16雨上がりは雨上がりはおまかせを・前編
「どうやら、舞台は整ったようだな。・・・長老よ。」
先程の花火のように広がった爆風により、天空を覆っていた黒い雨雲は消えていた。曇天の分厚いグレイはその爆風から逃れるようにドーナツ状にぽっかりと大きく円を描く。その空いた穴には、ぼんやりと映り込む夏の大三角形を中心に星々が顔を覗かせる。紺藍の晴天は暗がりの黒をベースに僅かな青色のパレットを滲ませ、それが余計に星の輝きを強調させていく。穿ち続けていたコンクリートに溜まる水溜まり。恵みの雨は、からりと晴れ渡りもう降る事も無いようだ。水面を歪ませた波紋も消え失せ、時が止まったかのようにピタリと止んでいる。社長のヒールがバチャリと水溜りへ突き刺すように浸かる。弾けた水泡は、半透明の閃光花火のように舞う。重力に沿うように地面へ落ちようとするが、纏った彼女の覇気により水溜まりへと還る事なく蒸発していく。
ジュッ・・・、と熱した鉄板に水滴を溢したように沸々と小さな水蒸気を吐き出し白煙色の帯を作っていた。彼女の体躯から解放された闘気はそれ程までの熱波を放ち、激る感情に最早我慢は必要無いようだ。腕を組んだ社長の目線は、河童らへと一直線に向けられている。舞台は整った、と静かに告げるのみ。たったその一言が余計に威圧を強調させていく。ただでさえ激る闘気に敵陣は萎縮しかねないと云うのに。それに飽き足らず、戦場へ赴く王の威厳かのように彼女はその言葉を添えていた。とは云えども状況は変わる部分はあれど、依然として変わらないのは彼の存在。トリヤマミズキくんの存在だ。社長の力を使えるように戦力が回復したとしても、彼という人質を解放させない事には下手に動けない。一歩でも行動を誤ってしまえば、たちまち彼の命の保証は無い。それはきっと彼女だって理解している筈だ。河童らとの距離は数十メートル先、その中央部にトリヤマミズキが囚われている。奴らが交渉材料としてだけで彼を使うだろうか、仮に彼らの要望を聞いて無事に返してくれるだろうか。答えは十中八九の否。奴らは掟の為なら、同胞やその家族だって命を奪う考えを持った連中だ。彼らの目的はあくまで尻子玉の奪還、器だったものの身体にはもう興味は無い。刺激させればトリヤマくんの首が飛ぶ。僕らの第一優先は、彼を奪還する事だ。
「ば、馬鹿者!何をしている!早く、あのキツネを黙らせろ!」
終始、呆気に取られていた河童たちは漸く我に返り状況を把握する。いち早く気付いた河童の長老は直ぐに号令をかけ、一刻も早く止めなければ。どよめき困惑する兵たちに召集をかけ、慌て急ぐ火急の勢いで士気を修正させる。雨の無い今この状況で、印を使えるようになった社長に動かれては不利になりかねない。そう思ったからだ。奴らだって馬鹿ではない。下手に人質を無闇矢鱈と殺す事は無い。河童といえど人質の存在価値は理解している。皮肉だが人質は生きているからこそ価値があり、その利便がある。盾にもなるが、同時に諸刃の剣。扱いを誤れば自らを窮地に追い込んでしまい、かえって逃げ道を塞いでしまうのが関の山。こちらの動きを制限と制御させ、ギリギリまで生かし、活かす。だからギリギリまで、首の皮一枚を繋ぐ。それはお互いにピンと張り合わせたピアノ線で綱引きをしているようなもの。故に長老は焦っている。人質を奪還されては、交渉が不利となる。延いては彼らの目的である尻子玉の奪還を失脚せざるを得ない。携えた杖を指揮棒のように乱暴に振るい回し、矛先を僕達へと向けている。だが・・・。
「あぁ、そうだ・・・。だが、二手遅かったようだな・・・。ご長老。」
