婚約は潮風にうつろいで
港町リュサンの朝は、潮の匂いとともに始まる。
夜明け前から沖に漁船が出て行き、波止場では荷車を引く男たちの掛け声が飛び交う。屋根に止まるカモメの鳴き声すら、この町の目覚まし時計のようなもの。
セレスは父、グランディ辺境伯が運営する造船所に向かっていた。
令嬢らしからぬ、油で汚れても構わない粗末なドレス。手には昼食の黒パンと塩漬け魚が入った革袋。ブロンドの髪を潮風になびかせ、石畳を元気よく駆けていく。
造船所は浜辺に面した大きな倉庫で、木材の香りと鉄の匂いが入り混じる。斧の音、木槌の音、鋸の音が絶え間なく響く。
到着するやいなや、セレスは髪をさっと布でまとめ、作業に取り掛かった。
「いようっ、セレス嬢。今日も手伝うのかい。おれたちゃ大助かりだが……いいかげん、嫁入り前の令嬢がする仕事じゃねえぞ」
古株の職人が、皺の深い笑顔で迎える。
「だって私のほうが上手いんだもの」
セレスはにこやかに応じながら、鮮やかに手を動かしていく。釘を打ち、木材を削り、油を差す。幼い頃から父や職人たちに混ざって仕事に触れてきた彼女にとって、それは呼吸のように自然な作業だった。
ただ、最近は港のうわさ好きたちの囁く言葉が耳につき、どうにも落ち着かない。
”セレスが王都の名門、エルダー侯爵家の三男と婚約したらしい”
父から王の勅命だと聞いたときは愕然とした。けれど覚悟はしていた。婚姻に本人の意思など関係ない。辺境の町が王都と縁を結ぶための、ただの形式にすぎない。それは理解している。
それでも、町の人々は彼女の身に起きる浮いた話を面白がる。今日もまた、造船所に顔を出した出入り業者が、軽口を叩いてきた。
「いよぉセレス、聞いたぜ。男勝りなお前もついに立派な淑女、ってか」
「よしてよっ、こんな油まみれの女に」
肩をすくめ、心の中でため息をつく。
(田舎の令嬢と王都の貴族なんて釣り合わない……こんな婚約、いっそのこと破棄されればいいのに)
そんなある日。父親からエリアス・エルダーが港の視察にやってくるという話を聞く。
ついにご対面となる婚約者。実感も心づもりもないまま迎えた当日、造船所の入口にひときわ目立つ一行が現れた。騎士たちを従え、先頭の男が潮風に白いマントを翻している。
(あの人が……婚約者)
工具を置き、頭巾を取るセレス。敢えて作業着のまま彼を迎えた。
背が高く、銀灰の髪に整った顔立ち。見惚れずにはいられない美丈夫だが、しかし───
「貴女がセレス嬢だな。此度は、リュサン港の防衛視察に参った。町の案内をしてくれる辺境伯から聞いて来たのだが……随分と〝汚い〟な」
「なん……っ」
その場の空気が一瞬で凍りついた。作業の手を止めた職人たちは顔を見合わせ、出入りの業者も苦笑すらできずにいる。まさかの罵倒。初対面の婚約者から放たれた言葉が、釘より鋭く胸に突き刺さった。
「さ、左様でございますか。遠路はるばる、ご苦労様です。不躾ながら辺境の田舎者ゆえ、汚れまみれなのをお許しくださいませっ」
セレスは顔が赤くなりながらも、必死で取り繕った。職人たちも、相手が貴族でなければセレスをかばって一斉に噛みつくところ。しかしエリアスは飄々と何も思わぬさまで、眉ひとつ動かさない。
婚約者だとか、恥をかかされたなどではなく。セレスはそんなことよりも、仕事への矜持をバカにされたことが腹立たしかった。
(なんなの、初対面で〝汚い〟なんて。ここは職人の仕事場。当たり前じゃないっ。そんなこともわからないなんて、王都の貴族はっ……)
この場の誰一人として察せなかったが、エリアスは内心、セレスの様子に感心しきっていた。
(領主の娘が汚れなどお構いなしに働くとは……着飾ることと人のうわさ話にしか興味がない王都の令嬢たちに、是非とも見習ってほしいものだ)
一人うんうんと頷き納得するエリアスをよそに、場の険悪な空気は加速していく。そこへ、快活な声が割って入った。
「おーい、セレスっ」
