第20話 『瑞樹帝という人間 ④』
「は、は、ァ、ッづ、っ────!!」
息が荒い。
痛む足に鞭を打ってひたすら前へ、前へ。
意識がぼうっと彷徨う。もう、何も考えられなかった。酸素が足りない。
だけどそれでいい。何も考えられないほうが良い。
あんな光景忘れた方がこれからのためだ。田中さんのためにも、あんな光景忘れた方が────
「あああああああああ!!」
家のすぐ近くまで来て、思わず道路にうずくまる。
やめろ。やめてくれ。俺は何を考えてるんだ。あんなことされてたんだぞ? おまえ、放っといていいのか。そのまま放置で?
学校生活を楽しみたいんだろ。なら触れるな。見なかったことにしろ。知らないフリをすればそこまでじゃないか。
頭の中で喚き倒す二人の自分。二人の自分が、矛盾を生んで頭痛を起こす。痛い。もう、やめてくれ。
俺は……どうしたいんだろう。
「…………でも」
このまま見逃せば、親父や剣持達と同じだぞ。
お前はソレに、なりたくなかったんじゃないのか?
◇◆◇
味噌汁から立ち込める湯気が頬を撫でる。
時刻は夜の7時頃。窓の外はすっかり暗闇が落ち、点々と立つ街灯と月の明かりだけが道を照らしていた。
「学校どだった、帝?」
ふと、何気ないことを聞くように、叔母さんがご飯を茶碗に盛りながら問いかけてくる。
────学校、という単語に思わず息を飲み表情を歪めてしまった。
視線を味噌汁から前へ。叔母さんは俺に背を向け、視線をやらずにせっせとご飯を盛ることに夢中なようで俺の表情の変化には気づいていない。
「んー、まあ。楽しかったよ、みんないい人そうだったし」
言いながら、脳裏に蘇るのは飼育小屋裏の光景。
思わず吐き気を覚えて、手で口元を覆う。
「そっか……うん、帝?どうかした?」
「ああいや、うん。欠伸」
振り返った叔母さんに適当に誤魔化しつつ微笑む。叔母さんは首を傾げたものの、「さて」なんて呟いて両手を合わせた。
「「いただきます」」
軽く頭を下げ、同時にいただきます、と。
最初は違和感やら気恥ずかしさを覚えた家族揃っての食事。今ではすっかり慣れて、叔母さんと色々な話をしながら飯を食うのが日課になっていた。
……だけど今日は話しも弾まない。喉に何かがつっかえたようで、言葉がうまく出てきてくれないのだ。
咀嚼する顎も不思議と重い。叔母さんには悪いけど、ご飯の味なんて全くわからなかった。
後味が悪い、というのはこういうことなんだろう。俺は田中さんを見捨てて……踏みにじって、日常に戻ろうとしている。
「……帝、なんか元気なくない?」
「ん?……んん、なんでもないよ。疲れてるのかも」
嘘だけはサラリと出てくる自分が嫌になった。
なんでもない、と心に言い聞かせる度に口の中に苦味が広がっていく。
それをゆっくりと咀嚼して、咀嚼して、噛み潰して、飲み下す。
気分が悪い。吐き気がする。いっそ、全部吐き出して、楽になりたい。
そんな俺の気持ちを、表情から感じ取ったのか────
「……何か言いたいこと、あるんじゃないの?ゆっくりでいいから。叔母さんが聞いたげる」
味噌汁なんかよりもよっぽど温かくて、優しい言葉。
胃の中に落ちていった苦味が霧散して、じわりじわりと温かさが広がっていく。
……ああ。この人なら、俺の話を受け止めてくれる。
でもありのまま話すわけにもいかない。どうしたもんか、と。ゆっくりと、ゆっくりとまとめながら少しずつ切り出していく。
「……もしも、さ。叔母さんは」
「うん」
「目の前で俺が……無理をしようとしてたら、怒る?止める?」
机の木目を見つめていた視線を、ゆっくり、ゆっくりと上げていく。
と、叔母さんの驚いたような視線と、俺の躊躇いがちな視線が絡み合った。
「へえ……うん、そっか。帝が無理をしようとしていたら、ねえ」
視線をそらして、考え込むように顎に手を添える叔母さん。
数秒、部屋に時計の針の音だけが響いて、懐かしむように叔母さんが話し始めた。
