序章
大人になるというのは、卑怯で頭の堅い臆病者になるということなんだろうか。なら、大人になんかなりたくない。ある朝、私はそう考えていた。
「愛、ごはん食べたら早く出なさい、遅れるよ!」朝の私の空想を、母が遮る。
「わかってるよ、行ってきまーす」
食器をシンクに下げて、スクールカバンを肩にかけると、いつもと同じように、のんびりと家を出た。
私が生まれた街は、なんてことのない地方都市だった。
父と母と私の、三人のマンション暮らし。
父は普通に会社に勤め、母はこれまた普通の主婦。
私は、どこにでもありそうな普通の高校に通っている。
そう、普通。便利な言葉だよ、普通って。どんなに普通に見えても、誰だって問題の一つぐらい抱えてるのに、笑うとこで笑っとけば、みんな気づかない。ああ、人間ってなんなんだろ。
そんな下らないことを考えていたら、学校に着いてしまった。
「あ、愛!はよー」向こうから、クラスメイトの女子が、声をかけてきた。
「あ、おはようー」
「今日体育じゃん?あたしジャージ忘れてきちゃったー」
「えー、じゃ、見学?」
「いや、ガッコの借りるー」
「そっかー」おめーのジャージ事情は知らねーよ。
そうは思っても、これも社交辞令。建前だけでも話を合わせる。高校になって、周りのレベルもちょっとは上がるかと思ったのに、ちっとも変わらない。
相変わらず下らない話に、下らない遊びばっか。むしろ、危ないことや、違法なことをやるようになってきたあたり、中学のときより始末が悪いかもしれない。まあ、頭の悪い奴らはほっとこう。私の知ったことか。
昼は食欲がわかないから、いつもジュースだけを飲んで、午後の授業に出る。午後に体育があった時、ちょっと貧血を起こして倒れたことがあった。それから私は、体が弱い人みたいに思われるようになったが、別にそういう訳じゃない。しょうがない、お腹がすかないんだから。
私は、昼はいつも屋上にいる。いつもの通りに、ジュースの紙パックを手に、階段を上がる。
屋上のドアの鍵はいつも開いてるけど、そのままじゃドアは開かない。コツがあって、ドアを持ち上げながら押すと開くのだ。
「いよっ...と」
いざ、空中庭園へ。
「あれ....?」
なんと、先客がいた。本当に屋上に昇る生徒は、現実ではめずらしい。
茶髪で、いかにも遊んでそうな男子が、柵を前にして向こうを向いている。
と、そいつが振り向く。初めて見る顔だ。眼鏡をかけて、宙に浮いたような視線で、こちらをちょっと見ただけで、また向こうに向き直った。
なんだ、貸し切りだと思ったのにな。だけど、別に誰がいたって構わないか。
あの男子からは見えない、ドアの向こう側の、ちょっとした段差に座る。ため息を吐いて、コーヒー牛乳のパックにストローを刺した。
すると、後ろでドアが閉まる音がした。あの男子は貸し切りじゃないと嫌だったのか、もしくはもう用が済んだのだろう。
私は、抜けるように青い空を見上げて、大きく伸びをした。
その後も、午後の授業は退屈だった。居眠りをしたり、特に仲がいいとも思ってない女子に絡まれたりして、やっと帰りの時間になった。
玄関を出て、広い校庭を通り抜ける。ふと、屋上を見上げると、昼に見た男子が柵の向こうに立っていた。
何をしてるんだと少しだけ見ていた。そいつもこちらが見ているのに気づいたらしい、目が合った。すると、そいつはそそくさと柵から離れていった。
「何あいつ...」
家に帰って自分の部屋に入って、愕然とした。
私のいない間に、母が掃除してしまったのだろう。きちんきちんとすべての物が整頓されていた。ありがたいことなのかもしれないけど、私は私で、それぞれ物を置く場所は決めてあるのだ。これじゃあどこに何があるかわからない。
掃除は自分ですると何度も言ってるのに、母はまるで聞いていなかったようだ。
ああもう。嫌になる。もう何か言うのも飽きた。ため息だけ吐いて、制服を着替える。
大体、母の家事だって気まぐれで、やらない時期は家がものすごい汚かったり、食事がオール弁当だったりするときもあるのだ。なんでこう始めるときちんとするんだろう、極端だろう。
コンコンとドアがノックされる。母だ。
「はーい、何?」
「愛、ごはんは?」母から聞いてくるということは、今日は食事を作ってあるということだ。
「まだいい」
「...わかった、でも早く食べちゃいなさいよ」
「はーい」
最近になって、本当に食欲はわかなくなった。でも、食べるときは食べるし、大丈夫だろう。
コンコンという音で目が覚めた。ということは、寝ていたことになる。
いつの間に..疲れてたんだな。
コンコン、コンコン。母がドアをノックしながら、私を呼んでいる。
「愛!いい加減にごはん食べなさい!もう9時よ!」
かなりご機嫌ななめな母の声に、私はベッドから起き上がる。
「今行くー」
「愛、さいきんあんまりご飯食べないじゃない、どうしたの?」
「別に、あんまり食欲ないだけ」
「そう...」
母は、いつもここから先には突っ込んで来ない。ここから先というか、めんどくさそうな領域から先へと、母が話題を広げることは、さいきん滅多にない。
前は、かなりうるさい母親だったような気がするけどな...。
「どうしたの?」困ったような顔をした母と目が合った。
「ううん、なんでもない」
私は、それ以上会話しないように、レトルトのハンバーグを頬張った。
これもだ。前は料理に手をかけていたのに、さいきんの母は、自分で作るときでもレトルト物が多い。
「ごちそうさま」
夕食の後は、私は部屋にこもる。もうすぐ父が帰ってくるからだ。
外の音が聴こえないように、音量を大きくして、iPodで音楽を聴く。しばらくして、父の怒鳴り声と、母の金切り声が聞こえてきた。私は音楽の音量を最大にする。
大音量のロックと、かすかに聴こえる両親の喧嘩の声が、耳に痛く刺さる。私の一番消えたくなる瞬間だ。
喉が渇いたのに、キッチンに水を飲みに行くこともできない。私は、二人に気づかれないように、シャワーだけをささっと浴びて、部屋に戻った。
静かになった夜中、私は布団に包まり、ケータイを開く。お気に入りのサイト巡りをするのだ。ほとんどが、好きなアイドルのブログである。
そのきらきらした言葉に胸を躍らせていると、つい夜更かしをしてしまう。ああ、至福。
「今日ライブに来て下さったみなさん、ありがとうございます、楽しんでもらえたかな?明日でこの○○市での公演は最後なので、気合い入れて頑張りますっ、はーと、か....あーコレ行きたかったなー...」
今日50回目くらいのため息を吐いて、私はケータイを閉じた。もう寝てしまおう。
私は布団を頭までかぶって、目を閉じた。