現れたのは、幼なじみのリオン。日に焼けた褐色の肌に乱れた黒髪。漁師そのものの姿で、セレスの緊張を一瞬でほぐす。
「なんか伯爵から、王都のお偉いさんが視察に来たのを手伝えって言われてさ。この人らがそうか」
「貴様、無礼だぞっ」
「よせ」
いきり立つ部下を制するエリアス。普段から貴族に物怖じしないリオンの存在に、セレスは心を和ませた。
「リオン、この前また馬鹿力で網を破ったんですって。エドモンさんずっと怒ってたわ」
「いやあ~思いのほか大物がかかってよぉ。ガっとやったらバリってなっちまった」
「またそんな説明の仕方をする」
気安い会話に笑みを交わす二人。その様子を見て、エリアスの瞳にわずかな影が差す。しかし表には出さず、冷たく告げる。
「セレス嬢、いつでも話が出来る男など放って、先にこちらを気遣うべなのでは」
(友人か……気さくなのはよいが、公務で来た貴族を優先すべきなのでは)
セレスはリオンを盾に〝意識して〟無礼を演じてみせたが……さらなる傲慢な物言いに、もはや取り繕う気もなかった。
「重ねて失礼をいたしました。では〝汚れ〟を整えて参りますので、少しお待ちくださいませ」
油と木くずにまみれた衣装でカーテシーを決め、造船所の奥へ向かうセレス。なぜかリオンもひょこひょことついていく。
「急ぐんだろ。着替えを手伝ってやろうか」
「バカ。そこから海に突き落とされたいの」
「お~こわっ」
仲良さげな二人の背中を見送るエリアス。
(どうやら〝また〟怒らせてしまったようだが……うまくいかないな)
眉を下げ、静かに嘆息した。
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造船所から少し離れ、セレスはエリアスと、そして当然のように付いて来たリオンと共に、視察の大きな目的である埠頭へと歩いていた。騎士団の一行も後方に控え、物々しい空気が漂う。
(大げさなのは仕方ないとして……ほんとにこの人、仕事だけで来てるんだわ)
自分の好きな色である淡いブルーのドレスに着替えたセレス。曲がりなりにも、相手は婚約者。極薄の期待も込めたが、結果としてそんな洒落っ気を気遣う言葉は一つもなく、エリアスは黙々と職務に忠実なさまで歩を進める。
剣のようにすらりと伸びた背筋。昼下がりの陽光に、銀灰の髪と港の水面が一緒にきらめく。セレスはそれをとてもまぶしく思ったが、すぐに嫌味としか取れなくなった。
埠頭に着き一望するなり、エリアスは感嘆の声を上げた。
「これは……すごい。まさに奇跡だ」
『リュサンの奇跡』と呼ばれる埠頭には、壮観なまでに大型船舶が数隻も並んでいる。普通なら沖合いに停め小舟で荷揚げするしかない大型船が、陸地でここまで間近に観られる。巨大な岩礁により波を防ぎ、深い水深を作り出す、まさに天然の良港であった。
(あれ。そういう顔も出来るんだ……)
先ほどの鉄面皮とは裏腹に、まるで少年のように目を輝かせるエリアス。セレスはほんの少し興味深く思うも、つい意地悪く感想を訊いてしまった。
「この辺境が潤ってる大きな理由、一目瞭然でしょう。ご視察に適いましたでしょうか、騎士様」
「ああ。ずっと楽しみにして来たんだ。職務で言うのは不謹慎だが」
「……ぷっ。〝不謹慎〟って何よ」
セレスは思わず吹き出す。単に言葉を知らないだけなのではと微かに思い始めたが、まだまだ帳消しには程遠い。
そんな揺れ動く気持ちを、リオンは見透かすようにして、ニヤリと笑った。
「お、セレス、いつもの調子が戻ってるじゃねえか」
「何よそれ。私はいつも通りじゃない」
「いや、さっきまでずっと騎士様へバカ丁寧にしながら当たり散らしてたぜ」
「あたっ……当たってなんかいないからっ」
エリアスは、二人の軽口に入り込む隙もなく、無言で歩を進める。胸にもどかしさを秘めつつ。
(どうしてこんな風に気さくにできないんだ俺は。やっと会えたというのに……)
───二年前の王都。
現王の名を冠した大型船の進水式にて。その造船技術の提供で招待されていた辺境伯である父親に伴って来ていたセレスに、エリアスはひと目ぼれだった。
