9運転はおまかせを
河童の少年“コツメ”と同行する事になった僕とチップは、事務所へと向かう事になった。とは云えども事務所までの距離は中々である。ここから僕の家の最寄り駅まで電車でおよそ一時間。事務所はその更に奥の駅である為、更にプラス三十分費やす。その駅から事務所まで、徒歩で加える事十五分。どんなに急いでも二時間は掛かるのだ。流石にここから事務所で交通機関を使わず徒歩だとすると、日が暮れてしまうだろう。忘れてはならない、便箋小町の屈指の鉄則。それは依頼を受けての移動は徒歩のみである事。いくら出張中と云えど、こればかりは罷り通らないのだろうと腹を括っていたところだった。念の為、僕は社長へと電話をし確認をしたのだ。もし何かの間違いで電車を使えるのならば、本望だと。そんな淡い期待を高々と密かに掲げたのだが、それを呆気なく彼女の言葉で一掃されてしまった。依頼主が妖怪である事、そして依頼の届け物があると云う事。交通機関の使用は、二つ返事で社長に却下された。代わりに彼女が提示してくれた代替案は、耳を疑うような内容だった。それは、「クレープを売ったキッチンカーがそこにあるだろう?それで移動したまえ。」との事だ。何かの聞き間違いかと思ってもう一度聞いてみたが、返ってくる社長の答えは変わらなかった。確かに免許はあるが、運転なんて十八歳の時に本免試験を受けて以来だ。幸か不幸か俗に云うところのペーパードライバーであり、不安がブレンドされた冷や汗が自然と頬を滴る。鏡を覗けば、さぞ自分の青ざめた顔が映る事だろう。そもそも車移動もダメなのでは?確か、移動は基本徒歩のみでと制約上あった気がするのだが。徒歩も嫌だが、車の運転はもっと嫌なので一応確認ついでに聞いてみたところ・・・。
「その車なら、安全設計上問題無いから大丈夫だ。」
との事らしく用意されたこの車は、社長の特注仕様に改良されているらしい。本来、車での移動は依頼中であれば禁止されている筈なのだが、どうやら例外のようだ。社長曰く、霊的なものを遮断しているようで外部からのアクセスを防いでいるとの事だ。先程の便箋小町七つ道具と云い、どこまでご都合主義なのか。思わず突っ込みたくもなるところだが、今は暑さだけでお腹一杯なのでやめておこう。さて、その特注仕様だと云うこの車の内装へ目を映してみよう。長時間の運転も疲れを感じさせない腰から背もたれまでゆったりと座れるシート。方向音痴にも安心のナビ、同じくストレスを与えない丁度良い感触があるグリップのハンドル。後は、よく分からないボタンがいくつか。確かに、これなら運転が不安な僕でも安心して・・・
「・・・って、なるかぁぁぁぁあああああ!馬鹿か、おい!」
運転席に座り込んでいた僕は、苛立ちを原動力に勢い良くハンドルへと頭突きをした。ビ、ビィィィーーっと、僕の心情と共鳴するように車のクラクションが駅広場に鳴り響く。突然鳴り響いた警笛は駅広場を通り行く人達も、何事かとこちらへと振り向いている。何を隠そう掻き鳴らしたのは、普段鳴る事の少ないキッチンカーなのだからだ。僕の奇行に驚いたのか、助手席に座り込むチップはあんぐりと口を開けていた。塩でも覆い被さったかのように蒼白した幼女は、この奇行にショックを隠せないでいた。なるべくなら早くこの場から離れたい、出来れば他人のフリで居て過ごしたいとでも云うように。ちなみにコツメは、後部のキッチン側に大人しく座っている。チップがあまりにも生臭いと五月蝿いので申し訳ない気持ちはあったが、その猛抗議は受け入れざるを得なかった。どうやら幼女にとっては、風呂桶に一ヶ月溜め込んだ生ゴミがある中で換気扇も無く締め切った空間。その中で深く深呼吸をしながら過ごすのと変わらないのだから、えずくのも仕方ないだろうと主張する。幼女の抵抗二百パーセントのバッシングにより、止むを得ずコツメを後ろへと誘導した訳なのだ。