そう、既に社長は動いていた。長老の側近、つまりトリヤマくんを人質として抱えていた河童のすぐ背後に社長は既に居た。傍らに居た河童たちが、はっと気が付いた頃には既に遅い。彼女はその死角からこじ開けたのだ。素早いとかそんな次元の話ではない。僕が気付いた時には、敵陣の懐に迫っていた。風も音も置き去りにした彼女は閃光なびく雷鳴の如く、人の常軌を逸した速さで動いた。それは百メートル走を九秒台で走り抜ける世界レコードですら、止まっていると錯覚しかける程に。長老の焦りにより滲み出た汗は、咄嗟に振り向く時に水飛沫のように頬から離れていく。けれどその振り向きすら既に手遅れ。彼女は、もう動いている。長老の視界に映ったのは、今まさに振り翳さんとする彼女の姿。左手を広げながら目標を捉え、鉄槌の構え。トリヤマくんを抱える河童の死角へ、背後からの手刀。……ではなく広げていた右手を握り込み、背後から河童の皿目掛けて思いっきりブン殴っていた。
「峰打ちなんて、今の私にはそんな加減は出来んぞ。・・・いや、必要がないの方が正しいか。」
蜘蛛の巣状に粉々となった皿は、破片を溢しながら断末魔すら与える間も無くその河童は倒れ込んだ。解放された眠れる少年は、抱えられていたその腕から離れ落下しかけるところ、社長は寸前で抱き抱えた。なんて事は無い、僕は彼女に何も心配する必要が無かったようだ。不器用だが彼女だって、理解していた。捕えていた者から解放され、社長はトリヤマくんを見事に回収させて見せたのだから。
「ぐ・・・き、キツネ風情がぁ!」
長老の怒号が響き渡る。それは、築き上げた戦略が崩れる音。丁寧に揃え、積み上げた歯車が歪となって狂い始めた瞬間だ。一度崩れた歯車は回らない。そして、連鎖して回り続けた他の歯車達も次々に止まり歯軋りを起こす。苛立ちを添えた長老の額は、雨水とは違う冷や汗を垂れ流し、……溢れる。ほんの一瞬の焦り。奴らも決して油断をしていた訳では無い。特に長老は常に警戒していたのだろう。だから、その為の保険だった。自分達の防衛ラインとしてトリヤマくんと云う人質を使った。長老は恐らく知っていた。大雨の中で歪む地面の上では、社長は印を作れない事を。
それが飛川コマチの弱点であり、唯一彼女を無力化させる方法だと。体勢も万全であった。雨の加護は、河童達の能力を引き上げる。保険に保険を重ねた定跡とも云える盤面。テンジョウの一手を許してしまったその唯一の綻び、たった一手の歩が盤面を狂わせる。積み上げた盤面がほろほろと解れ千切れるように崩壊し、塵となった盤面を見て長老は立ち竦む。怒りとブレンドしていたのは、放心した虚無感。倒壊した戦略が、歯車が、次々と途絶していく様。社長は、長老の肩へと軽く添えるように叩く。強打ではなく、優しくどこか励ますように。その一瞬の行動はまるで花を手向けるかのように、柔らかくそっとしていた。河童の長老がその動作に気付いた頃にはやはり遅かった。揶揄うように社長はもう、そこには居ない。ナイフのような鋭い突風を巻き起こした頃には、社長は僕の傍らに居た。速過ぎるんだ。とても常人が目で追える力量ではない。それも少年を抱えたまま、足音を立てる事無く。そして、漸く・・・トンっと、ピアノの鍵盤を一打短く弾くように足音を響かせた。
「ふむ、魚が速いのは水の中だけだ。水を失った魚は云わずもがなだが・・・。さて・・・、雨を失った河童どもは、果たしてどうだろうな?」
少年を抱え、こちらに戻ってきた社長は息一つ乱れていなかった。そう、彼女はまだ片方の手しか開放していない。つまり未だ余力を残しているという事。まだ余力を残しており、次に備えている。社長がこれだけの速度で動けるのは恐らく、先程のテンジョウの仕業か。社長はバフ掛けとは云っていたけれど、彼の行ったその術式が所謂サポートを担っていると云う。確かに普通の人間の僕でも手を握れば、いつもより握り込む握力が増しており身体自体が非常に軽い。まるで今まで背負っていた重荷を脱ぎ捨てたように軽く、足取りも風の精にでも踊らされているように弾む。身体能力の向上と底上げ、それこそが彼が行った術式。ましてや、あの社長が付与されたとなれば・・・。それは鬼に金棒を献上したように心強く、結果として人の常軌を逸した動体視力、運動性を実現させた。瞬き程の速度は常軌どころかその物理法則をも無視している。身体能力を向上させるサポートが如何に強力であり、一度味方から離れれば如何に脅威かが頷ける。眠れる少年を抱えた彼女は顎で合図をし、腕を出すよう僕へ指示してきた。
