53崖下の青天狗へおまかせを
垂一行が虚を突かれた一撃。それは巨大な大蜘蛛の妖怪、八握脛が放った大地をも抉る一撃だった。地は割れ、足場が崩れた場所が悪かった。ここは崖のように急勾配の坂が目立つ。運悪く垂の足場は見事に崩れてしまい、下へと真っ逆さまに落下してしまった。ボールを投げ込まれたように重力に逆らう事なく。それを目の当たりにしたレタは、咄嗟に垂を助けようと自ら崖へと飛び込んだ。レタは必死に宙を踠く。一ミリでも早く、一ミリでもこの指先が彼に届けと、遠くへ。彼の身体に指先一本でも触れられるように大きく手の平を広げる。
「イサムーーーー!ねーーーーちゃーーーーんッ!」
チップが彼らを見たのはここまで。後はどんどんと二人は胡麻粒のように小さくなり、やがて霧に紛れて見えなくなる。大蜘蛛が開けた崖の穴に手を伸ばすチップは呆然と口を開け、力を失ったかのように膝を付く。はぁ、はぁと荒めの息がリズムを崩して、幼女の小さな体躯を大きく揺らす。幼女は心の中で狼狽する。何故、自分が近くに居ながらあいつを助ける事が出来なかったのか。ほんの数秒の判断で何故この手を伸ばせなかったのか。突然の出来事だったかも知れない。だとしても、だからこそ、自分は何故、この手であいつを助けられなかったのか。迷走した脈は、ゾクリと強く一定の速いリズムで刻んでいく。
「ふふふ、コレで二手にワかれたわね。」
彼らの中央には、ニッタリと不気味に粘着質な薄笑いを浮かばせた大蜘蛛がケタケタと奇声を漏らしていた。この妖怪は遊んでいた。そこに秩序などは無く、一方的で自分勝手なゲーム。弱者をジリジリと追い詰めていく狩りという名。化け物が分断させたのは逃げ惑う獲物の戦力を削ぐ為、そして精神的に相手を追い詰める為でもあった。信頼し合える仲間ほど、味方が減れば減るだけ残された者は重荷を課されたように大きな負荷がかかる。それをこの妖怪はよく知っていた。丁度、この森を制圧する時に、天狗の群れを全滅させた快感をこの妖怪はよく知っている。この妖怪にとって、この場に誰が残っていようと関係無い。戦力と精神を削れるならそれで良いとすら思っているのだ。
妖怪の名は“ヤヅギ”。僅かな日数でこの森を一気に制圧させた張本人。ヤヅギは一本ずつ突き刺していた脚を引き抜く。一本長い脚を引き抜く毎に、どろりと青紫色の液体が不気味な揮発音を鳴らしていた。その光景を見たジェニーは漸く気付く。そのカラクリを、ヤヅギが行った先程の技を。奴の脚に付いた反り返った毒棘がギラリと黒光りさせていた。
〈そうか、脚に付いていた毒腺を利用して地面ごと物質破壊させて砕いたって訳か・・・。〉
「んだよそれ・・・、無茶苦茶しやがるじゃねぇか。」
インカム越しには、ギリっと悔しさを滲ませた歯軋りが一度響く。ジェニーの推理は正しかった。ヤヅギが突き刺した地面が腐食を起こし、半乾燥された紙粘土のようにボソボソになっていた。それは地面の土そのものの物質に奴の毒が混入され、細胞レベルで破壊と麻痺を行うことにより分子同士の結合を粉々にさせる。ヤヅギの放つ攻撃にジェニーは驚愕していた。レタの氷だけでなく、その場にあった土すらもあの毒で破壊させるのかと。そんな攻撃が体内に注入されれば、例え妖怪や悪魔といえど一溜りも無い。その毒があまりにも強力過ぎるのだ。テトロドトキシン、パトラコトキシン、ボツリヌストキシンAですら、ここまで短時間に生物の細胞を破壊する毒は無い。恐らくはそれらの毒物に加え、奴が妖怪故の強大なマナがその毒性を加速させ、より効率良く促進させている。そうジェニーは推測していた。だからこそ、あの妖怪が放つ毒は危険だと改めて認知されてしまう。
「丁度、カワイイ子だけ残っちゃったワねェ・・・。さぁ、どこから喰べましょうかァあ?」
