第3話:初めての「ありがとう」
職場である整形外科クリニックまでの道のりは、それ自体が高難易度のステージだった。
駅の雑踏を、人にぶつからないように進むだけでコントローラーを握る手は汗ばむ。揺れる電車の中で、吊り革を掴み損ねてよろけそうになる体を必死に立て直す。昨日までの俺なら、目を閉じていてもできたはずのその全てが、今は集中力を要する精密作業だった。
ほうほうの体でクリニックにたどり着くと、案の定、同僚たちからは奇異の目で見られた。
「相沢さん、二日酔い、ひどすぎません?」
「なんか今日の歩き方、ロボットみたいですよ」
俺は「いやー、ちょっとな」とヘラヘラ笑って誤魔化すしかない。魂だけの俺は、酔っているわけでもなければ、ふざけているわけでもないのだ。
白衣に着替え、午前の業務が始まる。無論、胸元のボタンは外れている。
リハビリ室の簡素なベッドに、一人目の予約患者がやってきた。その瞬間、ポケットの中のスマホが短く震え、新たなミッションが表示される。
【通常ミッション:担当患者の満足度を80以上にせよ】
俺は、モニターの隅に表示された「現在の所持ポイント:50P」という数字を睨みつけた。
(あと50ポイント……このミッションをクリアすれば、あの地獄の操作性から解放されるんだ……!)
だが、リハビリ室に入ってきた患者の顔を見て、俺の決意は早くも鈍い音を立てて砕かれた。
田中さん。御年七十二歳。
腰痛を訴え、週に三回通ってくる常連患者だが、同時に、スタッフの間では「一番関わりたくない患者」として有名なクレーマーでもあった。
「よう、相沢先生。今日も頼むよ。まあ、アンタにやってもらっても、気休めにもならんがね」
ベッドに横になるなり、田中さんは嫌味たっぷりにそう言った。
俺は、震える手で電気治療の機械を準備する。いつも通り、マニュアル通りの施術をこなせば、満足度は上がらずとも、下がることもないはずだ。
――そのはずだった。
コントローラーでの微細な操作が、俺の思考と絶望的にリンクしない。電極パッドを患者の背中に貼り付けようとするが、指先が滑り、冷たいパッドを何度も背中に落としてしまう。
「……おい」
田中さんの声に、苛立ちが混じり始める。
「す、すみません……」
なんとかパッドを貼り付け、次はマッサージに移る。だが、ここでも悲劇は起きた。
指の力加減が全く分からず、ただ肌の表面を弱々しくさするような、頼りない動きしかできない。これではマッサージというより、ただ撫でているだけだ。
そして、ついに田中さんの堪忍袋の緒が切れた。
「おい、アンタ! さっきから何やってんだ、ふざけてるのか!」
リハビリ室に、怒声が響き渡った。他の患者やスタッフの視線が、一斉にこちらに突き刺さる。
その瞬間、俺のスマホが追い打ちをかけるように震えた。
【患者の満足度が低下しました。 -30P】
現在の所持ポイント、20P。
スキル獲得が、絶望的に遠のいていく。このままでは、ポイントを稼ぐどころか、またマイナスに転落してしまう。
俺は、唇を強く噛みしめることしかできなかった。
まずい。このままではミッション失敗どころか、またマイナスポイントの泥沼に逆戻りだ。
焦りが脳を焼き、コントローラーを握る手が汗で滑る。
その時だった。
ふと、今朝の出来事が脳裏をよぎった。無理な体勢で棚に手を伸ばす美晴に、何気なく放った一言。あの時、俺は理学療法士として、ごく当たり前の指摘をしただけだった。だが、結果として200ポイントものボーナスを獲得できた。
(そうだ……俺には、この体と頭脳に叩き込まれた専門知識があるじゃないか)
俺は、コントローラーでの物理的な操作で評価を得ることを、いったん諦めた。
代わりに、目の前で不満を露わにしている田中さんを、一人の「攻略対象」として、冷静に観察・分析し始めた。
彼の普段の姿勢。リハビリ室に入ってくるときの歩き方の癖。痛みを訴えるときの表情と、無意識に庇っている体の部位。電子カルテに記録された、過去の施術への反応。
それら全ての情報を、俺の頭脳が猛スピードで統合していく。そして、一つの結論が導き出された。
この人の痛みの根本原因は、本人が訴える「腰」じゃない。長年の癖で歪んだ「足首」と、それによって可動域が極端に狭まった「股関節」だ。腰の痛みは、その歪みを庇った結果に過ぎない。
その結論に至った瞬間、俺の視界の端で、スマホの画面がひとりでに切り替わった。
モニターの中の、田中さんの頭上に、半透明のステータスウィンドウが表示される。
【対象:田中 一郎(72)】
【状態:不満(強)、ストレス(高)、痛み(腰)】
【根本原因:未特定 ⇒ 股関節及び足関節のアライメント不良】
まるでゲームの解析画面だ。俺は、自分の分析が核心を突いていることを確信した。
「田中さん、すみません。ちょっといつもと違うことを試させてもらってもいいですか」
俺は、おぼつかない手つきで、しかし明確な意図を持って、田中さんの足首に手を添えた。
「なんだ、腰が痛いって言ってんだぞ」
訝しむ田中さんを無視し、俺は分析結果に基づいて、硬くなった股関節のストレッチと、歪んだ足首の位置を調整する、ごく軽い運動療法を始めた。
数分後。
施術を終え、俺は田中さんにベッドからゆっくりと立ち上がるよう促した。彼はまだ不満げな顔をしながらも、体を起こし、リハビリ室の床に足をつけた。
そして、数歩、歩く。
その瞬間、田中さんの顔から、驚きで表情が抜け落ちた。
「……あれ? おい、なんか……いつもより、ずっと楽だぞ」
彼は、確かめるように何度も屈伸をしたり、腰をひねったりしている。その動きは、先ほどまでとは比べ物にならないほど滑らかだった。
やがて、田中さんは俺の方を向き、初めて素直な声で、少し照れくさそうに呟いた。
「……ありがとうよ」
その言葉が、トリガーだった。
スマホが、祝福のファンファーレのように、立て続けにボーナス通知を知らせる。
【患者の満足度が100に到達しました! +150P】
【ボーナス:根本原因の特定に成功! +100P】
現在の所持ポイント、270P。
俺は、胸に込み上げてくる歓喜のままにスキルショップを開き、迷うことなく、一番上にあったスキルをタップした。
【[歩行安定 Lv.1]を購入しますか? YES / NO】
【YES】
スキルが有効になった、その瞬間。
モニターに映る視界の、微妙なぐらつきがピタリと安定した。まるで、手ブレ補正機能がMAXになったかのように。
俺は試しに、モニターの中の「俺」に歩かせてみる。
一歩。
今までとは比べ物にならないほど、スムーズで、安定した、力強い一歩だった。
世界が変わって見えた。
初めて、この理不尽なクソゲーを「攻略してやる」という、前向きで、攻撃的な気持ちが、俺の心に芽生えた。




