11来襲はおまかせを
ピウ・モッソ。その雨は、それまでの雨よりも強く激しく降り注ぐ。一粒一粒が大きな弾丸のようでコンクリートを叱咤するように穿つ。輪を描きながら弾ける雨粒は、一種の花模様を彩る。天より一斉放射されたその水飛沫は、見た目以上に騒々しい音を演奏させていた。あっという間に街全体を雨模様へと変え、湿気が身体の周囲に纏わり付く。ねっとりとしたその湿気は決して気分が良いものではなく、大粒の雨が身体を押し潰す勢いだ。それに加えて、視界を歪ませる程の激しい雨。風こそは無いものの冷たい雨は機関銃に等しい。しかし、それがただの雨では無いと云うのは何の能力も無い一般人である僕でもわかる。予報にはなかった招かねざる激しい雨。通り雨だとしてもあまりに不自然なスコール。この雨には普通の雨とは異なり、何か超常的なものを帯びているのだろうか。社長もいつもに増して鋭い目付きをしていたのが、この雨に対して僕の疑心を掻き立てていた。
「いかんな。どうも妖怪どもは、耳が早いようだ。」
それは、僕達に向けられた言葉ではなかった。雨に紛れた招かれざる客人。何よりもそれは、依頼人でも客とは云い難い存在。違和感は足音すら奏でることなく、確かに真っ直ぐにこちらへと接触しようとしている。感じた違和感はタバコ屋から出てすぐに気が付いた。人通りがあったこの街は、この雨のせいか人影は無い。街行く人々は忽然と姿を消し、殺風景すら感じてしまう程に街は雨に濡れていた。昼下がりだというのに車も通行人も、傘を持ちながら歩く者さえ居ない。代わりに気配を感じるのは異形な者たち。そう、社長たちの言葉を借りるなら“ギフト”と称した方が良いだろう。僕の目には、まだその者たちの姿は視認出来ていない。
「気を張れよ、新人!特に背後をな!」
降り頻る大雨の中、メルが叫ぶ。いや正確には少し違う。雨音に負けないよう情報を流す為に単に大声で叫んだだけで無く、ユニゾンするようにテレパシーを加えていた。皆、互いの背中を守るように円を描き、ぐるりと周囲を警戒出来るよう付け焼き刃だが陣形を模る。緊張が走る陣形の中、額に滴るものが冷や汗なのかこの雨に打たれてなのか判断し難い。各々が霧まみれの向こう側へ緊張に縫うよう構える中、僕も横目でチラつかせながら見よう見まねで構えた。ろくに喧嘩をしてこなかった屁っ放り腰が、どこまで対応出来るかなんてたかが知れている。前回のトリビュートとの戦いは、ある程度用意と準備をしていたからこそだったからだ。作戦を立て対応をしてきたからこそ、それなりに戦って生き残れた。けれど今回は違う。状況がまるっきり別物だ。迫り来る奴らの行動は極めて奇襲に近い。ましてや僕らは武器を持たない丸腰だ。護身用のナイフ一本でもあれば、この不安は少しでも解消出来ただろう。せめてもの望みすらも握り込もうとした拳の中は空で、自分の体温と湿った空気が指の間を通り抜けていた。握り込んでわかった事は、自分の掌が震えていた。これも一種の恐怖なのかもしれない。はたまたこれを武者震いだと解釈する猛者も居る事だろう。生憎、僕は普通の一般人だ。世界で活躍するメジャーリーガーでも、フライ級チャンピオンでもない。一丁前に構えた型は、自分でもわかるくらい何とも弱腰な姿勢だったのだ。
「なぁ、メル。これは一体・・・。」
僕の肩に飛び乗っていたメルへ横目で問いかける。緊張を研ぎ澄ませた今は視線をずらす訳にはいかない。いつ、どこから“ギフト”が襲ってくるかわからない。しかし、本当に来るのか?ここは街中だっていうのに。もし社長達が勘付いた殺気が正しく、本当に“ギフト”が襲ってくるとしたら。そいつは容赦が無く、かつ見境が無いのだろう。白昼堂々と街に強襲なんて、まず人間なら選ばない。やるなら夜だ。気付かれないように仕掛け、奪い取る。人間ならばそうするのが合理的だと思えよう。素人でもわかる殺気立った緊迫感。奴らがそうしないのは、たった一つの理由。おそらくそれに限る。それは・・・。