上下反転させた口だけの顔がまたグルンと首を捻じ曲げ、面妖な音を立てながら漸く元の正位置へと戻る。 突き刺していた全ての脚を引っこ抜き、再びまた両前脚を高く上げる。ヤヅギの攻撃を行う合図でもあり、一種のルーティン。この独特な攻撃モーションに大きな理由は無い。ただ相手に狙いを定め、気持ち良く突き刺す、ただそれだけ。誰もが大槍に怯える。仮に躱しても、その余りの速さに恐れ慄き始める。二度三度と繰り返せば、その恐怖は都度倍増する。やがてこの蜘蛛に対峙するものは、この威嚇をするだけで足が竦み戦意すら喪失させてしまうのだ。だからヤヅギは、執拗にこの動きを敢えて行う。本人にその自覚はない、それは一種の癖程度にしか思っていないからだ。だが残されたチップたちにとっては、充分に効果覿面であった。刀を構える二人の手は震え始めていた。明らかな武者震いとは違う、暗闇の底から舌を伸ばし少しずつ背中の奥から忍び寄る恐怖の手を直に彼らは感じ取る。
〈そうは、させるか‼︎〉
彼らの耳元でジェニーの声が響く。その時、彼らの前に突如として姿を現したのは一機のドローン。それは先程まで地形情報やルートを索敵していたナビゲート用のドローンだった。上空から急旋回して現れたそのドローンは高速回転しながら、戦場を駆け抜けるように真っ黒な煙幕を散布し始めた。一気に彼らを包み込むように散布した黒い煙幕は、視界を大きく暗ませる。しかし、ジェニーが用意したのはそれだけではない。
「うぅ、こ、これは煙幕・・・?しかもこの臭いは、カフェインかしらぁぁ?」
そう、ジェニーが用意したのは煙幕と合わせて散布した高濃度のカフェイン成分。カフェインは中枢神経を刺激させ、覚醒作用等を向上させる効果がある。だが過剰に摂取すれば心拍数増加の副作用もある。しかし蜘蛛の場合は少し違う。通常の蜘蛛の場合、カフェインを摂取すると中枢神経が麻痺し人間でいう酩酊状態になる。これは元々の反射神経が特化した生態ならではであって過敏に反応を示し、蜘蛛が作り出す巣すらもバランスを崩すという。ジェニーが用意したドローンには、予め対妖怪用の撃退ツールが装備されている。酒や塩水など様々である。今回、彼が選択したのは蜘蛛の生態を参考にカフェインを散布した。これが八握脛に効くかどうかは半信半疑だった。だがジェニーの思惑以上に反応を示す。散布したものがカフェインと分かった瞬間、鬼の顔を何度も脚で擦り始める。妖怪といえど少しは効果はあるようだと確信したジェニーは、少し安堵する。すかさずマイクを取り、次の指示を送った。
〈皆、一旦ここは退いて!〉
火急の矢を放つ勢いでジェニーは皆に指示を叫ぶ。その瞬間まで崖の近くで膝をついていたチップは、一歩その反応に出遅れていた。見かねたソーアはチップの右腕を掴み取り、一目散にその場から走り出し大蜘蛛から距離を取った。訳も分からず走り出したチップは、まだ心残りがあった。進む方向が違う、こっちじゃない。なぜ離すのだと。しかしソーアの引っ張る力は意外にも強く、その力に抵抗出来ぬまま自分が行きたいと思う反対の方角へと進んでしまう。
「おい、頭でっかち!けど、イサム達が!」
「今はここから離れる事が先決だ、チップ!」
「けどよ・・・!」
チップは懸念を抱きながら、まだ諦め切れずに垂たちが落ちた崖の方角を見つめながら走っていた。ジェニーのドローンが散布した煙幕により、辺りは真っ白な半紙に墨を押し付けたように目眩しと化す。ソーアのチップを握る手の力が強まる。今ここに居ては駄目だ、このままでは全滅してしまう。ソーアはそう思っていた。まずは戦況を立て直し、このパニックから逃れる事が最もな吉であると。ソーアの踏み込む脚の力も強まる。湿った地面を蹴り上げて、少しでも遠くに、少しでもあの化け物から離れるように。だからソーアは幼女に鼓舞より喝を下す。
「良いから来い!アイツらなら大丈夫だ!それにレタは悪運と女の勘が良いからよ!」
〈なるべく遠くに!ナビは、僕がする!この煙幕なら、少しは時間を稼げる筈だから!〉
「くそ・・・、すまねぇ、イサム・・・。」
