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第三十三話:囚われの勇者と魔界の食卓

 暗く静かな部屋に、魔導灯の淡い光が揺れている。リゼリアの研究所の一室——簡素ながらも華のある客間の中央に、レティシアは拘束もされずに座っていた。

 彼女の手足に鎖はない。しかし、ここが魔界であり、逃げようとすれば即座に捕えられることは理解していた。

 その向かいに腰掛けたのは、白い髪のエルフ——リゼリア・イヴェローザ。彼女は気怠げな仕草でテーブルに肘をつきながら、レティシアの顔を見つめていた。


「……何を企んでいるのですか?」


 沈黙に耐えかねたのか、レティシアが先に口を開いた。


「別に。ただの食事よ。囚われの身でも、食事くらいは必要でしょう?」


 リゼリアはそう言いながら、銀の器に盛られた料理をレティシアの前に滑らせた。魔界の料理は独特な香辛料が使われることが多く、色彩もどこか異質なものが多い。

 赤黒いスープ、青みがかった根菜、そして肉料理らしき何か。

 レティシアは警戒しながら料理を見下ろし、表情を歪めた。


「……いらないわ。魔族の食事なんて、口にするつもりはありません」

「そう言うと思ったわ」


 リゼリアは肩をすくめると、もう一つの皿を取り出した。その上には、黒みがかったパンが並んでいる。


「これはセリオが作ったものよ。暗黒麦のパン。魔界の食材ではあるけれど、味はそこまで異質じゃないわ」

「セリオ様が……?」


 レティシアはわずかに目を見開いた。人間の勇者としての彼のことは覚えている。彼女の命の恩人であり、彼女を救った勇者であり、蘇った古代の魔王を死を賭して討った騎士——それが、彼女の記憶にあるセリオだった。

 その彼が、今は魔界でパンを焼いている?


「……毒は入っていないでしょうね」

「信用しないなら食べなくてもいいわ。でも、飢えには勝てないでしょう?」


 リゼリアは余裕の笑みを浮かべながら、パンの皿をレティシアの方へ押した。

 レティシアは少し躊躇ったが、魔界の食事よりはマシだろうと考え、黒いパンを手に取った。そして、慎重に一口かじる。

 苦味がある。しかし、ほんのりと甘みも感じられた。


「……思ったより悪くないわ」


 ぼそっと漏らした言葉に、リゼリアは満足げに微笑んだ。


「そうでしょう? セリオは意外と料理上手なのよ」


 レティシアは黙ってパンを食べ続ける。ひどく空腹だったのもあるが、それ以上に、この味がどこか懐かしく感じたのかもしれない。

 リゼリアは、そんな彼女を観察しながら、ゆっくりと話を切り出した。


「ところで……お前の体に刻まれた刻印について、少し聞かせてもらえるかしら?」


 レティシアの動きが止まる。


「……どうしてそれを?」

「気になったのよ。あれは単なる魔術刻印じゃないわ。断片的な写本でしか見たことはないけれど、どことなく似ているのよ……イゼルファーン・ヴェル=ライゼの魔導書に記された紋様と」


 リゼリアの赤い瞳が、興味深そうに細められる。


「イゼルファーン……?」

「知らないの?」

「……知らないわ」


 レティシアは即答した。しかし、その反応には僅かな迷いがあった。

 リゼリアは軽く笑い、指先でワイングラスの縁をなぞる。


「イゼルファーンの名を知らなくても『三界融合術式』くらいは知っているでしょう? 魔界、天界、人間界の三界を融合し、新世界を創造する禁忌の魔術……イゼルファーン・ヴェル=ライゼは三界融合術式を生み出したエルフの魔導師よ」


 レティシアは歯を食いしばりながら、沈黙を守った。


「……お前の沈黙は、答えと同じよ」


 リゼリアは静かに告げると、グラスを傾け、ゆっくりと魔界のワインを口に含んだ。

 レティシアは何も言わず、ただ手の中のパンを強く握りしめるのだった。

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