父と並んで船体を指差し、楽し気に笑うブロンドの令嬢。その明るく凛とした佇まいがずっと忘れられなかった。
その後、セレスが未だ誰とも婚約をしていないことを知るやいなや、エリアスは彼女との縁を誰にも奪われまいと、王に直談判をしてまで外堀を埋めにかかった。
”あの堅物『銀灰の貴公子』が、とある令嬢に入れ込んでいる”
実直で信頼を積み重ねてきた彼に周囲は好意的で協力的だった……が、いかんせん。王都を歩けば黄色い声援が飛び交う美丈夫は、妙齢の女性とまともに話もできず、何なら怒らせてしまう。ただの朴念仁だった。
そんなエリアスの胸の内など露知らず。セレスが船荷の経路などを案内しようと船のひとつに寄ったその時、甲高い怒声が響いた。
「おいっ、船に近づくんじゃねえっ」
別の船から水夫が必死の形相で飛び降りてくる。次の瞬間。水面が激しく隆起したかと思うと、一本角を突き出した海獣が船腹に体当たりした。厚い板を裂く轟音。木片が飛び散り、船体がぐらりとセレスのほうへ傾いた。
「きゃあっ」
「セレス嬢っ」
咄嗟にセレスをかばうエリアス。マントに木片と水しぶきがかかる。
「ツノシャチだっ、まずいぞっ」
船腹などものともしない硬い角を持つ海の荒くれものだが、埠頭近くまで入り込むことなど滅多にない。場が一気に騒然とする中、エリアスが騎士たちに大声で命じた。
「漁師もみんな退避させろっ、急げっ」
そう叫ぶなり、エリアスはセレスを両腕で力強く抱きかかえた。
「ひゃっ」
「失礼するっ」
セレスの重さなどものともせず、港のほうへと走りだす。胸板越しに伝わる熱と力強さ。自分が確かに守られていると感じる。セレスはふとエリアスの横顔を見た。
(これが……本当の騎士の顔)
「ここを動くな。すぐに終わらせる」
安全な場所までくると、エリアスは近くに居た漁師から銛を借り受ける。そしてすぐさま先ほどの大型船の甲板へ駆け上がった。
騎士としての、迷いなき姿。ただ町を、人を守ろうとする。セレスは尊敬を想いつつも不安にかられ、ドレスの心臓の上あたりをきゅっと掴んだ。
海面を見下ろしながら銛を構えた右腕にギリギリと力を込めるエリアス。再び海面から大きな水しぶき。その瞬間、ツノシャチの黒い頭が見えた。
「はぁっ!」
唸りを上げて放たれた銛はツノシャチの左目に命中。同時に彼方で湧き上がる観衆の歓喜。しかし、ツノシャチがのたうつに合わせ船が激しく軋み、エリアスの身体は海面へと投げ出された。
「いやあ───っ」
無心で駆けだそうとしたセレスの腕を、リオンが掴んだ。
「落ち着けっ。お前が行ってもどうにもならねえっ」
「でもっ」
「見ろ、さすがの騎士だぜ」
ツノシャチはそのまま沖向こうへと逃げていく。漁師たちが次々に海へと飛び込むと、投げられた綱をつかみ、漁師たちに介添えされ、エリアスは無事な姿を見せた。
「ああ……」
ずぶ濡れの彼を見て安心し、へなへなと座り込むセレス。目に熱いものがにじんだ。
~~~~~~~~~~
「───それにしても騎士様は大したお人だな。しかし王都から来た都会者に後れを取ったとあっちゃあ、おれたちリュサンの漁師も形無しだぜ」
「とにかく、ありがとうよっ。さ、英雄さん、どんどん飲んでくれっ」
夕暮れ。焚火を囲んで酒に魚と盛り上がる漁師たち。その中心でエリアスは、今日の活躍ぶりを皆から讃えられていた。
庶民の服に着替え、笑いながら皆と気さくに接する屈託の無い姿。焚火に紅く染まる銀灰の髪。そんな彼を、セレスは遠巻きに見ている。冷たい、無愛想。そう思って突っぱねてきた相手。それが今にしてやっと、自分の先走りだったのではと思い始めた。
(最初から落ち着いて知ろうとしていれば……わたしも訊きたい。もっと、彼のことを)
婚約なんて破棄されればいいのにと、投げやりだった朝の自分が遠く感じる。婚約という言葉が、少しだけ……背負う重荷ではなく開くべき扉のように思えてきた。
