39半妖の葛藤からおまかせを
時は巻き戻り数時間前のこと。垂とチップが再会する前の出来事である。垂が丁度、数週間ぶりの外出に扉を開け出した同時刻。この事務所“便箋小町”ではまさに商談が行われていた。夏場、暑苦しかった湿気混じりの熱気を少しでも軽減させるために活躍したあの扇風機も今や部屋の隅にあった。事務所の規制上、窓を開けられない事から代わりに換気を促していたのはカラカラと異音を鳴らす換気扇。こちらも先ほどの扇風機と負けじ劣らずの年季の入った換気扇は、すっかり酸化と日焼けで本来よりも色濃く茶けていた。この国ならではの異常なまでの夏の暑さが通り過ぎたこの季節は、人も“ギフト”も同様に快適と呼べるのだろう。ほんのりと窓から差し込む太陽の光が絶妙なバランスで室温を維持させていた。事務所に用意されたこの小さな応接室には二人。便箋小町の社長、飛川コマチと、その対面のソファに座る男性。本日の依頼を持ちかけてきた客人である。“ギフト”絡みである包み箱をテーブルに置いていた。
客人の名は澤野。二十代半ばの若者である。都市伝説という噂話が流行る昨今、この男もまたその興味に惹かれていた。質素とは程遠い派手なバンドTシャツを身につけ、黄緑とピンクを織り合わせたケミカルな柄のパーカーを羽織っている。大型のピアスを耳に開け、金髪というよりも極めて黄色に近いくらい脱色させた派手な髪色をしていた。澤野の容姿に期待を裏切る事は無く、中身もどこか飄々としており落ち着きが無い。若者言葉混じりの敬語が少し鼻につき、コマチは密かにその風貌に苛立ちを隠していた。その証拠に彼女は組んだ自分の腕を先程から指をトントンと細い釘でも打つように叩いていたのだ。異様な空気である事に違いは無い。それは、メルやチップですら勘付いていた。メルはコーヒーを淹れる為に奥の部屋にあるキッチンに、チップは応接室の扉の前で彼女らの会話に耳を立てていた。チップは彼女らの会話に口を出すことはなく、ただ目を瞑り腕を組んだまま静止。彼女らの会話に興味がある訳ではなく、一つの気掛かりをチップは懸念していたのだ。
「・・からして、こちらを届けて欲しいんっすけど・・・。」
一頻り依頼内容を伝えた澤野は、両腕を大きく広げながらわざとらしくも大きな声で依頼を投げかける。どこか引っかかるその言い回しがまるで予め与えられたセリフを読み上げているようだった。そう、これではコマチに話しかけているというよりは、カメラに向かってセリフを発しているようである。コマチはその感覚に気付いていた。というよりは、その対策に慣れていると言った方が遥かに近い。便箋小町という都市伝説の謎を解き明かしたいと思う者は、そう少なくはない。故に澤野のように踏み入れる者もいる。彼は恐らく情報配信者。肩書としては、“ついに明かされた便箋小町の謎”と説けば良いか。情報配信者である澤野が求めているのは純粋な興味や関心ではなく、あくまで再生数とその収益である。そんな彼でもこの事務所に訪れる事が出来たのは、依頼物を届けたいという思いだけは本物だからだ。謂わばその思惑を利用した無許可の配信を企てようとしている。生配信をしなかったのは、予め端末の電源を切られたからだ。
それでも彼女が澤野の思惑を見抜いたのは、十中八九で身体のどこかに仕込んだ盗聴器があると予想している事。見抜くのにもそこまで時間を必要としなかった。彼が事務所に訪れて、応接室に案内するまでの僅か数分。彼女にとって半ば素人である澤野の思惑を見抜くには、充分なくらいの時間だった。言動と目の動き、そして口の動かし方。心を覗くと云った特異の能力など無くしても、コマチにとっては容易い時間。だから彼女は、澤野に目線を合わせる事なく静かに唇を動かす。
「ふむ・・・、澤野殿と言ったかな。済まないが、今はこの案件を引き受ける事は出来ない。」
「そんな!そりゃ無いっすよ!せっかくここまで来たのにッ⁉︎」
コマチの断りに驚いた澤野は、机を勢い良く叩き付けながら立ち上がった。若さ故の澤野の痺れを切らす沸点は低かった。憤怒で顔を赤らめた澤野は、まだ焦り混じりの表情で訴えかける。
「心中察するが、他を当たってくれたまえ。」