「イ、イサム・・・。運転、大丈夫なのか?」
ビクつきながら僕へと質問するチップ。律儀にしっかりシートベルトを装着するその姿は、悪魔というよりは限りなく幼女に近い。恐怖心を緩和させる為か、そのシートベルトにがっしりとしがみ付き小さく小刻みに震えていた。先程のクラクションのせいか信用性は完全に皆無で、これなら一人で歩いた方がマシだ。そう、彷彿しようとする表情でこちらを眺めていたのだ。
「だ、大丈夫だ・・・、問題ない。」
硬直した笑顔で誤魔化してみたものの、チップの顔は宛ら紐なしバンジーに挑戦する程の様だった。悪魔なのに自分の胸に手を当て、十字を切っていた。あぁ、自分はここで死ぬのだろう。そんな極端な考えで慈悲を受けようとしているのだ、悪魔のくせに。僕は前髪を弄り、緊張を誤魔化す。震わせた右手を押さえ込むように車のキーを差し込む。車体が僅かに跳ね上がるようにエンジンが回り出し、キッチンカーは軽快なリズムを刻みながら飛び起きる。
ドゥルルルンー。
「お、点いたぞ!」
ただ、エンジンが点いただけなのだが僕は一つの安堵を溢した。そんな僕の心境とは反転して、チップは両手で顔を塞ぎ、「もう見てらんない!」とでも云うのか。共に搭乗しているのが恥かのようになるべく僕から距離を取り、遂には両脚を上げ小さく塞ぎ込む。ただでさえ白百合に近い白い肌だからこそ、赤らんだ頬は余計に目立っていた。
「わかった、わかったから早く進んでくれ!」
顔を塞いだままチップは、恥じらいだ表情で叫んでいた。僕よりも周りの目を気にしているのか、一刻も早くここから立ち去って欲しいと悲願しているようだった。対するコツメはエンジンが点いてから、ずっとソワソワしていた。車というもの自体に慣れていないのか。後部でそっと縮こまり、辺りをキョロキョロと見渡しながら座っていた。いくら現代に生きる妖怪といえど、車に乗る機会なんてそうそう無いのだろう。初めて乗るのなら尚更だ。僕だって初めて飛行機を乗った時は、不思議と緊張が走ったくらいだ。そう云う意味では、気持ちはわかる。自分の足以外で移動されるなんて、初めてならば違和感の塊でしか無いのだろう。ただ一つ違うのは、運転しているのが僕だって事。ベテランドライバーなら、なんて事は無いところ。けど、残念!運転しているのは、僕でしたー。僕の高ぶる緊張は、彼に負けないくらいブルブルなのだ。調べて見たところ通常、車での移動であれば電車での移動時間と然程変わりはない。エンジンが点火したと同時に表示される大型のナビで検索させたところ、そのように表示されていた訳だが。それは一般的に、車での移動が慣れている人に限る場合なのだ。故に、ペーパードライバーの運転となれば話は別である。十五分でも地獄の時間だ。いくら最新鋭のナビを揃えたとて、運転スキルに見合った道案内までは考慮されていない。震える両手でハンドルを掴み、ミラー越しの自分の顔は青空のように染まっていた。そう、つまりブルーって事だ。とは云っても受けたからには、僕にも責任がある。少しでも僕は平常心で接してあげないと。僕はそう思い、自分にも鼓舞する意味合いも込めて声を発した。
「よし、まずは事務所に向かおう。コツメ君の為にもね。」