「垂くん、この子を頼む。」
社長はそう告げると、少年を僕へと預けた。病院の白衣を着た少年の身体は、すっかり雨で冷え切っていた。けれど、浅くではあるが息はある。静かにゆっくりと呼吸をしている。その深い眠りは、起きる気配が無い。雨で濡れた身体は思わず手を離してしまいそうになる程冷えている、とてもこれでも生きているとは思えない程に。ずっと眠っていたからだろうか。すっかり痩せた手首は、落ちた小枝のように少しでも力を撚れば折れてしまいそうだ。このまま何もせず、尻子玉を戻してしまっては益々体調を崩してしまう。何か、何か暖かいもので覆ってあげないと。
ーーーバサッ。
目の前に舞い落ちたのは、黒いスーツジャケット。飛び立つ烏から抜け落ちた羽根のように少年の身体へと覆い被さった。
「少しは、これで辛抱してくれたまえ。大まかな回復はテンジョウに任せると良い。」
少年の身体を覆ったのは、先程までずぶ濡れだった筈の彼女のスーツジャケットだった。けれど不思議な事に今はふわりと乾いており、仄かに温かさすら感じるのは何故だろうか。まるで乾燥機でしっかりと温め、アイロンで仕立て上げたばかりのように生地が整っている。そのおかげでほんの少しだが、少年の身体を温める。何て事は無い。きっとこれは、彼女が印を作る事で解放された力が起因しているのだろう。解放された力が熱波のように体躯から溢れ出し、たちまちジャケットに含まれた水分を蒸発させたのか。その証拠に社長の身体も髪もすっかり乾き切っており、ずぶ濡れの僕らとは正反対だった。
「この子が、トリヤマミズキくん・・・。間違いない、僕が尻子玉を抜き取った子だ・・・。」
真っ先にこちらへ駆け寄ったのは、テンジョウではなくコツメだった。左手には大事そうに尻子玉を握り締め、少年の酷く冷えた掌を掴む。トリヤマくんは、眠るように目を瞑り微かだが息をしている。そんな状態を見て、コツメはなんとも形容し難い表情で少年を見つめていた。申し訳無いと云う気持ち、漸く逢えたという何処かホッとした気持ち。そして、この騒動に巻き込んでしまったと云う事。プラスとマイナスの感情が入り乱れ、少年の名前を口ずさんだ後は言葉が詰まっていた。恐らく云いたい事、伝えたい事は山程ある筈だ。けれどコツメの震える唇からは、漏れる吐息ばかりで言葉は詰まる一方。何と声をかければ良いのか、そう一種の戸惑いのような物がコツメの喉にベールを被せてしまう。感情が露呈しているのか、少年の手を握るコツメは僅かだが脈に波が押し寄せるように震えていた。その震えは止まる事無く、小さく刻み添えるようにコツメは額に互いの拳を当ててみせた。
「・・・大丈夫。きっと何とかする。」
そんなコツメを黙って見ていられなかった僕は、彼の背中を抱き抱えるように手を添え安堵を促す。大丈夫、きっと何とか・・・、なんてこんな上っ面な事くらいしか云えない自分があまりにも歯痒い。この仕事で僕が出来る事は少ない。社長やチップのように前戦へと飛び込み、聳える河童の軍勢と戦う力も無い。ならせめて、コツメとこの少年をフォローする事くらいなら出来る筈だ。今の僕にはこれくらいの事しか出来ないのだから。
「うん・・・。」
コツメは短いながらも強く頷いた。
「大丈夫、うちの社長は失敗したりしないから。」
そう、あの社長ならきっとやってくれる。あれだけ劣勢だった戦況も今はグラリと傾いている。戦況は跳ね返し押している。水を失った河童の動きは、気のせいでなければ少しだけ鈍くなっていた。社長が速過ぎるせいでそう見えてしまうのかも知れない、ちょっとした錯覚を見せられているのだろうか。それでも尚も牙を向ける河童達は、何処か疲弊しているように見えたがこれは一体・・・。皿は常に濡れている状態じゃないと、河童の身体は正常を維持できないと聞いた事がある。
