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便箋小町  作者: 藤光一
第二章 雨やどり編

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56起死回生の一手へおまかせを

 奮闘した狛犬たちはその姿を保つ為のマナを使い果たし、人の姿へと戻っていた。身体は人に戻っても彼らの状況は芳しくはない。シウンは蜘蛛の糸で木に括られてしまい、ソーアも神経毒で動く事が出来ない。当然マナで成形された武器も枯渇してしまい、砂に溶けるように消えていた。そう、数歩遅ければ絶対絶命だった。そんな折に颯爽と姿を現したのは幼女の姿をした悪魔、チップ。その雰囲気は先程までとは別人で、自信に満ち溢れている。

 時刻ーーこれこそが幼女の力を最大限に引き出す要因の一つだ。夕暮れ時という最も影が色濃くなる時刻。チップの背中からは漆黒に染まった腕のような形をした影を数本生やして、幼女の呼吸に呼応するように蠢いている。ゆらり、ゆらりと。色濃くなった影を靡かせ、真紅に輝くその目を更に鋭くさせていた。そのプレッシャーは言うまでも無い。先程の比ではないと言う事は、ゾクリと背筋をざわつかせる鬼哭丸が直感していたからだ。滲む冷や汗に、歯軋りを起こす。


「おいおいおいおいおい~、やってくれるじゃないの~?不意打ちなんて、流石悪魔だねぇ~?」


「当たり前だろ、ズルく賢くが悪魔のモットーだぜ?」


 静かな怒声を込めた言葉に添えて、チップは中指を高々と突き立てる。悪魔と妖怪、それは似て非なる存在。相反する訳ではないが、絶対的に異なるもの。プライドや信念、そんな重荷を背負う必要は無い。売った買ったの喧嘩に拳を交えて勝敗を決めるだけのシンプルな事。仲間を傷付けた目の前の妖怪をただ殴り飛ばすだけ、そんな静かな怒りを込めた眼差しをチップは飛ばしていた。だが口元は嘲笑うように大きく開けていた。ステージの条件は変わったからだ。自分が最も力を発揮できるこの夕暮れ時を。誰に寄せ付けさせないその自信に溢れたプレッシャーを飛ばし、鬼哭丸を小馬鹿にするように見つめていた。


「は、はは。けど、君がさっきの一撃で俺ちゃんを倒せなかったのが運の尽きって奴だよね~。」


 そのプレッシャーに押し負けてしまっているのか、鬼哭丸の指を差したその人差し指は無意識にふるふると震えていた。気付けば声も震えている。その違和感に鬼哭丸は余計に動揺し始める。何故、自分がここまで震えているのか。さっきまで圧倒的な差で戦況を蹂躙していた筈なのに。まだ奴からは何も攻撃を受けていない筈なのに。何故、自分はここまで震えているのかと、動揺は額に溢れる冷や汗を作り出し、目を大きく丸める。するとチップは左眼を塞いでいた真っ黒な眼帯に手を掛ける。


「・・・“運”か。テメェが俺にそれを云うってのは滑稽だな、おい。・・・三下がよ。」


 眼帯のベールを解くと、そこには長く封印されていた深紅の眼が姿を現す。血潮のように紅く、影に覆い尽くされたような真っ黒な結膜がよりその赤い眼を強調させていた。


「ち、チップ、気を、つけろ!こ、こいつも神経毒を持っている!刺されたらお前だって・・・!」


 神経毒にやられたソーアは搾り取るような声を振るわせながら、必死にそれを伝えた。戦況を見つめる為に顔を上げるのも精一杯なくらいで、痺れた身体は中々言う事を聞いてくれなかった。だがその言葉にチップは首を横に振るい、ソーアのそれ以上の言葉を静止させた。


