溶けゆく思いのドロップ
子どもの頃、僕は極度の人見知りで、いつも母の背中に隠れて、隠れる場所がないときは、誰もいない場所を探して、そうやって独りで過ごしていた。
ある日、僕が近所の公園の隅っこの方で、何をするわけでもなく立ち尽くしていると、一人の女の子が僕に話しかけてきた。
「いっしょにあそぼう?」
そう言って差しのべられた手に僕は戸惑ってしまい、何も言えず俯くことしかできなかった。すると、僕の視界に君の手のひらと、小さな赤い飴玉が入り込んできた。
「これ、あげる」
おそるおそる飴玉を受け取って、そっと口の中に入れた。甘酸っぱい感じと、何か優しい感じが、口の中いっぱいに広がった。
「……おいしい」
思わずそう呟いた。自然と笑みがこぼれた。それを見て女の子も笑った。まるで魔法みたいだった。
「わたし、サチっていうの。あなたのおなまえは?」
「……はるかわ、けんた」
「じゃあ、ケンちゃんだ!」
その瞬間、サチと名乗る女の子はまぶしいくらいの笑顔を見せた。
「いっしょにあそぼう、ケンちゃん!」
笑顔と共にもう一度差しのべられた手を、僕は離さないようにぎゅっと握った。
それから僕は、サチの背中を追いかけて過ごすようになった。
いつしか背が伸びて、僕らは並んで歩くようになった。
このまま、ずっと一緒に遊んでいたい――
そんな気持ちが、気づけば恋へと変わっていた。
◇◇◇◇◇
高校二年の二学期。僕はいつものように、サチの家の前で彼女が来るのを待っていた。待ち合わせのときは、毎回サチが遅れてくる。というより、いつも僕が早く着いてしまう。
僕とサチは小・中・高と同じ学校に通い、朝はいつも一緒に登校するのが二人の日課になっていた。
しばらく待つと、眠そうに目をこすりながらサチが出てきた。
「おはよー」
「おはよう」
お互いに軽く挨拶をして、二人並んで学校へ向かう。
少し歩いたところで、僕はポケットから飴玉を一つ取り出し、口の中に放り込んだ。
「あ、またその飴なめてるんだ」
隣を歩くサチが話しかけてくる。
「うん、まあね」
口の中を転がるのは、あの日僕に笑顔をくれたものと同じイチゴ味の飴玉。つい最近、高校の近くの駄菓子屋で売っているのを見つけてから、毎朝登校するときになめることにしていた。思い出を確かめるかのように、コロコロと。サチのことを好きになるにつれて、この飴玉のことも好きになっていった。
「いやー、毎日毎日よく飽きないね本当に」
ただ、サチは飴玉のことは覚えていないみたいだった。
しばらく歩くと学校に着いた。家からの距離で高校を選んだだけあって近いなと、今更ながら思った。
口の中の飴玉は、校門に差し掛かったところでちょうど溶けきった。
「あーあ、ケンちゃんと同じクラスだったら、毎日宿題写させてもらえたのになー」
「それは自分でやろうよ」
「はいはい。それじゃあまたねー」
手を振って別れ、それぞれの教室に向かう。一緒なのは、学校に行くときだけ。サチは委員会で放課後は忙しいから、帰りはいつも別々。
一度だけ、立ち止まってサチが行った方を振り返る。その姿は遠ざかるばかりで、僕の方を振り向くことはなかった。
◇◇◇◇◇
その日の放課後の帰り際、見知った後ろ姿を見つけた。
「あれ、サチ?」
「ん? あ、ケンちゃんだ」
声をかけると、昔と変わらないいつもの笑顔で応えてくれた。
「今日、委員会は?」
「今日はお休み。先輩が風邪で休んじゃってさー」
「そうなんだ。じゃあ、一緒に帰るか?」
「うん」
「ケンちゃんと喋ってると、首痛くなるから困るんだよねー」
しばらく歩くと、サチがいきなり文句を言ってきた。
「そうなの?」
「そうなの! 背が高いのと喋るの苦労するんだよ?」