それでもまだ不安が入り混じった声でアクセルペダルを踏み、事務所の帰路へと向かう。到着時間は、およそ一時間半。僕の場合は、まぁそうだな。ざっと二時間くらいだろうか。はらりと流れ落ちる頬の汗はきっとこの気温だけじゃなく、緊張と共にドライブをしようとしているからだ。ふと河童の少年と目が合ったが彼は声を発する事は無く、静かに飲み込み頷いていた。それはきっと何かを云いたかったのかも知れない。コツメ自身に聞かない事には不鮮明なままだ。不思議と僕は、彼の顔を見てそう思ったのだ。コツメは、何か一番云いたい事をそっと呑み込んだのではないかと。野暮な事だ。僕がわざわざ突いて問い詰める話では無い。齢幼い少年であっても、本人のタイミングがある。そのタイミングは本人に任せるべき。僕は視線を前方へと切り替え、まだ覚束無い操作でタイヤを回した。
・・・。
・・・・・・。
暫く車を走らせ、事務所まで距離が半分を過ぎた頃。後部のキッチン側を覗ける窓からコツメの顔がチラつく。時折、こちらの様子を見るように顔を覗かせていた。車での移動自体が珍しいのか、そのハニーイエローの瞳は輝いていたように見える。自分の走る速度の何倍かの速さで移り行く景色は、つい没入させる程のめり込ませる。車窓から流れる景色は、近くの物は早く過ぎ去り遠くの物はゆったりと過ぎゆく。その原理は、角速度の違いからと授業で習った気がするがあんまり良くは覚えていない。彼にはこの不可思議な現象は、どう見えているのだろうか。車に慣れてきたのか、コツメは車窓の袖に手を添えて流れゆく景色を眺めていた。とそのように見えた訳だが正直なところ彼を気にする程、僕には仏のような余裕が無かった。何しろ自動車学校でもこんなに長く運転してない、と云うのが最大の理由だからだ。もっと誇張して云えば、サイドミラーすら見る余裕も無いくらい。バックミラー越しの視界に映る程度の為、はっきりとは見る事が出来ず手に汗を握っているのだ。通勤も休日のお出かけも電車で賄えてしまうのだから、余計に車を運転する機会がまるで無い。とは云えども、もう少しくらい運転しておけば良かったと今では少し後悔しているのが正直な意見だ。道中少しだけではあったが、河童の少年と会話する機会はあった。コツメ曰く、人里遠く離れた場所にひっそりと河童達の里があると云う。そこには現代でも機械は勿論無く、自然に溢れた里だと聞く。青々しく生い茂る植物。陽の光すらも淡く透き通る川、そこに数百匹の河童達が群れを成して生活しているらしい。彼があのM市で出会った事から少年の足取りも考えると、割とその近場が彼の里になるのだろうか。それでもコツメ達の里が見つからないのは、特別な何かがあるのかも知れない。便箋小町のように社長が施した、人を寄せ付けない結界のようなものがあるのか。そう思うと彼ら妖怪たちの一部は、上手く人間達と距離を置き現代を生きているのでは、とふと思えた。社長やメルも人間界に浸ってはいるが、人間と積極的に密接している訳では無い。全ての妖怪が人間から遠ざけている訳では無いだろうが、少なからずそう判断して距離を置いている。それはきっと様々な経緯があったに違いない。互いのエゴは交わる事は決して無い。この場合、昨今の状況を見るとエゴが強かったのは人間の方なのだろう。そんな人里よりずっと離れたコツメの住むところは、獣道しか無い。その為、道と云う道が整備されているなど当然無く、人が訪れる事はまず無い場所のようだ。となれば車なども見た事はあっても実際に乗るのは初めてなのは、その輝く瞳からして納得である。