「安心しろ、・・・安心しろよ、ソーア。運はいつだって、・・・俺の味方だ。」


 解いた眼帯をポケットに仕舞い込み、腕を組みながら覇気を溢す。そんな仕草に苛立ちを覚えた鬼哭丸はわなわなと歯軋りを強めていた。


「ほざけッ、クソガキが!どうせ、お前だって俺ちゃんの動きが見える訳無いんだから~!」


 鬼哭丸の言葉は強ち間違いでは無い。その宣言通り、時を止めたような速度でチップへと突進し始める。身体を大きく旋回させ、高速で繰り出す飛び回し蹴り。間合いを一気に詰め、拳一つ分の距離まで鬼哭丸の踵が降りかかる。チップは特に構える事無く、むしろ構えとしてはほぼ無防備に近い。鬼哭丸は確信していた。これは躱せない、やはり力が解放されようと強くなろうと関係無い。自分の早さに追いつけないのであれば、敵では無い。ここまで距離を詰めた状態でまだこちらに気付く素振りすらないのだ。これは躱せない、そう確信していた。だがーー


「おっと!」


 チップはその超高速で繰り出された飛び回し蹴りを、寸前で後ろへと軽く逸らして回避する。その時、互いの眼がぴたりと合う。確信から崩壊した呆気に取られるような鬼哭丸の眼とそれを嘲笑うように見つめるチップの眼。


「なっ⁉︎」


 躱せる筈の無い攻撃に目を疑う鬼哭丸。そんな馬鹿な事があるか、この攻撃は完全に奴を捉えていた筈。なのに何故この攻撃を躱す事が出来るのかと疑念が視界を曇らせていた。


「おー、速い速い。俺じゃなきゃ見逃してるね。」


 僅かな動作で鬼哭丸の蹴りを回避したチップは軽く逸らした身体を戻し、埃を払うように肩を数回叩く。


「てめ・・・ッ⁉︎ふざけ・・・やがってんじゃねぇぇヨォぉぉぉ‼︎」


 鬼哭丸の瞳孔に映し出されたのは、チップの嘲笑うような挑発。流し見るような目付き、それが鬼哭丸の逆鱗に触れた。眉は吊り上がり、八つの目はどれも沸騰したような怒りを露わにしていた。


「この!このッ!このぉオォオオオオ‼︎」


 連続で振るう回し蹴り、振り返りざまに繰り出す背中の脚で槍のような突き刺し攻撃。しかしそのどれもが紙一重で躱される。体制を屈め斧を振り回すような足払いを行うが、これも寸前でチップは見切りトンッと一歩下がるだけで回避した。それでも追撃は終わらない。足払いから地面に手を付きながら、反対の脚でローキックを行うもやはり当たらない。がむしゃらになった鬼哭丸は地面に手をついたまま逆立ちをし、コマのように回転しながら連続蹴りをする。流れるような連続技はまさに風の如く。だがやはり、その攻撃もチップの身体を捉える事は無い。ふわりと幼女の髪を靡かせるだけで、その小さな身体を掠めるので精一杯だった。幼女は影を潜めた口元にニヤリと笑みを浮かべた。


「どうした、三下。全然、そのクソガキに当たらねぇなぁ、おい?」


「う、煩いッ!」


 冷静さを掻いた鬼哭丸は、苛立ちを隠せなかった。何故、こんなにも速く動いていると言うのに当たらないのか。そればかりの疑問符が頭の中を埋め尽くしていた。そして鬼哭丸は、必死に戦っている最中に気付かされる。


(何故、俺ちゃんがこんな奴に息を、切らしている・・・?何故だ、無意識に手加減なんてしていない。何故、あいつは俺ちゃんが速い攻撃をしているのに・・・、あいつは息のひとつ切らしていないんだ・・・⁉︎)


 じわりと滲む汗が鬼哭丸の頬を伝う。そう、鬼哭丸は一度たりとも手加減などしていない。既に全力で動いている。先程から溢れる汗は単に焦っているだけではない。確実に体力の消耗から発汗しているものだ。一体どんなトリックを使えば、自分の攻撃をこうも易々(やすやす)と必要最低限の動作で回避できるのかと。鬼哭丸の中で迷走が加速する。


(これがあいつの実力だって事か~~・・・?そんな訳が無い、俺ちゃんは特別なんだ・・・。そうだ。俺ちゃんはただの八握脛(ヤツカハギ)じゃない、特別仕様の才能を持っているんだ・・・。だったら、だったらどうして!)


