58青天狗の戸惑いへおまかせを
全く、・・・最悪の状況だ。手も足も出ないとは、まさにこの事だろうか。自分の状況は、無様なんて言葉では済まない。青天狗の少女に頭を踏ん付けられて、身動き一つ取る事が出来ない。センの峰打ちの痛みがずっしりと未だに残っている。こんな見た目は少女なのに、その細い足で手も足も出ないとか・・・、これが妖怪と人間の差か。はは、ブッ飛んでやがる。ただ、こうやって目の前の光景を土を噛み締めながら見ていろってか。現実って奴はなんて残酷なのだろう。そして、何より自分の無力さに嘆かわしいったら、ありゃしない。そう、目の前に映る光景とは・・・。
「ふぅーー・・・、ふぅーー・・・。」
「だいぶ大人しくなったわネェ、仔猫ちゃんンン。あと、何本まで耐えられるかしらねェェ・・・!」
蜘蛛の糸で縛り上げられたレタは、今も尚拷問のような仕打ちを受けられている。手足は縛られ、どれだけ踠いてもその糸が千切れることは無い。宙吊りになったまま、猿轡状態で荒い呼吸を零している。レタの指は、既に四本折られていた。十本の指は絹のように細い糸で括り付けられており、それぞれピンと張り詰めている。それをヤヅギが一つ指を僅かな力で上げるだけで、レタの指は括られた糸が連動し、関節を無視した方向へと無理矢理曲げて折る。まるでそれはプラスチックの人形の指を折るくらいに、あまりに脆く容易く、レタの指を折っていた。レタの青黒く変色してしまった四本の指。苦痛も悲痛も許す事無く、その叫びは口ごと封じられていた。ただ、真っ直ぐにヤヅギを涙目になった瞳で睨み付け、少しでもこの拘束が解ければすぐにでも飛び掛かろうとするくらいに。こんな拷問のような行為を受けても尚、彼女の心まではまだ折れていない様子だった。
「ブフゥッ!んぐっぅ!・・・ふぅーーー、フゥゥゥ・・・。」
それでも指を折られるという激痛は、一瞬のものとはいえ想像し難い程に痛々しいものだ。三度目に折られてしまった時に、僕は思わず目を背けてしまったくらいだ。ちょっと、待て。あいつはなんて云った?あと、何本まで耐えられるか・・・だって?まさかこいつ、指を全部折るまでこの拷問を楽しむ気なのか。何故、そうまで焦らす?一思いにその得意の毒を使うなり、食せば良いものを・・・。この行為には、何か意味があるのか。
「良いわぁぁぁぁぁァアア、アナタ!さいっっっっこうぉぉの目をしてるわぁァアア。うンン、唆っちゃうじゃあナイィィィ。その最後まで諦めないその目、抗いたくて仕方ないその眼差しィィィ!素敵よぉ、仔猫ちゃン・・・ッ!」
ゆっくりとレタへと近付いたヤヅギ。レタの両頬をぐりぐりと鷲掴み、ねっとりとした目付きで彼女の目を覗き込む。
「んーー!んぐッ!んぐ‼︎」
「ひひひヒヒぃ、なぁぁァアアんて云ってるかぜーーんゼンわかんないわァアア。これが現実ぅぅ。ワタシとアナタの力の差って奴なのぉぉお。希望もぉ、奇跡も無いわぁ。あぁ、でも何度やっても、コレはやめられないわぁ。ねぇええ、知ってるかしらァアア?」
ヤヅギはぐりんっと身体や首を拗らせ、寸前の距離までレタの顔を不気味な笑みを近付けていた。そして涎を垂らしながら、粘着質な口を開く。
「六本目を超えた辺りからねぇ、だんだんその悲痛の声がぁ♪豚みたいな鳴き声に変わるのよぉぉオ?特に女はねぇ、お下劣にブヒィ・・・って云いながら泣き叫ぶのォ♪アァ・・・早くアナタの声を聞いてみたいわァア。下品でェェ・・・、無様でェぇえ・・・、メス豚のような声をねぇええ、いひひひひひひひひひひいひひひヒィィ!」
化け物が笑いながら、中指をクイっと挙げた。その動作に躊躇は無い。むしろその行為こそが、何よりの愉悦かのように。何の前触れも無く、容赦は切り捨てる。
ベキ・・・ィッ
「ンブィグッ‼︎・・・ん、・・・ッブ・・・。」
「いひひひひひひひひイィヒヒッ、“ンブィグ”っですってェぇえ!良いぃい、良いわぁ、ビンビン来ちゃうワァあああ!」
