8情報交換がおまかせを
雨、暗闇の中で光を求めて駆け抜けて行く少年が居た。月明かりは無く、代わりに空を覆い尽くしたのはハッキリと見える黒よりは遠い灰色の曇天。冷たく不条理にも彼の心情心理を蝕むように、急かすようにその雨は少年へと叩き付ける。泥と塗れた草木は水気を増し、走る足で踏み分けてもいつもよりも跳ね返すような抵抗を帯びていた。一度呼吸を乱せば、踏み込んだ重心は芯中を失ったように崩れ落ちる程だ。荒い呼吸は、余計に酸素を失う。そこには一定のリズムは無く、荒波を打つように不安定だ。それでも少年は一歩でも前へと地面を蹴り上げ、里から離れようと必死に走り続ける。必要以上に煩く鼓動する心臓は、彼の体力を無意識に徐々に徐々にと下げていく。右手に握り締めた尻子玉は瑠璃色に輝き、塞いだその手の隙間から淡く輝きを覗かせていた。少年の背後からは、別の複数の足音と罵声が火矢のように飛び交う。「止まれ!」「どこへ持ち去ろうとする⁉︎」とてもその言葉は、時を共にした仲間に向けた言葉とは思えなかった。言うならば、自分たちを裏切った者へと同族への慈しみは無く尖った刃を過剰に研ぎ澄ませていた。矢ともなり槍ともなった暴力の言葉を、光差し行く方角へ逃げる少年へと浴びせる。少年は、それでも止まらない。同族たちの制止を振り払い、ひたすらに前へと走る。脚を繋ぐ節が引き千切れようと、未完成でまだ整っていない成長盛りの腕を振るう。少年の想いはただ一つ、たった一つの原動力が彼の体力の限界を無理矢理にでも引き延ばしているのだ。
「はぁ・・、はぁ・・、あの子に・・・。あの子に返さなきゃ。」
少年の硬い決心はその速度を緩めなかった。その足がぬかるみに弄ばれ、体勢を崩し転んだとしてもすぐに立ち上がりまた再び走り出す。泥塗れになった身体を払うまでもなく、スタミナなど気にする事無くその脚で地を蹴る。膝も脛もアザだらけで指でも押せば、たちまち痛みは電流でも纏ったかのように全身を駆け巡るのだろう。一刻も早く返したい。その思いだけが少年の唯一、原動力となって痛みを我慢し堪えながらも進む。手に持った尻子玉を握り締め、少年はチラリと視線を移す。河童の一族は尻子玉を人から搾取する事で、晴れて一人前の河童として一族に認められる。河童たちにとって一種の試練と捉えて損色は無い。しかしその重要性は、だた単の試練に限った訳では無い。搾取した尻子玉は、水神様へと捧げられる。奉納し祭り、一族の繁栄と豊作を崇める為だ。毎年行われるこの試練は風物詩でもあり、その年一年の祈願する重要な行事で河童たちの今後の存続に関わるのだ。水神様へ捧げた尻子玉を取り上げるだけに留まらず、持ち去ろうとするのだから同族は当然黙っていられない。直ぐ様、元に戻すべきだと激昂。長い長い年月という周期をずっと行われ讃えられてきた事だ。誰もそれを疑問視はしない。捻じ曲げようとする者も居ない。彼らには彼らの調和が成り立っている。仮に他種族の誰かの犠牲で成り立つ調和であっても、それが自然の摂理の一つと捉えているからだ。故に彼らも必死なのだ。少年を逃せば、自分達がどうなってしまうのか。里がどうなってしまうのか分からない。それがとても不安で怖いのだ。ならばと、その不安の根源となる物を回収し安寧を求めるのがそれもまた自然。