ひた・・・、ひた・・・・。
・・・確実を目にした絶対的な自信を持つ勝者だと自覚しているからだ。激しい雨音に紛れるように生々しい足音が周囲から聞こえてくる。それらは街の影から、電柱、マンホール、流れ落ちる雨水に紛れぬるりと姿を現し始める。河童だ。それも一体や二体ではない。街の影を塞ぐように至るところから現れる。出来れば社長の勘は外れて欲しかったが、現実は僕らを取り囲むようにまんまと敵襲を受けている。数体の河童がひたりひたりと雨水を踏み出し、三又の矛を握り締めながらこちらへと近付く。奴らはコツメとは明らかに体格が違う。大きさはそれでも小柄だが、遠目でもわかる発達した筋肉。何よりも大きな違いは、僕達に向けた槍のように長く研ぎ澄まされた殺意だ。
「あ・・・、あっ・・・。」
迫り来る河童の小隊を見たコツメは、震えた指を河童たちに差しながら怯えていた。きっと彼は単に隠れながら逃げて来た訳ではない。この反応から察するに奴らから追われながら逃げてきたんだ。
「コツメくん・・・。」
僕は河童の少年の肩へ手を添えた。奴らの殺気立つ眼差しは、生け捕りで目当ての物を回収するだけとは到底思えない。コツメの生死は問わない、確実に尻子玉を回収しろ。河童たちの目からは、そう云い表すのが頷ける。少年は頭を抱え込み、その場でしゃがみ込んでしまった。自らに降り注ぐ恐怖を塞ぎ込むように。
「もう、ここまで・・・。お、オイラのせいだ・・・。みんなを巻き込んだから・・・。」
「違う、これは僕が引き受けた依頼だ!」
「垂くん、君も違うぞ。我々が受けた仕事だ。だが、報酬はしっかり頂くがな。」
社長は拳を握り込みながら骨を鳴らした。彼女の目は殺気とはまた異なる眼差しをしている。よく云えば血の気の多い暴れ馬のようにお盛んだ。
「ギ、ギギ・・・ッ!」
爬虫類のような感情を押し殺した瞳で、奴らはその喉から擦り切らした声で威嚇する。狙いはやはり、コツメの持つ尻子玉。奴らを見たコツメは、その尻子玉を深く握り締め震えていた。コツメにとっては同族。だがその同族達に切先を向けられ敵意剥き出しで詰め寄られる。けれど最早奴らにとって、コツメへの同族たる仲間意識は無い。裏切ったのはコツメ側なのだから。それは齢幼い少年であっても、許された行為ではない。わかりやすく単純で、一歩踏み越えれば裏切り行為。そう見なされた者は、昨日までの同族であっても平気で首を切り捨てる。彼らの威圧がそう物語っている。社長はしゃがみ塞がるコツメに手を差し伸べて、雨に濡れた唇を動かした。
「それともう一つ、コツメくんと云ったな。これが君が選んだ道の姿だ。もう後戻りは出来んぞ?」
「・・・はい、・・・ッ!」
彼女の檄がコツメの視界を上昇させた。ハニーイエローの震えた瞳に大粒の雨が一粒。振るわせ、限りなくも透明に近い水晶体が黄色く滲む。彼女の一言はきっとまだ少年のコツメには、とても重い一言なのかも知れない。それでもコツメは何かを感じ取り、強く頷いていた。しゃがみ込んでいた身体を立ち上がらせ、前を向く。このままではいけない、戦わなくてはならない。その為に僕はここへ来たのだ。そう自分を奮起させるように少年は立ち上がる。社長もその姿を見て、隠れるように微笑んでいた。
「で、どうするよ?マチコ。」