彼女の五本目の指が折れる音が響いた。悲鳴を押し殺された音ともに。無惨にも、レタの中指もまた酷く折れ曲がる。くそ、この化け物・・・、完全に狂ってやがる。そこまで、僕らに絶望を味わせたいか。そうか・・・、そういう事か。なんて残忍で、身の毛がよだつ考え方か。こいつはただ、己の為の愉悦に浸るだけが目的ではない。これを敢えて粘着質に見せつける事にこそ、この行為に意味があるんだ。拷問される者は苦痛を与えながら、プライドさえも折る。この拷問をするのは、恐らくどれもリーダー格にしかやらないのだろう。そうすることで残された部下や仲間の希望をへし折る。そして何よりも、これらをする事で絶対的な服従を植え付ける為でもあるんだ。その一番の犠牲者であるこの少女へ。逆らわせない、逃さない、恐怖で洗脳し、まともな判断をトラウマで植え付けさせて服従する為だ。
「れ・・・、レタ、さん・・・!」
「動かないで・・・。少しでも動いたら・・・、斬るわよ。」
僕の首元にセンの刀が添えられた。だが、鞘は抜かれていない。やっぱりか、僕は直感した。少女が振り翳した刀は、ほんの僅かではあるが震えている。時折、鞘の中でカタカタと小刻みに震える音すら聞こえる。それはきっと、彼女がこの光景をもう何度も強制的に見せられている証拠だ。彼女がヤヅギの仲間・・・?果たしてそうだろうか。彼女は見えない蜘蛛の糸の籠城に縛り付けられているだけだ。植え付けられたトラウマを断ち切るんだ。彼女を救う手立てはまだある筈・・・、目を覚まさせるきっかけはまだある筈だ。けれど、失敗すればゲームオーバー。僕も、もれなくあいつの胃の中に放り込まれるのがオチ。
ここが正念場だ、垂イサム。僕に何が出来る・・・。能力・・・?力・・・?違う、もっと根本的な、もっと単純なもので、彼女の心を解き放つ事が出来る筈だ。ジャリっと口の中で混ざった砂を噛み潰す。くそ、苦い味で吐き気がしそうだ。けど・・・、少し目が覚めてきたぞ。
「なんで・・・、あんな奴の味方してるんだよ、君は・・・。」
「私には・・・、これしか、これしか道が無いの!」
酷く語気の薄れた声だ。進むべき方向を失った鳥の羽ばたきを聞いているようだ。絶望に伏したその目に輝きは無かった。どこまでも暗くどんよりとした虚空を見つめるように酷い闇模様だった。
「・・・、なんでそう云い切れるのさ。そんな事、無い筈だよ。」
「あなたに私の何が分かるのよ。誰もあいつには敵わない・・・、父上も兄様も、仲間も、皆あいつに食われた・・・。諦めなければ、必ず勝てる?そんなの酷い妄想よ・・・。現実は違う、あなたもこの光景が見えているでしょ?私はもう何度も見てきた。泣き叫ぶ妖怪たちを、それを喜ぶあの蜘蛛を。希望なんて・・・とっくに打ち砕かれたわ。」
「そうだ・・・ね。ぶっちゃけた話さ、君の心境なんて知ったこっちゃないのが正直な意見だよ。けどさ・・・、僕らが何故、ここに来たか覚えているかい?」
トンっと半拍の間が空いた。ほんの僅かな静寂が僕とセンの隙間を通り抜けていくような感覚。センは一瞬ではあるが時に置いて行かれたように静止し、動揺した目を泳がせていた。
「ここに、来た理由・・・?」
「あぁ、そうさ。僕らはあいつをやっつける為に来たんじゃない。もっと、シンプルな話さ。」
「え・・・。」
そう、それはもっとシンプルで理屈とかそんなものは無い。たった一つのシンプルな答えで動いていたんだ。僕は歯を食い縛り、押し付けられたセンの足を押し返すように顔を上げた。ってくそ、めちゃくちゃ重いな、これ。そんな足にどんだけ力込めているんだよ、くそ。ほら、云うぞ。これが、その答えだ。耳の穴かっぽじって、一語一句聞けよ。
「君を、助けに来たんだ・・・!」
「私を・・・助けに・・・。」
その言葉にセンは動揺を隠せなかったみたいだ。押し付けられた足の力は、蝋燭の灯火を吹き消したみたいにフッと消え失せていた。良し・・・、漸くまともに顔を上げる事が出来たぞ。相変わらず景色は最悪だけど、兆しは見えてきた。踏ん張れ、垂イサム。僕が、唯一出来る方法だ!頭を、血が上り切るまでフル回転させろ!