雨水で歪んだ獣道に再び、河童の少年は躓く。無情にも同族の追手は、すぐそこまで来ていた。呼吸は心臓の高鳴る鼓動で乱れ、膝はガクついている。震える手は指先まで侵食され、濡れた土を噛み締める。また立ち上がらなければならない。直ぐに震える脚を振り払い、前へ踏み出さなければ。けれどもぬかるんだ土は少年の想いとは裏腹に、地中へと引き込むように重心を下げる。水分を含んだ土の香りは青臭く、泥で砂利ついた感触が鱗である皮膚を微かに摩擦させる。三叉の槍を携え、迫る同族の追手。近付くにつれて少年の呼吸は慌てるように乱れる。重く速く、不規則に辛く。必要以上に味あう緊張が瞳孔を震わせ、目の前の視界を蜃気楼のように揺らめきを与えていた。捕まれば重罪。その言葉が少年の胸の中で、ズシリと鉛を詰め込まれる。空が落ちてきた程、重く暗く。例えそれは、年端も無い少年であろうと容赦は無い。追手の目的は、あくまで尻子玉の回収のみ。彼の生死は問われていない。重罪を犯したのならば、身を持っての罪なのだから。少年を殺してでも回収せよ、それほどの勢いを持って彼らは切先を向けている。鋭く光を反射させた槍がちらつく。暗がりでも僅かに追手の影が見える。荒ぶる雨と共に着々とその殺意は、すぐ目の前まで立ち込めていた。もう捕まる。もうこの先には罪を受け入れるしかない。少年はそう考え、諦めていた矢先だった。光陰の狭間を縫うように、一閃の一つの影が少年の前に立つ。
「お前は、馬鹿な弟だ。」
駆けつけたのは、少年の兄だった。少年よりもほんの一回り身体が大きい兄がそこに居た。馬鹿だと罵ったがそこに敵意は無い。兄が見せた薄い目は罵った感情は無く、我が弟を心配する眼差しだった。土汚れた少年に対し手を差し伸べ、ほんの一回り小さなその手を掴む。
「コツメ。お前は何故、それを返そうと思ったんだ?」
兄弟だからこそ救いたい。血の繋がりがコツメの兄を掻き立てる。兄の心情は、、一族の仕来りよりもその思いの方が勝っていた。勿論、弟の加担をしてしまえば己にも罪は被さってしまう。だが、いずれ受ける罪に関心は無かった。血の繋がりがある以上、その責任はいずれ家族にのしかかる。ほんのひと時前までは、無事に尻子玉を手に入れ一族として認められた弟。あろう事か捧げられたその尻子玉を持ち去り、持ち主へと返そうとする弟を。賛美から一転した反逆にも等しい少年の行動は、一族の誰もが信じ難く目を疑った。それでも少年の兄だけは違った。コツメに対し真っ直ぐ目を見つめ、心情を理解しようとしていた。
「誰かの犠牲で、幸せになるのは嫌だよ。・・・兄ちゃん!」
犠牲。それは尻子玉を取られ腑抜けと化した人間のこと。一つの慈悲。添えるようにコツメは、その家族に対してだと言葉を加える。河童の繁栄も豊水も、人から摂取される尻子玉を水神へと捧げる事で成り立つ。しかしその繁栄こそ、一つの犠牲から成り立っている事となる。コツメには、その事実が耐え難く衝撃だった。フツリと少年の中で張り詰めた線が千切れた感覚に陥ったのだ。絶句を迎えてしまった少年は落胆したのだ。自らが下した手により一人の人間を、一つの家庭を壊した事実。尻子玉を奪ったのはコツメとも歳が近い子供。その子供は気を失ったように眠り、目を開けても動かない。謂わば植物人間の状態だ。息はするが意識や感情はそこには無い。その現実を突き立てられ哀しむ両親。コツメはその現状を目の当たりにし、漸く自分が犯した事を理解した。知ってしまったのだ。そして、受け止めた落胆は疑問へと移り変わる。何故僕たちはそんな事をしているのか。これは本当に正しい事なのか、と一族としては異端とも言える考えが生まれてしまった。コツメは、いても立ってもいられなかった。幼い考えは、早過ぎた判断だったのかも知れない。それでも脚は一歩でも速く、腕を少しでも遠くにと身体が前へと無意識に動いていた。実の弟であるコツメの突然の行動に、一度は驚いた兄も目の前に映り込む少年の姿を見て、何かを感じ取る。やがてそれは理屈では無い感情となり、握り締めていた拳は次第に緩めていた。追いかけるまでは殴りかかろうとした拳は、今はもうすっかり手を広げて包み込もうとする程だった。だからこそ少年の兄は、両手を広げ庇うように立ち塞ぐ。コツメの進行方向では無い。それは、追手をこれ以上進ませない為だ。