しかしなかなか一歩を踏み出せずにいる。リオンはそんなセレスの〝らしくなさ〟を見かね、そっと横に立ち、声をかけた。
「いいヤツじゃねえか、〝婚約者様〟は」
「……知ってたの」
「ああ。それ込みで伯爵───親父さんから付き添いを頼まれてたんでな。きっと上手くやれないだろうからって」
「だって! あんな風に初対面で言われて……なのに、結局私一人で空回りしてたみたいじゃない」
口を尖らせるセレスに、リオンはやさしく微笑んだ。
「ま、本当は背中を押す役なんて嫌だったんだけどな。オレだって……いや。やっぱ〝そっち〟はオレの役じゃねえや」
セレスのきょとんとする顔で踏ん切りをつけると、リオンは本当に背中を押した。
「ほれ、いつまでもいじけてねえで。さっさと傍に行って酌のひとつでもしてこいよっ」
押されるまま、ふらふらと二歩、三歩。そのあとセレスは自らの心のまま、エリアスのほうへと近づいていく。やがて二人は、じっとお互いの目を合わせた。焚火の灯りを瞳に宿しながら。
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朝の潮風が、リュサンの町を優しく撫でる。セレスはいつものように造船所へ向かう。石畳を踏みしめながら、少し重い足取りで。
(……昨日のことが、ずっと胸に残ってる)
思い返せば、港での騒動はあっという間に終わったものの、心臓の高鳴りはまだ冷めやらない。聞きしに勝るツノシャチの恐ろしさ。そこへ勇猛果敢に挑んだエリアス。そして……焚火に彩られながら、お互いに打ち解けあい───
「俺は、あまり女性と話すことに慣れていない。『無愛想、冷たい』はいつものこと。貴女にも失礼な男と思わただろう」
「そうね、初対面で『汚い』ですものね」
「済まなかったっ。本当に、言葉通りのつもりではないのだが……言葉が足らなさ過ぎた」
「まだ許してないけれど」
「構わない。いつまでも待つ」
「──っ……ま、まあ、ウチのとっつき悪い漁師たちとこんなに打ち解けられるから。そういう人なのよねきっと。ただ、海に落ちたときは心臓が止まるかと思った」
「心配をかけた。無我夢中だったのでな」
「ふふ。これ以上は気の毒だからよしておくわ、〝英雄さん〟」
「ちがう。俺は……ただ、あなたを守りたかった。それだけだ。婚約者であるなど関係なく」
───最後に耳にした、あの言葉。
(婚約者じゃなくても、か。そう、他の女性でも、誰であろうと守ってくれる。騎士の矜持……よね)
自分だけが特別ではない。それでも、あの必死にかばってくれた真剣な横顔。自分を抱いて風のように走ったあの力強さ……あれらは、間違いなく自分しか知らないエリアスの姿。そう思うたび、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
町の中央広場では朝市が立ち、変わらずにぎやかな景色を見せる。そんな喧噪も今のセレスの耳には届かない。
ぼんやり歩いていると、誰かがドレススカートを引っ張った。振り向くと、青果店の娘がリンゴの入ったバスケットを突き出した。
「あら、ありがとう」
軽く会釈するだけで、娘はにっこり笑い母の元へ走っていった。セレスは胸の中で小さな温かさを感じ、造船所へ足を進めた。
「ぼーっと歩いてんじゃねえぞ、セレス」
「リオンっ。もう、びっくりさせないでよ」
突然背後から現れたリオン。バスケットのリンゴをひょいとひとつ取り、豪快にかじった。
二人は並んで歩き出す。セレスは何だかうまくしゃべれず、黙ったまま。リオンは空を仰ぎ、カモメの群れが白く弧を描いて飛んでいくのを見送った。
「……なあ、セレス。お前がこの町を好きで、離れたくない気持ちがあるのもわかる。だけどな。お前がこれから本当に笑える場所は、きっとあの騎士様の隣になると思うぜ」
セレスの胸が強く高鳴った。
「どうして、そう思うの」
セレスの声は小さく震えていた。問いかけというより、すがるような響きだった。リオンは少し俯いて笑った。