と、コマチは口にするがやはり顔も目線も澤野には向ける事は無かった。目の前の邪気に塩を撒くように掌で払い除け、煙たがる表情で眉を歪ませながら遇らう。澤野のこの焦りこそが決定的な証拠だとコマチは思った。澤野は依頼を受ける事はまだ二の次なのだ。その先の再生数と収益、そして抑えきれない自己顕示欲という欲求。良く云えば、一種のジャーナリズム精神が強い思考。
「おい、キツネ。良いのかよ、久々の仕事が来たってのに。」
まだ状況を掴めないでいたチップは応接室の隙間から覗き、漸くこの商談の口出しをし始めた。チップが見据えていたのは主に二つ。今来ている依頼をコマチが断ろうとしている事ともう一つ。それは彼女自身が今、何を考え懸念を起こしているのか、だ。この事務所、便箋小町も決して裕福という訳ではない。事情を知らないチップが見せる苛立った眉は、何故引き受けないのかと腹の虫が治らないでいた。依頼料が少なくても、今は金策を練るべきだと子供でもわかる赤字間近。そもそもの依頼自体が少ないのであれば、尚当然。
「こう見えて仕事は選ぶ方なんでね。」
そんな中、彼女がチップへ返した言葉は素っ気無くも厚みの無い言葉だけだった。その多くは語らず、深みも無い。幼女の癪に障るには充分であった。ドンッと握った拳を壁に叩き付け、チップは緊迫した応接室から去っていった。突如として、叩き付けられた鈍い振動音が澤野を震わせる。コマチはやれやれと云った具合に、シュラグを振る舞う。歪な空間に澤野は呆気に取られていた。このままでは依頼を受けてもらえない、だがその切り返しが思いつかない。先程の幼女の苛立ちに彼は一瞬だけ思考が停止していた。
「澤野殿、悪いがお引き取り願おうか。」
目の前でパンっと猫騙しを食らったかのように、彼女は澤野に対して断りの追い討ちをかけた。その言葉に彼も我に帰る。このままではいけない。折角ここまで情報をこじつけたというのに、このままではゼロだ。なんとか取り持って貰おうと一度停止してしまった思考を回転させる。焦りという冷や汗を額に滲ませながら。派手な金髪を数回掻いた後、手前にあったテーブルを強く握り締めながらコマチへと凄む。
「こっちだって困ってるんすよ!ねぇ、そこをなんとかするのが便箋小町さんなんでしょー?なんとか頼んまスよッ‼︎」
それは彼にとって必死なアプローチだった。しかし、その言葉に中身は無い。あるのは上っ面の詭弁だけであり、強いてその中身は何かと提示するならば私欲の塊。だからコマチはそんな必死な彼に対し、欠伸が出る程の溜息を吐き溢した後に鋭く冷たい目付きを浴びせた。
「で、あれば懐に隠しているボイスレコーダーを持ってくるべきでは無かったな。」
彼女は澤野へ槍を突きつけるように人差し指を向けた。澤野とは対照的に、凪のように風の無い静けさで彼女の心情は落ち着いていた。しかし彼女の覇気はビリビリと痺れるような圧はなく、部屋の隅にあった埃を払うように無関心。これ以上彼に取り繕う気はさらさら無いと云った具合で、興味が薄れているからこそ彼女は冷静だった。もはや澤野に手札は無く、万策尽きたその表情は酷く入り乱れていた。肩を落としたくなる失望と握り潰したくなる程の憤怒。
「う・・・、あぁ・・・。」
ぐにゃりと湾曲する互いの油絵具らは、互いを尊重する事は無く自らの存在を誇張し合う。キメの細かい色合いで混ざり合う事は無く、浅ましくもドロリとした欲に塗れた本性の絵。彼の歪んだ表情は沸々と怒りを露わにしていた。
「我が社は機密をモットーにしている身だ。制約を犯した君に話を乞う気は無い。」
便箋小町の制約の一つ、依頼を受ける前後での録音や撮影の禁止。これらが発覚した時点で取引は強制的に不成立となる。この事務所に関わった者は、便箋小町という情報を残す事ができないようになっている。それを犯した澤野は、便箋小町へ依頼をする権利は失効されてしまうのだ。ついに苛立ちすらも露わにした澤野は、デスクに向かって拳を強く叩き付けた。
「ちッ・・・。はいはい!わかりましたよッ!お前らの事、がっつり後でこの録音データで配信してやるぜ!覚えてろよ!」