「行けよ・・・、コツメ。お前は、そうしたいんだろ?」
ゆっくりと追手が来る方角へと向き、立ち塞がる。この先は行かせない。兄は、その想いを一点に集中させていた。止めるべきは、兄だったのかも知れない。けれども彼は、それとは真逆の行動をした。この行動が正しいのかと問われれば、視点次第では百八十度反転する。兄は、一族よりも血の繋がったコツメを信じた。これから降りかかる重罪があろうと、彼は決心したのだ。自分よりも幼いコツメが貫いた決心に感化され、兄は何かに気付いたのかも知れない。自分達の常識の違和感に、繁栄と豊水の裏に隠された事実に、自分達が築き上げたエゴに。コツメは言葉を加えずに頷き、また光の差す方へと走り出す。振り向く事は、もう出来ない。また振り向いたら決心は揺らいでしまう、折角再び回り出した原動力が止まってしまうかも知れない。少年はこの里へ戻ることは、もう出来ないのだろう。それだけでは無い、この里の未来にも関わる。それでも、元の者へと返したい。やはりその思いだけが、コツメの足を動かす。でも、自分の力だけでは難しいのだと自分の非力さには気付いている。だからこそ、あそこなら。藁にもすがる思いで少年は手を伸ばす。そう、便箋小町なら・・・。脳裏に浮かぶその言葉は不思議と少年の身体を飛躍させ、一種の活力となって濡れた地を蹴り上げる。あそこならきっと、この思いを届けてくれるだろう。抱いた期待を胸に、少年は暗がりの雨の中、走り続ける。
・・・
・・・・・・。
「そうか、・・・わかった。では、そのままその子を連れて事務所まで来てくれ。あぁ・・、あぁ。では後程。」
カラカラと異音を交えながら回り続ける定年退職をとっくに迎えている扇風機。それでもこの室温は三十度から下回る事は無く、この古びた扇風機では荷が重かった。窓を開けたところで、ほぼ無風である本日の天気では体感温度はまさに蒸し風呂に近しい。水無月の所以とも言える程、照りつける日差しは暑さで水が涸れる勢いを彷彿させる。制約上、出入り口の扉は出入りする時以外開ける事は出来ない。窓はそんな劣悪な環境でもピシリと締め切っており、ブラインドカーテンを降ろしていた。時折、コンッと小槌でも叩いたかのような歯切れの良い音が事務所内を奏でさせる。しかしその音は軽やかな音とは裏腹に、禍々しく歪で憤慨を呈したものだった。苛立ちを露わにするコマチは、その絶妙な職場環境に対してだけではなかった。
「電話は終わりましたかな?コマチさん。」
机に頬杖を付きながら不機嫌なコマチは自分のデスクに座っていた。その目の前に立ち並ぶ複数の男達。その者達は、どうやら招かねざる客では無いようだ。便箋小町への依頼という雰囲気でも無く、何人かは顔馴染みのようでもある。コマチの前にズラリと並んだ男達の内の一人が両手を腰に組み、カツンと革靴を鳴らしながら一歩前へ出る。中央に佇んでいたエンジ色のスーツを身に纏う男は、柔らかい顔立ちから笑みを浮かべていた。綺麗な七三分けの茶髪、サイドはツーブロックで刈り上げた男。整った眉と顔立ち。一七〇センチの背丈で、靴底まで新品のように綺麗に仕立て上げられていた。胸元には、ペリドットが装飾されたループタイを身に付けている。そして傍らには、一八〇センチ程の高身長を持つ老執事のような者も静かに佇んでいた。