恋愛回路
携帯の画面には、『好きです』の文字が映っていた。
私は『ごめんなさい』と返そうとして、それよりも早く『一週間後に返事をください』のメッセージが届いた。
一週間。
これから私は『ごめんなさい』と伝えるためだけに一週間を過ごさなくちゃならない。気が重くなって、携帯の電源を切って鞄の中に投げ込んだ。
空を見た。
子供の頃はもっと青かったような気がした。
息を吸った。冬の香りがした。
息を吐いた。白い吐息が空気に溶けた。
高校前のバス停を、十二月の風が通り過ぎる。授業の終わる頃には、太陽の光も頼りなくて、コートをすり抜けて冷たい空気が身体に触れる。
私はマフラーをしない。嫌いだからだ。もっと言えば冬も嫌いだ。
一度きりの過ちが、すべてを狂わせてしまうことがある。マフラーも冬も、私にそれを思い出させる。鞄に放り込んだメッセージもそう。
私は恋が嫌いだ。
大嫌いだ。
雪が降らなければいいと思った。
太陽が全部隠してしまえばいい。
*
「転校するんだ」
と言われても、どんな言葉を返していいかわからなかった。
家の方向が同じ。放課後の帰り道に話すだけの、クラスメイトにすらなったことのない男の子。
「へえ」
彼も私に劇的な反応は期待していなかったと思う。共通の友達が風邪をひいたとか、今日の給食は美味しかったとか、冬のマラソンはつらいとか、そういうたわいない会話のひとつが、その日は転校の話だった。
「いつ?」
「来週」
「急だね」
「おれが引っ越しの予定を決めるわけじゃないしな」
中学二年の十二月だった。雪が降っていて、空気に晒された頬が白く染まってしまいそうな寒い日だったことを覚えている。
「大変だね」
「どうせなら四月に転校したかったな。十二月じゃ中途半端だ」
大して残念そうな素振りも見せずに彼は言った。
寂しくなるね、とは言わなかった。一緒に帰る日もあったけれど、同じくらい一緒に帰らない日もあった。三年生になって受験勉強が始まれば、高校生になって学校が変われば、それで途絶えてしまうような薄い縁だった。
人は出会って、別れる。
ちょっと早かったね、と。それすら言葉にしない程度には、私たちは遠かった。
「どこ行くの?」
「東京」
いいなあ。
思っても、口に出していいのかわからなかった。だから私は頷くだけだった。
それからはもっとどうでもいいことを話しながら帰り道を進んだ。何の変哲もない、人が聞いても全然面白くもないような話を、いつもみたいに。
私の家が見えてくるより先に、分かれ道がやってくる。
「明日はクラスで送別会だから」
今日で最後だな、と言った彼は片手を挙げて、
「じゃ」
私も、じゃ、と返した。
彼は十字路を右に曲がる。私はまっすぐ行く。
あっさりした別れだった。それにふさわしい距離だった。
「あ、ちょっと待て」
だから、どうして呼び止められたのかわからなかった。
「なに、」
言葉の途中で、マフラーを巻かれた。彼が首に巻いていた白いマフラーを。
めちゃくちゃな巻き方で私の首元を包んだそれに、戸惑った。
「お前いつも寒そうだからさ。それ、やるよ」
私が何か言葉を返す前に、寒い、と一言呟いた彼は、背を向けて走り去ってしまった。
白いマフラーの下で、頬が赤く染まるのがわかった。
恋していた。
*
部屋の空気は冷たくて、暖房を点けようとしたけれど、窓の結露が気になった。
換気のために窓を開ければ、もっと冷たい空気が部屋に入り込んでくる。コートを脱いだ制服姿には刺激が強い。
日は沈んでいた。星が薄闇に光っているのが見える。
中学の頃と違って、高校生になってからは、家に帰るだけでも一時間くらいかかるようになってしまった。三十分に一本しか来ない電車をホームで待つ日は、もっと。
窓に張りついた水滴がなくなるまで、どれくらいかかるだろう。
ベッドに腰かけて、鞄の中から携帯を取り出した。電源を点けてみると、新着メッセージが十件。今日の告白に関することばかり。私は誰にも話していないから、告白した人から噂が広まったんだろう。
めんどくさいなあ。
携帯を枕の上に放り投げた。弾んだけれど、床には落ちなかった。
自分は恋愛なんてしないと思っていた。
人といるのは、疲れる。学校に行っている間とか、休みの日の数時間くらいならともかく、四六時中誰かと一緒にいるなんてことは、私には考えられなかった。携帯電話を考えた人のことも好きじゃない。
ひとりになれる時間が、私には必要だった。
だから、恋愛も結婚も、自分にはいらないものだと思っていた。
なのに私は恋してしまった。初めての恋は、取り返しのつかない過ちだった。
一度恋してしまうと、心に回路ができてしまう。スイッチの入りやすい、恋愛回路。
雪を見るだけで。
マフラーを見るだけで。