・・・いや、ちょっと待てよ。そう云う事か。だから、前回とは違う覇気を社長は出していたのか。そうだ、周りをよく見ろ。社長の周りを。さっきまで降り続けていた大雨により濡れたコンクリートを。濡れているどころか湿ってもいない。すっかり乾き切っており、半透明の蒸気が滲み出ている。原理は全くと云ってこれっぽっちも分からないが、これは社長から発している熱波が影響しているのか。
「何をしているッ!奴を出せ、そうだ・・・ジダンを早くッ!」
劣勢を返された河童は焦るようにバタついていた。握っていた杖をぶっきらぼうに振り回し、河童の長老は自軍に対し叫び散らしていた。なんだ?あまりにも慌ただしい。河童の兵たちのどよめきから、予想だにしていなかった何かをしようとしている?忙しなく動き回る兵達を合間縫って、それは分厚い足音を奏でながらぬっと姿を現す。河童たちの奥から一際巨大なもの・・・、ここに居るどの者よりも巨体で大柄な影が迫る。
「ほう・・・、そんなモノまで用意しているとは。用意周到だな、長老殿?」
顔立ちこそは河童そのものだが、大きさは他の比ではない。推定五メートルはある大柄な河童だ。ただ大きいだけに収まらず、はち切れんばかりの分厚い肉で覆われている。まるで力士のような体格。一見脂肪に覆われているように見えるが力士と同じならば、あれも柔軟な筋肉なのだろう。足踏みだけで、その振動が響き渡る。これも河童の一種・・・なのか。
「こうなっては、手段など選ぶ必要は無かろう。」
「それは少々誤りだろう?人質を取られたのだからな、手段が《《それしかない》》ではないか?」
「何とでも云うがいい!このジダンを前にしても、抵抗出来るのであればな!」
「ウゥ・・・ウボォぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉお!」
巨体を持つジダンと呼ばれた河童は、ズシズシと地面を揺らしながらゆっくりとこちらへと進行する。他の河童達を虫でも払うかのようにぶん投げながら、重厚な足音とプレッシャーを乗せて侵攻する。その雄叫びはあの嘴からはとても想像出来ない程に図太く、獰猛で力強い野生のハンターのようだった。それでも社長は臆しなかった。むしろ鼻で笑いながら、もう片方の手に覆い被さっていた白い手袋に手を掛ける。
「丁度良い、私自身も幾許か物足りなくてな。スパーリングの相手を探していたところだ。」
そう云うと彼女の足元に、印がまた現れる。彩色を変え、山吹色に輝く光がその印から湧き上がるように彼女の体躯を包み込んでいく。
「・・・乖ッ!」
拡がる重低音。喉の奥まで響き渡る轟音は、大柄の河童が発する雄叫びと負けじ劣らず。彼女の背中を護るように二本の剛腕が雄々しく現れた。あの時、トリビュートをボコボコにしたあの腕だ。大地すらも穿つ岩のような剛腕は、ギリギリと軋ませながら握り拳を成形させる。その凄みは云わずもがな、まさに鉄拳と表現するに相応しいものだろう。社長は、肩幅程の間隔で足を開く。獣のように逆立つ毛を纏った拳を握り締め、浅く構え静止する。
「グゥぅぅ・・・!」
「ほぅ、気が合うじゃないか。貴様も暴れたいのだろう?互いに鬱憤晴らしと行こうじゃないか。」
秒針は噛み、その一秒が数刻に感じる程の緊張を張り詰めた。そして、鍛え抜かれた剛腕同士が衝突。ドンっと起爆するような残響は衝撃波と共に弾ける。互いが相手の拳を砕かんとする覇気は、ギリギリと交えた握り拳を軋ませている。振り翳した剛腕とリンクした彼女の腕は、何かと押し合うように小刻みに震えていた。吊り上げた眉と口角を上げた社長の表情は、今この状況をどこか楽しんでいるようにも見えた。押し合っていた拳は離れる。丁度、互いの拳一つ分。同じタイミングで拳を僅かに開き、ケシ粒程のゆとりが生まれる。
「良い感覚だ・・・。では、次はラッシュの速さ比べをしようじゃないか。」