黒を基調としたモーニングコートをシワ一つなく上品で、見事に着こなしている。髪型は白髪混じりのオールバックだが、さらりと下ろした右側の前髪。エレガント、と云う言葉を身体で具現させた佇まいは、ベテランの執事を演出していた。髭は無く、彫りが深い。鋭く尖った目つきは、人よりも狼に近い。故に日本人離れした顔立ちであった。その者達の背後を守るように黒スーツとサングラスを身に纏ったガードマンが三人。余程、その客人達が気に食わないのかコマチは、机を指でトントンと叩き続けている。いつも以上に眉を歪ませ、重みを増した指の力に添えるように、どっと深めの溜め息を吐く。叩く指は止まる事は無く、苛立ち交じりの湿った唇を彼女は漸く動かした。
「何の用だ?・・・テンジョウ。」
眉を歪ませながら発したその言葉は、エンジ色のスーツを着た男へぶっきらぼうに問いかける。テンジョウと呼ばれた男は、どうにも彼女とはウマが合わないようだ。どちらかと言えば一方的にコマチが嫌っているのか、男に目線を合わせようともしない。その証拠を提示するように「今すぐ出ていけ。」と言い放つように突き放し、出来るだけ同じ空気を吸いたくない。そんな怪訝な態度とは対象的に、男は丸みを帯びた笑顔は崩さずに声をかける。
「浮いた話の用ではないですよ。それより・・・、今時、折り畳み携帯とは相変わらずですね。」
「値がある内は生憎、物持ちが良い方なのだよ。」
ふんっと鼻息を鳴らし、折り畳み携帯を閉じる。コマチは不機嫌に閉じた携帯電話を睨みつける。彼女の携帯電話は彼此十年以上も使われており、剥がれたメッキはその歴史を物語っていた。バッテリーも何度か交換しており、その度に新しい携帯へ機種変更するよう勧められているが断っている。彼女にとって余程の思い入れがあるのか、赤く染まった折り畳み携帯は今も大切にコマチのポケットの中だ。やれやれと両手を上げた彼は、呆れた様子だった。コマチは一度決めた事はガンとして曲げない。その事は、長い長い腐れ縁でも彼にとって良く知っていた。コマチは頬杖を付いた姿勢は変わらず、机を叩いていた指を剣を突き付けるように彼へと向ける。
「それで、#大和__ダイワ__#コンツェルンのおぼっちゃまが何用かな?結界は、掛けたつもりなんだがな。」
「成程!おぉ、あれは結界だったのですか?いや何、多少ピリつくと思いましたが。そうでしたか、あれは結界でしたかぁ。いやぁ、簡単に入れたもので。」
ははは、と皮肉めいた笑いを誘うテンジョウ。頭の血の沸点が上り詰めるコマチは、机を叩く指の速度と力が増していく。その叩く衝撃はデスクに衝撃の波紋が浮かび上がりそうな程、沸々と怒りを現していた。ヒクついた唇を動かし、わなわなと震える肩を抑えながらコマチは憤慨を露呈し始めていた。どうやら彼女にとっては、テンジョウの言葉一つ一つが鼻につくようで地雷だらけの焼け野原に匹敵する。
「で、その多少とやらだが。その隠した両手の荒傷は、果たして別件だと幸いだな。」
この男の名は#大和__ダイワ__#テンジョウ。大和コンツェルンの御曹司である。街の建造物の殆どは彼の会社が担っており、その経営だけでなく貿易までと幅広い分野を網羅している。絵に描いたような一流企業である彼の実態は妖怪。コマチとは対照的に、大きく表舞台で活動する実力者。テンジョウと名乗るこの男だけで無く老執事、その背後に佇むガードマンでさえも人の姿をした妖怪である。コマチのような半妖ではなく、純潔の妖怪達である。妖怪の中では、血筋の位を重んじる者も居る。彼女の血の半分は高い地位の妖怪。けれどもう半分は人間。それだけで揶揄される事もしばしば。そんな彼らを実力で引き摺り下ろし、鷲掴んで叩きつけ、ほくそ笑む様に返り討ちにする。今ではある程度の実力がある者は、下手にコマチへ手を出す事は無い。それは、昔馴染みであるテンジョウと老執事も彼女の実力を買っているからこそ、手を出す事は無い。しばしば冷戦のような口喧嘩をするが、直接争う事はそうそう無いのだ。けれど、そんなテンジョウの眉も彼女の返答に対し少し苦い粗茶でも飲まされたような顔をしていた。