舌打ちから始まった彼の怒声は、脅し混じりに語気を強めていた。それと同時に見せたのは、このやりとりを録音していたという自白。叩き付けた拳は、痛みからか少し赤らんでいた。彼はそのままテーブルに置いていた依頼物を取り上げ、足音を強めながら足早に事務所を出ていった。
「構わないさ。もっとも、君がそれを覚えていたらの話だがな。」
彼女のその言葉は、もう彼に届いていないのだろう。面と向かって話して漸く聞き取れる声量だったからだ。また彼はもう一つの制約に気付いていない。それはこの事務所を出たならば、その存在が分からなくなる事である。やりとりは覚えていても居場所が分からないという事は、その間の記憶が抹消されているに近い。勿論、コマチもタダで彼を返した訳では無い。それは彼に向けて指を指したあの瞬間の出来事である。彼女は指を差しただけではなく、彼が懐に仕込んでいたボイスレコーダーにも細工を施していた。所謂、微弱なマナを放出する事で貴重な情報源となるボイスレコーダーをショートさせていたのだ。実のところ、これがコマチ自身が抱える機械音痴の要因の一つでもある。この現象については彼女自身も無意識から生じているものあり、最新性能を積んだ電化製品たちが故障する原因の一つ。コマチのマナは、現代社会で必需品ともなる電化製品とは頗る相性が悪いようだ。彼女はそれを敢えて意図的に利用し、自らのマナを当てる事で澤野が持っていたボイスレコーダーをショートさせたのだった。
「おい、良かったのかよ?ただでさえ少ない仕事だってのによ、マチコ?」
客人が出ていった事で漸く応接室に姿を現したメルがコマチへと問いかける。ずっとキッチンに居た為、詳しい事情を知り得ていないが何となく何が起きてしまったのかは理解していた。何らかの理由で客人を追い返したのだろうと。ただ、それは客側が原因かコマチ側か。
「現に彼の懐には音声レコーダーがあった。制約上、この話は門前払いさ。」
またもコマチは埃を払うように手を振るう。成程な、とメルは口に出し頷きはしたが恐らくそれはあくまで建前であるだろうと。メルは声には出す事は無く、そのままその言葉ごと飲み込んでいた。それはきっとコマチにも原因がある。彼女自身にも、仕事を行う上での整理がまだ整っていないのだろうと。今回、たまたま客人側の不正があった為に不成立とはなった。しかし、実際に客側の不正が無かったとしてもどうだろうか。彼女は潔く引き受けただろうか。現に彼女は、舞い込んだ依頼を何件も断っている。一見冷静に物事を判断し断りを入れているようにも見えるが、その真意は朝霧のように薄暗く曇っているのだ。だから、メルは余計な気遣いは不要だと感じた。
「新人が居ねぇからか?」
「・・・。別にそうとは思わんさ。さっきも言った筈だ、澤野殿はどの道依頼を受ける訳にはいかない。」
メルは包み隠さずに訊いた。端的に、オブラートなど半透明なフィルムは残さずに発した。コマチもまた、いくつかの心の扉を閉ざしてしまっているのでは無いか。メルは、彼女の目を見て、そう感じた。当の彼女はスーツジャケットの内ポケットから掌サイズのメモ帳を取り出す。予めテーブルに置いてあった万年筆を構えながら、何かをさらさらと書き込む。それはまるで今自分が抱えている僅かな緊張を解す為に、冷静さを取り戻そうとしているようだった。
「キツネよぉー、お前、最近変だぜ?」
するとチップはコマチの肩にポンと小さな手を置き、溜息混じりに問いかける。チップもまた、彼女の違和感には当然勘付いていた。しかしコマチは口を割ろうとはしない。肝心な時にはそっぽを向き、無言にも近い返答ではぐらかす。ここ最近は腹を割る素振りは見せず、その毎日であった。
「私は、いつも通りの私だ。」
「お前、あいつの事どうすんだよ?」
「・・・。」
どこか垂の居ないこの事務所は、以前よりもアンバランスだった。新人である彼が居ないだけの筈が統率が失われ、彼女らの思考はバラバラとなってしまっている。特に本来統率すべきこの便箋小町の代表であるコマチの揺らぎが、一部の原因かも知れない。北を見つめる筈のコンパスが一向に揺れ回るように、彼女の心は前に進もうとはしなかった。ついにはカリカリとメモ帳に走り書く右手に持った万年筆すらも、ピタリと足を止めてしまった。
