬼じみた提案に、紅殻はくすりと笑みをこぼすと。
「冗談でございます。なれば、そんな妙な顔をなさらないでくださいませ」
「一体どんな顔をしているんだ?」
葵が今自分がしている顔が分からずに、ぺたぺたと触る。
そんなに妙な顔をしていたのかと、何だかもやもやとした気分になる。まるで、変だと言われているようで、この、親切で心やすい少女に嫌われるのは、何となしに嫌だと感じた。
「ふふふ、面白い御方ですね。大いに、良い」
「紅殻。あまりからからかわんでくれよ。心臓に悪い」
「なれど、鬼と申しても、今では人など食す者は稀でございます。かく言うわたくしも、生まれてから一度も人など口にしたことがございません」
「そういうものなのか?」
紅殻は肯首すると、葵に促した。
「なれば、わたくしの探し物のお供をして頂きたいのでございます」
「それは構わないが、そんなことで良いのか?」
「ええ、道中にひとりでは物寂しゅうございまして。ただ、着い来て下されば結構でございます」
「何を探しているのか尋ねてもいいかな?」
「花を、探しに参りました」
「また随分と可愛らしい……」
「まあ、それではわたくしが可愛くないとでも」
「そう言うわけでは……」
「ちょっとした戯れじゃ。そう困りなさるな」
紅殻は軽く咳払いをすると、佇まいを直して、少し翳(かげ)りのある貌(かお)で。
「手向(たむ)けの、花を」
「手向け?」
「わたくしにとても良くして頂いた知己(ちかづき)の方がお亡くなりになりました故。花を手向けようと思し召しまして」
「――そうか。鬼でも死ぬことがあるのか……」
「ええ。なればこんな格言もございます。鬼が死ねば鬼が生まれる、と」
「そういえば知り合いが、親戚の誰かに子どもが生まれると。その親戚の誰かが死ぬって言っていたな。そう言った奇妙な何かがあるのかもしれん」
「他にも死は生の始まり、生は死の始まりなどという格言も鬼にはございまして、これは、この世界に未来永劫縛られるという、救いようのない現世(うつしよ)を暗じていることでございましょう。おお、怖や怖や」
「いや、きっと、ずっと世の中は続いていくということじゃないか。君は少しばかりひねくれ過ぎている」
「あら、それはおまえさまにだけは言われたくはございませぬ――」