「〝顔〟だよ。昨日、あいつと会ってから、ずーっと、くるくると変わりっぱなしでよ」
言葉を受け、思わず自分の頬を撫でるセレス。ゆったりとセレスに歩調を合わせながら、リオンは続ける。
「怒って、笑って、ハラハラして、安心して。でも、今日はどれとも違う。俺は今まで一度も見たことないやつだ。『苦しい』ってな」
「苦しい……の、これって」
「違わないだろ」
セレスは胸の中でざわつく熱をうまく言葉にできずに、ぐっとバスケットを抱え込み、息を呑んだ。リオンは一瞬だけ横目で彼女を見やり、すぐに前へ視線を戻した。
「さっさと逢って、その気持ちがどうなるか、自分で確かめてみりゃいい」
潮風が二人の間を抜け、波の音が遠鳴りに聞こえてくる。
「心配しなくても、オレたちはこの町で変わらずやってく。けど、お前は変わる時がきたんだよ。本当の笑顔を向ける相手が、たった一人になる時が」
「変わるって……ずっと油と木くずにまみれてきた、私が」
「そうさ。でもあいつは、そんなことどうでもいいんじゃないか」
造船所が見えてきたところで、リオンはさっとリンゴのおかわりを取った。
「ははっ、一生分しゃべっちまった。じゃあオレは市場に戻るぜ。しっかりやれよっ」
「リオン……ありがとう」
背中を見せ、手をひらひらさせながら元の道へ戻っていく。
兄で、親友で、父親の次に長く、一緒に笑いあった仲。そんなリオンがここまで励ましてくれる。セレスはぐっと思いつめた顔で、造船所へと足を早めた。
~~~~~~~~~~
造船所から歩いて20分ほど、リュサンの中央北に位置するグランディ辺境伯邸。石造りの重厚な館は、潮風をものともしない堅牢さと優美さを醸し出している。
セレスと入れ違い、エリアスは応接の間にて、グランディ伯爵と対面している。がっしりとした体躯に、長年の陽に焼けた肌。厳しさとやさしさを秘めた眼光。辺境伯という肩書きにふさわしい、野趣と品性を併せ持つ貴族である。
「昨日は大変だったそうだな、エリアス殿」
「いえ、お騒がせ致しました」
伯爵はティーカップの香りを少し楽しみ、口をつけた。
「セレスが昨晩、随分と興奮して話してくれた。まったく、来て早々にツノシャチとやり合うなどと……王の懐刀になろという男に何かあったら、いくら儂でも首が持たん」
「船技師としてだけでなく、かつては王のもとで蛮勇の名を馳せた貴方様からそう言っていただけるのは、光栄の極みです」
「ふむ、なるほど。やはりいまひとつ堅苦しい。女は悪い男に弱いからな。もう少し崩せば、セレスもいますぐにでも王都へとなっていたところを」
「そのことですが……まず、王からこちらを」
エリアスは封蝋を施した書状を手渡す。伯爵は中身を険しい顔で一読すると、低くつぶやいた。
「……隣国の動き、やはり本当だったか」
「ええ。おそらく二年以内には開戦の可能性が」
ここ数ヶ月、リュサンで隣国人の出入りが多い報告を受けていた伯爵は、早速に王へと報告。手練れの密偵を使い、伯爵と共に情報の裏取りを進めてきた。その懸念が、どうやら現実になろうとしている。エリアスの視察も、これに準じたものだった。
「まったく、懲りんやつらだ。しかしあの怠慢な王族どもからすれば、むしろ突いて内乱に持って行ったほうが早いかもしれん」
「王もそれを画策しております。なるべく戦火を王国には起こしたくないと」
「貴公があの進水式でセレスを見初めたのも、何やら予感が働いたのかもしれん。ここから愛娘を安全なところへ連れ出すというな」
小さくため息をつき伯爵に、エリアスは力強く言い放った。
「いえ。まさしく神の思し召しです。みすみす隣国に侵されることなど。我が騎士団の総力をもって、美しいリュサンとお嬢様を護り抜くことを、このエリアスがお約束いたします」
虚言など微塵も思わせない真っすぐな瞳。娘と次の時代を託せる若者に、伯爵は頼もしく思い、胸が躍った。
「さて、エリアス殿。婚約の儀について明日、貴方たちの慰労パーティの席で公式の発表としたいのだが……大丈夫か、セレスとは。きちんと惚れさせてもらわんと困るんだが」