「さっきまで居た悪魔も、狛犬兄妹も、レタさんも、皆初めから君を助ける為に来たんだ。」
「ど・・・どうやって!あなたたちが束になっても勝てなかったアイツに、この状況でどうやって助けると云うのよ!」
「確かに・・・、君の云う通り、今のままじゃ勝てないだろうし君を救う事は到底難しいかもね。」
「そうよ・・・、大体あなた、ただの人間じゃない・・・。妖怪でも悪魔でも、何の能力も持たないただの人間が・・・。」
「そうだよ。僕は、ただの人間さ。影も操れないし、氷や炎なんて出す術を知らない、ただの人間さ。・・・けど。誰かを導く事は出来る筈さ・・・、君だって、本当はこんな事したくない筈だ・・・。」
実際、そうだ。僕には何の能力も無い、ただの人間だ。この身体に流れる血には、悪魔や妖怪が混じっている訳じゃない。形勢逆転出来るような力があるならば、とっくに使っている思いだ。ただ、今この場で彼女を説得出来るのは僕しか居ない。真っ暗な闇に包み込まれてしまった青天狗の心を解き放つ為の説得は、僕にしか出来ない事だ。
センの心は確実に動揺している。縛り付けられた鎖が僅かな緩みを見せているかのように。軋む金属音が徐々に緩まる。黒羽の少女が握る刀は小刻みに震えていた。グラつく立ち位置。彼女は今、とある境界線に立ち止まっている。前に進むのか、このまま立ち止まってしまうのか。気付けば、鞘越しに刃を向けていた刀は僕の首元から少し離れていた。重く閉じていた彼女の唇が静かに震わせながら、小さく開き始める。
「そんなの・・・したくないに、決まってるじゃない・・・。自分が生きる為に、こんな事をするなんて。誰かの犠牲の上に立って、のうのうと生きようとしている自分に失望している自覚はあるの・・・。目を瞑れば聞こえてくるわ・・・、知らない人の叫び声が、悲鳴が・・・。でも私にはどうする事も出来なくて。目を背けて、このままずっと誰かの犠牲で、目には見えない後ろ指を差されながら私は生きていくんだって・・・。」
彼女は反射的に強張りながら震え出す身体を両手で押さえながら俯き、そう話した。自分が生きたかった道はここではないのだと自覚はある。けれど、現実というあの化け物が無情に抑え込んでいるせいで。彼女はこのように塞ぎ込んでしまったのだ。道を閉ざされ、歩む足首にはずっしりと沈む錘を。考える力を失った奴隷のように、ただ自分の命を守る為にヤヅギに従わざるを得ない状況だったのだろう。だったら、その根底を崩せばいい。これは秩序ではない、傲慢で埋め尽くされた独裁政治に等しい。僕は生唾を飲み込んだ。半拍程の呼吸をし、意を決して言葉に音を乗せる。
「だったら、今からでも前を向けば良い。それを解き放つなら、その根底からぶち壊せば良いのさ。」
「・・・ッ⁉︎」
「僕らは、初めから君に手を差し伸べている。君の過去の事なんて知らないけどさ、僕は今の君を救いたい!何故、君の家族が君を最後まで残してくれたか。それは君に希望があるからだよ、君を最後まで愛していたからだ。君は・・・、本当にこのままで良いのかい・・・?この、身勝手なトラウマに縛り付けられたままで‼︎」
少しずつ腹に食らった鈍い痛みが引いてきた。僕は土を引っ掻く勢いで、その手に力を握り込んだ。重くずんぐりとした重力に逆らうように上へ上へと、上体を徐々に起こしていく。その時、とある事に気付く。この感覚はきっとそういう事だ。だとしたら、あとはタイミングだけ。本当にあいつは、いつもいつも良いところで・・・。いや、何。こっちの話さ。そんな独り言に、僕は首を横に振った。
