第1話:人生とかいうクソゲーが始まった
意識が浮上する。
最初に感じたのは、奇妙なほどの思考の明晰さだった。二日酔い特有の頭痛も、階段から落ちた衝撃も、どこにもない。むしろ、ここ数年で最も頭が冴えわたっていると言ってもよかった。
体を起こそうとして、俺は奇妙な違和感に気づいた。
軽い。
まるで自分の体ではないかのような、妙な浮遊感。体重という概念が希薄になったような、頼りない感覚だ。
ゆっくりと周囲を見渡す。
真っ白で、無機質な天井。病院のベッドではない。簡素なベッドとデスク、PCが置かれただけの殺風景な空間。窓はなく、どこかネットカフェの個室を思わせる閉塞感があった。
「ここは、どこだ……?」
混乱する頭で、昨夜の出来事を反芻する。階段から落ちたはずの自分の体を見下ろすが、怪我一つないどころか、着ている服すら汚れていなかった。
部屋の隅に、場違いに掛けられたカレンダーが目に入る。デジタル表示の日付は、【2024年1月11日】。俺が意識を失った、あの日付のままだった。
まさか、夢か。
そう思い、部屋の唯一のドアに手をかける。だが、鍵がかかっているのか、ドアはびくともしない。完全に閉じ込められている。その事実が、これが夢ではないと冷ややかに告げていた。
逃げ場のない焦燥感に駆られ、俺は部屋にある唯一の情報源であろうデスクへと向かった。
スリープ状態のPCモニター。見たことのない機種のスマホ。そして、その隣には、俺の人生を蝕んできた元凶のひとつによく似た、家庭用ゲーム機のコントローラーが鎮座していた。
手に取ると妙にしっくりとくる感触。十字キー、2本のスティック、□△○☓の4つのスイッチ。
「これは、あのコントローラーだな。間違いない」
俺がデスクの前に立った瞬間、まるでセンサーが反応したかのように、モニターが自動でスリープから復帰した。
そこに映し出された光景に、俺は息を呑んだ。
そこは、見慣れた我が家の寝室だった。朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。
そして、ベッドの上で眠っているのは、紛れもない「俺自身」だった。だらしなく口を開け、低いいびきをかいている、三十五歳の俺の肉体。
それは、まるで防犯カメラのライブ映像のようであり、同時に、これから始まるゲームの「キャラクター選択画面」のようにも見えた。
「俺、あんなにブサイクだったかな。腹もちょっと出てるし。あんまり自分の寝顔って見たくないもんだな」
違う違う。そんなこと言ってる場合じゃない。
「おい!起きろ!」
モニターの中の俺に向かって叫ぶ。だが、声は狭い個室に虚しく響くだけで、画面の中の俺はピクリとも動かない。
何がどうなっているんだ。
訳が分からないまま、俺は吸い寄せられるように、手元にあるコントローラーを手に取った。ひんやりとしたプラスチックの感触が、やけにリアルだった。
半信半疑のまま、ゆっくりと、左のアナログスティックを傾けてみる。
――その瞬間、俺は自分の目を疑った。
モニターの中で眠っていた「俺」の右腕が、ぐにゃり、と人間には不可能な角度に関節を軋ませながら持ち上がったのだ。
「うわっ!」
驚きのあまり、思わずコントローラーを手から滑り落とす。コントローラーが床に落ちる乾いた音と同時に、モニターの中の俺の腕もまた、だらんと力なくベッドに落ちた。
間違いない。
俺は今、このコントローラーで、モニターの向こうにいる「俺」を操作したのだ。
俺が状況を飲み込めずにいると、不意に、デスクの上に置かれていたスマートフォンが音もなく起動した。画面にテキストが浮かび上がり、平坦な合成音声が、この非現実的な部屋の静寂を破った。
『おはようございます、プレイヤー:相沢悟』
「……誰だ、お前は」
俺の問いには答えず、スマホは淡々と情報を表示し続ける。
『あなたは現在、【魂】状態で、当施設のリブート・ルームに保護されています』
『あなたの肉体は、現在、ご自宅のベッドにあります。接続は安定していますのでご安心を』
『お手元のコントローラーで、あなたの肉体を遠隔操作することが可能です』
「どういうことだ! 説明しろ! 俺はいつになったらここから出られるんだ!」
俺は、まるで人がいるかのようにスマホに向かって叫んだ。だが、返ってくるのは、感情の温度を一切含まない、プログラムされた音声だけだった。
『当施設からの退出、すなわち、あなたの魂が肉体へ帰還するための条件は一つです』
『【1億ポイント】を獲得してください。期限は本日より1年間とします』
『ポイントは、【家族の幸福度】【仕事の成果】【身体の健康度】など、あなたの現実世界における行動によって増減します。詳細はヘルプメニューをご参照ください』
スマホの画面が、ヘルプメニューらしきアイコンを表示する。
『それでは、健闘を祈ります』
一方的に通信を終えようとするAIに、俺は「待て!」と叫んだ。だが、その声が届くことはなかった。
その瞬間だった。
モニターの中の寝室のドアが、静かに開いた。入ってきたのは、妻の美晴だった。
彼女は、ベッドで眠る俺(の肉体)を一瞥すると、軽蔑と諦めがない交ぜになった、冷え切った表情を浮かべた。
「……まだ寝てる。最低」
その小さな呟きが、まるで高性能なマイクで拾われているかのように、このネカフェ部屋の俺の耳に、はっきりと突き刺さった。
直後、手元のスマホが短く震え、非情な通知を表示する。
【イベント発生:妻からの信頼度が低下しました。 -100P】
【現在の所持ポイント: -100P】
開始早々、いきなりのマイナスポイント。俺は愕然とした。
いやいや何もしていない、ただ寝ていただけなのに。むちゃくちゃやん。
いや、違う。この状況では、「何もしないこと」すらもペナルティの対象なのだ。
モニターの中では、美晴が俺の体を乱暴に揺さぶっていた。
「あなた! いつまで寝てるの! 今日は娘の保育園、どうするつもり!?」
怒りに満ちた声。その声に反応するように、スマホに新たな通知がポップアップした。
【チュートリアルミッション:『いつも通りの朝を演じろ』】
【内容:AM 8:30までに、家族に怪しまれず出勤準備を完了させろ】
【成功報酬:+500P】
【失敗ペナルティ:-1,000P】
成功すれば500ポイント。失敗すれば1000のマイナス。理不尽なレートだった。
だが、選択の余地はない。俺は、震える手で、床に落としたコントローラーを拾い上げた。ひんやりとしたプラスチックの感触が、これが現実なのだと告げていた。
モニターの中の「俺」を起こし、この絶望的な状況を乗り切るために。
「人生……とかいう、クソゲーが始まった……」
呟きは誰に聞かれることもなく、狭い部屋に溶けて消えた。