ニヤリとする伯爵に、エリアスは少しバツが悪そうに頭を掻いた。
「私にしては、初対面から頑張ったほうだと思いますが……ただ、隣国の話などで煽ることはしたくありませんし、誠実に話してまいります。今回がダメなら、何度でも来ますから。幸いにも口実がありますので」
伯爵は声をあげて笑った。
「ふははははっ。国同士の不穏を嫁取りの口実にか。まったく、その愉快さをもっと色気に使えればなあ」
「恐れ入ります」
軽口を言う一方で、早くに母を亡くし、この邸をずっと明るく支え続けてくれたセレスに万感の思いがこもる。
「……儂の見立てにも狂いはなかった。エリアス殿、あらためて最愛の娘を、よろしく頼む」
エリアスは深々と頭を垂れた。
「必ず、ご期待に添ってみせます」
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昼下がりのリュサンの町は潮風は穏やかに吹き、石畳に陽射しが降り注いでいる。
滞在の最終日。エリアスは部下数名と庶民の服に着替え、町の巡察をしていた。今度の防備について外部の意見をと、伯爵の依頼を受けてのことだった。
「きゃあっ」
「気をつけろっ」
悲鳴と怒声。エリアスたちが急いで声の方へ駆け付けると、けたたましく去る馬車と、若い娘が倒れている。
「大丈夫か」
「あ、足が……」
どうやら足をくじいたらしい。エリアスは痛みに顔を歪める彼女を見るなり、躊躇なく両腕で抱きかかえる。
「きゃっ」
「治療院を教えてくれ。俺が連れて行こう」
「あ、あの……ありがとうございますっ」
突然の美丈夫に目が釘付けになる娘。頬を赤らめ、遠慮がちに上目遣いで見続け……首に手をまわし、あざとくしがみつく。その光景を、用事で通りかかったセレスが偶然にも目撃してしまった。
颯爽と立ち去るエリアスの背中と、うっとりとする娘の顔。思わず路地裏に滑り込み、持っていた鞄をぎゅっと抱きしめた。
(やっぱり、特別なんかじゃない。彼の中では、私も守るべき市民の一人なんだ……)
セレスはその場にしゃがみ込んで、しばらく俯いたままになった。
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夕刻。伯爵邸大広間にて、エリアス率いる騎士団の、此度の慰労と見送りを兼ねた宴が催された。豪奢なシャンデリアと無数の燭台に照らされた光の海。弦楽団のバイオリンが高らかに鳴り、銀の皿に並ぶ色とりどりの料理を囲み、来賓の談笑がとびかう。
その控室。濃青色のドレスに身を包んだセレス。普段ずっと仕事着で駆け回る彼女に渾身のドレスアップを施した侍女たちは、やっと本来の美しき令嬢に戻せたことで盛り上がるばかり。しかし当人は、奇しくもその色に似た夜の海のように愁いを湛えていた。
(もし、あの町娘のことを訊ねたら……彼は、どう答えるだろう)
鏡に映る自分の、取り繕った笑顔に問いかける。訊きたい。けれど怖い。そして……エリアスと会ってから僅かな時間で、これほどまでに心揺れる自分が信じられず。
思わずため息をこぼしたその時。ドアをノックと共に、執事からエリアスが来たことを告げられる。
扉が開くと……そこには礼装に身を包んだエリアスが立っていた。白と紺を基調とした軍装に、後ろへ整えられた銀灰の髪。整えられたすべてが、彼の持つ気品をいっそう引き立てる。
一瞬にして二人の視線が絡む。セレスは瞬きひとつせず、エリアスが自分の元へ近づくのを見続ける。押し寄せる波のように、高鳴っていく胸の鼓動。
エリアスは深く一礼すると、膝間づいて右手を差し伸べた。
「セレス様。ご一緒させていただけますか」
「……はい」
包み込むような、やさしくあたたかい声。
セレスは焼けるように熱く脈打つ指先を、そっと差し出す。
二人は並んで大広間へ。主賓と伯爵令嬢のきらびかな登場に、広間は感嘆で埋め尽くされる。
