第三十五話:迫る危機
夕暮れの赤い空の下、セリオの館の転移門が淡い光を放ち、異質な気配が溢れた。続いて、その中央から一人の男が悠々と姿を現す。
ヴェルミリオ・ゴルトラート——魔界の経済を牛耳る商人貴族。優雅な微笑みを浮かべ、仕立てのいい深紅の外套を翻しながら、館の庭へと足を踏み入れた。
「やあ、ご機嫌いかがかな? セリオ殿」
セリオは畑仕事を終えたばかりで、額の汗を拭いながらヴェルミリオを一瞥する。
「……お前がここまで来るとは珍しいな。今日は何の用だ?」
「ちょっとした”忠告”をしにね」
ヴェルミリオは、館の敷地を見回す。周囲には、セリオの農場を手伝う魔族たちの姿があった。彼らは好奇の目で商人貴族を見つめながら、作業の手を止める。
ヴェルミリオは気にする様子もなく、館のテラスの椅子に座った。セリオも無言で向かいの席に腰を下ろす。
「“エルミナ”が動いた。どうやら、お前の畑を焼き払おうとしているらしい」
その言葉に、セリオの青い瞳が僅かに鋭さを増した。
「……理由は?」
「お前が”余計なこと”をしているからさ。農業なんていう、魔界の常識から外れたものを根付かせようとしている。そして、ヴァルグリム派が最も嫌う”ヴェルミリオの協力者”になってしまったからね」
ヴェルミリオは肩をすくめ、グラスに注がれた黒紫色の酒を軽く揺らす。
「私は王座に興味はないが、商売のために影響力を持つ者を支援するのは当然のこと。その”影響力”をお前に持たせるのは悪くないと思っていたが……どうやら、エルミナはそうは思わなかったらしい」
「……それで、具体的にどの程度の戦力を送ってくる?」
セリオの問いに、ヴェルミリオは小さく笑う。
「高位魔族が数名、あとは戦闘経験豊富な傭兵団。だが、面倒なのは”融合体”の連中だ」
その言葉に、セリオは眉をひそめる。
「“融合体”……人間と魔族の?」
「その通り。エルミナは”彼ら”を戦力として運用している。お前も知っているだろう? 人間と魔族を融合させた者が、どれほど厄介か」
セリオは無言で考えを巡らせる。かつて彼が戦った異形の融合体たち。魔力と知恵を兼ね備えた彼らは、純粋な魔族とは異なる戦い方をする。
ヴェルミリオは続けた。
「おそらく、エルミナは”直接お前を殺す”つもりはない。あくまで”畑を潰し、館を破壊し、お前の基盤を崩す”ことが目的だろう。つまり、“絶望させる”気なのさ」
セリオは目を伏せ、拳を握る。
「……私がここに居る理由そのものを壊そうとするわけか」
「そういうことだ。勇者だったお前は、人間としての生き方を捨て、“この場所”を新たな居場所にしようとしている。だからこそ、それを奪われた時、お前がどうするか……エルミナは興味があるんじゃないかな?」
ヴェルミリオは、くつろいだ様子で酒を口に運びながら言った。
「さて、忠告はした。私は”商売人”だから、戦争を仕掛けるつもりはないが……まあ、個人的には”商売相手がいなくなるのは困る”のでね」
彼は立ち上がり、最後に言葉を残した。
「準備を整えるといい。襲撃は、そう遠くない未来に起こるだろう」
そう言い残し、ヴェルミリオは転移門へと歩いていった。セリオは立ち上がり、館の周囲を見渡す。
燃え盛る炎の中で、荒れ果てる畑の光景が脳裏に浮かぶ。
——それだけは、絶対にさせない。
彼は静かに、しかし確かに決意を固めた。