冬が来るだけで。
私は思い出してしまう。感傷に浸ってしまう。
叶うこともなければ、叶える気もない、叶えるべきでもない、過ぎ去った恋のことを思ってしまう。
そんなものは私の人生にいらない。
胸の痛みは理不尽で、私はそんなものを望んではいなかった。
だから私は冬が嫌いだ。
恋されることも嫌いだ。恋した日の自分を思い出してしまうから。
震える携帯も嫌い。明日の教室で質問攻めにされるのも嫌。
もういいや、と思った。
波風を立てないようにしてきたけれど、どうでもよくなってしまった。断ろう、と思った。『一週間後』の指定を無視して、『ごめんなさい』と送ってしまおうと思った。
放っておいて。
私に構わないで。
私の人生は私だけのものだから。
そんな気持ちを込めて、十秒と経たずに打ち終えた五文字。送信ボタンを押そうとして、胸が痛んだ。
まただ。
あの日恋する前の私だったら、迷わなかったはずなのに。今は、『自分だったら』なんて考えが、親指の動きを邪魔している。
これは病気だ。
恋愛回路が、私の時間を奪っていく。こんな不毛な心の動きが、私の人生を邪魔しているのがわかる。
いらない戸惑いだ。わかってる。なのに親指は動かない。
もう一度、携帯を投げた。
何もかも忘れてしまいたいのに、一度できてしまった恋愛回路の消し方を、私は知らなかった。
*
外は寒いから、頭を冷やすのにぴったりだと思った。
歩いて五分で、そんなことを考えていた私は、熱に浮かされていたんだとわかった。痛いくらいに寒かった。首元から入り込んだ冷気が私の肩を震わせた。
だけど部屋に戻る気にもなれなかった。携帯電話が待つあの部屋には。
ひとりになるためには、外に出なくちゃいけなかった。
人のいない方へと歩いて行った。気配を感じるたびに回り道を繰り返して、気付いたときには自分がどこにいるのかわからなくなっていた。
それでもいいか、と思った。何かに縛られているより、さまよっている方がマシだって。だけど毛先から髪が冷えこんで、くしゃみをしたころには、もう帰らなくちゃ、という気持ちが強くなってきた。
とにかく知ってる道に出よう。
そうして抜けた先に見えたのは、中学時代の通学路だった。
躊躇った。
だけどここで引き返す方が情けない気がして、私は一歩踏み出した。
中学校と駅は私の家を挟んで反対の方向にある。この道を使うのは、中学の卒業式以来だった。
思った以上につらい帰り道になりそうだ。二歩、三歩と進むうちにそれがわかってきた。
どこを向いても思い出がある。どの風景にも、彼の姿が重なってしまう。空にも、木々にも、家にも、道路にも。私はそのひとつひとつに胸をかき乱されてしまう。
忘れてしまえ。
こんなの、全部どうでもいい。
言い聞かせれば言い聞かせるほど、思いは強くなる気がした。
忘れられる日は来るんだろうか。回路が消える日は来るんだろうか。
来るといい。私はその日を待っている。私の頭の中から彼が消える日を。私が昔みたいに、ひとりぼっちで生きていけるようになる日を。
私の人生が、もう一度私だけのものになる日を。
目を瞑って駆け抜けてしまおうと思った。こんな場所には背を向けてしまおうと。
通い慣れた道だ。何の心配もない。私は瞼を瞑って、
「あれ、もしかして……」
その声を、聞いてしまった。
私は瞳を開かなかった。開けなかった。足音が近づいてくる。それは私の前で止まって、「やっぱりそうだ」、と呟いたあと、続けて、
「久しぶりだな。元気にしてたか? ちょうど実家に忘れもの取りに来ててさ……。って、お前、相変わらず寒そうな恰好してるな。わかってるか? 今は冬だ」
今が冬だってことは、誰よりも私がわかっていた。私はうつむいていた。黙っていた
彼がマフラーをしていないことを、祈っていた。
「風邪引くぞ」
その後に続いてきたのは首元に何かが巻きついてくる感覚で、冷たい空気はそれで遮断されてしまって、私は目を開いてしまった。
視界に入った白色。それから顔を上げた先で見た彼は。
あの日と、何も変わっていなくて。
「う、う、うう」
嗚咽が漏れた。
この人は、そういう人だとわかってしまった。
私の前に現れて、気まぐれに優しくして、私に恋させる人。
距離も時間も関係ない。私が忘れようとするたびに私の目の前に現れる。
私の恋愛回路は、消えない。
私はこの人を忘れることができない。
私の人生が、私ひとりだけのものに戻る日は来ない。
冬がもっと嫌いになった。
マフラーがもっと嫌いになった。
雪の日だけじゃなくて、星の夜も嫌いになった。
「お、おい。どうした。どっか痛いのか?」
縋りついた私を抱きしめる優しい人は、この世で一番嫌い。
「好き」
あなたと、あなたとの思い出すべてに恋しています。