グランディ伯爵も、大広間中央で二人に寄り添った。手を掲げるとともに、楽団の演奏が止む。
「皆の者、よくぞ集まってくれた」
重厚な声が大広間に響き渡る。伯爵はグラスを掲げた。
「王都よりこの地を護るべく、勇躍駆けつけた王都騎士団。その指揮を執った若き騎士、エリアス殿に盛大な拍手をっ」
割れんばかりの喝采。その中心で、エリアスは一歩前に進み出る。
「過分なるご紹介、恐悦の至りです」
一礼の後、静かに顔を上げる。
「王命のもと、この美しき王国の玄関に参じ、わずかな滞在の中で、海を愛する誇り高き領民たちと杯を交わせたこと。そしてこの度、セレス様と婚約の縁を結べたことは、我が人生最大の誉」
凛然たる声が広間を満たし、来賓全ての視線がセレスへと注がれる。エリアスはそっと彼女の背に手をまわし、力強く叫んだ。
「この喜びを胸に、命を懸けてこの町と彼女を守り抜くことを誓いますっ」
拍手と歓声がどっと沸き起こる。セレスは全身に湧きたつような熱を感じ取りつつ、ふとエリアスを見上げる。呼応するように目を合わす彼に笑顔を返すものの……胸の奥にまだ昨日からの影を抱えていた。
宴を中座し、夜風に当たろうと、セレスはバルコニーへ出ていた。
群青の空に星がまたたき、遠くには白波が立つ。打って変わった静けさが、心のざわめきを掻き立てていた。
「ここにおられたのか」
背後からの声に振り向くと、エリアスが立っていた。セレスは柵に背中を預けて俯く。エリアスはそっと横に立つと、遠目に海を眺めた。
「潮風がとても気持ちいい。王都では味わえない涼やかさだ」
「私も、ここの風が好き……です」
形式ばった感じが抜けきれず、ついあらたまるセレス。
「さきほどのご挨拶、ご立派でした。あなた様の振る舞いはいつも完璧。ツノシャチの時の私をかばい、町の娘を甲斐甲斐しく助けて……」
勢い余って、つい漏らしてしまう。エリアスは少し驚いたが……今はっきりとセレスの気持ちが伝わった。
少しの沈黙。しかし彼は言葉を選ぶことなどなかった。
「俺は騎士として、目の前で困っている人がいるなら、誰であろうと手を伸ばす。だが、貴女を抱き上げた時の胸の高鳴りを、他の誰と比べることなどできない、絶対に」
力強く響く言葉に顔を上げるセレス。隣には、ただただ真っすぐに自分だけを見つめている騎士。
二二人は同時に真っすぐ向かい合い……エリアスは静かに膝間づいた。
「どうかこれを、受け取ってくれ」
取り出した小さな小箱を、そっと開ける。指輪の宝石がきらめき、セレスの瞳に飛び込んだ。
「こんな私に……本当に、私に……」
「あなただけの騎士であることを、誓う」
瞳がさらに大きく揺れる。震える手を伸ばし……ついにはしゃがみ込み、エリアスの手ごと、両手で包んだ。
涙があふれはじめる。肩にそっと、エリアスのあたたかい手が添えられた。
「つけてくれないか」
こくりと頷き、ゆっくりと指輪を左手薬指に。宝石が放つ光に目を凝らし、セレスは驚きのあまり息を飲んだ。
「これはまさか……ブルーダイヤっ」
王国では「奇跡の青」と呼ばれる宝石。王国貴族とて滅多に所持することが無いそれを、セレスは公爵家のパーティで見て知っている。光が差し込むほどに魅了する深き青。朝の穏やかな海の色、そのものだった。
「わかってくれると思っていた。この町の真の奇跡である、あなたにこそふさわしい」
「ああ……こんな、こんなことって……」
堪えていた涙が、とめどなく零れ落ちる。同時に、エリアスの声がやさしく沁みとおってくる。
「セレス、あなただけを愛している。あの進水式の日からずっと」
セレスには、もう何も迷うことはなかった。
「エリアス様。私も……ずっと、あなただけを───」
潮風はただやさしく、二人を包みこむ。もう言葉は要らない。ただ、手に伝わる温もりと鼓動が、これからのすべてを約束しているかのように。
セレスはようやく、胸の奥が満たされていくのを感じた。
~Fin~
たくさんのWeb小説の中から手に取ってくださり、本当にありがとうございました。