「なんで、俺ちゃんの攻撃が当たらねぇーーーんだよぉぉぉ‼︎」


 鬼哭丸は空に向かって怒声をぶつける。覇気を放出し、背中からは再び蜘蛛の巣状の禍々しいオーラを纏わせていた。背中から生えた脚を更に長く、そして太くさせた。それはもう、自在に間接を曲げる事が出来る大槍そのもの。長く伸びた四本の大槍が一斉掃射された弾丸のように連続突きをした。一発一発が異常に速く、目で追うのも至難の業の筈。それでもチップは、深紅の眼を滲ませながらすんなりと一本一本確実に躱し切っていた。


「な、なんで、あいつ・・・。」


「チップくん・・・一体何を・・・⁉︎」


 狛犬兄妹はその光景に驚いていた。あれだけ自分たちを追い詰めていた鬼哭丸が劣勢に見えてしまっている。開いた口が塞がらない二人は、ふと互いに目が合う。これは何か幻を見せられているのではないかと疑心するくらいだった。()()であれば、あんな猛攻が来てしまったらどれだけ冷静であっても回避どころか防ぎ切るのがやっとだろう。二人はそう思っていた。それを軽々とやり遂げているあのチップという悪魔は、本当に何者なのかと眼を疑った。自分たちは一体、今何を見せられてしまっているのかと、目の前の()()に意表を突かれていた。


「くそ、クソ!クソクソクソクソォ‼︎・・・こんなに速く、こんなに・・・攻撃を打ち込んでいるのに!」


「さぁ?なんでだろうな・・・?だが、折角だ・・・。一つアドバイスしてやるよ。」


 右眼を開けてから一度も握らなかった拳が漸く、キリキリと軋ませながら強く握り込まれた。ダンっと小さな身体から想像出来ない程の強い踏み込みを地面に穿ち、鬼哭丸のすぐ懐まで瞬時に迫り来る。


「相手を攻撃する時は、こうやってよぉ・・・。」


 その時、ちらりとチップと鬼哭丸の目線が合う。鋭く尖った眼光、それはもう五分前の幼女のものではなかった。幼女の小さな身体から溢れ出すトリビュートの面影。漆黒の影の悪魔が冷たいナイフをギラつかせるような鋭い紅眼。感覚は時間を超越する時がある。時を加速させたり、もしくは数秒のスローモーションが生まれるような感覚。一流のアスリート同士が時折体感するというゾーンに近い。この瞬間は一秒にも満たない。けれど、鬼哭丸には違って見えた。

 ゆっくりと、そしてじっくりと焦ったいくらいなスロー再生を見せられている感覚。その感覚に触れた時、殺気は訪れる。来る・・・、そう思った時には遅かった。チップの握り込んだ拳はしっかりと鬼哭丸の鳩尾を捉えていた。時は元の速度に戻るように加速する。ズンっと響き渡る重低音が鬼哭丸の身体目掛けて衝撃と共に降り掛かった。


「ぶッフゥゥおおおおおーーー⁉︎」


 しっかりとミートしたチップのボディブローは、勢いを殺す事無く鬼哭丸を吹っ飛ばした。


「相手の目ん玉見ながら、ぶん殴るのが基本だ。」


「ごほッ、ごほ・・・ぶへぇ・・・、な、なんで、だよ・・・。なんでお前は当たって、俺ちゃんのは・・・。」


 鈍重な痛みが腹にしっかりと居座り、たった一発の攻撃に咳払いと嗚咽が止まらなかった。堪らず未だ痛みが走る腹を抱えながら、鬼哭丸はよろよろと立ち上がる。気付けば、自分の膝が笑っている。武者震いとはまた違う、これはどちらかというと恐怖を目の当たりにしたそのもの。強者に出会した感覚だ。チップは一歩前に踏み込む。自信に満ち溢れた一歩を、そのプレッシャーは鬼哭丸にとって尋常ではないものだった。


「すげぇだろ?俺は影と運を操る悪魔だ。もっとも、それが最大限発揮できるのはこの時間帯・・・夕暮れに限るがな。」


「影と・・・運・・・だと?」


「あぁ・・・、だから運を操ればテメェの攻撃は当たらない、俺が殴れば全てクリティカルって訳だ。」


 鬼哭丸はチップのその言葉に唖然とする。わなわなと震える様は、満杯のコップを持てば溢す程だった。チップはボサボサの前髪を右手で掻き上げると、深紅の瞳を輝かせていた。


