48青天狗の孤児へおまかせを
「近付かないで!……斬るわよ!」
息詰まるような、ひやりと凍り付く緊迫さが辺りを包み込む。それは指先一本でも前に出ようものなら、容赦無く斬り掛かりそうな少女の殺気。黒羽の少女とはまだ充分に距離がある筈なのに、既に首元まで刃の切っ先を当てられていると錯覚させてしまう程。細身で僕よりもずっと小さい筈の少女が発するプレッシャーは、それだけの圧倒をこの場に居る全てに見せつける。上体を低く構え、肩幅以上に大きく足を開き、背中の半分を見せるように刀の柄に手を掛けている。耳を澄ませば、少女は睨みを利かせながら、スゥーっと浅く少しずつ息を吐いている。何拍も続くロングブレス。だが彼女は、一向にその刃を抜こうとはしない。僕の第六感が、耳元で騒ぎ立てる。これは脅しでは無いのだと。威嚇をするだけなら、刃の切先を向ければそれだけで充分の筈。敢えてそうしないのは、これが彼女のスタイルなのか。異常に体勢を低くしているその構えは、数多に枝分かれする剣術の一つである、抜刀術。切先を見せないのはその為だろうか。
剣術など触れてこなかった僕でも漫画なんかで目にした事があるものだ。実際に間近で見るのは始めてだが……。当然今もこうやって敵だと認識され、標的にされるのも初めてなのは云わずもがなである。黒羽の少女から放つそのプレッシャーは、一瞬にしてその場を緊迫へと塗り替える。一般人である僕が感じるくらいだ、戦い慣れている者ほど下手に手を出す事が出来ない。何故なら未だ切先を見せない刃の代わりに、東雲色に光る瞳もまた刀身の如く鋭利だったからだ。
「おいおいおい・・・、随分物騒じゃねぇかよ・・・!」
パーカーのポケットに手を突っ込んでいたソーアは、その場で睨み返す。落ち着いた覇気を見せつけ、じっと少女から目を離さない。その光景は、お互いの縄張りに足を踏み入れた臨戦体制。一度目を離すか、脚の指一本でも動けば飛び掛かる準備は出来ている様と酷似している。狛犬の少年が真っ先に飛び掛からず、じっと見つめているのはやはり戦い慣れている為か。それとも、野生の勘が働く謂わば直感というやつがこの少年を刺激させているのだろうか。相手の力量をある程度理解しているからこそ、この少年もまた下手には動かない。まずは様子見、といったところだろうか。
だから牽制は、言葉だけで済ませた。何よりもあの少女とやり合う為に来た訳ではない。一見、喧嘩っ早そうに見えて意外と冷静な方なんだな。拳で殴り合えば分かるだろっていうタイプだと思ったけれど。まぁしかしだ。先程のレタたちの会話の流れからして、むしろ彼女こそが今回の保護対象である孤児である訳だ。けれど彼女は応じてくれるだろうか。既に臨戦体制へと移行している少女の耳は、厚く冷たい氷に覆われているようだった。少女は構えた体勢をピクリとも動かさずに、目線をレタへと鋭く向ける。
「答えて。あなたたちは誰?・・・何しにここに来たの?」
「こっちの事は聞く耳持たずかよ!ちーーーっとは、こっちの話も聞けよッ!」
「あなたは、悪魔?それにその横に居るのは人間よね。」
やけに余裕を見せるこの幼女は、敢えて黒羽の少女には目線は合わせずに両手を上げシュラグを振る舞う。悪魔なりというか、チップなりの挑発だろうか。こいつはこいつで何かを探ろうとしている?この緊迫した雰囲気を読めない馬鹿ではない筈だ。ましてや戦闘においては、野生的なセンスを持ち合わせている幼女だ。そう戦闘においては・・・、だ。今回は違う。何度も云うが、戦いをしにわざわざここに来た訳ではない。
「ふん、誰が答えるかよそんなこ・・・。」
「えぇ、そうです。このガキンチョは悪魔で僕は普通の人間です。」