僕とサチの身長差は、だいたい二十センチメートルくらいある。中学の三年間で、僕の身長があっという間に伸びてしまったからだ。
「昔は私と同じくらいだったくせに、生意気な」
「僕だって、いつまでも昔のままじゃないからな」
「むー」
本気で悔しそうにしているサチの姿が可笑しくて、つい笑ってしまった。
本当は、背が伸びていくのは嫌だった。何だかサチがどんどん遠ざかっていくみたいで、少し怖かったから。
いつまでも昔のままじゃない。僕も、そして、サチも。
このまま遠ざかってしまう前に、いつかこの気持ちを伝えなければならないだろうか。
僕は、君のことが――
「あ、そうだ!」
――突然のサチの大声に驚いて、思考の渦から引き戻される。
「ケンちゃん今日夕飯うちで食べていかない? 昨日の夕飯のカレーがまだ大量に残ってるからさー、まあカレーは寝かした方がおいしいって言うし、多分まだ食べられると思うんだよねー、うん、多分」
「……」
僕が何も反応できずに固まっていると、サチは頭にクエスチョンマークがつきそうな顔で首を傾げた。何故かそれが可笑しくて、僕はまた笑ってしまった。
「な、何よ……」
「あはは、ごめんごめん。それじゃあ、ご馳走になろうかな」
そうなんだ。
君の顔を見るだけで、少し言葉を交わすだけで、
嬉しくて、楽しくて。
『好きだ』なんて伝える暇がないんだ。
これはきっと、仕方がないことなんだ。
◇◇◇◇
次の日の朝、いつもの道を二人で歩いていると、後ろから声をかけられた。
「おはよう、秋元」
正しくは、声をかけられたのはサチだけだった。おそらくサチと同じ委員会の人だろうと思った。
「あ、先輩。おはようございます」
サチはかしこまって挨拶した。先輩と聞いたので、僕も軽く会釈をした。するとその先輩は、僕ら二人をまじまじと見つめて、
「二人はもしかして、付き合ってるの?」
と、唐突に尋ねてきた。
「あ、えっと、ちが――」
「そんなことないです! ありえないです!」
僕が答えるよりも先に、サチがものすごくむきになって否定した。まさかありえないとまで言われるとは思わなかったが。
「そ、そうなのか、悪い」
先輩はきまりが悪くなったのか黙り込んでしまい、辺りには気まずい空気が流れた。
「えーと、それじゃあ秋元、今日の委員会は四時からだからな。忘れずに来いよ」
その空気に耐えられなくなったのか、先輩はそう言い残して逃げるように先に学校に向かった。
二人になっても、しばらく気まずい時間は続いた。
「あー、えーと」
とにかく何か話さなければと思って、必死に言葉を探した。
「気にするなよ」
それが、出てきた最初の言葉だった。その言葉が、誰に向けられたものなのか、自分で言ったのに、わからなくなってしまった。
「……うん」
小さく頷いて答えるサチの視線は、先ほど走り去った背中をぼんやりと追いかけていた。
その時に感じた胸の痛みは、気づかないふりをした。
◇◇◇
次の日の朝、サチは何か考え事をしているようで、学校に着くまでほとんど会話をすることはなかった。
「何か悩んでるなら、力になるけど?」
一応そう言ってはみたが、サチは、
「大丈夫」
とだけ言って、困ったような顔で笑った。
◇◇
次の日の朝、サチはまた考え事をしていた。さすがにずっと会話がないのは耐えられないので、サチが興味を持ちそうな話題を探した。
「この前会った先輩、同じ委員会の人なのか? なんていうか、すごく優しそうな人だったな」
僕よりも少し背が低くて、サチよりも少し背が高い人だった。
「……ありがとう」
どうしてお礼を言われるのかは、なるべく考えないことにした。
「ねえ、ケンちゃん。もし私が――」
そこまで言いかけて、サチは急に俯いて黙ってしまった。
「どうしたの?」
と尋ねてみても、