「だったら‼︎」


 鬼哭丸は再び不気味な覇気を出す。体内に内包していたマナを絞り出すように放出し、彼の背後に蜘蛛の巣状の覇気が浮き出す。一回り大きくなっていた四本の脚に爪先を更に鋭利にさせた。鋭く尖った爪からは青紫色に鈍る毒腺が溢れ出す。腕や足の表面は血管が力強く浮き出しており、一切の無駄な脂肪を省いた隆々とした筋肉質な体型へと変化させている。両膝と両肘からは突起した槍のような棘を出し、それがやはり毒腺であると言う事は言うまでも無い。


「うぉ、またあいつ身体が変わりやがった・・・。」


 身体を更に変化させた鬼哭丸の顔は、血で滲ませたような目をしていた。八つの瞳を赤く充血させ、目の周りは血管を浮き立たせている。口からは無骨な一対の鋏角(きょうかく)を露出させていた。


「八本の神経毒針付きの攻撃だ!いくら運が良くってもよ、一発でも当たればこっちはラッキーなんだよ‼︎」


 先程までの飄々とした雰囲気や口調はそこには無く、怒りを露わにするように本能が表向きにさせていた。それは怒りだけでなく、鬼哭丸自身の焦りもあるのかも知れない。目の前に対峙するこの悪魔は本気でやらないとヤられる。こいつに出し惜しみをしてはいけない。少しでも速く確実に、まずはあの悪魔に毒を注入させ動きを封じさせる。動きを封じた後は確実に急所を射抜き、機能を停止させるだけだ。鬼哭丸はそう思っていた。八つの目が鋭く睨みつける。半拍の呼吸を置き、動き出す。チップの急所となる部位、関節目掛けて鋭利になった巨大な毒棘で迎え撃とうとする。だが・・・。


「ガトリング・デストラクション‼︎」


「アババババババババっばアバババババババババッバアババッバッっばあああ~⁉︎」


 チップの懐に飛び込もうとした鬼哭丸に襲い掛かったのは、無数に飛び交う黒い弾丸の雨。腕を組んでいたチップの背中からは、影で成形された八本の黒い腕を具現化させていた。だがただの黒い腕ではなく、それぞれの先端には機関銃のような銃口が象られている。銃口から放たれる無機質な発砲音。タタタっと小粒の雨が地面に穿たれるような音を静かに奏で、そこから発砲される漆黒に限りなく近い黒い影の弾丸。一発一発が針のような形状をしており、毎秒百発余りの弾を放出させる。それが八本の腕から放たれるのだ。

 合計にして毎秒八百余り。それはあまりに一方的で、無慈悲極まりない圧倒的な制圧力。蜂の巣状とはまさにこの事か。突然飛び交う無数の弾丸に意表を突かれた鬼哭丸は防御が間に合わず、無慈悲な一斉掃射が反撃の隙を与える事無く浴びせた。怒りと焦りで我を忘れ、攻撃に一点集中させていた鬼哭丸にとって予想外の攻撃。針金状の弾丸は次々と鬼哭丸の身体を貫く。弾丸が突き刺さった頃にはもう遅い、無数の弾丸を対処する暇も無くただ受けてしまうだけ。堪らず鬼哭丸は膝をついた。絶望に伏した表情を浮かべながら、両腕をだらんと脱力された状態で垂らし、口を空に向けて呆けてしまった。十秒に満たないその一斉掃射をチップは、演奏を終えた指揮者のように合図を送り、その撃ち方をやめた。八本の銃口からは硝煙のような煙を吐き出していた。影は形を残さない。放った影の弾丸は薬莢も弾丸も残す事なく消える。


「だから三下なんだよ、テメェは。たかが八本が、この無数に飛ぶ影の弾丸に勝てる訳ねぇだろ。」


「はぁ・・・、はぁ・・・。」


 絶望に満ちた鬼哭丸はパタンと尻餅までついてしまっていた。焦りは、ほんの僅かなきっかけで恐怖へと一変させた。そんな異形の蜘蛛の妖怪を、冷たい眼差しで見下ろすチップ。その覇気は、もはや雲泥の差。突き出した肘と膝の毒棘はへし折れ、背中から出した四本の脚でさえ針金状の弾丸で撃ち抜かれてしまい、殆ど跡形も無い程だ。呼吸は乱れる。落ち着けと思えば思う程、その鼓動は加速させる。