「ってぉおい!なんでそんな簡単に答えんだよ!フェアじゃねぇだろーが!」
僕は幼女の言葉を押さえ込むように言葉を重ねた。ここは、あくまでこちら側が交渉する立場だ。刺激を与えるばかりでは余計に聞く耳など持つ訳がない。出来るだけ相手の質問には応じるようにし、少しでも彼女の不安を払拭させるのが最善だろうと僕は思った。まだまだこういった思考戦の経験が浅いチップでは、痺れを切らすのも時間の問題だろう。というか僕が遮った事で既に納得出来ないとでも云うように、すっかりヘソの緒を曲げる始末だ。ぷりぷりと頬を膨らませながら、まさにご機嫌斜めのご様子だ。相変わらずのやり取りを繰り広げている最中、それ以上の踏み込みを留めるようにレタは右手を添えた。
「悪魔くん、ちょっと良いかな。彼女も興奮してるみたいだから。・・・無理もないわよね。自分の唯一のテリトリーに侵入されたんだもの。ここは、あたしに・・・。ね?」
「お、おう・・・。ねーちゃん。」
「そう云う事だ、チップ。あとは彼女に任せよう。」
〈垂、それにチップ。ここからは僕たちの仕事だ。出来る限りのサポートはするつもりだよ〉
「あぁ・・・。」
そうチップに伝えたレタはくるりと回り、少女と対峙するように目を合わせ両手を軽く挙げた。掌を上へ見せるように挙げた動作は、一つのサインを暗示させる。こちらに武器は無く、敵意は無いのだと主張する。そのまま一歩だけ踏み出す。その感覚は拳一つ分の幅。同時にチャキっと少女の持つ刀が擦れる音を弾ませる。少女の足もまた数センチだけ廃れた床を削るように滲み寄り、先程よりも柄に添える右手に力が入っていた。黒羽の少女の口元に、コンマ数秒の短い間隔から生まれた一口分の酸素がスっと入り込む。
「あなたがリーダー?」
「そ。平たく云えば、そんなところで良いわ。あたしはレタ。“ヤドリ”という保護活動団体をしているの。あなたのような孤児となった子たちを保護する為に、全国を回るのがあたしたちの役割なのよ。」
「保護、活動団体?」
「まぁ、警戒する気持ちは分かるわ。事情は、ある程度汲み取ってるつもりだから。」
「そう・・・、じゃあ、帰って。」
黒羽の少女は、レタの説明を聞くと漸く抜刀する構えを解いた。少女の背よりも高く上げていた刀も撫で下ろし、ずっと添えていた右手もまた刀から離れた。レタの言葉を聞いて少なくとも敵では無いのだと認識したのか、鉄で形成された鎖のような緊迫を解除する。けれど返してきた黒羽の少女の言葉は、秋風のように殺風景で肌を突き刺す程に冷たかった。
「は?なんでだよ、折角ここまで来てやったってのによー!」
「ににに兄さんも、黙ってて!」
「だってよぉシウン!だからってあんなツンケンな態度取る必要ねぇだろ・・・ムゴゴ。」
当然、少女のその素っ気ない返事に納得が行く訳が無いのがソーアである。まぁ、すぐ傍らに居るチップも同意見だろうが。確かに、ここまで来るのに苦労はした。一時間以上も車を走らせ、森を歩かされて漸く辿り着いたと思えば帰れと一掃。何か納得の行く説明が無い限り、やけに血の気の多いソーアやチップは易々と首を縦に振って大人しく帰る事は無いだろう。そんな不満を爆発をさせて怒気を強めたソーアに対し、慌ててシウンは少年の口元を両手で押さえ込み止めに入る。幾分かはチップより冷静で居ても、やはりあまり交渉向けでは無いようだ。
シウンが咄嗟に素早くブレーキを掛けなければ、やらなくても良い一戦を交えかねない。ソーアの怒声に対し、黒羽の少女はつんけんとした受け答えで瞳を軽く瞑った。
「保護なんて頼んだ覚えは無いわ。それ以上の用が無いのなら、帰って・・・。」
「そんな訳には行かないわ。あなたの知っての通り、・・・ここは危険よ。」
「いいえ、わたしはここから離れる気は無い。守る必要があるから・・・。」