小休憩を挟む為、僕達は道中にあったコンビニの駐車場に停まった。ペーパードライバーにとって休憩は大事である。まぁ、勿論ペーパードライバーに限った話ではないが。全神経を集中していたせいか、どっと疲れが押し寄せてきた。主に目に力が入っていた為か、目の奥を摘まれたように圧迫され酷く痛い。スピードよりも安全を優先するペーパードライバーは、時速四十キロが越えられない壁なのである。法定速度が五十キロであっても身体が直感的にブレーキをかけ、これ以上出してはいけないと躊躇させる。案の定、次から次へと後続車に追い抜かれ、時には叱咤な眼差しを受けながら越される事もしばしば。本当は、反対車線上にいくつかコンビニがあったのだがなるべく右折を避けたかった。国道でもあるこの道は、二車線で交通量も多い。そこを潜り抜け曲がるなど、恐怖の綱渡りに等しいのだ。休みたいという気持ちは強いが逆サイドの為、惜しみながらも通り過ぎていったコンビニ達。横目から通り抜けてしまうコンビニが視界に入る度に、「あぁ。」と悔やむ声が漏れてしまった。だからこそ、漸く見つけた左車線のコンビニという一種のオアシスに一息を入れる事が出来たのは何よりの至福だ。体をI字状に伸ばしながら眠った背骨を起こしたり、腕を広げ固まった筋肉に軽いストレッチをする。コツメは、車から降りる頃にはまた少年の姿になりアスファルトと共に日差しを浴びていた。ジリジリと照り出す太陽は、黙って立っているだけでもツーっと汗が溢れてくる。梅雨明けともあってか、煙でも包み込まれたぬるま湯のような湿気も合わさり、余計に暑さを加速させる。じっとりと肌に纏わり付く湿気は、いくら拭っても一向に離れる事は無く拭いきれなかった。タオルの一枚でもあれば幾分かマシな中、コツメは平然とした表情でじっと立ち尽くしていた。けれどそれはどこか上の空で、ここにはないどこか遠くを見つめる様だった。
「コツメくん・・・。河童にとって尻子玉って何なんだい?」
僕に声を掛けられたコツメは、ポケットに忍ばせていた尻子玉を取り出し見つめ出す。パール模様に僅かに輝くその小さな珠は、照らされた陽の光を重ね乱反射を起こす。じっと見つめていたら吸い込まれるのではないかと、そう彷彿させる程の不思議な力を帯びていた。まるでそれは人の魂を模っているかのように、いや寧ろそれに近いものなのだろう。コツメは心ここに在らずと云うよりは、どこか思い詰めた表情で口を開く。
「おいらにもよくわからない。『一人前の河童になる為の証だ』って父ちゃんは云ってた。」
「そうか・・・。君のお父さんは、どんな人なの?」
「父ちゃんは、凄い人だよ。長老のいつも側に居る重要な立ち位置なんだって云ってた。」
何気なく聞いたがコツメのいる河童の族は、ある程度のカースト構成があるようだ。恐らく長老というのが、一番地位が高く権力があるのだろう。そして、コツメの父はその側近。話ぶりからして長を護衛する為の近衛兵に近いのだろう。
「質問を変えよう。君達、河童たちにとってこの尻子玉は何の為にあるんだい?」
「水神様にお供えするんだよ。それで、祭りを開いて豊作を願うんだ。」
成程・・・。一種の贄みたいなものなのか、彼らにとっての尻子玉という存在は。短絡的に考えれば、こうだ。まずは、尻子玉を手に入れれば一人前の河童としてなれると謳う。若い河童たちは、尻子玉を手に入れる為に人間の子供達を狙う。子供を狙う理由は簡単だ。酒や煙草などの有害なものを摂取していなく、大人と違って注意力が散漫としているからだ。より健全で安全に確実に摂取できるのが人間の子供だ。そうして手に入れた尻子玉を捧げ、その年の豊作を願う。実に合理的で、良く出来たエゴだ。河童たちは、それを悪だとは思わない、これが当然だと認知しているからだ。河童たちにとっては自然の摂理の一つに過ぎない。そう推測すると何とも煮え切らない気持ちになった。この河童の少年コツメの純粋無垢な彼の瞳には、何が見えたのだろうか。