「ていうか、一言くらい連絡すれば良いだろ。」
「それは彼自身が決める事さ。私が無理矢理引っ張り出しては意味が無い・・・。」
チップの差し出す提案は最もだった。今、前に進む為には互いの歩みが必要だという事。チップは理屈ではなく、その雰囲気と直感でその触りを肌に感じていた。だから互いにコミュニケーションを取るべきだと、小さな悪魔は浅はかながらに声をかけた。けれど、その言葉すら彼女は素直に首を縦には振らなかった。その言葉を思い浮かべる事も口に出す事も簡単だ。問題なのは行動に起こす為のその気力。それはもしかしたら、彼女自身の決意がまだ整理がついていないからか。真空の詰まった限りなく透明に近い瓶に見えて、彼女は等身大の去勢を張った鏡を作り出し架空の強さを演じる。自分が理想する強い自分というキャラクターを演じ、本当は弱い自分を少しでも遠ざける為に。内に秘めた迷いに後ろ髪を引かれつつ、コマチはいつものコマチを演じていた。
「いやに消極的じゃねぇか、キツネ。」
その真意には触れていないもののチップは何かに勘付いたようだった。やけに彼女の言葉には張り合いが無い。まるで反響の無いホールの中心でその悪魔は佇んでいるようだった。観客は居ない、しんとした舞台でジッと見つめる審査員が一人。万年筆とメモ帳を仕舞い込んだ彼女は、蝋燭の火を吹き消す程の息遣いで口を開く。
「黙れ、チップ。」
「ちっ。分かったよ、石頭め。」
小さな悪魔はコマチの冷めた一言に対し、舌打ちで受け取った。チップは応接室を繋ぐ扉に対し腹の虫が収まらない思いが拍車をかけ、ビリつく程の衝撃を叩きつけた。それでも尚、その怒りは払拭されずチップは両手をズボンのポケットに仕舞い込み、足音を鳴らしながら去ろうとする。
「また、垂くんのところへ行くのか?」
「どこだって良いだろ、別に。」
お互い顔を合わせる事は無かった。チップだけは横目で彼女を視界に入れていたが、その眼差しは刃物を投げるように鋭い。また垂のところへ行く、ここ毎日チップが欠かさず出向いていたのは彼女も知っていた。と言っても直接会っている訳ではなく、ただ彼の家の玄関前で静かに待っているだけだ。チャイムも鳴らさず、ノックもせずに。ただひたすらに息を潜むように扉の前で座り込み待ち続けるのみ。その行動に意味はあるのか、と問われる事もあっただろう。けれどこの悪魔は意固地にそう続けた。真意もロジックもない。それはチップなりの配慮。いつかあいつが扉を開けたならば、腹を割って話そう。あの扉を開けるのは俺じゃない。あいつが開けないと始まらないからだ、チップはそう思っていたから待つ事を選択していた。
「そうもいかんさ。お前は私の使い魔だ。勝手に出歩かれては困るんでな。」
「知るかよ、俺はあんたに従えるなんて一言も云ってねぇぜ。」
一見無意味にも思えてしまうこの悪魔の行動に対し、不憫と感じたコマチは不器用ながらに止めようとした。しかし、投げかけた言葉は海に砂糖を撒くくらいに、苛立ちを露わにしたチップには聞く耳が無かった。銃口を向けるように指を差し、すーぅと息を吸い終えた後に言葉の弾丸を一発だけ装填する。
「俺は・・・、俺が唯一決めた相棒にしか従う気は無ぇからな!」
「ふん、勝手にしろ。」
その弾丸は小さな悪魔の残り香と共に部屋へと残していった。コマチが振り向く頃には、もうチップの姿は無かった。
「ふぅー・・・。」
特に長い溜め息を吐いた彼女は、徐々に空気を抜かれて萎んでしまった風船のように椅子へともたれ掛かる。それは一時的な安堵なのか、今も尚震えている彼女の指先は焦燥感に見舞われてしまっている為なのか。すっかり脱力してしまった彼女の姿は、凛と束ねた後ろ髪すらも養分を失った枝木のようだった。見慣れた天井を見上げた視界の隅にぴょんと丁度ゴム毬程の大きさの影が一つテーブルに飛び移る。青白い毛並みを靡かせながら、長い前髪から青い瞳を覗かせるメルの姿がそこにあった。
「随分、荒れちまったなマチコ。」
「煩いぞメル。良い加減コマチだと訂正しろ、それとここでは社長と呼べ。」