「な・・・、そ、それはそうとコマチさん。最近、こんな噂を耳にしてませんか?」
「河童たちが何やら騒がしいようで。」
立てた人差し指を口元へと当てながら、囁くように話す。その言葉に反応したのかコマチは片目を開き、テンジョウの顔を覗く。彼女の反応に気付くと、テンジョウはニヤリと口角を上げ始めた。職業柄、彼は時事情報の収集は早い。それは後の自分の利益へと繋げる為だ。終着地が利益となるか見極める為に、小さな情報も彼は見逃さない。河童が何かを嗅ぎ回っているというのもその情報の一つに過ぎず、利益への見込みの一つとして捉えている。コマチへと鎌を掛けるように囁いた情報は、コマチから情報を得る為。強いては、利益になるか判断する為だ。当然、コマチは彼の行動に察知している。
「デマカセという訳ではないようだな。全く、耳が早いのだな。金にしか興味がないお前がどういう風の吹き回しなんだか。」
「ふん、女狐め。口を慎め!テンジョウ様の侮辱を申すなら女狐如き、容赦せんぞ。」
先程まで静かに佇んでいた老執事が憤りを見せる。テンジョウを護るように片腕を広げ、それ以上の攻撃を抑止するように仲裁に入る。際立つ冷静さから一変して鋭い眼光をコマチへと向けていた。その睨み付けた瞳は、一戦を交える侍に等しい。一歩でも踏み込めば、忽ち疾風と酷似した太刀が横切る程。老執事は徒手に加えノーガードにも等しい構えにも関わらず、プレッシャーだけで大きな壁を作る。これ以上は近付いてはならない。そのプレッシャーは、直感的にそう訴える。老執事の覇気に気付いたコマチは、そっと見えない刃を鞘へと収めながら口を添える。
「おっと、山犬も居たのだったな。これは失敬。」
コマチは軽く手を挙げ、静止を促す。それ以上の口論は、何も産まないと判断したのだろう。山犬と呼ばれた老執事は、テンジョウが右手を挙げると静かに一歩下がり再び目を閉じる。まるで徹底的に訓練された警察犬、兵隊のようにテンジョウに対する忠誠心が露わに出ていた。逆に言えば、彼の一声でこの事務所は戦場と化す。テンジョウの傍らで静かに佇む老執事だけでは無い。漆黒に身を包むガードマンも例外ではない。徹底された兵は、意図も容易く牙を向ける狡猾な狼に等しいのだ。だが、当の本人であるテンジョウは彼らを静止させる。それは彼の望みの行動ではないからだ。そっと冷静に笑みを加え、老執事へと言葉を返す。
「爺、今日は争いに来たんじゃない。情報交換をしに来たんだ。」
「この爺、伏黒ヤスオミは。テンジョウ様に身も心も捧げております。テンジョウ様に降り掛かる火の粉を護るのも、小生の役目でもあります。」
伏黒ヤスオミと名乗る老執事は、会釈した頭を下げたままテンジョウへと返す。胸に手を当て、忠誠を示すその様は先程の憤りすら感じさせず音の鳴らない風鈴のようだった。
「ありがとう、爺。期待しているよ。」