チップは悔やむ気持ちを押し殺しながらもソーアの握る手を振り払い、自らの脚でその場から逃げ出した。ギギギ・・・と歯を食い縛り、真っ赤に染めるその目を細めていた。煙幕を目の前に撒かれたヤヅギに、追う素振りは無い。ヤヅギ本人にもカフェインの作用について、ある程度の理解はあった。ジェニーの狙いは酩酊状態にさせて判断を鈍らせる事。少しでも時間を作り、チップらから距離を離そうとしていた。ヤヅギはこう思った。服用すれば興奮作用が働きをかけ、持ち前の長けた反射神経により立ち眩みを引き起こしてしまうだろう。そう、悟っていた。だからヤヅギは息を止め、二本の前脚を振り回しその煙幕を振り払った。何度目かの振り払いによって漸く黒い霧は晴れていく。しかし、もうヤヅギの視界にはチップらの姿は見えていなかった。
「やるじゃないボウヤァ。まぁ良いわ、そろそろアレも動いてるだろうしぃ。のんびり探しましょうかしらァア・・・。」
ヤヅギの表情には、取り逃した事による悔しさは滲み出ていなかった。むしろゲームはここからなのだと、愉悦に浸っている。まるでそれはかくれんぼを始めた鬼のように。自ら鬼役を選んだ純粋な少女のように。未だ負け無しの巨大な鬼が、八本の脚を不気味に関節を揺らしながら動き出す。ギョロついた八個の目を忙しなく動かしながら、舌を啜る。ゆっくり突き刺していた脚は、彼らの居場所を突き止める為。僅かな振動と音をキャッチさせる為に蜘蛛の脚には、それらを受け取る集音器の役割を果たす極小の毛がびっしりと並んでいる。ヤヅギの身体は蜘蛛そのもの。獲物を狩る為に特化したその身体の構造は、およそ三億年前の太古より完成されたシステム。そんな巨体がこの森の中で、逃げた獲物を狩る為に再び動き出す。耳の裏を舐められるような不気味な笑みを溢しながら・・・。
・・・。
・・・・・・。
「うぅ・・・、ぃてててて・・・。あれ、ここは・・・?」
まるで全身に向けて、タライでも落ちてきたかのような痛みがズキンと伝わった。その痛みのせいか僕は、はっとして目を覚ます。見慣れない天井ならぬ見慣れない森の中。やけに落ち葉が目立つのは今の季節が秋だから、というよりは僕らが落ちたせいで落ち葉が増えたのかな。って事はやっぱり、さっきの蜘蛛の化け物が放った攻撃で僕は崖から落ちたのか。ん?でもちょっと待て、あの高さから?結構な高さから落とされた気がするけど・・・。手も動く、ちょっと痛いけど動かせない訳じゃない。あと、頭がクラクラする。落ちたショックで僕は気を失っていたのか、だとしたらどれくらいだ?どれくらい僕は眠ってしまったんだ?
そういえば、さっきから妙に頭の後ろが柔らかいような・・・。丁度良いサイズの石の上にしては柔らか過ぎるし。落ち葉にしては、妙に弾力があるような。目が覚めて、頭の回転がまだ状況を理解し切れていないみたいだ。そっと頭の下に何があるのか探るように手で触れてみた。・・・あれ、なんかやっぱ弾力がある。まるでそう・・・、例えるならば、冷蔵庫から取り出したばかりの鶏もも肉ブロックを触るような感触・・・。するとその正体は、視界の正面にひょこっと顔を出す。ミディアムロングの灰色の髪に、エメラルドのような瞳の持ち主。
「あ、イサムくん!目が覚めた?」
その正体と視界に映る角度から察するに、これはもしかして・・・、もしかしてだけど!レタさんに膝枕されてんじゃね⁉︎って事は、さっきから僕の手に触れてるこの感触はレタさんの脚⁉︎そう結論に至った瞬間、雷にでも打たれたように飛び起きた。
「ってレタさん⁉︎・・・痛っ・・・・たぁ。」
「いで・・・ッ。」
余りの驚きに空間認識を誤ったのか、勢いの限りに互いのおでこにクリーンヒットする。またくらっと星が飛ぶような感覚に陥り、頭がズキズキしている。思わず額を抑えながら、無言で悶え始めてしまった。指の隙間を除くと、そこには同じように目をバツにしながら額を抑えているレタが居た。正座を崩して地面にお尻をぺたんと付けた状態で座っており、痛みが落ち着くとめいいっぱいの膨れっ面で睨んでいた。そして続け様に「あと、えっち!」と、まるで生ゴミに集るウジでも見るような軽蔑した目で追い討ちを掛ける。いやあの目はそんなもんじゃない、むしろもっと鋭利でグッサリとナイフを根元まで突き刺すような侮蔑した目だ。何故か僕は反射的に両手を上げ、「違うんです本当に、全然本当に、聞いてくださいマジで本当に!」などと必死の弁明が出ていた。羅列する焦った若者言葉で畳み掛けるが、ピクリとも響かない弁明に彼女の目は凄むばかりだった。むぅ、どうしたものか。ここは吝かではないが今の状況を把握する為にも、話題を変えて現状を確認してみるか。僕はプラモデルの小さなパーツを組むような緊張した手でわなわなとしながら、レタへ訊いてみた。
