第21話 『瑞樹帝という人間 ⑤』
波を打ったように沈黙が教室に満ちる。
それは数秒教室を支配し、それこそ引いていく波のように再び話し声に場を譲った。
「……それは、本当なの? 帝くん」
信じられないことを聞いた、と言いたげな視線────というかそれ以外の意思を含んでない視線が俺に突き刺さる。
……言いたいことは確かにわかるし、少し冷たいが御愁傷様としか言いようがない。
「ホントです。俺、昨日見ちまったんで」
ざわめきを裂くように、周りにしっかりと声を届けるように。
ゆっくりと、かつ通る声で。特に聞かせなきゃいけない相手が、俺のことを睨みつけているんだから。
「見たって、何処で、何を? 帝くんはなにを」
「どーしたんだよ瑞樹クン、急にそんなこと言ってー」
睨みつけていた憎きヤツ……剣持が先生の質問を遮るように声を上げた。
予想していたこととはいえ腹が立つ。ここで〝決められる〟とは思っちゃいなかったが、いざ面と向かって邪魔が入ると癪に触るってモンだ。
舌を打つ俺とは対照的に、さっきまで俺のことを睨みつけていたはずの剣持は笑顔を浮かべ、周りに同意を求めるような視線を投げている。
「なぁ、みんな。うちのクラスはみんな仲良いもんな?」
周りに問いかけるような声。純粋に問いかけているだけなのに、応えを強要しているように聞こえたのは単に俺が捻くれてるからだろうか。
「そうだよそうだよ。みんな仲良いのに」
「そーだよ先生! イジメなんてありません!」
「みんな仲良くできてるもん。平気だよ!」
だがそんな問いかけに、次々と上がる声。
初めは数人────田中さんを寄ってたかってイジメていたメンバーだけだった声は徐々に広がり、今ではクラスメート全員がイジメなんてないと声高々に主張している。
……いや、全員ってのは間違いか。教室の隅で俯く田中さんと、俺の隣でずっと心配そうに見上げている舞姫を除いて、だ。
それだけが嬉しかった。舞姫は、俺の主張を少しでも信じてくれている。
周りの勢いに半ば押されながら、冷静を取り戻す先生。先生は出席簿を抱え直し、
「そう、よね。イジメなんてないよね?」
心の底から安堵したようにひとこと。
大丈夫? 調子が悪いなら保健室に行く? と本気で心配する先生の声に片手だけで大丈夫、と応え、おとなしく席に腰を下ろした。
上手いこともみ消されるもんだ。思ったより連中の団結力は強いらしい、と内心舌打ちをひとつ。
机の木目を睨みつけていると、突然服の袖が横に引っ張られた。犯人はやはりというか当然というか、舞姫だ。
「ねぇ、本当にイジメられてるの見たの……?」
潤む瞳を向けながら問う舞姫。
────正直、洗いざらい吐いてしまいたかった。
予想していたとはいえ、わかっていたとしても自分の意見を信用してくれないのはなかなかキツイものがあった。
ましてや自分が嘘を吹き込んでいるわけではなく、本当のことを言っていただけなのに。周りにもみ消され、意見がなかったことにされるのは腹が立つし言ってしまえば泣きそうになる。
俺はこんなに信用されていないのか、と。目の前に『月日』と言う名の溝が大きく広がり、向こう岸でクラスメートと先生が笑っているのを眺めているような気分だ。
だけど、そこに差し伸べられた優しさ。
向こう岸にいればいいのに、わざわざ無理をしてこっちがわに飛び移って。
『一緒に向う行こう?』
と、笑いかけてくる舞姫。
その手を握りたい。何もかも見なかったことにして、向こう側に行けばどれほど楽だろうか。
……だけど、俺は知っているから。
誰かに殴られる痛み。誰かに罵声を浴びせられる悲しみ。自分の悲しみが届かない痛み。
全てを知っているからこそ、俺はなかったことにはできない。
舞姫はお人好しだ。お人好しで、時々お節介で、元気で明るくて。
そんな舞姫のことだ。全部全部吐きだせば、絶対放置なんかできっこない。首を突っ込むに決まってる。だから、
「いや、俺の見間違いだったのかも。最近眠れなくてさー」
巻き込みたくないから、笑顔を作ってそう応えた。
俺の心境を知ってか知らずか、それ以上は踏み込んでこない舞姫に内心安堵の息を吐く。
と、舞姫はいつもの調子に戻って、笑顔を浮かべた。
「そっか。ね、今日こそは一緒に帰ろうよ」
「んー、そうだな。じゃあ今日は一緒に帰ろうか」
舞姫と何でもないようなやり取りをして、ほんの少し、暖かさに甘えるしかなかった。
◇◆◇
眠くなるような授業を越えて昼休み。
開放感に思わず伸びをしていると、ひとりの足音が近づいてきた。
「………………」
思わず沈黙で剣持を迎える。対する剣持はヘラヘラといつもの笑顔を浮かべ、俺の目の前に立った。
「調子どう? ヘーキ?」
「おー、平気平気。悪いな、今朝は変なこと言って」
同じくヘラヘラとした笑みを浮かべて、形だけは謝っておく。
まぁ心の底から謝る気なんて毛頭ない。なんてったって俺は間違ったことは言ってないんだから。俺が言ったのはまぎれもない事実だ。
なんて内心憤っていると、剣持が少し表情を変える。
「ね、一緒に遊ばない? みんなも瑞樹クン誘おうって言ってたんだけどさ」
その言葉に、正直笑顔を堪えるので必死だった。