スゥッと半拍程の息を吸い、彼女は先程よりも更に深く足を開き臨戦態勢を整える。大柄の河童も同様に巨大な身体を大きく拗らせ、次の攻撃の準備に入る。互いの覇気は弾け合う蒔いた炎のように荒々しく、今にも耳元まで響く怒声の弾丸を撃ち合っているようだ。意外にもあの河童は獰猛さを掻き立てさせる体格とは裏腹に、こと決闘に関しては紳士的だ。どこかスポーツマンシップに則っているというか、自分との力量を確認しながら戦っているように見える。力任せに押し除けると云うよりは、敵を、好敵手を尊重とし、己の拳をぶつける。ぶつかり合う拳たちはどこか、ニヤリと笑っているようにも見えてしまったのは錯覚では無い気がする。
ドォドォドドドドォドォドドォッ
安らぎだった時は、石火のように瞬く潰えた。代わりに訪れたのは激しい怒涛。青嵐なんかよりも荒々しく、弾け合う風圧で砂埃が吹き荒れる程だ。宣告通りの剛腕同士のラッシュ。互いに譲らない。一歩でも後退りでもすれば怖じける。右ストレート、左フック、互いの一打が弾ける轟音は戦車主砲を打ち合ってるようだ。連撃を繰り返す主砲は、漸く極太の指を絡めるように互いを掴んだ事で終えた。メキメキと骨どころか大木すらも軋ませようとするその圧力は、傍目で見ているこちらが締め付けられるように痛い。
「良いスパーリングだったぞ、ジダンとやら。だが・・・!」
硬直した剛腕同士の最中、彼女は体勢を変え大柄の河童へと突っ込む。五メートルはある巨体が携える顔面目掛けて、社長は飛び込んでいく。振り翳した彼女の拳と共に、岩のような仁王像の腕を消した。すると、先程まで掴んでいた力が相まって大柄の河童は体勢を前へと崩し始めてしまう。崩したその先は、河童の瞳に映るその先の視界は、彼女が今振り翳さんとする姿。にっと怒りの綻びから溢れた僅かな笑みを携えた社長の姿だった。
「これでチェックメイトだ・・・!」
巨大な顔面目掛けて、ぶっきらぼうに彼女はぶん殴った。衝撃はゆっくりと力強く、彼女の拳が河童の眉間へとめり込んだ。大柄の河童は咄嗟の痛みと衝撃に耐え切れず、断末魔を残す事無く静かに倒れ込んでいった。先の戦闘でシワ汚れた真っ白なシャツをピッと張り立たせながら、浅く彼女は息を吐いた。まるで重機でも叩き付けたように、大柄の河童は大の字になって気を失う。
「さて・・・、これで人質も、そちらの主戦力も落としたかな。」
「あなたも悪い人だ。彼らの得意分野を奪うどころか無力化させるなんて。」
と社長に皮肉混じりな言葉を投げかけたのは、こちらに近寄ってきたテンジョウだった。社長に視線を送る事なく、トリヤマくんへ社長のジャケットを掛け布団のように被せる。確かにこの青年の云う通り、彼女は河童の盤面を崩したからこそ成せた結果だ。今頃もし雨が変わらず降り続け、社長も力を解放する為の印が作り出せないでいたのならば・・・。その結果は劣勢に終えていたのだろう。恐らく彼らの最終手段でもあった、あの大柄の河童にも勝てなかった。一矢報いる事も叶わなかったであろうこの盤面を塗り替え、彼女は自分のフィールドに差し替えてしまった。河童たちは一連の騒動にどよめいている。このまま続けても良いのかと戸惑い、握った矛を手放す者も見える。戦力も士気も明らかに疲弊してきているようだ。ふと、横目で何やらテンジョウがいそいそと準備を始めている。少年の頭に手を当て、ぶつぶつと何かを唱え始めていたのだ。詠唱を続ける内に、優しい光が少年の体を温める。包み込んだ淡い緑色の光は、傍らにいる僕でさえも心が落ち着くような感覚だ。肌に触れる優しい光は春の葉もれび差し込む仄かな温もり、凪にも近い柔らかな風に撫でられホッと一息が付ける。そうか、これがケ⚪︎ルか・・・。所謂、回復魔法みたいなやつなのだろう。社長も治療が、とも云っていたし。素人目でも判る程に、トリヤマくんの血色は良くなり肌に温かみが戻ってきているようだ。社長達のお陰でゲームや漫画などで見た光景を間近で体験しているのは、貴重と併せて耐性も付いてきた。だから、僕はこの男が行なっている行動に疑問も抵抗も持ち合わせなかった。これが普通なのだと。
「きっと、貴様なら逆の事をしていただろうなテンジョウ。」
