無題
ナイフを振り上げた。そしてそのまま振り下ろし、その途中で手を離した。慣性の法則に忠実に従ったナイフはまっすぐ飛んで表皮を貫き、内部を少し抉って止まった。引き抜いてみると、少量の液体が流れ出てきた。このまま放置したら虫が集まったりするのだろうか、とぼんやり思った。
先端部分を指で軽く拭った。その後、自分の手に突き刺そうとしたが、できなかった。
どうしても力を入れきることができない。自分を殺すことができるほど強くなんてないと痛感しながらまた投げた。今度は柄の部分がぶつかり、重力に引かれて地面に落ちた。
ナイフを拾い上げるとき、これをどこか貧しい国の子供に渡したらどうなるのだろうか、と考えた。当然、自分には誰かを刺す勇気なんてないけど、その子供は誰かを刺し、奪うのだろうか。それともうまく扱えず、無残にも返り討ちにあうのだろうか。恐らく自分なら、あるとしたら後者だろう。
拾い上げたナイフを両手でしっかりと握り、腰のあたりに構え、体重をかけて突き刺した。が、結果は無様なものだった。刃が深々と突き刺さるまで握ることができず、手だけが前に進んでしまっていた。しかもそのせいで指を切ってしまった。
左手の四本の指から流れ出る血を見て、何故だか少しだけ安心のようなものを感じた。
ぽとりぽとりと滴り落ち、地面に吸い込まれていく。人間の血液というのは肥料になるのだろうか?もっとも、害になるとしても益になるとしても、こんな少量では変化は起きないだろうが。
傷口を舌で拭っても拭っても溢れる血液はなかなか止まらない。どんな言い訳をしようと思いながら、傷ついていない右手でナイフを引き抜いた。一応今までで一番奥までは届いていたようで、木部がしっかりと見えた。今度は服を使ってしっかり拭き、ナイフをポケットにしまった。
平和だ。唐突にそう思った。静かでいて、それでいながら人が生活してる気配がある。
寂れた公園から外に出た。暗くなってるとはいえ、まだ人はいる。談笑しながら歩いてる子女、友人と思しき人と自転車で並走する青年。実に平々凡々な風景だ。こんな状況に溶け込めない自分は、ただただ害悪なのだろう。
ここでナイフを出したらどうなるだろうか。あそこの女性に突きつけてみたらどうなるだろうか。そんなことを考えるばかりで、行動はできないのだけども。
みんな平凡に生きて。平凡に人を愛して。平凡に夢を見て。平凡に自分を愛せて。平凡に笑って。
そんなことができない自分は、だから空想の世界が好きなのだろう。どこか違う場所に行きたくて。
自分はヒーローにはなれないし、平凡に生きることもできない。じゃあ、どうすればいいのだろうか?
そんなことを考えながら、帰途についた。