「・・・守るって、何から?」
「・・・、あなたたちには関係の無い事。ここが危険だという事は、あなたたちも知っているのでしょう?だったら、早く帰って・・・。わたしはあなたたちを巻き込みたくない。」
黒羽の少女はレタの要求には応じなかった。それよりも気になるのは、少女の距離感。まるで近付けさせない。いや、と云うよりは独特な違和感が生じている。頑なに帰れとばかり告げる少女の視線は、一秒でも早くここから立ち去って欲しいと懇願しているようにも見えた。
まるでそれは何かが来る前に、何かに見つかってしまう前に隠すように、少女は何かから匿うように。僕がそう感じてしまったのは黒羽の少女が持つ東雲色の瞳が僅かに泳いでいたように見えたからだ。この森に一体何があると云うのだろうか。今この瞬間まででは、特に何も感じない。以前よりも霊感とやらのオカルト要素を感じるようになった僕は、素人ながらの感覚を研ぎ澄ませても反応は無い。背中の奥から感じるピリリと電流が走るような肩がゾワつく感覚は、無い。まだこの近くを彷徨いている訳ではないか。
だからあの少女は、少しでも早くここから立ち去って欲しいのだろうか。ほんの一瞬だけ少女と目が合った時に気付いた。東雲色に彩られた少女の瞳は何処か虚だった。そう感じた時には、すぐに目線を逸らされる。それはきっと気のせいでは無い気がする。まだまだ信憑性は薄いが僕の第六感がそう囁いているからだ。宛ら黒羽の少女は、真っ黒なドロドロの糸で絡め取られた蝶のように思えた。
レタもその僅かに見せた少女の違和感に勘付いたのか、ふぅっと溜め息を流し込み一歩身を引く事にしたようだ。軽く上げていた両手もそのままシュラグに変換し、それはまるで彼女もまた剥き出しになった剣を鞘に収めているようだった。
「わかった、あたしも無理強いする気は無いわ。・・・けど、一応確認するわね。」
「えぇ。」
「あなた、青天狗のセンで間違いないかしら?」
レタは手を差し伸べるように黒羽の少女へそう告げた。“セン”と呼ばれたその少女は、ピタリと自分の名前を当てられた事に驚きを隠せなかったのか目を丸くしている。驚くのも無理はない。事前にアポを取った訳では無いし、言葉を交わすのも面と向かって話すのもこれが初めてなのだから。まさに初対面というべき人物に、いきなり見知ったように名前を当てられたんじゃあ、そりゃあ少しは驚くものだ。
というかこの子、天狗だったのか。青天狗って何だろう・・・?天狗にも色々種類があるのか。普通の天狗とか鴉天狗なら聞いた事はあるけど、結構マイナーな妖怪の部類なんだろうか。後でレタに聞いてみよう。一度は目を丸くさせたセンの瞳は、風向きが変わったようにその目を鋭くさせた。それは疑念を込めた瞳。その疑い深げな眼差しは先に見せた秋風よりもずっと冷たく、思わず背筋をゾクリと震わせる。
「・・・?どうして、わたしの名を?」
「うちのメンバーには、情報に強い子が居るのよ。」
「そう・・・、個人情報も何も無いわね。」
センの気持ちは分からんでもない。かくいう僕もその一人なのだから。全くどこで仕入れたのか、僕の事だって調べ上げてから初対面で名前を云い当ててきたんだ。恐らくはレタが云う“情報の強い子”とは十中八九、ジェニーの事だろう。というか彼ぐらいしか思い付かない。ティミッドもそんな技術に興味は無いだろうし、この狛犬の兄妹も調べ上げるノウハウがあるとは思えない。レタはどうだろうか。いや彼女の性格上、出たとこ勝負のどちらかと云えば行動派の方だ。そんな分かり切った消去法により、技術やノウハウに長けているのはケットシーのジェニーになる。本当に彼のネットワークはどうなっているのだか。これでは確かにセンの云う通り、個人情報もへったくれもない。