逆の事を、と社長は言葉を返す。つまり、テンジョウは別の方法で攻略していたと暗示させる。彼女は河童たちを無力化する為に、雨を無くし更には雨によって満たされた水分を蒸発させた。けれど彼はその逆。戦いをする中で敢えて相手が有利な状況を残し、劣勢を持ち込んだままの戦いを好むのか。そう示唆させるように社長の表情は、何処か彼を呆れるような眼差しで見ていた。
「買い被り過ぎですよ、コマチさん。ただ、逆境ほど気持ちが高揚するモノは無い。これだけは認めますがね。」
テンジョウは両手を上げながらシュラグを振り撒く。とんでもないとか云いつつも、強ち彼女の放った言葉には偽りはない。だから、彼もヘラついた表情に浮かぶ瞳だけは笑っていなかった。これでは満足出来ない。暴れ足りない。もっと戦いを楽しませろ、血を見せろとでも云いたげな目で密かにひっそりと、口に出さずとも訴えていた。彼女は右手で舞い落ちてきた枯れ葉でも払うように、テンジョウの言葉を忌み嫌いながら手を振ってみせた。
「戦闘狂め。やはり、貴様をサポート役に回して正解だったな。」
「では、答え合わせをしないと・・・ですね?」
「食えん男だな、貴様は。」
一つ、僕が感じたのはこの二人は何処か似ていたと云う事。どちらも一筋縄では行かない存在であり、否定と肯定の狭間を絶妙な塩梅で交差させる。性格や考え方もロジックさえも違えど、辿り着く結論は同じ。そして互いにボロは出さない。言葉を交わす度に視線をチラリと移しているが、それは確認と云うよりは試しているような。さて、お前はどう動く?と互いの駒で攻防を繰り返す棋士が常に対局しているようだ。どっしりと構えた静かな攻防戦。とは格好良く並べてはみたが、要はどちらも根っからの負けず嫌いなんだ。
「コォォォツゥゥゥメェエエエエーッ!」
彼らの話に鈍器で殴りかかるようにどっしりとした怒声を飛ばしたのは、怒りを露わにした河童の長老だった。長老は携えた杖を地面へと叩きつけるように放り投げ捨て、己の体内で沸騰した怒りをぶつけていた。その怒号に誰もが振り向く。先程までの落ち着いた面影はなく、酷く鼻息を立て震えていた。尻子玉を奪還する為に計画を立てたにも関わらず、たった一手で弾き返されたのだ。怒りを露呈するのも無理はない。何よりも驚いていたのが、剣を突き刺すように狙い撃ちされたコツメだった。
「貴様は、何をしたのかわかっているのか!貴様のたった一つの浅はかな行動で!軽率極まりない行動で、里の未来を滅ぼす事になるんだぞ!お前はそれを、わかっているのかぁー‼︎」
「・・・。」
罵声を浴びせられたコツメは、口を紡ぐ。グッと堪え、掴んでいた尻子玉を再び握り込む。コツメ自身、あの長老が云っている事は恐らく理解出来ているのだろう。河童の立場から見れば、長老の豪語に誤りは無い。むしろ見る角度によっては正しいまである。立ち塞がれた現実に河童の少年は、初めて目には映らない矛を握り締め立ち向かおうとしている。そんな眼差しだ。潤んだハニーイエローの瞳は、そんな決意に満ちた心を持ち合わせていた。
「それでも・・・、それでも、おいらは、自分のした事は間違っていないと思う!」
震わせた喉を振り払うように、か細く出た声を奮立たせた。掟を守るか、たった一人の少年の命を護るか。両極端の二者択一を、今この幼子は選ぼうとしている。いや、そうではない。もう彼は決めている。決心を露わにしている。尚も同族から再度問い詰められても、少年の心は揺るがない。自分の信念を長老へとぶつけ、トリヤマくんを守るように両手を大きく広げた。
「この青二歳が。一時の、目先の幸福だけで判断する事が浅はかだと云っているのが何故分からない!さぁ、その玉を今すぐこちらへ持ってくるんだ。そうすれば、我らもこの場から立ち去ると云っているのだぞ!それにお前の罪も減刑してやる。里の未来を考えれば、お前にとっても悪い条件では無い筈だ・・・。」