「その、水神様ってのは、一体?」
「名前の通り、水の神様だよ。おいらも実物は見た事無いけどね。」
「そうなんだ、名前からして水を操る神様なのかな。」
「そんな感じかな。雨を降らしたり、水を綺麗にしてくれる神様だって父ちゃんが云ってた。」
コツメは昔云われていた事を思い出すように、空を見上げながらそう答えた。恐らくその水神様と云う存在は、河童たちの里の中で絶対的な存在なのだろう。この水神様へ与える贄がある事で、彼らの暮らしを豊かにし繁栄が築かれているのだと思う。
「一応、聞くよ?それが、ここにあるのは?」
「おいらが祠から持ち出したんだ。」
「それを元の子に返す為に?」
「・・・うん。」
きっと彼なりの葛藤があったのだろう。明らかに河童として考えれば、正義の行動ではない。道徳的に考えれば、正義ではある。けれど、河童たちの教えにその道徳は無い。自分達の生活を守る為に正しいと思って行っていたからだ。故に彼は河童たちにとって異端児に等しい。この少年が心を揺らし、動かした原動力はどこからきたのか。僕は、それを知る必要がある。
「成程ね・・・。でも、なんでそれを返そうと思ったんだい?」
それだけ大層なものを持ち運んだのなら、河童たちにとって信じられない事態だろう。人で云うなら、神社に祀られた賽銭箱や寺の仏像を盗み出すようなものだ。そう聞くとコツメは、一呼吸の溜息を吐く。それは、自分の気持ちを落ち着かせる様。
「おいら、見たんだ。」
微かに震わせた唇からは、掠れ混じりの声を発した。
「尻子玉を取られた子の親達が泣いてる姿を。腑抜けになってしまった自分の子供を抱き抱えて、泣いてる姿を。」
あぁ、自分はなんて酷い事をしてしまったのか。そう感傷してしまったのだろうか。河童の一族としては、一人前として認められる。だがどうか。蓋を開けてみれば、尻子玉を抜けばその子は腑抜けと化し、元には戻らない。父に愛でられはしゃぐ姿も、母に愛でられ笑う姿も泣く事も無い。ただ時を置き去りにし#安閑__あんかん__#とした我が子がそこにいる。抱きしめても揺さぶっても反応はない。泣き崩れ絶望に垂れる両親が瞳に映り込む。そうして、網膜へと刻まれ自分の行った行動を蝕む。あぁ、自分はなんて酷い事をしてしまったのか。ハニーイエローの瞳は潤んでいた。多くは語らずともコツメの心象心理がわかるような気がしていた。
「それで、返したくなってしまったんだね。」
自分の感傷を優しく摩られたコツメは、生唾を飲みコクリと頷く。それが彼をそうまでさせた原動力。その心は、優しさは人に限りなく近いのかも知れない。いや、そう考えるのは傲慢か。
「だから、これは今・・・ここにあるんだ。」
淡く輝く尻子玉を摘み、再び見つめ出す。コツメが行った行動は間違っていると云うのは中々に云い難く、見る角度によっては見方が大きく異なるからだ。村で良く聞く“掟”や“仕来り”の類だとすれば、河童の少年がした行為は重罪では免れないのだろう。
「・・・君は、優しいんだね。」
そう彼に云ったが、果たしてこれが優しさと表現して良いものだろうか。少年の、齢幼い考えは純粋とはいえ身勝手でもある。僕も俯瞰的に考え過ぎだろうか。なんて声を掛けたら良いか分からず、出た言葉が「優しい」と云う一言。それも身勝手で便利な言葉だと思う。云い放ってから重ねて思う。なんて無責任な言葉なのだろうと。
コツメは、ただ一直進に尻子玉を取ってしまった子を助けたいという思いが心を動かした。それだけは確かな事で、純粋な優しさではある。どこかやるせ無い少年の眼差しでも、確たる部分は揺るがない。