遠い遠い、誰かを見つめるような目で。
「叔母さんは帝が本当にそれをしたい、本当にそれをやるべきだって感じて、それで無理をするってんなら……止めないかな。むしろ、背中を押してあげる」
でもね、と俺の顔を指差して、俺が返事をする間も無く続けた。
「無理をするのは別にいい。無茶をするのも別にいい。やりきれないってのはなかなか苦しくて、もどかしい事だから。でも無理や無茶をしても、絶対……元気に、ここに帰ってきてほしいな。叔母さんはさ、ご飯を作って待ってるから」
「……………お、おぉ」
どんな反応をしていいのかわからず、思わず口ごもる。
そうか。絶対に帰って来い、か。
戸惑う俺を見て、おかしそうに笑う叔母さん。
「うん、やっぱり帝は修斗────叔父さんとそっくり」
……叔父さん、というと叔母さんの旦那さんだろうか。
叔父さんは俺が来る少し前に亡くなったらしい。顔は何度も仏壇の写真で見たことがある。……けど、顔は全然似てなかったと思った。
「叔父さんと俺が、そっくり?」
「あれ、言わなかったっけ。叔父さんもねー、帝みたいにしょっちゅう誰かのために無茶する人だったんだ」
「ぅ────」
さっきの会話でどうも誰かのために無茶をする、ということまでバレていたらしい。
「で、最初に叔母さんに無茶をしていいか、って聞いた時にね。今と全く同じ返答をしてやったの。そしたら、帝と同じような顔で『お、おぉ……』って」
「……いや、誰だってそんな反応になるって」
「そうかな。でもね、叔父さんは無茶して……結局、最後の最後には叔母さんのところに帰ってこれなかった。だから────」
まっすぐと、俺の目を覗き込むような目で。
「────帝は、帰ってきてほしいな。って」
その願いは切実だった。
もう家族を失いたくない、と。目が縋り付くように、俺を見つめている。
俺は別に死ぬほどの無茶をするわけじゃない。けど、心配をかけてしまったのは事実だ。
だから、俺は、ただ一言。
「ん、わかった。帰ってくるし……頑張ってみる」
◇◆◇
舞姫と一緒に登校。昨日と同じように戸を開き、クラスメートの視線を一斉に受ける。
「──────」
無論、その中にも剣持の視線はあった。笑顔を向けられた瞬間、思わず背筋に寒気が走った。正直逃げ出したい。笑顔がひきつる。
けど、覚悟は決まってるんだろう。なら逃げるな。やりきれないってのは、苦しいことだから。
「どうしたの、帝くん?お腹痛い?」
「ああ、いや。別にそんなことない」
否定しつつ、頭の中から恐怖を振り払う。
怖がるな。大丈夫、大丈夫。
呼吸がやっと落ち着いたところに、剣持がいつもの人当たりの良さそうな笑顔を浮かべて、歩み寄ってきた。
「どーしたのさ瑞樹クン。今朝は体調悪い?」
「んなことねーよ、むしろ元気」
ふんす、とサムズアップ。大丈夫。怖くない。
「そ?ならいーけど。転校して間もない頃からさー、病欠とか馴染めなくなっちゃうかんね?」
「わかってらい。俺はクラスに馴染むのに必死なんだから」
苦笑を浮かべながら、会話をぶった切るべく自分の席へ。剣持もこれで終わりか、と満足げに自分の席へ戻っていく。
騒がしい時間が数分流れて、鳴り響くチャイム。ほぼ同時に、教室の黒板側の戸が開いた。
「はいはい、席に座ってー。出席とりますよー」
教卓の後ろに先生が立つと、波が引くように教室が静まり返っていく。
────大丈夫。覚悟は、できてる。
平和を切り裂く一言。急に割り込んだ異分子として、この平和を────平穏を、日常を引き裂く覚悟なんてとうにできた。
確かに平和かもしれない。これが平穏かもしれない。ただしそれは、ひとりの犠牲の上に成り立ってる。
そんなのは許せない。だから、
「先生。このクラス、イジメがありますよね」
机を叩きながら立ち上がり、全員の耳に届かせるように、教室の壁に反射させるように、言い放った。
たぶんあと二話くらいで過去編は終わります。やったぜ。
後半ちょこっと書き足し。