直れ、と言うようにハンドサインを送り、ヤスオミの姿勢を戻すよう指示する。ハンドサインに気付いたヤスオミは、静かに音を立てることなく頭を上げる。一連の動作を流し見していたコマチも沈黙していた。下手な行動はできない。多勢に無勢。と言うよりは、コマチの思考としては全くの別物だ。勝敗の天秤を掛ける事は無く単に面倒臭く、この整理整頓された事務所を汚したくないだけ。それは、普段整理整頓をしている垂イサムが後で惨劇を目撃した時の第一声が何か目に浮かんでいるのも理由の一つ。だから、コマチも余計な争いに趣く気は無く、堪忍袋をいつもよりキツめに縛り黙々と彼らの話を伺っている。一頻り会話と無言の相槌を交わした彼の会話はどうやら休符が入ったようで、漸くコマチも動く。次の小節に進む為だ。深々と椅子に腰を掛け、腕を組む。
「で、どんな情報が欲しいんだ・・・、テンジョウよ?」
コマチの呼びかけにテンジョウは、視線をコマチの瞳へ向ける。ニヤリと薄い笑みを浮かべたその表情は、友達や恋人にする目ではなかった。御曹司といえど場数を踏んだ一流企業の営業マンだ。利益を得る為の立ち回りも彼は心得ている。今か今かと掛けた餌に獲物が喰い付いた糸を手放さない、ただし表立って真意の感情は露呈させない。それはコマチも同様で、その微妙な表情の変化を見逃さない。人の感情は目の動き、唇、そして僅かな呼吸で変化し、情報の九割は読み取る事が出来る。また妖怪である彼らは、全身を纏う気でもその心情をある程度読み取ることが可能。如何に自分自身を抑えつけ、ポーカーフェイスを気取る事が出来るかを見据える。相手のダウトを取る、むしろここは、[掛かりにきた]が正しいのだろう。テンジョウも感化されたのかコマチと同じように腕を組み、問いかける。
「夜の月は綺麗ですね、と言ったらどう受け止めます?」
「すっとぼけるなよ。答えは、[月なぞ見えぬ]だ、テンジョウ。」
はぁ、と溜息を漏らし、コマチは瞼を閉じる。それは呆れた表情。ワンクッションを加えていたテンジョウは、まだ余裕がある。必要な情報を聞く為に敢えてはぐらかす。コマチはわかっていた。この男は一癖も二癖も面倒で扱いにくい相手であると。その証拠にテンジョウは先程の薄い笑みは取り除き、目を細め突き詰める。
「嘘でも残念ですね。まぁ、与太話はここまで。本題に入りましょう・・・。」
タンっと、フロアタイルを革靴で踏み込み一歩前へとコマチに近付く。一種の小さな綻び。その綻びは僅かな殺気が装飾されていた。
「尻子玉を持った河童の少年は、こちらへ向かわれるのですか?」
どこで仕入れた情報なのか、テンジョウはコマチへ探りを入れる。既に垂とチップが河童の少年と合流しているところまで把握しているのか。テンジョウの情報網は未知数である。だが、恐らくこの男は把握している。その上で、確証に迫ろうとしている。自分たちが最善に行動する為に。
「河童?知らんな。知っていても話す訳がなかろう。依頼主のプライバシーが第一だからな。」
「成程···。垂さん、と云いましたかな?中々良い人材を見つけたようで。」
「出来過ぎた噂話だな、秘密主義者は砂糖菓子を受け取らんぞ。」
「存じ上げてます。愚直に働く良い#僕__しもべ__#ではないですか。」
「辛うじてただの働き盛りなだけだ、そこの山犬や狸どもと一緒にするな。」
「中々うちは優秀ですよ。企業とは優秀な人材の数だけ成長するのですよ。」
「世迷言を。大層な職場環境だな、息が詰まる。」
「類は友を呼ぶといえば、最近珍しい人材が入ったとか。違いましたか?」
「仮に珍しいという概念が君と同一だと胸が痛むがな。」
「何かの予見ですか?あなたが悪魔を従えるというのも。」
「黙秘だな、見え透いた探りばかりで話すと思うか。」
「寡黙なあなたも好きなんですがね。ところで、その垂さんと使い魔は今、M市にと伺いましたが?」