とはいえすっかり数体の河童たちに取り囲まれた戦況を見て、メルは社長へと投げかける。雨のせいか濡れた毛でいつもより肩にのしかかるメルが重い。四方は河童たちに取り囲まれている。道を塞ぐように構える河童だけではない。建物の上や電柱にも数体の河童が四方八方で取り囲んでいるのだ。例え翼を持った鳥でも逃げるのは困難。すぐ傍らには先程まで運転していたキッチンカーがあるが、全員が乗り込んで逃げようにも無傷では済まない。かといってこの状況下でいきなり手を出すのも悪手だ。それこそ、戦況を不利にさせる要因になりかねない。仮にこちらから手を出したともなれば、奴らは見境なく人を襲い出すだろう。そうなれば、漏れなく河童との乱世勃発だ。こちらが出す行動は、奴らの様子を伺う事。流石に血の気の多い社長やチップもそれを理解しているのか、飛びかかる様子はなかった。ふむ、と顎に親指を当て戦況を見た社長は鋭い眼差しを横にずらす。
「よくもまぁ、田舎妖怪がゾロゾロと。」
ふぅーっと、明らかに不機嫌な溜め息を溢し右手を腰に当てる。しかし、河童たちは社長の台詞や姿を見る事は無かった。興味が無いとはまた違う。どちらかといえば、貴様には関係無い。部外者は立ち去れとでも静寂に告げているようだった。
「コツメ・・・、尻子玉を還せ。水神様へ捧ぐ尻子玉を!」
一体の河童が擦り切れた声で荒げる。怒鳴り声にも近いその声は、とても同族へ向けた言葉では無い。掟を破った裏切り者へ向けた、力任せに奪い還そうとする敵意だった。いや、そういえば待てよ。初めてコツメと話した時は、全く言語が理解出来なかった筈だ。あの七つ道具を使って、ようやくコツメとコミュニケーションが取れるようになったのだ。まるで最初から互いの言語を理解しているようじゃないか。どこに要因がある?僕は周りを見渡した。社長の結界がそうさせたのか?いや、魔法とはまた違うんだ。そんなご都合主義なものとはまた違う。もっと合理的で納得出来る要因がある筈だ。今この場で奴らの言葉が理解出来るのは・・・、成程。お前か、メル。
これを本当の灯台下暗しと云えようか。僕の肩に掴まっていたメルは淡く青白い光を放ち、ご自慢の頭頂部の毛を逆立てていた。一種のアンテナ代わりなのだろうか。テレパシーの応用で奴らの言語を翻訳してくれているようだ。これまた何ともご都合主義には変わりないな。けどこの状況は一策の光明もある。会話が成立出来るのであれば、まだ交渉という手段もある筈だ。言葉というコミュニケーションは偉大だ。これ以上の交渉材料は無いのだから、冷静に対処すればきっと。ここはそう、穏便に。事をなるべく荒立てず、交渉次第で穏便に依頼を解決へ結べる筈・・・。
「馬鹿か?いや・・・阿呆か、貴様らは?これは私の依頼物だ!とっとと、その辺の八百屋へ出向いて胡瓜でもこさえて土産にするが良い!手ぶらで帰る訳にはいかないだろうからな。」
ガッっぅっぅぅぅぅぅぅっっっデム‼︎僕は咄嗟に勢い良く、両手で頭を抱え雨が降り注ぐ天を見上げた。この女社長は、この状況下で何を云っているんだ⁉︎交渉どころか叱咤するように喧嘩を吹っ掛けているじゃないか。無様にあんぐりと思わず口を開けてしまい、僕は呆然と立ち尽くしてしまった。何をどう考えたら、そんな攻撃的な言葉を初対面の相手にぶつける事ができるのか。温厚な僕には全くもって理解が追いつかない。僕は震わせながら手を挙げ、猪突猛進な彼女へと声をかける。
「しゃしゃしゃ、社長!何云ってんですか⁉︎こんな時に!」
「む?何だね、垂くん。先日手に入れたクーポンでも添えれば良かったかね?」
ピッと胸元のポケットから近所のスーパーのクーポン券を取り出し、冷めた表情で僕を見つめた。「百円引き」と印字されたクーポン券は、暫く彼女の胸ポケットに忍ばれていた為か少し寄れていた。惨めに折れ曲がったクーポン券は追い打ちを掛けるように、このどしゃ降りの雨でみるみる濡れ滲んでいく。
「そういう問題じゃないです!上手く交渉すれば、戦う必要も無かったのに!」
「だから、百円引きのクーポンをやるから帰れと云ったではないか!」
「それで“はい、そうですか“となる“ギフト”がどこにいるんですか!そんなの、そこのチップくらいですよ!」
「はぁー⁉︎お前、俺だってそこまでバカじゃねーよ!一枚じゃなくて、もう三枚くらいは貰わねーとな!」
