プロローグ:【0日目】
午前七時。ありふれた平日の朝が、鉛色の空気と共にリビングに満ちていた。
ソファに深く身を沈めた俺、相沢悟、三十五歳は、液晶画面の向こう側で繰り広げられる英雄たちの戦いに、現実逃避という名の安らぎを見出していた。
スマートフォンの画面が、けたたましいファンファーレと共に『ログインボーナス獲得!』の文字を映し出す。今日という一日で、俺が最初に手にした達成感だった。
キッチンからは、まな板を叩く乾いた音だけが聞こえてくる。妻の美晴が、無言で五歳になる娘の弁当を作っているのだ。
今日は週に1度のお弁当の日らしい。
かつては笑い声の絶えなかったこの空間に、今は会話どころか、互いの息遣いすら憚られるような冷え切った静寂が横たわっていた。
視線を上げると、壁に飾られた一枚の写真が目に入る。13年前、理学療法士の国家資格証を手に、未来への希望で目を輝かせていた俺の姿。
患者の痛みを取り除き、その手で再び立ち上がらせる。そんな、教科書に載っているような理想を信じて疑わなかった頃の自分が、そこにいた。
(――あの頃は、もっとデカい夢があったはずだった)
自嘲的な独り言が、胸の内で音もなく響く。
――それが、どうだ。
今は街の整形外科クリニックに勤める、ただの理学療法士。毎日毎日、同じような腰痛と肩こりを揉みほぐし、流れ作業のようにカルテと書類を処理する日々。俺が本当にやりたかったのは、こんなことだったか……?
自嘲的な独り言が、胸の内で音もなく響く。
理想と現実の距離は、この狭いリビングの端から端よりも、ずっと遠かった。
「今日、あなたが保育園のお迎え当番だから」
背後から投げつけられた声は、氷のように冷たかった。
「絶対に忘れないでよ。…まあ、どうせまた飲みに行ったりして、忘れるんでしょうけど」
トゲを含んだ言葉。俺はスマホの画面から目を離さずに、ただ「わかってるよ」と気のない返事を返す。美晴が深く、静かにため息をついた気配だけが、背中に突き刺さった。
やがて、玄関のドアを開ける。
「行ってきます」
その声に、返事はなかった。
リビングの入り口で、小さな娘がどこか寂しげな瞳で俺の背中を見送っていたことに、気づかないふりをして。
***
昼休み。
俺の職場である整形外科クリニックの、狭いスタッフルーム。
パソコンのモニターには、午後の予約患者がびっしりと並んでいる。電子カルテを開けば、午前中さばいた患者のカルテや、月末に必要な書類が、うんざりするほど俺を待ち構えていた。クリックとタイピングの繰り返し。その単純作業が、かつて抱いたはずの情熱を少しずつ削り取っていく。
昼食もそこそこに、俺はデスクの下に隠したスマホに救いを求めた。
指先一つで起動するファンタジーの世界。デイリークエストをこなし、キャラクターを強化していく。
単純な作業の繰り返しが、現実で失われた万能感を満たしてくれた。
ここには、理不尽なクレームも、終わりのない事務処理もない。努力は必ず報われ、成果は数値となって明確に示される。
「相沢さん、また顔色悪いですよ。ちゃんと寝てます?」
年下の同僚が、気の毒そうに声をかけてきた。
昨夜も明け方までイベント攻略に熱中していたとは言えず、「大丈夫だ」と曖昧に笑って誤魔化す。
その時だった。
「あ、そうだ。今日、仕事終わりに飲みに行きません? みんなでパーッとやりましょうよ!」
悪魔の誘い、いや、神の救いか。同僚の屈託のない笑顔が、澱んだ俺の心に染みた。
ポケットの中で、スマートフォンが短く震える。画面に表示されたのは、妻からの『18時 お迎え』という無機質なメッセージの通知。
一瞬、ほんの一瞬だけ、保育園でぽつんと迎えを待つ娘の姿が脳裏をよぎった。
だが、その罪悪感を振り払うように、俺は通知の表示を指でスワイプして消した。