そして、恐らくではあるがここまでのやり取りは噂の彼がモニタリングしている。先程僕だけに通信を繋いだ時と同じように、ジェニーはモニター越しに適切な言葉をレタへ誘導しているのだろう。流れ的には即決させる訳では無く、じっくりと検討させる流れ。まずは自分たちを知って貰う事から、ゆっくりと。微塵切りのようにスパスパと切り進むレタでは、暴走機関車に招待するようなもの。外面は声の通る彼女に任せ、ジェニーはしっかりとその裏で舵を取る作り。あくまでここまでは憶測だが、強ち間違いでは無いだろう。理由はいくつかあるが、最も信憑性がある事は一つ。ここまでのやり取りを全体に聴かせた状態にすると一部からは、反対の意見が飛んでくるからだ。それがもしも声に漏れたりでもしてしまったら、いずれはあの少女にモニタリングしている事もバレてしまう。彼は、そんな混乱を回避する為に敢えてレタだけに通信を繋ぎ合図を送り続けたのだ。
「今すぐ結論を急がせはしないわ。だから、一応あたしの名刺を渡しておくわね。」
そう云うとレタは、内ポケットから名刺入れを取り出す。名刺入れには雪うさぎのイラストがワンポイント描かれている。キンっと鉄を軽やかに蹴るような音を奏でながら蓋を開けて、一枚の名刺を彼女は差し出した。その名刺をチラリと見ると、名刺という以前に文字という概念から逸脱した何かの呪詛のように見えた。まるで一筆書きで記されたような模様は、人が読めるような文字ではなく一見すると幼子が描くような落書きに近い。
所謂、彼女たちのような妖同士だからこそ伝わる文字なのだろうか。確かに現代語で書かれても、それを読める妖怪の方が少ないからという配慮なのか。見た目こそ人間に近しい故につい忘れがちになってしまうが、彼女たちもここに居る僕以外全てオカルトなのだ。妖怪やら悪魔やら、果てには聖獣に妖精。彼らは人とは違う離れた存在である。差し出された名刺を見たセンは横目で確認はしたが、受け取る素振りは見せなかった。代わりに少女は声で繋げる。
「ありがとう、そこに置いておいて。」
〈お疲れ様、レタ。とりあえず、今日はこの辺でお開きとしよう。〉
漸くジェニーの言葉が全体に届くようになった。彼女は悟られない為に無言で頷いた。あくまでも、頷いた素振りを送ったのはセンに返すように。センはレタのすぐ傍らにあった丁度、人一人分腰掛けられる程の岩を指差しそこに置くよう指定した。黒羽の少女の指示に素直に従ったレタは言葉を添える事無く、そっとその岩に置く。そのまま近くにあった小石を拾い上げ、風に飛ばされないよう名刺の上に添えておいた。僕らが帰った後でも回収しようとしているのか、やはりすぐに取りに行く素振りはまだ見せない。
「おい、レタ!良いのかよ⁉︎このまま手ぶらで帰ってさー!」
「強制は良くないわ。あの子にも色んな心境があって、ここに居なくちゃならないのよ。・・・色んな、ね。」
先に痺れを切らしていたのはソーアだった。だが無理やり連れて行くのは、ナンセンスである。あくまで彼らが行なっているのは保護活動であり、強制的に連行するものではない。一見手ぶらであるが、コンタクトは取れたのだ。全くの成果ゼロという訳では無い事から、そういった意味では手ぶらではない。センと名乗るこの少女にも事情があって、ここに居座っているのだ。それを無理に引き離す強制は出来ない。保護対象者と云えど、その選択の権利は当人にある訳だから。レタはそんな少女を見て、何かに勘付いているようだった。具体的なモノは未だ掴めている訳では無いだろうけど、時折見せる“女の勘”というのが働いているように見えた。
「また、来るわ。」