「だから、お前くらいだって云ってるんだよ。あと、社長。そのクーポン券は、もうしまって大丈夫です。」
僕がそう云うと、ムスッと少し機嫌を損ねたのか仏頂面でこちらを眺めていた。濡れて萎れたクーポン券をぐしゃりと握り込み、ぶっきらぼうに丸めていた。どうしてこの人は、こんなに血の気が多いというか変な所が疎いというか・・・。
「ならば、仕方ない。貴様らを始末し、コツメごと回収させてもらう。」
先程とは違う別の河童が矛を向けて言葉を発した。いよいよ痺れを切らしたのか無駄な茶番を繰り広げている中、ギラリと向けた矛で話を戻してきた。やはり奴らの狙いは尻子玉だけでは無く、コツメも対象のようだ。何故わざわざコツメも必要なのかは明白だ。それは実に人間に近しい考えでもあるから皮肉にも思える。族の掟が、硬く長年縛り上げた掟だ。守らなかった者がどうなるのかと云うのを晒す為だろう。だと推測出来れば、妖怪と云う河童も人となんら変わらない思考なのかも知れない。どちらにしてもだ。どちらも奴らに渡す訳にはいかない、というのが物語の定石だろう。
「まぁ待て、田舎もん。我々は・・・。」
と社長が言葉を投げかける最中、事は切って落とされる。ほんの刹那の隙間を縫って瞬きの間、奴らが持つ三叉の槍の切先が社長の喉元近くまで迫っていた。奴らの一連の動作に迷いは無い。躊躇に縛られる事無く、容赦を切り捨てた矛。僕だけじゃない。誰もがそれなりの警戒をしていたにも関わらず、奴らの動きが全く見えなかった。既にほんの少し喉元に刺さったのか、一雫の血が大雨と共に流れ滴る。
「最早、貴様らとの会話は無用。始末する。」
社長の懐へいち早く飛び込み、先手を打った河童が言葉のナイフを添える。その動きは自信に満ち溢れた一手。圧倒的な力量差があるからこそ、実行した一手。奴らの言葉は忠告や警告などの生易しい物では無い。既に執行へと移り変わっているのだ。生死を問わず、目的に従った実行処理。
「ほぅ・・・、河童風情がご立派な口上を。三流役者も涙が出るな。」
先手を打たれた社長は、不意に取られた隙に対して少し目を丸くしていた。何よりも驚いたのは、あの社長が不意を突かれその一手に反応出来なかった事だ。この間の悪魔との戦いでは、一撃も受ける事無く圧倒的な戦闘力を誇っていたのにまるで立場が違う。彼女の首と矛の間には紙一枚を丁度挟めた程の幅しか無く、互いに睨み付けながら硬直していた。あれだけの戦闘力と技術を持った彼女ですら、一手出遅れていた事に苛立ちを僅かに彼女は募らせている。
「これは、ちと不味いかもなぁ・・・新人。」
ボソリと戦況を見たメルが呟く。それは、いつもの惚けたような云い草でも他人事でもない。メルの瞳に映る光景には、苦虫を噛み締める程に眉を歪ませる。
「え・・・?」
「奴らは河童だ。奴らが水神様がどうのとか云っていたの覚えているだろ?」
「あぁ・・・。でもあれだろ?水を綺麗にするとか、雨を降らすとか豊穣神みたいなもんなんだろ?」
「そいつは、ちと語弊があるぜ。所謂、建前上はと云うやつだ。乾いた土で戦うのと大雨の中、水で溢れた環境で戦うのでは奴らにとっては大きく訳が違う。河童って奴らは水に恵まれた環境下であればある程、戦闘力が向上する一族なんだぜ。」
鋭い眼光で覗くメルは、河童達を見つめ戦況を分析した。もしメルが云った事が正しければ、とんでもない事態だ。水が多ければ多い程、奴らは力を増す。恐らく普通の人間と比較しても河童自体の基本的な戦闘力ですら、奴らに軍配が上がってしまうだろう。アスリート達で漸く互角に渡り合えるかどうか。今この場に居る奴らは、その中でも戦闘集団だ。この大雨という環境を足元に、戦闘力を向上させるバフ掛けが常に河童たちにはある。一個体で考えれば大した事は無いのかも知れないが、既に周り囲むように構える十数体の河童。まともに戦えるのは社長だけだ。しかもその社長すらも不意打ちとはいえ、その一打を見抜けなかった。降り頻る大粒の雨に打たれながら、雨音に紛れるように僕は生唾を飲み干す。