(可笑しい・・・可笑し過ぎるだろ、なんだよこいつ。なんで俺ちゃんの攻撃が当たらねぇ?しかもあいつの攻撃、一発一発が強過ぎるっての・・・。背中の脚はもう使えねぇし、・・・無茶苦茶だろ、こいつ!)


 迷い、焦り・・・。そして、確実に訪れるであろう死への足踏み。彼は直感する。このまま迎え撃てば、死ぬ。だが逃げるような脚はもう無い。先程までの高速で動き回るようなクオリティは、もう持ち合わせてはいない。ただ一つ解せないのは、自分とあの悪魔の間で何があってここまでの戦力差が生まれたのか。マナの総体量はそう変わらない筈だと鬼哭丸は睨んでいた為に、余計に解せなかった。ならば要因は何なのかと・・・。それを嘲笑うようにチップは腕を組みながら、冷たい笑みを口元に添えながら滲み寄った。


「・・・“なんで?”って思ってるだろ?なんで、俺に攻撃が当たらねぇか。そんな事ばっか思ってるだろ?」


 チップが発したその言葉は、まさに鬼哭丸にとって図星だった。


「はぁ・・・、はぁ、テメェ一体何しやがった⁉︎」


「あぁ、良いぜ。種明かし、してやるよ。」


「・・・?」


「俺は運を操れる・・・、ってのは、ありゃあ嘘だ。操れてもそこまで高性能じゃねぇんだわ、今の俺はな。」


「へ・・・?じゃあ、一体・・・⁉︎」


 またしても鬼哭丸はこの悪魔に意表を突かれる。チップは手で払うようにシュラグを振る舞う。鳩に豆鉄砲を食らったような表情になった鬼哭丸は、その真実を突きつけられ時が止まったように固まった。するとチップは徐にパーカーのポケットから小型の試験管を取り出す。その試験管はコルクで栓をされていた。限りなく黒い液体が試験管の中で泳いでいる。


「お前、戦いを楽しみ過ぎて鼻でも曲がってんじゃねーか?まだ気付いてねーみてぇだけど。」


「・・・⁉︎」


 親指でコルク栓を弾き飛ばすと、試験管からふわりとある匂いが漂い始める。その匂いが鬼哭丸の鼻を通り抜けた瞬間、彼は漸くこれまでのカラクリを知る事になる。芳醇で香ばしい香り。しかしその匂いは、通常の()()を何倍も凌駕する程の色濃く圧縮されたもの。


(これは・・・、なんだこの臭いは・・・?この独特な、ツンと来るナッツを茹でたみたいな臭いは・・・。)


「漸く気付いたみたいだな、三下。これはカフェイン、それも超高濃度のな。ジェニーのドローンからちょいとばかり貰ったぜ。これを影に纏わせながら戦う。・・・すると、あら不思議!お前はすっかり酔っ払いと同じって訳よ!」


 そう、この悪魔が用意したのは超高濃度に圧縮されたカフェインである。それは先の戦いで煙幕代わりに用いたものだ。チップは自分の力を最大限に発揮出来る時間をただ待っていただけではない。この戦いを攻略する為の仕込みも行っていた。ジェニーが操るドローンからそのカフェインを拝借し、自分の身体や影に纏わせ戦っていたのだ。何故、そんな事をしたのか。その理由は刻々と足踏みをしながら近付き始める。


〈あれをちょいとばかりとはね・・・、どっぷり掛けておいて良く言うよ。けど、やっぱり効果は抜群だったみたいだね。〉


「ち、チキしょおお・・・、ど、どう言う事だよ!」


 だが当の鬼哭丸はまだ理解していなかった。それもその筈。鬼哭丸はカフェインの存在を知らなかった。それが自分の体にとって、どれほどの毒薬になるかというのも知らずに。


「なんの難しい事はねぇぜ?カフェインは蜘蛛にとっちゃ、酒みたいなもんだ。たっぷりそのカフェインをお前に吸わせてよ。お前の平衡感覚、距離感、空間認識能力を狂わせてもらったって言う寸法よ!」