メルは周りを見渡しながらそう言った。がらんと殺風景な事務所は、より質素で鉄を舐める程の苦味があった。元は彼女とメルしか居なかった事務所。ただ、前に戻っただけの筈の事務所は波を打つ事を忘れた海のようだ。いつも通りに戻った筈なのに、この静寂さは時に気まずさすら感じさせる程だった。コマチはまだ天井を見上げたままで毅然に振る舞う。私は便箋小町の社長、飛川コマチという強さの仮面を被り。そんな彼女の心情を知っているこの言霊の妖怪メルは、ゆっくりとそのベールを開けていく。
「最初に好きに呼べと言ったのはお前だろ?生憎、一々名前を覚えるのは好きじゃねぇんだ。」
「私の本を数えるのは好きなくせにか?」
「馬鹿の一つ覚えに花札を並べるよりは、遥かにマシだぜ。」
マッチに火を灯す程の笑みを浮かべたコマチは、漸く見上げた身体を起こす。そうして、束ねた髪紐を解いた。一本に束ねた髪は蕾が開くように広がり、ほんの一瞬だけ舞う。彼女の頭部からは、黄金色の獣の耳が一対姿を現す。コマチが結んでいた紙紐にはとある仕掛けが細工されていた。妖怪の力を抑制させる為と、完全な人であると認識させる為の変化の髪紐。それはこの現代社会で、人間たちと溶け込む為だった。そうしなければ彼女という存在は、人間に近付く事が出来ない。妖怪の血と人間の血が混ざり合った半妖というどっち付かずの存在が、どちらかの天秤に傾けさせる為に。
「なぁ、メル・・・。」
「何だよ、しおらしいじゃねぇか。」
憂いを帯びた目で彼女は、メルヘ語りかけた。彼女がこの姿になる時は、決まってこの表情になる。まるで大量の雨を浴びた枯葉のように。いつもの飛川コマチではなく、本来の飛川コマチが姿を現す。これは二重人格といった精神疾患によるものではない。舞台から降りた俳優のように、一時的に演じるのを辞めた姿である。その姿はあまりにもギャップがあり、可憐な少女にも近い。コマチは片腕で両目を覆い隠し、再び天井を見上げる。けれど、彼女の視界に映るのは暗がりの腕の中。目を開けても、閉じてみせても映るのは真っ暗闇。瞼の上に浮かぶ体温がじんわりと瞳を温めていた。
「私の選択は、正しかったのだろうか。」
彼女の言葉には、やはりいつものような覇気は篭っていなかった。代わりにベールを包み込ませていたのは、シスターに語りかけるような懺悔のような思い。彼女の悔恨にメルは、一瞬ピタリと止まった。それは言葉に詰まった訳ではない。少女のように落ち込み、悩むコマチになんと声を掛ければ良いかと迷っていた訳では無かった。時折そうなる彼女に対し、メルは自分自身を切り替える為にほんの刹那、時を止めていたのだ。
「さぁな。そいつは誰に聞いたって、本当の答えは返っては来ないだろうぜ。」
「そうだな・・・。正しいと思うか、誤っているかを判断するのは結局自分だから・・・。けれど、いやひょっとしたら周り回って、自らの首を絞めているのかも知れないな。」
コマチは塞いでいた視界を開けるとソファの上で両膝を上げ、それを両腕で揃えるように抱えながら座る体勢を変えた。所謂、体育座りの姿勢となった彼女はどこか愁嘆の色を淡く滲ませていた。すると徐に内ポケットからキラリと光る物を取り出す。彼女は天井へと掲げ、窓から差し込む陽の光に反射させていた。
「結局、その宝石は売らなかったのか?結構な価値にはなるんだろ?」
どこまでも深く、瞳を覆い隠す程の大きさを持った宝石ブルーサファイア。元の所有者は、あの自動人形であるリリィ。そう、彼女自身の瞳そのものだ。宝石の中で陽を乱反射させ、その青は何百にも分かれた美しいグラデーションを演出させてみせた。リリィという魂が離れた今でも、光り輝くこのブルーサファイアはその美しさを忘れてはいなかった。宝石を見つめる彼女をメルはじっと見つめていた。コマチは万華鏡でも眺めているかのように、呼吸をしばし忘れさせて。
「あぁ、そうだったな。少なくともこの事務所をリフォームするくらいの額にはなるらしい。」
「なら、何故売らなかった?」