「つまり、ここら一帯があいつらの絶好のバフまみれのフィールドだって云いたいのかよ?」
「あぁ、水を得た魚という言葉があるだろ?つまり、そう云う事だ・・・!」
そう叫んだメルは、僕の肩にぐっと重心が加わる。メルが声を発したと同時に一体、また一体と社長へ矛先を向け突進してきた。一本一本に殺意が込められている。既に喉元へと迫っていた矛を素早く払い除け、その反動を利用して周囲を確認。鋭い速度で振りかざすその突きは確実に急所を狙っていたのを社長は、瞬く間に目を通す。彼女は直ぐ様、戦闘体勢へと入っていた。あの構えだ。肩程まで足を開き、常に腕を振るうよう自然に。ナンバ走りから始まった独特の構え。確かメル曰くだがゼロレンジコンバットに精通するとか云っていたな。あいつの云われるがままにというのも癪だったが改めて、彼女の格闘術について調べてみる事にしたのだ。体幹を保ったまま肩甲骨を柔軟に回すウェイブという基本身体操作を駆使した技術。そうする事で先の先、対の先、後の先といった相手の動きに対して見極めた判断を瞬時に行動に移す為の構え。確かに彼女の動きはそれに近しい動きをしており、あの構えは実に合理的なのだろう。最小限のステップで後ろへと足踏み、寸前で顔面へと突き刺そうとする矛を回避する。三叉の矛が社長の頬の表面を縫うように通り過ぎてはまた一手。次の矛は眉毛を僅かに掠める。まるで獲物に群がる蜂のように、その攻撃と連撃は容赦が無い。それでも社長の動きは、何か違和感がある。迫り来る矛達を躱すばかりで、まるで反撃する様子を見せない。ただただ腕を組み、真っ直ぐと河童たちの猛攻を避けるばかりだった。
「な、なんで社長は、反撃しないんだ?」
「新人、そいつは違う。反撃をしないんじゃない。」
ピチャリっと社長の革靴が水溜まりに浸かる。コンクリートに溜まった雨水が大きく跳ね上がる。秒針が動く事すらゆっくりと感じてしまう程に、体感する速度が霞む。メルは濡れた口を開いた。
「この雨では、あいつの印は作れねぇ。印を作れない以上、マチコは力を出せねぇんだ。」
「そ、そんな・・・⁉︎」
確かに社長は力を出す時、足元に魔法陣のようなものを作り出し自分の力を解放していた。彼女曰く、本来の戦闘力を抑える為に矯正しているのだという。それがあの印と身に付けた白い手袋。なぜ力を始めから解放しないのか、は彼女の口から教えてはもらえなかった。けれど社長自らが抑止させたギプスのようなものがかえって、この戦況の仇となってしまっている。この雨だと印が揺れる水面により歪み、その不安定さから上手く制御出来ないからなのだろうか。故に、反撃をしないのではなく“反撃が出来ない”状況下になってしまっているのか。これでは、防戦一方。この場でまともに戦える者なんて社長くらいだ。唯一の戦力である社長が戦えないとなると、一体どうすれば・・・。
「だから、云ったんだ。水を得た魚と一緒だ、とな。今まさにマチコは、水中でサメと戦っているようなもんだ。」
「冷静に分析すんなよ!そんな事より、こっからどうすんだよ⁉︎」
「まぁ、落ち着けよ新人。落雁でも食うか?」
そう云うとこいつは、どこに仕舞い込んでいたのか毛で模った手で落雁を差し出してきた。しかしその差し出した茶菓子は、雨に濡れてベトベトだけならまだしもメルの毛で絡まるように覆われていた。無言でノーと両手で拒否したところ、「そうか。」と少々残念そうな返事をしていた。メルはそのまま取り出した落雁を口へと放り込み、サクサク感が微塵も無い瑞々しい音を立てながら食べている。
「お前にはまだ、知らねえ事の方が多いんだからな。」