けれど、彼女はそれ以上踏み込まない。次の再会を約束するとすぐに振り返り、来た道を戻ろうとしていた。
「あの・・・、その道はやめた方が良い・・・。」
すると黒羽の少女はレタに対して手を伸ばし、細い糸で繋ぎ止めるように声をかけた。その声はどうにも歯切れが悪く、彼女の中に浮かぶ何かと躊躇しているかのようだった。いや、というよりは葛藤というべきか。その迷いが淡く滲み込むように声へと乗り、音色を静かに歪めている。彼女の声に、レタは不思議そうに振り返った。何故、この道を使ってはいけないのかと。それもその筈。ただ来た道を戻るだけなのだ。それの何がいけないのかと不思議がるレタに同じく、僕もその一人だった。センは風を払うように強く首を左右に振るう。
「あら、どうして?ただ来た道を戻るだけよ?」
「それが良くないの。なるべく迂回して帰って。その方が……安全だから……」
「・・・そ。ありがとね。忠告感謝するわ。」
センの言葉は恐らく本当の事のように感じる。兎に角ここから離したいのと何かから避けさせようとしているのか、僅かにその必死さが滲み出ていた。それが何かまでは口を溢さない。まるで何かに抑止されているような巨大な何かに抑え込まれているようだった。黒羽の少女の言葉にレタは特に躊躇を与える間もなく、そっと同意を込めた眼差しで縦に首を振り頷いた。
「やけに素直だな、ねーちゃん。」
「山や森の事なら天狗が一番理解しているわ。素直に従うのが定石よ。」
「そんなもんかねー?ま、ねーちゃんが良いなら良いや!イサム、行こうぜ。」
「お、おう。」
どうやらウチのバディも何かに勘付いたようだった。眉を歪め、紅く輝かせた瞳をピクリと僅かに震わせている。ただやけに潔く身を引いたレタに合わせるように、幼女もまた両手を頭の後ろに添えながら無愛想に返事をする。この幼女としては戦いの場を逃した事に興醒めしてしまったのか、大股を開きながら後退していった。まぁ、ウチのリーダーがそう云うのならここは一旦撤退するのが得策なのだろう。
「ところでレタさん。さっきの会話って。」
「あー、やっぱり気付いた?あれ、ぜーんぶジェニーの言葉をオウム返ししてたのよ。」
「やっぱり。」
「苦手なのよねー、あたしこういう交渉みたいなのって。あはは。」
そう云うと彼女は口元に人差し指を添えながら、“内緒にしてね”とでも云うようにウィンクを返す。とはいえ、全部が全部の言葉を口揃えた訳では無いのだろう。流石に丸パクリでは、最悪あのモニタリングがバレてしまう。彼女は彼女なりの言葉に変え、センに向けて交渉を続けていたのだろう。何はともあれだ、初日の第一歩は踏み出せたのだ。区切りの良いところで僕らはセンが提案し指を差してくれた方角に歩き始め、帰路へと向かう事にした。レタ曰く天狗の道案内とやらは、森や山においては何よりも信頼出来る絶好のコンパスなのだと彼女は云う。彼女を筆頭に誰一人、少女が提案した道を疑う事なく足を踏み入れたのだった。
・・・。
・・・・・・。
垂たち一向がこの廃れた神社から離れて数分が過ぎた頃。青天狗の孤児、センはまた一人となる。しんと鎮まり返るこの森も、この廃れてしまった神社も人の気配を完全に断つ。時折聴こえてくるのは、葉が揺れる波のような音。氷を当てたナイフを投げつけるような秋風が彼女の黒羽をそっと掠め取る。羽を通り抜け黒髪まで突き抜けた先は、限りなく白にも近付けられた少女の幼なさすら淡く残る頬。その風を凌ぐように右手を添え、薄らと片目を塞ぐ。もうすぐ、この森にも冬が来るのだと告げる合図でもあった。センが立つこの森は、街と比べて標高が少し高い為か冬の訪れも一足早い。何十年、何百年と生まれ育った地だから解る。すっかり彼女の体躯にも刷り込まれたその感覚は、確実に季節の移り変わりの節目という刻みを肌に感じられるようになっていた。