心を満たす『してやったり』という満足感。本来の目的はこれだったんだから。
朝1番にあんなことを言えば、いやでも向こうから接触してくる、と。
「ん? いいよ、行こうぜ。俺も遊び相手がいなくてさ」
ヘラヘラと返しながら、教室を出る剣持の後ろをついて行く。
当然、教室には田中さんの姿はなかった。
連れてこられたのは飼育小屋の裏。
そこには既に地に倒れ伏した田中さんと、それを囲うように昨日と同じメンバーが既にいた。
剣持は笑顔を浮かべたまま振り返り、俺の目をまっすぐ、まっすぐと覗き込んでくる。
「こんなところに連れてこられて、遊ぶなんてことはないよな」
「そりゃーね、ないよね」
状況が思い通りに進んでいる満足感を押し殺し、軽口をひとつ。対する剣持も軽口で応じ、真顔とともにだんまりを決め込んだ。
数秒、迷うように沈黙が辺りに落ちる。俺から何か切り出すべきかと口を開きかけたところで、剣持は言い放つ。
「ね、瑞樹クン。俺たちの仲間に入る気はない?」
……そうくるか。
ここまで連れてこられちゃ田中さんと同じく、知られてしまっては仕方ないとか言ってボコボコにされるもんだと思ってたんだが。
と、回っていく思考。はて、どうするべきか。
……なんて悩む必要はなかった。俺のやりたいことはひとつだけだ。現実から目をそらすために思考を逸らしていくのは悪い癖だ。直さないと。
ひと息吐いて、覚悟を決めるように唇を舌で湿らす。そして、
「そんな気はねーよ。馬鹿野郎」
堰き止めていた暴言の枷を、外す。
「っつーか俺があぁやって言った時点で気づけよ。おまえらバカなの? 俺はおまえらを邪魔する気こそあれど、仲間になるだなんて言うつもりはない。ついでに言うとおまえらを止めてやる、だなんてヒーローみたいなことを言うつもりだってねぇよ」
弱っちい俺にそんなことはできない。だから、と。Tシャツに手をかけて、脱ぎ捨てる。
「だから、代わりに俺を苛めろ。そんなフツーな子より俺の方がよっぽど気持ち悪いぞ! 見ろよこの跡。この傷!」
そこにあるのは虐待の跡。正直自分でも忘れたくて仕方ないモノ。
それを見て連中は目を見開く。だがもう1歩足りないらしく、目を見開くだけで止まっていた。
あと、もう1歩だ。そのもう1歩の為に、
「あああああああああ!!」
トチ狂ったような声を上げて、地を蹴り、走り出し、剣持の顔をめがけて拳を振り抜いた。
◇◆◇
気持ち悪い傷があって、リーダー格に暴力を振るった。
それだけで小学生がいじめるには十分な理由だったんだろう。そこから、田中さんから乗り換えて俺を虐める日々が始まった。
止めるだなんて、かっこいいことはできない。だから取った手は、代わりに自分がイジメられるというもの。
痛みには慣れていた。悲しみには慣れていた。だから、田中さんの代わりに俺が。
……嘘だ。痛かった。悲しかった。虚しかった。悔しかった。
叔母さんにこのことを話せないのは苦しかった。舞姫に何食わぬ顔をして、察されないように笑顔を作るのは苦しかった。
正直逃げようと何度も思った。けど毎朝迎えに来る剣持。逃げられない。
逃げようとすれば、
「なら次は舞姫ちゃんをオモチャにしようかな」
と、おきまりのひとこと。
それだけで逆らえない。
暴力は日に日に悪化していく。剣持の言動も荒くなっていく。それでもキズが目立つ顔だけは狙われなかったのが悪質すぎて嫌になる。
それでも、耐えて。耐えて。耐えて。
田中さんから最初のうちはお礼だって言われた。けど関わればイジメられるから、って離れていった。
虚しかった。わかってたけど虚しかった。でも救えたという満足感の方が大きくて。
何をされたのかは覚えていない。思い出したくもない。
両親につけられ、やっと塞がり始めていたキズが抉り、広げられるような感覚。
半年間の月日が経ち、やっとイジメから解放されて進学。
なにやら剣持は引越し、別の中学に行くらしかった。平和になる。そうは思ったけど、傷は深くて。
残された感情は虚無感。もう、いいやと投げやりになって、俺は家に引きこもった。
なんの後悔もない。やりたくてやったことだ。
……違う。ひとつだけ、心残りがある。
舞姫と本当の笑顔を浮かべて、心の底から楽しく、1度たりとも下校できなかったことが、たったひとつの心残りだった。
◇◆◇
何でみんなそんな顔をするんだろう。俺は愛を注いでいるだけなのに。
俺は田中さんが好きだった。だから殴った。
なんで泣くんだろう。痛いから? いやいや、違う。嬉しいから泣いてるんだ。
だって母さんもそうだった。お父さんに殴られて、泣いて。痛いから泣いてるの? って聞いたのに、『違うの。嬉しいからよ。あの人が少しでも、お母さんを必要としてくれているからよ』って応えていたし。
殴られることは必要とされていること。殴られるということは嬉しいこと。
なら好きな人に好きなだけ、思う存分拳を振り下ろすべきだ。
だって好きなんだもの。必要としてるんだもの。
だって、それしか愛情表現を知らないから。
……まぁ、途中から周りが騒ぎ立ててイジメに発展して、楽しくなっちゃったのも事実なんだけど。
楽しかったぜ、瑞樹。
やっと終わった過去編。どれだけかかってるんだ、と。
あとは剣持を、殴り飛ばすだけ。