「知らない事・・・って、え・・・、お前、何云ってんだよ?」
あろう事かこのモジャモジャは、嘲笑うようにクスリと笑みを浮かべた。その言葉はどこか他人事のようで、この戦況での当事者の一つとして居るとは到底思えない発言。というかこの状況下で平気な顔してよく茶菓子なんか食べられるな、お前。我が社の社長が先陣切って戦っているって云うのに、これではリング外で観戦している客みたいじゃないか。とても社長に守られながらというスタンスでは無い。それに僕が知らない事?まぁ確かに、この業界は僕の知らない事の方が多過ぎるけど。一体何だって云うんだ・・・。そうこう思考を巡らせているうちに当の社長は、未だ前線で対峙するものの苦境である事に変わりない。呼吸を抑えるように最小限の動きで僅かなステップを踏み、河童の切先を逸らす。矛の柄を手刀で叩き落とし、体勢を崩した河童へ掌打。その反動で離れた矛を社長は手に取り、弧を描くように身体を軸にその矛を振り回した。回す矛の延伸力を上手く利用し、柔軟に腰を落としながら一体ずつ確実に敵の急所へと当てる。突き飛ばされた河童は、建物の壁まで突き飛ばされていたが致命傷は与えられていない。
よく見れば彼女は刃の方で切り付けるようにではなく、あくまで当てているのは柄の方だ。この戦いに無駄な殺生は与えたくないという彼女なりの配慮だろうか。それでもやはり十分な威力を発揮出来ていない為か、気絶させる程の致命傷は与えられていない。また一体、一体と社長へと飛び掛かるが奪い取った矛で旋風を起こすように振り回す。降り注ぐ大粒の雨と共に襲い来る河童達をまとめて薙ぎ払う。その度に河童達は吹き飛ぶが、すぐに体勢を立て直し立ち上がろうとする。それを見た社長は、思わず舌打ちを放ちながら愚痴を溢す。
「ふむ・・・、多勢に無勢か。生憎、私の力は集団戦には向かないからな。」
カラランっと社長は、奪い取った矛を放り投げた。確かに、これでは消耗戦だ。最小限のステップで応戦している為か、彼女の呼吸に乱れは無く汗をかく素振りも無かった。だがしかし社長がいくら強くても、決定打を与えられないとなれば時間と共に徐々に劣勢は生まれる。更に敵も数体で囲ってきている状況下では、明らかにこちら側が先に消耗し生まれた劣勢へと導くばかりだ。苛立ちを見せた社長は、少し前髪を掻き上げて滲んだ水滴を一振り払う。その眼差しに諦めたという意志は無かった。どちらかといえば、次の一手その先を見据えているようにも見えた。予め用意していたのであろう次の策を講じようとしている表情だ。そのまま鋭い眼光は、メルへと向け叫ぶ。
「おい、メル!力を貸せ!」
「だろうな。言葉通り、貸しにするぜぇ?」
先程まで僕の肩に乗っていたメルが、ピョンっと社長へと飛び跳ねる。数回細かいジャンプを重ねた後、大きく飛び移り社長の肩へ。なんだ・・・、一体何をする気なんだ?メルに力を頼る?あいつは確か言霊の妖怪だし、あえてこのチームで役割を与えるならサポートタイプだ。それも戦闘とは無関係な情報系として役目が適任の筈だが、なぜこのタイミングでメルを・・・。彼女は飛び移ろうとするメルに対し、大きく手を伸ばす。
「あぁ、ツケは作らんさ。明日のモーニングコーヒーを楽しみにすると良い。」
社長は、メルの頭に掌をそっと添え、ブツブツと何かを唱え始める。彼女の手とメルが共鳴するように青白い光を発し、眩くも辺りを照らし始めた。昼下がりとはいえ、大雨により視界がいつもより暗かったせいかその光の眩さが余計に明るいと感じてしまう。突如として発光したそれは思わず河童達も驚き、一歩後退し様子を伺っていた。閃光弾のように破裂した光は、直視してしまえば一瞬とはいえ目を瞑りたくなる程だ。
「・・・開ッ!」