「す・・、すみません・・・。ここは一体?」
「どうやら、あの化け物に崖から落とされちゃったみたいね・・・。」
彼女はそう云うとスッと立ち上がり、お尻や脚に付いた土や草を手で払っていた。両手を腰に当てながら上空を見上げ、どこから落ちてきたのかを辿るようにまじまじと見つめている。同時に固まった筋肉でも解すように軽い柔軟を始め、眉を細めている。けど、落ちたのは僕だけの筈・・・。そういえば、僕が落ちた時に追い掛けるようにレタがこちらに向かって飛び込んできたような気がする。あの高さから落ちておいて、僕が今こうやって無事だったのはひょっとして・・・。
「もしかして、レタさんが僕を?」
「そうだよ・・・って云いたいけど、実際はあの子。ほら、そこに居るでしょ?」
すると彼女は左手は腰に当てたまま、右手の親指を立てながら木の幹に座る女性を差した。烏のような黒い髪、東雲色に染まった真っ直ぐで冷たい目、そして黒を基調とした着物を羽織った少女。黒羽を持つ妖怪、あれは確か青天狗だったか。今は腰に差した刀を握らずに、腕を組みながら黄昏れていた。そうだ、確か名前は・・・。
「あ、あの時の・・・。確か青天狗の、セン・・・でしたっけ。」
「そう・・・、君が崖から落ちてあたしも助ける為に飛び出したけど、残念ながら手が届かなかったわ。あー駄目だーって思ってたら、ギリギリ落ちるところであの子が横から飛んできて、君を拾い上げてくれたのよ。」
「そ、そうだったんですか。」
まさか僕が気を失っている間にそんな事があったなんて。まるで、何処ぞの漫画のスーパーヒーローみたいじゃないか。レタの表情は何処か悔しそうな顔をしていたけれど、それに引き換えセンは実に冷めた眼差しでこちらを見ようともしない。けれど、一瞬だけチラリとこちらへ横目を送る。すぐに目線は合わなくなったけれど、少女は半拍の溜め息を吐きながらこう話した。
「別に・・・、ただの成り行きよ・・・。」
「いや、でもありがとう。お陰で助かったよ、・・・いててて。」
「ちょっと、イサムくん大丈夫?」
「いやははは、なんか足を挫いちゃったみたいで・・・。」
さっきの化け物の攻撃を喰らった衝撃か、それとも落とされた時に何処かにぶつけてしまったのか。左の足首に打ち出の広い小槌で叩かれたような、じんわりとした痛みに漸く気付かされた。裾を上げると、まぁ驚きのこと。真っ赤に膨れ上がった僕の足首があるでは無いか。これで痛みが無い方が異常だろう。じゅくじゅくと感じる鈍痛。腫れの中央は針を通したような痛み、足首を曲げた時に伝わるこの痛み方は恐らく捻挫か何かだろう。その痛みについ反射的に手で抑えたり、摩ったりなどするがそんなものでは痛みが和らぐ事は無く、気休め程度にしかならなかった。
「これ、使って・・・。」
するとどう云う事だろう、これは驚いた。気が付くとセンは僕のすぐ傍らまで近寄っており、何やら見慣れない物を取り出す。丁度、竹の節を切り取ったような筒を渡された。渡された筒を受け取り蓋を開けると、ツンと青臭い香りが一気に立ち籠る。中を覗くと粘土状のものが入っており、ツンとした草木の臭いに混じってハッカのような清涼感も僅かに漂っていた。もしかしてこれは、薬か何かだろうか。そう思った僕はごく自然な流れで少女の顔を視界に移す。
「これは?」
「よもぎとドクダミ、あとはビワとかを練り合わせた塗り薬よ。少しずつ効果が出る筈だから使って。」
「あ、ありがとう。」