話を戻そう。彼女は震えている。その戸惑いが露呈する程、口元は震えていた。その一歩を踏み出す為の勇気を絞り出して。雁字搦めにされた鎖を解き放つ為に、分厚いガラスの壁に一つ、二つと亀裂を作り出す。ピシリ、と響く兆しとなる音。僕は上体を起こし、彼女の目をじっと見つめた。逸らしてはいけない。東雲色の瞳を、夜明けを兆す暖かい色の瞳を。
「わ、私は・・・。」
「君のその翼は広げる為にある筈だよ。その刀は弱者を虐げる為に握っているものじゃない筈だ。じゃあ、何の為に振るうんだい?ここで拘束を断ち切る自由が、君にはその力が・・・、本当はここにある筈だよ!」
僕は自分の胸を強く打ち付けるように叩いた。心の臓・・・、更にその奥。中を覗いても決して目では見えないもの。自分が自分である為のたった一つの、唯一の存在。そう、全ては彼女の心次第・・・。何者でも無い唯一無二の心。破れ、その鎖を・・・。
ピシ・・・、ピシピシ・・・
蹴り飛ばせ、その錘を・・・。
ピシピシピシ・・・
黒羽の少女の呼吸は荒くなる。過呼吸気味に荒く、深く、重い息を溢す。それを抑え込もうと胸に手を当てていた。
「・・・しい。・・・・・・って欲しい・・・。」
掠れ混じりの声が木洩れ始める。何度もその言葉を呪文のように唱えるように。大丈夫、君ならきっとそれをきちんと云える筈だ。ゆっくり確実に、呼吸を整えて。弾き飛ばしちまえ、その薄っぺらいガラスの壁なんか・・・。
ピ・・・シ・・・・、ギ、ギギギギギギギギギギギ・・・
「そうだね。」
瞳を閉じ、すぅーーーっと彼女は大きく息を吸い、震えていた口元がピタリと止まり出す。再び瞳を開けると、幻想的で輝かしい本来の色味である東雲色の瞳がこちらを覗かせていた。涙に潤うその瞳は幾重のプリズムとなって、確かな魂が込められた夜明けに目を覚ます陽の光のようだった。
ピ、シィィィィィーー・・・ン
「助けて、欲しい・・・、私を助けて欲しいッ‼︎」
「あぁ・・・、待っていたよ、その言葉を。僕らは、君の力が必要だ。」
それは確かな音。何かが弾けて、炸裂して、目の前の壁をぶち破った音。漸く抜け出したんだ、その呪縛から。自分で断ち切った瞬間なのだ。良し、これなら・・・。あぁ、そうだ。もう、頃合いだろう・・・。僕はこれでもかと、大きく息を吸った。これが、僕の戦い方だ!もうここまで来たんだ、もう後戻りは出来ないぞ。さぁ、出てこい・・・、相棒・・・ッ!
「チップうぅウゥッぅぅううううううううううううううううううううううううううううウゥゥゥゥゥウウウうーーー・・・ッ‼︎」
その声は高らかにこの森に響き渡った。その時、全ての視線が僕に集まった気がする。ヤヅギもレタも傍らに居るセンも。全ての視線が集中している。その時、僕の影が急に大きくなる。何倍も大きくなって、やがて立体的に影は浮かび上がり・・・、飛び出す。
「おうよッ!呼ばれて飛び出てジャンじゃジャ~~~ン!漸く見つけたぜ、イサム!」
「あぁ・・・。・・・遅いよ、チップ。」
そう、僕の影から現れたのはチップだった。それもご丁寧に両腕にはあの狛犬兄弟付きだ。彼らのそれぞれの腕を無理矢理引っ張りながら、この悪魔は颯爽と現れてくれた。ソーアもシウンも、突然の現象に何が何だかわかっていない状況なのだろう。謂わば、一種のワープみたいなのをされたんだから。チップは影と運を操る悪魔だ。色々と試して分かった事を実行した。こいつは、かなり限定的だが影と影を移動する事が出来る。ある程度の距離であれば、瞬間的に対象の影まで移動出来るのだ。ただし、長距離の移動先は自分が知っている“気”に限る。チップと正式に相棒を組む事で、僕の気を察知した地点であれば数秒で移動が可能なのだ。そんでこれが最大の欠点。この影ワープ(仮)は、夕暮れ限定の技である。