少年の意見を聞いた長老は間髪入れずに反論する。語気は強まり、激昂して逆立った顔はコツメを睨みつける。今にも雷を解き放つようなその怒りは、とても幼い考えしか持ち合わせていないコツメにはあまりにも荷が重過ぎる。それでもコツメは歯を食い縛り、その足場にしがみつく。ここで食い下がっては駄目だと、自分を鼓舞しようとする。
「全く・・・。何を話すかと思えば、子供の悪戯に醜い説教とはな。」
二人の会話にメスを下したのは、社長だった。そのメスは仲裁を行うメスではない、バッサリと切り裂くように間へと割り込んできた。けれど、コツメではこの状況は荷が重い、そう見かねた彼女なりの判断だったのだろう。割り込むメスに苦味のある顔で、長老は憤怒の眼差しを社長へと向け矛先をゆっくりと変える。
「・・・醜い、だと?これは我らの事情だ。哀れな部外者はお引き取り願おうか。」
長老は、傍にいた兵の矛を取り上げ、切先をこちらへと振り回すように向ける。社長は何をする気なんだ。まさか、この状況下で交渉する気なのだろうか。いつものような強行突破ではなく、交渉による和解にでも持ち込もうとしているのだろうか。
「ふん、哀れなのは貴様らであろう。仕来りに縛られ、それをエゴだとも気付かずに。広い世界を見ずして固い頭で多方向性を垣間見ない方が、余程哀れではないか?」
前言撤回だ。交渉を持ちかけるどころか、河童に対して揚げ足を取る始末だ。これではただ、相手の怒りを買うだけ。火に油を注ぐとはまさにこの事。もはや注いでいるのは、燃える屋根にバケツ一杯に並々注いだガソリンを放り込む勢いだ。 帰ってくる罵声を物ともせず腕を組み、社長はゆっくりと長老の元へと歩み寄る。ニジリとまだ僅かに湿ったコンクリートを踏みしめながら、真っ直ぐに彼女は迫る。その間、長老の周りに居る兵達は動かない。正確には奴らは動けないのだ。彼女の圧倒的な覇気が進軍を拒む。誰もがそのプレッシャーに押し潰され、動く事が出来ないでいる。コツコツとヒールを鳴らし、その足踏みはいつもよりも力強く何処か怒りを彷彿させた足取りだった。
「里の豊かな未来を築く為に、人の命たる尻子玉を使うか・・・。まぁ、そこは良いだろう。妖怪のする事だ、人間だって似たような事をしてきた時もあった。だがそれで、奪えば同族すらも刃を向けると。全ては里の為、里の為。命を犠牲にした平穏とは、悪徳政治家よりも質が悪い。」
「全てはそこに居る人間達の身勝手な考えのせいで自然を追いやられたからだ!我らには水こそが生命線なのだ、これは報復でもある。自然を蝕んだ人間達に対する報復だ。人っ子一人くらい、大きな犠牲ではない。自分達の生きる場を考えて何が悪い!」
激昂した長老は、的確に痛いところを突いてくる。確かに彼らの云う通り、元の起因となるのは過去に人間達がしてきた身勝手な考えのせいだ。自分達の住み易い環境や便利を求めて、地球という元あった環境を蝕んだ。過去の人間が起こした業である。傲慢で身勝手な考えで自然を破壊し、そこにあった生命を弱らせ失わせた。自分達さえ良ければ良かろうなのだと、他の種から見たらそう思われてしまっても仕方が無い。それは塗り替える事も出来なければ、云い逃れの無い真実である。だからこそ思う。これは、今回の件はどちらが正しくてどちらが悪いのだろう、と。
河童達は、尻子玉がある事で自分たちの里の繁栄を養う事が出来る。一族を守る為でもあり、次の世代達へと豊かさを築き上げる為であり、理に適っており実に合理的だ。コツメが引き起こした行動だって、決して間違った事ではない。たった一人の少年の命を重んじて尻子玉を奪い返えそうとしたのは、少年を救うだけでは無い。その母と父などの彼の周りの存在、彼らの心を救おうとした。一人の命と里の未来。争いはいつだってどちらも正しいと主張する。対峙する者には、悪と決めつける。この尻子玉を巡った騒動は、決してこの二つを天秤に掛けてはならない事だ。両立する事は出来ない。天秤へと乗せ比べるのではない、どちらかを割く必要があるんだ。僕らもまた、その択一を迫られているのだ。




