一話
翌日の授業中、私は居眠りをしていた。短い夢を見た。
私は檻に囚われている。だけど、檻のままで私は道を進んでいた。すると、道の向こうから、昨日屋上で会った男子が私を見つめて、何かを言っていた。何を言っているのか聞き取れずにいて、目が覚めた。
机に伏せた顔を上げると、数学の授業は終わり、チャイムが鳴っていた。
黒板には、訳のわからない数字の羅列にしか見えない数式が、ぎっしりと書かれている。
授業から解放されたクラスメイト達がざわめき出して、廊下からは、バタバタと生徒が走る音が聴こえてきた。
今日は体がだるいし、眠い。なんだかここは息苦しい。私はふらふらと廊下を歩いて、階段に向かった。
気がつくと私は、屋上へのドアに手をかけていた。風の音が、分厚いドアの隙間から入り込んでくる。もうすぐ私は解放される。
空だけの世界に体を投げ出すあの感覚を味わおうと、ドアを開けた。
「あ....」
昨日と同じ所に、あの男子がいた。相変わらず風に吹かれながら、柵の前に立っていた。振り返ってこっちを見る。
「君...昨日の昼休みも来たね」初めて聞いた声は、想像していたものは少し違った。高めの、透き通るような声だった。
「ええ、あなたも」できれば屋上に来てまで人と会話なんてしたくなかったんだけど。
「よく来るの?立ち入り禁止だよ」なんだかふわふわするような喋り方をするやつだな。どこから声が出てるんだ。
「...ドアは開いてるし、あなたも来てますよね」
「別に敬語使わなくていいよ、僕、山田ジュンっていうんだ。君は?」ちょっと首をかしげた。
「.....愛」
「恋愛の愛?」
「はい...」なんでこんなに突っ込んで聞くんだろ。
「そっか、いい名前だね」あ、笑った。
「...ありがとうございます...」
「だから、敬語じゃなくていいって」彼は照れ臭そうに、また笑う。
私は返事をせずに、そっぽを向いていた。帰りたいが、帰るに帰れなくなってしまった。
しばらくの沈黙の後、ジュンと言った彼が口を開く。
「今日学校サボりたい人、この指とーまれ」元気よく言ったわけでも、指を高く掲げて言ったわけでもない。控えめに胸の高さに挙げられた指は、細かった。
「....え?」
「だから、今日学校サボりたくない?」とんでもないことをぬかすやつだと思った。
「僕さ、今日ライブに行くんだけど、チケットは二枚あるんだ。でも、友だちが一人もいないから一緒に行く人がいなくって困ってたの。君、一緒に行かない?」こいつに友だちがいない訳が少しだけわかる気がした。急すぎるだろう。
「.....行かない....」あまりにも呆れてそれしか言えなかった。
"ジュン"君はしばらく目を瞬かせたあと、こう言った。
「よし、決まりだね」
「え、ちょっと待って、何が決まったの今!行かないよ!?」
「いいじゃない、CO-LLONEのライブだよ?」え。
「え!?CO-LLONEって、あのCO-LLONE!?」
昨日もボーカルのみゆちゃんのブログを覗いたし、私の大好きなバンドだ。確か、地元での公演は今日で終わり。
「そう。行きたいでしょ」
「行きたいけど、でも、学校が...」
「だから、サボろうって言ったの」
正論に聞こえるかもしれないがそれはまやかしである。ライブに行くために学校をサボっていいわけがない。
「だ、だめだよ、サボるなんて....」
「そっか..チケット、無駄になっちゃったなあ...」ジュン君が少し大げさに、がっくりとうなだれる。うう。行きたい。
私は大いに葛藤していた。するとジュン君がこう言った。
「大丈夫だよ、一日羽根を伸ばすだけだって」
「だめだろ!」
電車の吊り革に掴まって、私はまだ考えていた。学校を自分からサボるのなんて初めてだ。別に真面目というわけじゃない、それが普通だし。
でも、学校が息苦しくて、たまにはいいかもしれないなんて、一瞬だけ思って、魔がさしてしまったんだ....