「お、俺ちゃんが・・・酔っ払ってる、・・・だと?」


 チップの言葉に漸く自分の体の異変に気付き始める。気付けば身体はふらついており、それは疲労だけのものではない。無意識なふらつき、焦点のブレ、ほんの僅かだが腕や脚はカタカタと震えが収まらない。


「あぁ、だからお前は距離感が狂ってるから、全然的外れな距離で攻撃を打ってただけなんだ。」


「ば、バカな!そ、そんなのカフェイン如きで、俺ちゃんをどうこう出来るもんな訳・・・。」


「それが出来ちゃったんだから、仕方ねぇよな!恨むなら、自分の早過ぎる素早さを恨みな!」


 チップはトリックの種明かしを終えると、試験管に入っていた液状の濃縮されたカフェインを地面へと注ぐように落とす。じゅわぁっと土に染み込んだ辺りは、カフェインの濃厚な香りが漂う。その香りの強さはどれだけ珈琲好きな者でも、思わず咳払いをしてしまう程にきつい臭いを放っていた。鬼哭丸はふらつきながら立ち上がり、怒りに我を忘れたような鋭い眼差しを悪魔へと向ける。


「このッ‼︎」


 再び鬼哭丸は拳を構えて突っ込む。その動きは瀕死に近いダメージを負ったモノとは思えない程の速さ。並のボクシング選手の力量の速度ではあるが、やはりその渾身の拳は無念にも空を切る。確実に捉えていた筈の距離、角度、位置。そのどれもが寸前でズレ込み、チップの顔面には一歩届かない。


「な?当たらねぇだろ?当てるなら、あと拳一つ分足りねぇぜ?」


 故に、チップは全くと言って良い程に動じなかった。腕を組み眉の一つ動かさず、じっと鬼哭丸の目を見つめる。空を切った拳が通り過ぎる頃、チップはニヤリと口角を上げた。嘲笑うように、自分の方が格上であるとそう示すように。


(チップ・・・、こいつとんでもねぇ方法で、この土壇場でこんな対処法を・・・。)


 そんな中、驚愕していたのがもう一人。神経毒にやられ、未だ身動きが取れない状態のソーアだ。突発的な閃きが生んだ起死回生を生み出した悪魔。同時にその陰では、目の前で戦うこの悪魔こそに恐怖を滲ませていた。もしどこかで歯車が崩れ、出会う形が違ってしまった時。もしもどこかで敵として対峙してしまったのなら、どうなっていたか。自分はこの悪魔に太刀打ちする事が出来ただろうか。そう考えたくもない妄想が膨らみ出す。


(へへ・・・、マジで俺らの仲間で良かったぜ・・・。)


 今は間に合わせの安堵で茶を啜った。


「チキショーーー!エサらしくねぇ‼︎エサなら大人しく食われろよ!」


 鬼哭丸は奇声を濁らせた。もう後は無いと悟っていたのかも知れない。逃げる力は、もう持ち合わせていない。ならば、せめて一矢報いるまで。恨めしさを込めた歯軋りを奏で、力を絞り出す。


(ムカつく・・・、あぁ、ムカつくぜぇ・・・。勝ち誇った顔しやがってよぉ~。だが、それが一番の油断だぜ~・・・。その勝ち誇ったアホ面のまま、後ろからブッ刺してから・・・、俺ちゃんと共に逝こうぜぇ、ガキンチョよぉぉ!)