「って、うぉ⁉︎なんだこりゃ、どういう状況だよコレ!」
「ににに兄さん、レタが!」
キョロキョロと周りを把握しようと見渡すソーア。彼が混乱するのも仕方が無い。何せ、とんでもない状況だからな。いち早く察知したのはシウンで、逆さ吊りに捕らえられ拷問を受けているレタに気付き指を差す。それを見た三人は戦況がかなり危機的状況だという事を理解し、その目に殺気を込めさせていた。だが、そこにもう一つ。ねっとりとした粘着性の笑みを浮かべた巨悪がこちらを覗き込む。
「アラララアラぁ・・・、みんなお出ましのようネェえ!手間が省けたわァア。」
ぐりんと人の形をした首とは思えない程に、百八十度回し不気味な笑みをこちらへと向けていた。それは一目でも見れば背筋が凍り付きたくなるくらいで、ゾッとそこから恐怖で覆い被さろうとしている。ソーアはその惨状を見て、逆鱗に触れる。目を丸めさせ、眉を鋭く尖らせていた。
「あんにゃろぉ~~・・・、うちのリーダーになんて事を‼︎」
怒りを込めた拳はキリキリと力を込めさせ、小刻みに激昂した体躯は震えていた。丁度、その時の事だった。今までに感じた事の無いマナの流れが風に乗って、僕の肌へと伝う。鋭く尖った電流を直に浴びたような感覚は、チップやソーアたちから感じるものではない。当然、目の前に対峙するヤヅギでも無い。感じてくるのは、丁度僕の傍ら付近からなのだ。
「あぁああああああああああああああああああああ‼︎」
ふと横目を移すと、そこには鞘に納めている刀を強く握り込むセンの姿があった。刀を素早く抜けるように足を大きく開き体勢を低く構え、自らの身体から流れ込むマナを集め込むように集中していた。それはすっかり彼女の中で何かが吹っ切れたような、今まで自分を縛り付けていた鎖を吹き飛ばすような勢いだった。彼女のその叫びは、自分への怒りと巨悪の根源となるものへ向けた怒り。ただ、その激昂は我を忘れる程ではない。どちらかといえば漸く我に返る事が出来た喜びも混じっているのかも知れない。彼女は屈んだ片足を数センチ滲み寄るように前へ出す。半拍の呼吸が時までも飲み込む。そして、加速する。
ーピシンッ
「・・・えっ?」
それは一瞬の出来事だったのだろうか。瞬きすら許さないその僅かな時間に何が起きたのか。僕のすぐ近くに居た筈のセンがその一瞬だけ姿を消したように見えた。先程と明らかに違うのは、いつの間にか剣を抜いていた事。ずっと鞘に仕舞い込んでいた刃が漸く、その姿を現していた。けど、なんだろうあの刀は・・・。ただの、刀ではない・・・。いや、それよりもあの化け物を何とかしないと!まずは何とかレタを救出して、奴から引き剥がさないといけないんだ。レタを人質に取られては、折角人数が居てもまとも動く事なんて出来ないぞ!・・・なんて、そう思っていた矢先だ。
す・・・とん・・・どちゃ・・・
「あ、あラァ?・・・ワタシの脚が・・・?」
突然、ヤヅギの左前脚が斬られていた。まるで超音波カッターで切断したように綺麗な断面を残し、その不気味な脚を切り離す。まさかあの一瞬であの化け物に近付き、あの独特な刃を持った刀で斬り捨てたのか。全く目に映らない速度だ。そう、あの刀の形状は異常だ。少なくとも僕が知っている刀と比べると違和感の塊でしかない。柄や鍔は一般的な刀ではあるけれど、問題はその刀身だ。異常に薄いのだ。それは紙一枚の断面と然程変わらないくらいに。それなのに通常の刀のようにしっかりと固定されてはいるが、見る角度によっては鍔から先が何も無いように見えてしまう。ひょっとして、あんな紙一枚くらいの薄さの刀で、ヤヅギのあの硬い装甲のような身体を断ち切ったのか。な、何なんだ・・・、あの刀は・・・ッ!