少女曰く、この青臭い頭髪用ワックスのようなものは塗り薬だと云う。なんだその十六種類の薬草を混ぜ合わせてお茶にしてみました、みたいなノリの塗り薬は・・・。正直、ちょっと怖い。例えるならそう、知らないお婆さんに突然手作りのおにぎりを手渡されたような感じだ。しかし、幼女の顔は歪まない。塗る以外の選択肢は与えられない、まさに「はい」か「YES」の選択肢しかない無言のプレッシャーが押し寄せてくる。少女の大きな圧に押されながら僕は塗り薬を豆粒大の量を掬った。触った感触は思った以上に、サラサラしていてベタつかない。やはりというか、草独特の青臭さが鼻に付くがここは止むを得まい、ええいままよ!僕は意を決して患部にそれを塗りたくった。
するとどうだろう。ハッカ成分もある為かスーッと身体に清涼感を与えながら、じんわりと薬が患部に馴染んでいく。おぉ、なんか市販で売ってる薬なんかよりも全然効力が有りそうだぞ?痛みが緩和されるような、実に馴染む馴染む‼︎おっと、変なテンションになってしまった。足首をグリグリと曲げると多少の痛みこそはまだあるが、塗る前と比べたら大違いだ。でも、これは何だろう。これだけの効力が、自生する薬草だけで賄える物だろうか。これも妖怪の持つ、マナ的な何かとか?この少女が?と改めてセンへ視線を向けると既に僕の元から離れており、今度はレタにも似たような筒を手渡していた。
「あなたも。」
「あたしは大丈夫よ。こう見えて山育ちだから、結構丈夫なのよ。」
「それ。」
と、少女が指を差したのはレタの右手の甲についた傷。崖から落ちた時に付いたものだろうか。当の本人はそれを今まで気付いていなかったのか、その患部に改めて目を落とす。荒目の紙やすりで削ったような薄紅色に腫れた跡があり、その白い手には薄らと血が浮き出ていた。
「ただの擦り傷よ。大した事無いわ。」
「さっきも見たでしょ、あの毒蜘蛛たちを。アイツらの毒は触れるだけでも皮膚が被れちゃうから。」
「べ、別に触れた訳じゃ無いから関係ないでしょ。」
「時折、毒を撒き散らしながらウロウロしている事があるから、その辺の草にも付着してる時があるの。だから、この薬を塗るだけでも殺菌作用がある筈よ。」
「う・・・っ。それもそうね・・・。ありがたく使わせて貰うわね。」
少女の云う通り、傷付いた患部から病原菌やウィルスが身体に侵入し、より悪影響を及ぼすなんて話は聞いた事がある。先の戦いで見た蜘蛛たちは想像を働かせるまでもなく、強力な毒を持つ生態なのだろう。それが通常サイズの蜘蛛であれば、ジェニーが教えてくれた致死量を考えるとそこまで危険視する程でも無い。だがいずれもB級パニックホラー映画でも出てきそうな人間よりも大きな蜘蛛で、母体に至ってはもはや怪獣だ。あれを妖怪の一括りにしてしまうのは、些かどうかと思うぞマジで。レタもまた、少女の絶妙な脅しに圧倒されてしまったようだ。手渡された竹筒を受け取り、少女に逆らえぬまま大人しく指摘された患部をいそいそと塗り始めた。その光景は、お母さんに怒られながら薬を手渡されるものと酷似する。終始レタの眉は少々納得がいっていないようだった。彼女は左手で手の甲を塗りながら、ずっと喉元に抑えていたであろう言葉をそっと吐き出す。
「けど、どういう風の吹き回しであなたがここに?」
「さっきも云ったでしょ?ただの成り行きよ。」
「あたし達を騙したのも・・・?」
先程とは違い、ぐるりと反転させた氷柱のような冷たい視線がセンを突き刺す。その言葉にセンはぎょっと目を見開き、突然の辛辣に驚きを見せていた。単刀直入過ぎるレタの言葉は容赦が無い。
「ち、違・・・。わたしはそんな事は・・・!」
「さっきの口振り、初めからここにあの毒蜘蛛たちが居る事知っていたんじゃないの?」