この宝石は、あくまで報酬。勿論、この宝石を売れば一般人にとっては莫大な資金となる代物だ。足を伸ばし質屋にでも赴けば、一瞬で札束へと生まれ変わる。会社の経営も羽振りも良くなるのは彼女も理解している。けれどコマチは、そうはしなかった。未だその宝石は、彼女の視界のすぐそこで映り込んでいる。売るという選択肢を取らなかったのは、たった一つの理由。どれだけ彼女が悪に染まっても、揺らいではいけないと直感していた。
「これは彼女の魂でもあるからな。」
摘み上げたその宝石をゆっくりと包み込むように、掌の中に収めた。恐らく妖怪の力を持ってしても握り潰すくらいでは割れる事の無い宝石を、丁寧に加工されたガラス細工を持つように繊細に。マナを灯せば、それに呼応するようにブルーサファイアは温かかった。燃える程ではなく、人肌を頬に触れる程に熱い。それは、宝石魔法の刻印がまだ施されている状態のままだったからだ。列車が通らなくなった線路と同様。この宝石はまだリリィの輝きを残しているからこそ資金には変換せず、彼女は今も尚手放さないでいたのだ。
「それはお前の人間としての気持ちがあってか?それとも妖怪の血か?」
「・・・どっちだろうな。今の私にはどちらに天秤が傾いているのかは分からんよ。ただ、・・・これだけは云える。魂に価値を付けるなんて、実に冒涜で浅はかだとは思わんかね?」
彼女が抱える思考はどちらなのか。人間か妖怪か、コマチ自身その方角は定まっていないようだった。気付けば路頭に迷い、鬱然とした空模様に彼女は手探りだったのかも知れない。耳に掛けていた横髪がはらりと離れていき、栗色の髪が柳の葉のように揺れる。自分とは違って未だ輝きを灯す宝石を収めた掌を見つめた後、彼女はメルヘと視野を向けた。
「生憎、俺は妖怪だ。一々、そんな事にまで興味は無ぇよ。それより、その宝石どうする気だ?」
それでもメルの言葉には、余計な気遣いは無かった。その余計さが彼女を地図なき航海に導いてしまうからこそ、メルは敢えてその会話をブッツリと切ってしまった。どれだけその会話の間に断面の高低差があったとしても構わない。だから、話題をすり替えさせていた。宝石はどうするのか、その言葉に彼女の耳はピクリと跳ねるように反応する。いつもの鋭く尖った目付きはそこにはなく、代わりにあったのは未だ憂いだ混じり気の無い水泡のような瞳だった。
「捉え方によっては、これもまた冒涜に該当するのかも知れないな。」
「そうか・・・。」
「貴様こそ、やけにしおらしいじゃないか。」
「そんなに難しい話じゃねぇよ。理由なら簡単だ、それがお前の選んだ道だからだ。前にも言った筈だぜ?……お前の半分は、俺が補う。」
するとメルはどこから取り出したのか、半透明の湯気を漂わせた一杯のコップをコマチの手前に差し出す。コマチがそのコップの中身を覗くと、淡い檸檬色を滲ませたカモミールティーが注がれていた。湯気に乗ったその香りは、青林檎にも似た甘さと仄かに隠れた苦味のある落ち着いたもの。鼻に通ればどこか落ち着きを取り戻し、忘れかけていた安らぎを思い出させてくれる。それは夕闇に塗れた彼女の視界にも充分に効果があったようで、憂いでいたその瞳もセピアから移ろう。徐々にパレットに色が追加され、次第に視界はフルカラーを取り戻していった。
「いつも済まないな・・・、メル。」
「俺たちはそういう契りを交わしているからな。・・・そういえば。」
「・・・?」
ふとメルはコマチの机の方角へと目を向け始めた。
「漸く、本を整理するようになったんだな。お前の机が嘘のように綺麗だぞ?」
そう訊かれたコマチは、メルの言葉にほんの少しだけクスリと微笑みを付け加える。いつも彼にどやされていた。掃除はしなくても、せめて整理整頓くらいはして欲しいと。まるで家政婦のように鬱陶しいヤツだな、とはコマチも最初は思っていた。これが私の正位置なのだと聴かなかった。しかしどうだろうか。一度、そんな小煩かった若者が居なくなったとなったら何と味気無いものか。彼女はいつの間にか自ら整理を始め、あれだけ山脈のように積み上げられた本の山も今や更地となったデスクがそこにある。
「あぁ・・・、そうしないと怒る奴がいるからな。」
「・・・違いねぇ。」
その理由は、とてもシンプルだった。彼がいつか戻ってきた時に、彼に何と言おうか心に呑み込みながら。