「センッ!」
僕は思わず彼女に向かって叫んだ。なんでこんな時に彼女に声をかけたのだろう。あぁ、そうだ。まずは、あいつが何かしでかす前に、レタを優先的に救助しないと!そう思っていたのだ。さっきのセンの一太刀に驚いてしまい、すっぽりその後の言葉が引っこ抜けてしまったみたいだ。だがセンと目が合うと彼女は無言でコクリと頷いてくれた。どうやら、こちらの意思を汲み取ってくれたらしい。何となくではあるけれど、彼女の口からは「わかった。」と静かに答えてくれたように感じた。
「見えなかったァアア?このワタシがぁ、あんな小娘の攻撃が、見えなかった・・・?」
「当たり前じゃない・・・。アンタなんかに!」
「ど、どう云うつもりかしらセンン!ワタシに楯突く気かしらァアア⁉︎」
斬られた前脚の断面を見つめながらヤヅギはわなわなと震えながら、センを睨み付けていた。それでもセンは、奴から発せられる怒声には動じなかった。自分の呼吸のペースは乱さず、冷静に刀を再び鞘へと納める。キンっと弾みの良い金属音を奏でると、再び柄に手を掛けながら体勢を低く屈めるように構え始めた。
「アンタなんかに、私の太刀筋が見えてたまるもんか!」
ピッ・・・シシシシシシぃィィィン
何が斬れる音。ピンと張り詰めていた糸が次々に弾くように斬られる音だ。そう僕がその現状に理解したのは、そのすぐ後の事。彼女が斬ったのは、レタを縛り上げていた糸そのものだった。枝に括り付けられていた極太の糸も、ヤヅギの指に繋がるように張り詰めていた細い糸も彼女は一瞬にして切り捨てたのだ。だが、そうなるとレタを支える糸が無くなった以上、このままでは彼女は頭から地面に真っ逆さまだ。
「うぉ・・・っとと、危ねぇェ!」
流石、僕の相棒・・・とでもいうべきか。あいつの判断は驚く程に早かった。動物的で野生的な勘を持つチップは、どうして戦いにおいてはこんなにも頼りになるんだろう。チップはレタが落ちる寸前のところで彼女をキャッチし、何とかその難を逃れる。いつものチップであれば、買い物袋でも重いと駄々を捏ねる様を見せるが今のこの時間帯は違う。力が解放される夕暮れ時だからこそ、本来の力ほどではないが力を取り戻しているからこそ成せる業なのである。だが、しかし何故ここでお姫様抱っこで拾い上げたんだ、チップよ。
「んー!んッ!んッ!」
「姉ちゃん、大丈夫か⁉︎」
チップはレタの口を塞いでいた糸の塊を掴み取り、無理くり引っ張って剥がした。まるで何日振りかの新鮮な空気が、彼女の口元に流れ込む。
「ぷはぁ・・・、はぁ・・・、はぁ、あ、ありがと・・・、悪魔くん。」
彼女の表情は満身創痍そのもので、かなりの体力を消耗しているようだった。無理も無い、あれだけの拷問も受けたのだ。痛々しくも折れ曲がった五本の指が拍車をかけるように、そう物語っている。それに逆さ吊りされていたせいで、意識がまだ朦朧としているのだろう。少し彼女を休ませないと。そうセンに伝えようとすると、既にセンはその場には居なかった。彼女もまた動きというか判断が早い。既にもう、センはレタのところへと駆け寄っており頭を下げていた。
「レタさん・・・、これを・・・。」
「そ、それは・・・?」
彼女が取り出していたのは、刀の頭部分だ。中には白い半練り状の固形物が見える。丁度ヘアワックスに似たような材質にも見えるけど、あれはまさか薬だろうか。
「痛みを和らげる薬よ。さっきは、本当にごめんなさい。大丈夫、今度のは、ちゃんと本物だから・・・。」
「ありがとう。でも、これが終わったら・・・、ちゃんと、精算するわよ?」
「えぇ!・・・覚悟の上よ!」
チップはセンが差し出した薬を受け取り、急いでレタの患部へと塗り込んでいった。センはそれを見届けると、改めて刀身を露わにした切先をヤヅギへと向け、レタたちを守るように立ち塞がる。すると態勢を立て直した狛犬兄妹も準備万端のようだ。狛犬の姿をしているけど、もしかしてあれはシウンだろうか。白銀のような狛犬に跨るのは太刀を携えるソーア。ソーアもまたその太刀をヤヅギへと突き刺すように向ける。
「さぁ、クモ野郎・・・。最終ラウンドだ!正義の味方の逆転劇、見せてやるぜッ!」