悪戯に走る焦りが黒羽の少女の感情を掻き毟っているようだった。躍起になる自己弁護は、センの中で何かと葛藤している表れなのか。云い欠けた言葉は音を立てずに喉奥へ仕舞い込む。レタはここぞとばかりにこれまでのセンの言動と行動について、的確に敢えて短い言葉を用いて指摘した。確かにそれは、僕自身の中でも疑問は抱いていた。わざわざ見ず知らずの人に帰り道を修正させたのか。提案した道を進めば、険しい道ばかりで挙句には大蜘蛛の幼体集団に襲われ、その母体まで現れたのだ。まるで僕らを追い込み、あの蜘蛛たちの餌となるように仕向けたのでは無いかと思うのは疑わざるを得ない。追い詰められた少女は口を震わせていた。それは純粋な葛藤、云うべきか云わずべきか。その葛藤の末、静かに彼女は頭を下げた。
「ごめんなさ・・・い。でも、半分は本当なの!あのまま来た道を戻っていたら、それこそあなた達はとっくに死んでいたわ。」
「どういう事?」
「あの妖怪は、帰り道に獲物を捕える為の罠を仕掛けるの。普通の蜘蛛の巣よりもずっと強靭で、透明な糸を張り巡らせて・・・。一度ハマったらお終い、二度と身体から剥がれない糸に捕まってアイツに喰べられるのを待つだけになるのよ。」
少女の言葉をレタは秒針が聞こえてくる程の静けさを彷彿させるように耳を傾けていた。しかしその目は疑心暗鬼だ。その鋭さは増す一方であり、刀身が輝く程に研ぎ澄ましている。腕を組みながらセンを見据え、口を尖らせながらレタは更に追い討ちを畳み掛ける。
「だから、アイツが作った罠の無いルートを指定したの?そんなの信じられるかしら。」
「アイツがあんな所で徘徊しているなんて思わなかったの・・・。確かに幼体が一杯居る事は知っていたし、云わなかったのも事実。けど、あなたたちなら特段問題無いと思っていたから、わざわざ云う必要は無いと思って・・・。」
いや、やっぱ知っていたのかよ。全然問題だらけだよ、現に目の前で怒ってるこの人もそれ見て失神していたし。
「あ、そーう。あたし、こう見えて脚四本以上の生物は認めていないの。それもパニックホラーに出てくるようなデカさよ?あんなのは映画だけの話にして欲しいわね・・・。あーもう、今思い出すだけでも背筋が凍るわ。」
余程虫が嫌いなのか、遂にはそのワードすら使わずに苦言を呈していた。頭の中で先ほどの蜘蛛がワラワラと現れ始めたのか、青冷めた表情で彼女は額を摘みながら上を向いていた。
「その・・・、だから・・・、さっきのは、せめての罪滅ぼし・・・、だと思って欲しい。」
センは申し訳ない気持ちと恥じらいを隠すようなもごもごとした口調で弁明を締め括った。
「ところで、どうして君はこんな森にずっと居るんだい?生まれ育った地だから、だけじゃ無い気がするんだけど。」
「そ、それは・・・。」
そう、最も彼女の行動で気になるのはそこだった。何故、そんな危険なこの森で彼女は滞在し続けているのか。一番の疑問点でもあった。危険だと本人も自負しているのならば、一刻も早く自分こそ離れるべきでは無いだろうか。そうしない理由はなんだ?何か特別な、切れない何かがあるのか。また妖怪ならではの掟やしきたり?それとも・・・。もっと別ベクトルで起きてしまっている要因が、この少女を縛り上げているのだろうか。センはこの質問には流石に言葉を滑らせない。詰まった配管のように言葉を詰まらせ、視線を落としてしまっている。
「あらららららララァ~、アナタ達ここに居たのねえぇ?探したのよォォォ?」
すると背後から聞こえたのは、ゾクリと脈を舐め啜るような不気味な声が粘着質に囁いてきた。恐る恐る僕らが振り返った先に見えたのは、すぐ目と鼻の先まで近寄っていたあの巨大な化け物の姿だった。
「ぎゃああああああああーーーーーーー、また出たわね化け物‼︎」
再び悲鳴の大喝采である。主に演奏はレタのソロパートによるものだが、心臓を吐き出すような勢いで驚愕していた。
「げっ、こんな時に!」
「“げっ”なんて失礼しちゃうわねェェえ?それじゃあ、続きをシましょうか?」
ケタケタと面妖に笑う八握脛が、八つの目をギョロつかせ僕らを視界に捉えている。失礼も何も無い、急に現れたんだから失礼ぐらい云わせろよ。こんな巨大な化け物が目の前でいきなり現れてみろ、誰だって「げっ」の一言くらい苦言を呈したくもなるだろうさ。