彼女の足元には、印と呼ばれる魔法陣のようなものは現れなかった。代わりにメルの額付近に小さな青白い印を作り出し、僅かに電流のような筋も走り巡っていた。淡く照らされていた青白い光は、共鳴と共に閃光と呼称するに相応しい。強く、眩く、発光する。ドンっと破裂音と共に、社長の周りに降り頻る雨を急激に蒸発させた。爆発的に拡がる水蒸気は白く濁る程の濃い霧で満たされ、彼女らの姿形すらも視認出来ないくらいに包み込まれる。
パリッ、パリパリ。
電流が走るような音を掻き毟らせた。音の正体は、辺りを包み込んだ水蒸気から滲ませる。まるで紙を擦り切らすような電流が弾け、力強くも青と黄色を織り交ぜた稲妻が小さく破裂し合っていた。覆い隠していた水蒸気も中心からはじけ飛ばすように突風が巻き起こり、徐々にその姿と形は明るみになる。僕が思わず瞬きをした時、異質で異様な物が勇ましくコンクリートの地面を蹴り上げた。最初に見えたのは社長の姿。肩に掛けたスーツジャケットを靡かせながら、腕を組んでいた。けれど、違和感は彼女の周囲に付き纏う。それは雷光のように鋭く・・・。社長の周りに取り巻く河童達に一筋の一閃が刻まれる。
「し、垂さん・・・、あ、あれは一体・・・?」
思わずコツメも霧の中に潜むその何かに対し、震えながら指を差す。得体の知れない何かに。その存在は、一種の恐怖と相まって余計に大きく肥大させていた。僕は何となく気付いていた、その存在が何者であるかを。しかしそれは、同時に否定したい気持ちも重なっている。その気持ちが余計に象徴を肥大させているのだ。嫌なものというのは、実際のものより大きく錯覚させてしまう。まさかな・・・。なんて否定とは反比例して、期待という光も照らしている。そう、丁度目の前に眩く照らすあの青い光と似たものだ。
パァン
呼吸を整える間も無く、その一閃は一枚の絵画に線を引くようなもの。恐ろしく速く、何が起きたのかわからないであろう河童達が一斉に吹き飛ぶ。一体、また一体と謎の衝撃によりコンクリートや建物の壁に打ち付けられていく。その瞬間、ようやく轟音が鳴り響く。
「あの野郎。モジャモジャのくせに、こんなもん隠してたのかよ。」
その光景を見ていたチップは、ギリっと歯軋りを一つ鳴らせる。チップはもう、以前のように暴れ回る力は無い。故に今出来ない自分が歯痒いのか、その小さな拳を握っていた。幼女の嫉妬となる眼前のもの。それは社長を取り囲むようにその巨体は電流を纏い共に構えていた。白く輝くように整った毛並み。雨すらも弾く透き通るような毛並みだ。その巨体は、全長でも七メートルを裕に超える。巨大な狼のような風貌で、青白い眼光を照らす。凛々しくも長い立髪と尻尾は雨にも負けず、雄々しく電流とともに靡かせる。
威圧さえ与えてしまうその牙も爪も、このコンクリートさえ抉りそうだ。
「暫くぶりだな、この姿は。」
その口調は、どこか聞いた事のある声。多少勇ましさが混じっていたが紛れも無い。そうなって欲しくないという苛立ちとこの戦況を打破するのではないかという期待。やはり脳裏に潜めていたその正体は、あのモジャモジャとした妖怪メルだ!
「言葉とは、云ってしまえばこれも一種の音だ。こいつは、その言葉を操れる妖怪、言霊。音と同じスピードで動けるのだからな。さて・・・。」
社長は自信に満ち溢れた仁王立ちになり、肩にかけたスーツジャケットを靡かせる。ギリっと勇ましくも巨大化したメルが、濡れたコンクリートに爪を立て雄叫びを上げていた。いや、もはやこれは単に巨大になったと表現すべきか。否、全くの別物と考えても良い。巨大な狼が劣勢の戦況下で唸り上げる光景に、思わず僕は身震いを引き起こしていた。すると、社長は、巨大な狼となったメルの前脚を摩りながらそっと呟く。
「貴様らがいくら速かろうと。音を置き去りにすれば造作も無かろう。」
「なぁ、閃光よ。」
アレグロ。それは、コンクリートを穿つ大雨に一閃の雷光が、この街に轟かせていた。