「こんなので一人前になるなら、おいらは半人前のままでいいんだ。」
摘み上げていた尻子玉をぎゅっと握り締め、ズボンのポケットへと仕舞い込む。啜り泣くのを堪えた浅く枯れた声が尾を引く。きっとその想いを誰かに打ち明けたかっただろう。思いの丈を叫びたかっただろう、彼の本当に云いたかった思いを寸前で飲み込んでいたのが垣間見えた。
「でもよぉ、それやっちまったら、お前。もう帰れねぇだろ?」
ひょこっとキッチンカーの陰から現れたのは、チップ。バニラアイス棒を頬張りながら、少し呆れた表情で僕達の顔を伺う。本日も炎天下であり、暑いのも解る。頬に伝う汗を拭い、ひんやりと冷えたアイスを食べたいのも分かる。だが、幼い口に美味しく頬張るそのバニラアイスも社長から貰った数少ない軍資金だ。・・・クソ。シリアスな話が台無しだ。
「・・・良いんだ。これが返せれば、おいらはどうだっていい。」
その言葉に迷いはなかった。とてもまだ、人生経験も浅い少年が口にする言葉では無い。傷心仕切っていたからかも知れないが、チップに振り向く事なく言葉を返した。けれど間違い無く彼の言葉の裏に、覚悟があった。顧みない、もう振り返る事の無い覚悟を。それを聞いたチップは、半分以上あったアイスを丸ごと頬張り口の中へ放り込む。少年のその覚悟に感化されたのか、半分は馬鹿にしていたその表情を氷砂糖のように今は溶け切っていた。チップは手元に残った裸のアイス棒を指揮棒のように振るい、コツメへと突き立てながら向ける。
「返すたって、そいつがどこにいるのかわかるのかよ?」
チップに云われ、考え込む。恐らくさっきの話から察するに慌てて里から飛び出したのだ。届け先であるその子がいる場所なんてわからなかったから、僕等を訪ねてきたのだろう。状況も普通では無い。彼自身も“ギフト”の身である以上、通常では無い。だから便箋小町である僕等の出番なのだ。
「・・・わからない。その子の居た場所に行ったけど居なかった。」
うーん、と少ない脳みそをフル回転させながら考え込むチップ。まぁ、この幼女もそれなりにぶっきらぼうではあるが、コツメに気遣って考えているのだろう。
「じゃあ、そいつの名前は?」
「・・・わかんない。」
「あー・・・、ね、年齢は?」
「んー、人間の年齢は分からないよ・・・。」
「だァぁぁぁぁぁあああ!八方ふさがりじゃねぇか‼︎」
わしゃわしゃと自分の髪を掻き、遂には叫び出す始末。案の定というか、やはり玩具を動かす程の大きさしかないモーターを搭載した幼女ではキャパオーバーのようだ。その小さな脳みそはオーバーヒートを起こし、叫ばずにはいられないといった具合だ。発狂したチップを見て、現実を突きつけられ悩み出すコツメ。彼も彼で、ほぼ猪突猛進な状態でここまできてしまったのだから、細かい先の話は見えていない。とは云ってもさて、どうしたものか。このまま事務所に戻ったところで解決策は見つかるのだろうか。真っ直ぐ事務所へ向かうべきか、何か手掛かりを探るべきか。とりあえず現状は掴めた訳だ。まぁ、ここで迷っても仕方がない。ここは一つ、上司の判断に仰いでもらうか。そう考え、携帯電話を取り出し頼れる社長へとコールを掛ける。
・・・。
社長との通話までは最初のコール音も終わる事なく繋がった。何かあったのか、少し溜め息混じりの息を吹き溢してから「もしもし、私だ。」と第一声を出した。僕は簡易的ではあるが事情を説明し、判断を仰いでもらうよう話した。スっと鼻を吸った後に彼女の声色は、瞬く間に変わり少し上機嫌になっているのが手に取るように伝わった。
「あぁ、安心したまえ垂くん。それなら丁度良い#うってつけ__・__#の場所がある。」
