ソレ咲く少女の用心棒
「ねえ、私を食べる代わりに守ってよ」
幼い少女の言葉にソレはピクリとその頭をあげた。
けたましく蝉が愛を叫ぶ中、その少女と赤く毛深いソレは出会ったのだった。
季節は夏。一体、何の気まぐれだったのかソレはすっかり忘れてしまった。
覚えているのはその少女が強い力をもっていたことと、少女を襲っていたモノが非常に厄介でおいしかったことだ。
ソレはとにかく腹が減っていた。いつから腹をすかせていたのか、その猛烈な飢餓感に我を忘れて少女を襲っていたモノに喰らいついた。
少女が助けを求めていたことなんて、ソレは知らなかった。助けるつもりなんてなかった。ただ腹が減っていたから。
鋭い牙がモノに食い込み、噴き出された真っ黒な体液を啜りこむ幸せにソレはただ酔っていた。あまりにも夢中だったからソレの美しい赤い毛並みは斑に黒に染まった。
蝉の声と一緒にモノの断末魔が消え去ってもソレの腹はまだ飢餓感に呻いていた。
はらがへった。
その思考だけであたりを見渡し、ソレはやっと少女の存在に気がついたのだった。
少女は震えていた。そしてとてもおいしそうだった。
でもあまりにも小さすぎて喰いでがなさそうだとソレは山羊の角のついた頭をぐるりと回転させた。
はらがへったのだ。
他に食べるものがないかと頭を下げたとき、少女は云ったのだった。
「ねえ、私を食べる代わりに守ってよ。私もうすこし生きたいの」
なんの気まぐれだったのか、ソレはすっかり忘れてしまった。気だるげに細く長い四本の指で少女の小さい頭を押さえてソレは低く唸った。
『ならば、お前が咲き誇り、散りゆくその瞬間に喰ってやろう。それまでお前を餌にしてやってくる奴らを喰ってやろう』
たぶん、腹が減って判断力が失われていたのだ。何かを守るなんてこと、ソレは今まで一度もやったことなんてなかった。
「それで十分だわ」
少女は年より幾分大人びて答えたのだった。
少女のあとをのそのそついて回るようになったソレはすぐにたくさんの御馳走にありつけるようになった。
何しろ少女の力は強く、それに惹かれてやってくるモノのおいしいこと。ソレはすっかりはまってしまった。
赤かった毛並みはモノの体液で黒く染まり、それでもソレは喰うことをやめなかった。
喰って喰って喰いまくってソレの腹が少し膨れるようになったころ、幼かった少女は十代の終りにまで成長した。
「ねえ、食べてくれないの」
そのうち少女はそう聞くようになった。ソレは答えた。
『まだまだお前は咲き誇ってもいない』
ソレはまだ喰らい続けた。時には取っ組みあってやっと喰えるような御馳走が現れるようになってソレはご満悦だった。その時には女となった少女はソレについて心配するようになっていた。ソレがモノと取っ組みあいをして腹を膨らませると怪我はないか、悪いところはないかと聞くようになったのだ。
二十代も終りに近づいた女は言った。
「ねえ、食べてくれないの」
ソレは答える。
『まだまだ咲き誇るには早過ぎる』
やがて少女は少し年上の優しそうな男と結婚し、子供をもうけた。その子供も強い力をもっていたため、ソレの食事にはことかからなかった。
とてもおいしそうなものは減っていったが、量だけはあったため少しずつソレの腹は膨らんでいった。
四十代も過ぎた母親となった女は言った。
「ねえ、まだ食べないの」
『まだまだ散るには早すぎる』
ソレはそう言って女の小さな頭をなでた。
子供が成長し、十代の半ばになったころ、ソレは子供の傍をうろつくようになった。
子供の傍にいると食事がたくさんやってきたからだ。女の方にも来るには来たが、そのときにはすでにソレの存在は知れ渡っていたらしく、近づくと逃げてしまうのだ。
ソレが子供の傍にいるようになって安心したように六十になった女はソレに言った。
「ねえ、もう食べてもいいのよ」
『まだまだ、散るには早すぎる』
ソレはそういって白いものが目立つようになった女の髪を梳いた。
二十代もとっくにすぎた子供に言われて少しだけ食べるのを控え出したソレは最近飢餓感が薄れていることに気がついた。子供の子供を腕に抱き、幸せそうに笑う女はもうすでに九十の壁を乗り越えていた。
「ねえ、食べなさいよ」
『まだお前は花びらの一枚も落してはいない』
そうかしら、と笑った女はやがて百を超えることなく逝った。
最期の最後まで散ることなく逝った女は本当に散ってはいなかったのだろうか。ソレは考えた。食べどころを見間違えたことは今までなかった。ソレの目にはいつでも女は美しく咲き誇っていた。食べるのが惜しいほどに美しかった。
ああ、そうか。ソレは気がついた。
そして人間の美しい男のような顔からぽろぽろと涙をこぼした。
目から零れ落ちた涙は自身の赤い毛を濡らし、女の亡骸を濡らした。おいおいと泣くソレに女の子供も子供の子供も心配そうに近づいてきた。
それからソレの中から飢餓感はすっかりなくなり、女の一族をこっそり守っていったのだった。