そんな森でも時折、垂たちのような人が訪れる者も居れば意図せず迷い込む者も居るという。少女はその度に拒むように追い返した。ここに来てはいけない、ここからすぐに立ち去るように、と。拒む彼女の原動力となる理由は、とある事象を抱えているからこそだった。自分の力ではどうする事も出来ない事象。だから近付く者たちをなるべく遠ざけ、無理に拒む。その度に彼女は複雑な思いを抱え込む。本当にこれで良かったのかと、わたしは本当にこのままで良いのかと。自身の力の未熟さに余計気付かされる。
複雑な思いが交差する中、彼女の気を紛らわせてくれたのは自分自身の命とも云える腰に下げた一本の刀のみ。少女は鍛錬を欠かさない。移り変わる四季の風を浴びても、己が定めた鍛錬を一日も欠かす事無く熟す。鍛錬をしている間だけは、渦巻くような黒いモヤが徐々に薄れ忘れさせてくれる。そんな誤魔化しを繰り返し続けてきた。少しでも解決に結び付く力が付けばと、密やかに懇願するように彼女は強く握る刀を振るう。センの腰に携えた刀は、その刀身を鞘から姿を見せる事は無い。刀自らが抜く事を禁じていたからだ。硬く結ばれた緒は特殊な術が込められており、鞘から抜く事を拒ませた。この刀は、特別なのだと言われている。そう彼女が思い更けてる中、ズシリとした重圧が、のしかかった。
「センンンンンンン・・・!」
「ひッ・・・‼︎」
その重圧は物理的なものでは無かった。巨大なプレッシャー、恐怖という最もシンプルに心を縛り付ける重圧。センの身体に覆い被さるには充分過ぎる程の巨大な影。それは、幻影でもマヤカシでもなく大きな怪物と言うべきもの。禍々しい八本の脚は女郎蜘蛛を連想させる。しかし、その大きさは人よりも遥かに巨体。怪物の脚一本は少女の身体の倍以上の大きさ。その巨大な蜘蛛の脚が優しく絡め取るようにセンの身体を包み込む。そんな巨体から発した声は女性とも男性とも言えない中性的な声。正確には、女性の声と男性の声を混同させたような。それらの音域を禍々しくミックスさせ、それぞれの音が半音ずつズレる不協和音のように寒気をそそらせる。声の主はやはりこの八本脚の持ち主。蜘蛛そのものの胴体を持ち、鬼のような顔には紫色の目が八つ。ギョロリと動き回る八つの目が一斉にセンへと向けられる。
「珍しく客が来たみたいじゃないのォォォ?あれはアナタのオトモダチかしらぁぁ?」
「ち、違う・・・、あれはそんな人たちじゃ・・・。」
化け物の言葉に少女は恐怖に萎縮され、身をすくめてしまった。恐怖は身体を無意識に震わせ、どれだけその震えを両手で抑えようと身体を掴んでも止まる気配は無い。まるで極寒の地に肌着で放り込まれたかのような寒気は歯を震わせ、不随意に体温を上昇させようと筋肉が震える。そのせいか満足に言葉の発音が上手く取れないでいた。声の主に振り返る事も許されない。むしろ恐怖で縛られた少女では、強張った首はすっかり硬直してしまいその化け物を直視する事自体叶わなかった。
狂気とも捉えられる声は、ついには少女の瞳孔すらも震わせ一点を見つめる事も困難だった。歯を食い縛りつつも慄然とした少女の表情は、絶望を目の当たりにしたそれそのもの。必死になんとか言葉を返すが、俯いたまま顔を上げられる状況では無かった。それもその筈。センの首元には、巨大な蜘蛛の脚に大きく反り尖った鉤爪が当てられていたのだ。鉤爪の一本一本が鎌のように鋭利。ほんのそっと力を込めれば、赤子の指をへし折るのと同義なほど容易く少女の首を切り刻む事が出来るだろう。ドス黒く躙り寄る八本の脚は、たった一人残る青天狗の少女を苦しめる元凶とも呼べるモノであった。