「#うってつけ__・__#、ですか?」
「そう、うってつけ、だ。喉から手が出る程のな。」
電話越しでもわかる自信に満ち溢れた声色だった。寧ろ既に、そんな事は想定内だと云わんばかり。コツメ自身が、尻子玉の主である人物が何処にいるのかが分かっていないのだ。加えて名前すらも分からずとなっては、中々調べようが無いのだ。しらみ潰しにこの近辺で原因不明で倒れてしまった者を調べて、確認すると云う途方も無い時間と労力が掛かる。果たしてそんな時間があるだろうか。いや、何となくだがそうも時間は悠長に待ってはくれないだろう。現にコツメは追手の河童から逃れながら、ここへやってきたのだ。そんな奴らが簡単に諦める訳が無い。きっと、徐々に探られ追手たちが迫ってくるのだろうと考えると、やはりそんな時間は無い。この人に聞いて間違いは無かったのだろう。その彼女の云う“うってつけ”とやらが気掛かりではある。と、しばしの安堵を感じたところだが。
「事務所近くにあるタバコ屋に向かうといい。そこで合流しよう。」
何を云うかと思えば、それは全く想定もしなかった回答だった。何故、タバコ屋・・・?何の脈略も無い返答に、僕はぐるりと困惑した。一服だけに一旦落ち着けとでも云いたいのか、それとも社長がタバコでも吸いたくて買ってきて欲しいのか。いや、そもそも社長タバコなんて吸っていたかな?そういえば、事務所の近くに小さなタバコ屋があったな。何というか昔ながらというか質素で、人一人が収まる程の小窓を挟んだカウンターにズラリと並ぶタバコ。そんな感じのお店だった気がする。普段どころかタバコ屋なんて、一度も行った事が無いから曖昧だ。というか僕まだ十九なんですけど。未成年にタバコ屋なんかに行かせて、彼女はどうしようと云うのか。
「た、タバコ屋ですか?僕まだ十九ですからタバコ買えませんよ?」
「ふむ、最近の子は真面目なんだな。安心したまえ、用があるのはタバコではない。その店主の“板さん”に用があるんだよ。」
タバコ屋の店主?確か、いつも暇そうにしてるあのお婆さんの事かな。だいぶ歳を召されているようだけど。あんな婆さんと会わせて一体何をしようと云うのだろう。聞けば聞く程、何故か疑問が募るばかりだ。
「まぁ、来ればわかるさ。君にもそろそろ紹介しようと思っていたところでね。手間が省けて丁度良い。この際だ、まとめて片付けてしまおうではないか。」
ツー、ツー、ツー・・・。
そう云うと彼女は一方的に電話を切ってしまった。まぁ上司が電話を切るまで終話するなと云われているが、これはあまりにも一方的過ぎないだろうか。結局のところ、最後まであまり理解は出来なかった。とは云えども、とりあえずの目的地は定まった。行き先は、事務所近くのタバコ屋。終話した携帯電話を仕舞い、呆けていたチップの顔を覗き込む。馬鹿みたいに青空を見上げながら咥えていたアイス棒を、僕はぶっきらぼうに取り上げる。放っておくと躾がなっていないこの悪魔は、平気でゴミをポイ捨てするからだ。だがそんな節操の無い展開が繰り広げてはいたが、取り上げたアイス棒を見て僕は少し笑みが溢れた。それを見て、どうやら進む方向は間違っていないのだと予見したからだ。
「チップ、このアイス棒を店員さんに見せてこい。アイスもう一本貰えるぞ。」
耳にしたチップはその「あたり」と書かれたアイス棒を奪い取り、奇声を発する。はしゃぐように目を見開いたかと思えば宝島を目指すかのようにチップは、コンビニへと走り込んでいった。なんだかんだ云って悪く無いじゃないか。タバコ屋へ向かう為に、僕はエンジンキーを回す。キュキュキューンと小刻みに鳴らすキッチンカーは唸りを上げた。