「我田引水という言葉を知らんのか貴様は。フェアにするなら私も吝かではない。」
「いやいや、それは失敬。私は何なりと答えますよ。もっとも、核心なる話であればあなたの看板が廃りませんか?」
「構わんさ、うちは情報屋では無いのでな。依頼解決に至るのならば、仮定に手段は問わないものだ。」
「大同小異・・・、この場合はそう解釈すればよろしいですかね?」
「鼠だって寄らんぞ、貴様などな。全くその情報、つらつらと何処で仕入れたのだか。」
「賢いあなたなら見当が付くのでは無いですか?先程も申し上げた通り、私の部下は優秀なのです。」
「全てがそうだと重畳であろう。下っ端も生地を錬る暇も無いな。」
「泣かぬなら何とやら、という言葉もあります。小さな情報が大きな利益に変わるなら惜しみませんよ。」
「良く言う。棒を振り回していた田舎小僧が、商いとはな。」
「懐かしいお話ですが、それは時代の流れに沿っただけの話。あなたもそうでしょう?」
「梅でも舐めていろ。それはそうと、随分と羽振良く儲かっているようじゃないか。」
「金のなる木を育てるのが好きなだけですよ。それが桜ならば、尚の事。」
「鳥でも入れば、詩でも詠める余裕だとな。それで、見物人はどの程度なんだか。」
「乾いてますね、まだ。百舌鳥がニ、三羽。今も突いているようですね。」
「眠りが浅いんじゃないか、テンジョウ。情報が欲しいのならタバコ屋をお勧めするが?」
それぞれ会話が重なり合うように言葉の弾丸が飛び交う。飛び交う言葉達は、隙間を縫うように空間を遮る。お互い腕を組み、言葉の攻防が繰り広げられていた。それは一種の戦場に近いが、同時に彼らは互いの情報交換をしていた。互いの為であり、悟られない為に。彼らは、彼らにしかわからない隠語を使い情報を共有していた。刹那の休符を置き、テンジョウが右手を挙げる。
「成程。・・・では忠告だけ失礼致します。河童の族が探し回っています。あなたも関わった以上、他人行儀とは行きませんよ?」
やはり彼女の判断は正しかった。既に河童たちは嗅ぎ回っており、近くまで迫っているとテンジョウは言う。だからこそ、彼らは万が一に悟られない為に隠語を用いた。
「愚問だな。私は便箋小町の社長だ。」
コマチは深々と座っていた椅子から立ち上がり、腕を組んだままテンジョウへと返す。その瞳は真っ直ぐに切り開き、遮る雲をも貫き通す斜陽のように。広げた掌はふわりと空いた雲を撫でるようで、一切の迷いも躊躇も無かった。探す為の答えは決まっている。自分の原動力はここにあるのだと言い聞かせるように、彼女は寸分の狂いも見せなかった。
「希望のモノを無事に届けるのが、私の仕事だからな。」
成程、と納得の表情を浮かべたテンジョウは、それ以上の心配は無いと判断したようだ。一見すれば彼は、コマチの言葉のどこに腑に落ちたというのか。その真意は、テンジョウにしかわからない。彼女との腐れ縁という間柄では収まり切らない永い付き合いだからこそ、感じ取れたのかも知れない。相変わらず蒸し暑さに混じった事務所の中は、カラカラと回り続ける壊れかけの扇風機の音。今日はいつもよりそのギャラリーが多い。先程と少し違うのは、不思議と彼女の苛立ちは少し薄まった事。いつの間にかコマチは、机を指で叩く事を忘れていた。その事に気付いた彼女は、薄く笑みを浮かべていた。そう、お互い一杯食わされたと思っていたからだ。それと同時に、やはり侮れないとも。テンジョウは豪語したコマチへ一礼し、後ろの男達を引き連れ事務所を後にした。
またお会いしましょう、と言葉を置き去りにして。