「緊張してるの?」横から、ジュン君が顔を覗き込んでくる。
「...大丈夫かな、ほんとに....」
「大丈夫だよ、別に悪いことしてるわけじゃないんだし」
「いや、十分悪いことだと思うんだけどコレ...」
「言ったじゃない、一日羽根を伸ばすだけだって。いつもいつも、窮屈なとこにいられないよ」
その声はとても優しく聴こえた。いい人なのか悪い人なのかわからないけど、なんか安心する。
「そっかな...」
「そうそう、それより、僕たちってもしかしてカップルに見えるかな」またとんでもないことをぬかすやつだ...。
「ソウカモネー」
「あれ、なんでそんな棒読みなの?ちょっとショックだなあ...」
「いや、いきなりで驚いただけ、ごめんごめん」二人の間に笑いが起こる。あ、なんか、久々にちょっと楽しいかも。
会場の文化会館のコンサートホールは、大にぎわいだった。
ジュン君にもらったチケットの座席を確認する。
「B-7..ここだね、ずいぶんいい席が取れたね」
「うん、ファンクラブに入ってるんだ」
「ふうん。でも、なんで二枚も買ったの?チケット」
「もう一枚はたまたま当たったの」
「へー、運いいね」
「うん」
「シャレ?」
「あはは」
席に座り、会場が暗くなるのを待つ。ああ、ドキドキするな。初めて生でみゆちゃんを見るんだ。
「愛ちゃんは、CO-LLONEで誰が好きなの?」
「私はみゆちゃん、ジュン君は?」
「僕は愛ちゃんが好きだな」
「え、あ、そうか、ベースの愛ちゃんね」ちょっとびっくりした。
「あ、暗くなった、始まるね!」
「うん」
暗い会場のざわめきがだんだん大きくなって、ステージのライトが強く光る。歓声が上がった。全員に配られたサイリウムが、ステージに向かって振られる。
眩い光と、体を震わす音に酔いながら、叫んだ。
隣のジュン君を見ると、ジュン君の眼鏡に色とりどりの光が反射して目が眩むようだった。
でも、私が見てるのも気づかず、ジュン君はステージでバックコーラスを歌いながらベースを弾く愛ちゃんに、夢中なようだった。
楽しい時間はあっという間に終わる。ライブが終わったあとは駅まで、会場から帰る人たちの波の中を、二人で色々なことを話しながら歩いた。
お金をあまり持っていなかったから、グッズを買えなかったのは残念だったけど、もらったサイリウムは、記念に取っておこうとジュン君は言っていた。
でも、駅前広場に着くと、私は、学校をサボったことを思い出して、気分が重くなった。
どうしよう。親に、なんて言い訳しよう。
「大丈夫だよ、素直に謝れば」私の気持ちを察して、ジュン君が声をかけてきた。
「うん...そっかな...」
「楽しかったね」
「...うん、そうだね。今日はありがとう、ジュン君」
「僕も、ありがとう」
ジュン君はライブ会場に家が近いらしく、駅前からバスに乗り、私は電車で家に帰った。
それでもやっぱり、家に帰るのがいつもより気が重かった。
ケータイの時計を見ると、20:38の表示。大きくため息を吐き、鍵を開けた。
ドアを閉める間に、母が玄関に走って来た。
「愛ちゃん!遅かったじゃない!学校からも連絡あったのよ、どこに行ってたの!?」母は私の肩を掴んで揺すった。
謝らなくちゃ。
「.....友だちと..遊びに行ってた....」
「え、どこに!?どこに行ってたの!?」母は半狂乱だ。
「...文化会館...ライブが..チケットあまったからって....」
「ライブ!?」
「そう......」
「だめじゃない!なんてことするの!!心配したのよ!?」
「ごめんなさい....」
「危ないことはしてないのよね?大丈夫なのよね?」母は私の色んな所を見ていた。
「うん、全然、大丈夫...」
「ああ!ならよかった!今度からこんなことしちゃだめよ?約束して!」母は安心したのか、鼻声になっていた。
「うん...約束する...」
なんだか私まで涙が出てきた。母とこんな風に真っ正面から話したのは久しぶりだ。
私のことを必死に心配してくれる母に、申し訳なくて、もうこんなことはしないようにしようと思った。
「ごめんね、お母さん...」
その晩、父が帰ってきて、母から私のことを聞くと、父はこう一言だけ言った。
「とうとう娘がぐれたのか、どいつもこいつも、勝手にしろ!」
そしてテレビを見ながら酒を飲んでいた。
私は酒が嫌いだ。
次の日の朝、いつも通り学校に着くと、ただちに体育館に全校生徒が集合するようにと、校内放送が流れた。
なんだろう、なんだろうねと生徒が体育館に集まった。
校長先生が壇上に上がった。そして、重々しく口を開く。
「おはようございます、今日は悲しいお知らせをしなければなりません。君たちのお友達の一人が、昨夜、亡くなりました」生徒がわっと騒ぎ出す。
「静かに、静かに!」校長先生の声に騒ぎは静まったが、あちこちから囁き合う声が聞こえてくる。
「亡くなられたのは、三年一組の、山田純君です。山田君は文芸部に所属し、物静かで優しい、よい生徒でした。山田君のために、一分間、黙祷!」
私は、本当に目の前が真っ暗になった。