 恨みの籠った力は加速する。膝をついて呆けていた態勢から一瞬で立ち上がり、瞬く間にチップの背後へ回り込む。折れた脚を自らもぎ取り、爪先を槍のように突き立てチップの背後から最後の奇襲を狙った。


「この・・・ッ‼︎」 


「デス・ウォール。」


 それは瞬きをするには十分な速度。チップは人差し指と中指を持ち上げるように立たせた。すると鬼哭丸の真下から影の壁が瞬時に出現した。丁度鬼哭丸の身体を縦一直線に線を引き、その身体を真っ二つにするように。その壁の薄さは紙一枚を添える程。正面からではその薄さの為、目視して気付くのにやや遅れてしまう。


「が・・・か・・・、は・・・あへ⁉︎」


 ピシンっと貼り合わせた糸を鋏で切り落としたような音を奏でると、鬼哭丸の身体は綺麗な線を描き両断される。チップが放った技の一つ、デス・ウォール。これも漫画で覚えた見よう見真まねのアレンジ技である。本来の技よりもずっと薄く作られた影の壁は、力を完全に解放出来ない状態だからこそ成せる技。敢えて紙のように薄く伸ばす事でマナとなる影をその一面に凝縮させた極薄のカッター盤に酷似する。その威力は見ての通り血吹雪すら許さないその両断は、左右に別れてしまった身体だったものが互いに地面へと倒れ込んだ。鬼哭丸自身、何が起きたかすら気付いていない。まだ自分が死んだ事さえも。その為か、左右に分かれた身体はまだ痙攣している。ピクピクと手足が動いており、まだ一矢報いようと執念深く自分の脚を掴んだ手は握ったままだった。


「驚いたな。真っ二つにしておいて、まだピクピクしてやがるぜ。」


 そう言って、チップは鬼哭丸が掴んでいた脚を蹴飛ばした。その反動があってか漸く鬼哭丸の痙攣は止む。あまりにも呆気なく、一方的に八握脛の異端児を倒す事が出来た。その光景にソーアは唖然としていた。もう終わったのか、と拍子抜けしてしまう程に。ハッと我に返ったソーアは、悪魔へ声を掛ける。


「チップ!」


「おぉー、ソーア!やってやったぞ、へへへ!」


 後ろから声を掛けられたチップはそっと振り向くと、ニッと白い歯を見せながらブイサインを送った。その仕草は本当に同一人物なのかと目を疑う程だった。あまりに無垢で純粋で、子供そのものの笑顔を振り撒いていたのだ。眼帯をしていた右眼がやけに黒ずんでいる。深紅に輝いていたその目は、本来飛び散っていたであろう返り血のようだった。それが異様に不気味にも見えてしまったソーアは二の句が継げないでいた。


「お前・・・。」


「ほら、ヘタってねぇであいつらのところ行くぜ?・・・よっと。」


 スタスタと歩き出したチップはシウンの元へと近寄り、影で小さく成形させたナイフで絡まった糸を切った。どれだけ踠いても千切れる事が無かったその糸が、まるで腐食した輪ゴムのようにプチプチと簡単に千切れていく。それは恐らく術者である鬼哭丸のマナが途絶えてしまった故であろう。残りの絡まった蜘蛛の糸をシウンは自力で解いた。


「あ、あああありがとう、チップくん。」


「す、すまん、チップ。こっちも頼む。ど、毒でやられて動けなくて・・・。」


「んだよ、だらしねーなぁ。ほらよ。」


 今度はソーアの方へと駆け寄り、自力では立つ事もままならないソーアを背中へと背負い込む。


「うし、行くぜ!イサムのところによ!」


 元々チップには、自分と同じ体型の者を持ち上げるような力は持ち合わせてはいない。その為、少しでも負荷を軽減させる為に影の力を使い、その負荷を分散させ持ち上げていた。向かうは垂たちの居るポイントまで。ここにまだ巨大蜘蛛の親玉が居ないという事は、垂たちが遭遇するのも時間の問題だ。チップの足取りは少し早まる。少しでも早く彼らの元に合流しなくては。その一心だった。


「・・・やるじゃん。」


 チップの耳元で、ぼそりと少年の声が灯された。それは不意にもソーアから溢れ出た言葉。


「ん?なんか言ったか?」


 その言葉を飲み込むつもりだった彼は、慌てて赤らむ顔を背けた。神経毒で体が麻痺している為か、発するつもりも無かった言葉が漏れたのが相当恥ずかしかったようだ。


「な!・・・ななんでもねーよ!」


 その二人をそっと見つめるシウンは、安堵した微笑ましい表情をしていた。兄に友達が出来て良かった、彼女はそう思っていたのかも知れない。

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