そう、まるで自分の責任を消し去るかのように。
「……ああ、行くか」
声は、自分でも驚くほど、簡単に出た。
***
ネオンの光が、降り始めた雨で滲んでいる。
安物のチェーン居酒屋は、俺のような現実から目を逸らしたい人間たちの、行きつけの避難所だった。
ジョッキの縁を叩く氷の音、隣の席の甲高い笑い声、そして、テーブルの上で湯気を立てる揚げ物の匂い。
その全てが、家庭の冷え切った静寂から俺を遠ざけてくれる。
ポケットの中で、スマートフォンが執拗に震え続けていた。画面が点灯するたびに、そこには「美晴」の二文字が浮かび上がる。俺はそれを一瞥すると、マナーモードに切り替え、ポケットの奥底へと押し込んだ。
まるで、そうすれば自分の責任まで消し去れるとでも言うように。
(これでいいんだ。俺だって息抜きくらい必要だろう)
アルコールが思考を麻痺させ、都合のいい言い訳を次から次へと言語化していく。
(美晴なら、どうせ最後はなんとかする。いつものことだ)
そうだ、いつものことだ。俺が失敗するたび、彼女は呆れた顔をしながらも、結局は尻拭いをしてくれていた。その優しさに、俺はいつから胡坐をかくようになってしまったのだろう。
酔いが回るにつれて、俺の口は軽くなった。
「俺が昔いた病院ではさあ……」
誰も興味のない過去の栄光を、何度も擦り切れたレコードのように繰り返す。
同僚たちは、生返事と共に愛想笑いを浮かべていた。彼らの目に、俺がどんな風に映っているのか。それを考えるのが怖かった。
会計を済ませ、店の外に出る。生ぬるい夜風が火照った顔を撫でた。同僚たちと別れ、一人になった瞬間、強烈な自己嫌悪が胃液のようにせり上がってくる。
その感情を振り払うように、俺はコンビニの自動ドアをくぐり、追い打ちをかけるための缶チューハイを手に取った。
「明日だ……」
誰にともなく、呪文のように呟く。
「明日からちゃんとすれば、まだ間に合う……」
自宅へ向かう道すがら、古びた雑居ビルの外階段に、吸い寄せられるように足が向いた。雨に濡れたコンクリートの冷たさが、薄汚れたスラックス越しに伝わってくる。錆びた鉄の匂いがした。
ここで、最後の一本を空けてから帰ろう。そうすれば、きっと今夜の罪悪感も眠りと共に消えてなくなるはずだ。
最後の一口を煽り、空き缶を無造作に脇へ置く。そして、ポケットの奥底に押し込めていたスマ歩を取り出した。
画面を開いた瞬間、息が止まった。
不在着信が30件以上。その全てが、美晴からだった。
そして、LINEに一件だけ灯る、新着メッセージの通知。
震える指で、それをタップする。
『もう、あなたに期待するのはやめました』
たった一行。そこに、怒りや悲しみといった感情はなかった。ただ、全てを諦めきった人間が発する、完全な無関心だけが記されていた。
その文字列を見た瞬間、アルコールで濁っていた脳が急速に覚醒し、絶望的な現実が容赦なく俺を殴りつけた。何かが、プツリと切れる音がした。
俺は何かを叫びながら、ふらつきながら、衝動的に立ち上がろうとした。
――その時だった。
雨で濡れた階段が、俺の体重を拒絶した。足が滑り、体はバランスを失い、視界が大きく傾く。世界が、まるでスローモーションのようにゆっくりと流れていく。後頭部に迫る、コンクリートの硬い感触。
ああ、俺の人生は、こんな風に終わるのか。
どこか他人事のように、そう思った。
強烈な衝撃。
急速に遠のいていく意識の淵で、しかし、それは聞こえた。
自分の思考ではない、無機質で、冷徹なシステム音声のようなものが、脳内に直接響き渡った。
【――対象の生命活動の低下を確認。生存本能に基づき、緊急介入プログラムを起動します】
【スキル:『魂のコントローラー』を付与します――】
――そして、彼の世界は、完全に暗転する。