「ううん、何でもない」
サチはまた、同じような顔で笑う。
◇◇
放課後、そろそろ帰ろうかと思って外に出ると、校舎の陰に、サチと、先輩の姿を見つけた。
一緒に帰ろうかと思って、声をかけようと一歩踏み出した、その時――
「好きです」
――風に乗って聞こえてきたのは、聞きなれた愛しい声。
その言葉は、僕が最も強く望んでいた言葉で。
でも、それを受け取るのは、僕じゃなくて。
瞬間、全ての音が周りから消えたように感じた。
視界に焼き付いたのは、赤。
夕焼けの色と、それよりも真っ赤に染まった二人の頬が印象的で。
今すぐにでも、その場を離れたくて。
気づかれないように、そっと逃げ出した。
誰もいない帰り道で、一人心の中で呟く。
知っていたよ。
ずっと見ていたから。
君が僕を見ていないことくらい、知っていたよ。
◇◇
「あのね、私、先輩と付き合うことになったの」
その日の夜、サチから僕に電話があった。
「そうなんだ……。おめでとう」
色々思うことはあったはずなのに、まずそれを伝えなければならない気がして、他の言葉はどこかへ消えた。
「それで、なんだけど……」
「どうした?」
――離れたくなくて、踏み出すのを躊躇っている間に――
「先輩、もうすぐ卒業しちゃうから、一緒にいられなくなるから、なるべく一緒にいたいって、そう思って……」
「うん」
――君は、あっという間に遠くへ行ってしまった――
「それで、明日からは、二人で待ち合わせして学校に行こうって、約束、したの」
「……うん」
――ああ、待ってほしい。僕は、ずっと、君のことが――
「だから、明日から……ケンちゃんと一緒に学校に行くのは、できない」
――――。
「……そっか」
溢れ出る気持ちをかみ殺して、素っ気ない返事をなんとか絞り出すことができた。
「でも、ケンちゃん、私は――」
「わかってるよ」
わかっている。君は優しいから、そうやって僕がまた独りになることを心配して、心を痛めている。
「僕は、大丈夫だから」
悲しいけれど、その気持ちだけでも嬉しいと思った。
直接でなく、電話で伝えてくれて、本当に助かった。
君は優しいから、今の僕の顔は、絶対に見せられない。
「……ありがとう」
微かにだけど、君が笑ったのがわかった。
顔は見えないけれど、何となくわかった。
そして、
「ごめんね」
っ―――-。
一瞬、その言葉になんと答えたらいいかわからなくなって、とりあえず適当に相槌を打って電話を切った。
不思議とその一言は、胸に刺さって痛かった。
◇
次の日の朝。いつもより遅い時間に家を出た。
いつもの通学路。いつもの風景。
違うのは、たった一人がいないだけ。
今日も飴玉をなめながら登校する。何となく、これを最後の一つにしようと思った。
今日は飴玉をなめ終える前に学校に着いてしまった。いつもよりも、歩くペースが速かったからだろう。
歩幅を合わせる相手も、いなかったから。
君の歩幅は、狭かったから。
少し先を歩く、見知った二人の男女の姿を見つけた。今までに見たこともないくらい、幸せそうな表情をしていた。
心の中をずっと転がっていた、甘酸っぱい気持ち。
吐き出さなければ消えてなくなるだけなのに、
いつまでも大事そうに、コロコロと。
あともう一歩踏み出すことができていたなら、
今も君の隣を歩けていたのだろうか。
いや、もしそうだったとしても、今は、
たとえ季節が巡って、もう一度君の隣を歩けたとしても、
もう君をそばに感じることはできないのだろう。
寂しいよ。君に出会う前より、ずっと
今までずっと追いかけてきた、愛しい背中。
その背中に追いつくことのないように、ゆっくりと歩きながら、残り少なくなった飴玉を噛み砕いた。
僕の中だけで小さく音をたてて、
甘い香りは終わりを告げた。