第8話 板挟みのボーン
ペルピーズが引き、彼の親であり勤め先の親会社トモツキ社の社長のリンザーによる検閲が入る様になったボーン。更にはご機嫌伺いしなければならないマドアキは色んな作品に難癖つけて回る迷惑なエルフだった。
思う様に書けず困っていると、会社による作品の干渉を憎むテロリストによるテロが行われる。当然ボーンにとっては全く嬉しくない事で…。
俺はパソコンの前に座り目にクマを作りながら第7話を打ち込んでいた。第6話は締め切りに間に合ったが今度は第7話を急いで書かなければならない。それだけではない、俺の書いた小説を社長自ら確認すると言い出したのだ。社長からのやり直しが厳しくなりそうなのは当然ながら、彼の機嫌を損ねない様な内容にしなければならない。
ストレスは溜まるし第7話の提出期限までもう時間に余裕がないしで俺はすっかり疲れていた。先に改訂版の第6話を見たクレイは突如書く事になった追加ストーリーの逢引の場のベッドに横たわる重なり合う骸骨を描いていた。今日はあの挿絵を描いたら家に帰るつもりらしい。元の静けさに戻るだけと言えばそうだが少し寂しい。
あらゆる疲れが体にどっしりとのしかかると俺は背もたれに体重を乗せて一息ついた。
「次の締め切りに間に合うかな…」
そんな事を呟いやいている暇があれば少しでも小説を書き進めるべきなのだが体力は無尽蔵ではない。俺はSNSを開いてTLを確認する。どうやら第6話が公開されたらしくそれについて話題にしてるユーザーがちらほらいる。…いや、話題になっている。どうやらトライアスタ―のマドアキが第6話について触れている様だ。
驚く事にマドアキはファイマーが復活した第6話に非常にご立腹の様子だった。TLを追って見るとファイマーが雑に復活させられたと怒っている様子だ。マドアキが原因で急遽復活させられた説も浮上していて(実際全くその通りなのだが)、それについて作者にプライドはないのかと嘲っている。
更に事態が悪化してしまっているのはマドアキのその投稿に批判が集中した事だった。彼はファイマーが雑に殺され雑に復活した事、復活に踏み切った理由が自身へのご機嫌伺いである事に怒っている。しかし俺の一部のファンはファイマーの存在に謎が多い事は以前から示唆されており今後の展開のための伏線に過ぎずマドアキは自意識過剰なだけと反論し結構な数の支持を受けていた。それにマドアキがディギンスがファイマーの首に切れた首を繋いだ痕が残っているシーンをちゃんと読んでいない事も指摘されていた。
彼への返信の中には考察まとめの動画や画像も貼られている。何というか…後付けの設定なのに物凄く真剣に考察されていて驚く。ファイマーの正体がフィオーラ説、ドラゴン説、フィオーラを迎えに来た親族説など様々ある。
また、このマドアキと言う人物が大変悪質なオタクで作品をよく読んだり見たりせず見当違いなキレ方をしては炎上して作者や作品に迷惑をかけている常習犯である証拠の画像なども貼られていた。俺はマドアキをフォローしていないしマドアキも俺をフォローしてないので彼の事は殆ど分からない。
ラグドールの知恵を借りてちゃんと物語を組みなおして復活させあのだから雑な復活と言われるのは心外だし、かといってファンが言う程しっかりと伏線を張ったり意味を込めてる訳でもない。ただ第6話はどこまでも俺が望まない方向でただただ話題になって行くだけになった。俺は一体どうすればいいんだ。
第7話はどうしよう。どんな風に書けばマドアキやファンは納得してくれるだろうか。双眸の涙と言う作品は既に作者の手元を離れもう俺の手に負えない作品になっているのではないかと思えて来た。
ファンは作者は綿密なプロットの元で作っていると(そうでもないけど)主張してはマドアキに反論し、マドアキは振り上げた拳を下げられずファンと口論しついでに双眸の涙をエルフを軽視した人間の作りがちな低俗な作品だとこき下ろしている。
「ボーン、挿絵できたけどどうかな」
クレイがタブレットを持ってやって来た。彼はスマホのSNS画面を見た。
「げっ、何でマドアキなんて言う悪質な奴のSNS見てるんだ」
「悪い方向で話題になってるらしいんでな」
「あまりそいつの発言は気にしない方がいいよ。そいつはエルフ至上主義者で度々作品にダル絡みしては色んな界隈で煙たがられてるんだ。悪評を広めて回るせいで同族にさえ快く思われてないよ」
「そうも行かないんだ。トモツキ社のリンザー社長からこいつの機嫌を損ねない様に細心の注意を払えって言われててね」
「リンザー社長はマドアキを誤解してる。マドアキがトライアスタ―の重鎮になれたのはトライアスタ―という会社の設立時に大いにマドアキの父親が莫大な資金を出資したからで、別に経営の手腕があるとか大した業績を上げたとかそんなんじゃないんだ。『自分の親父がいなければこの会社は存在しなかった』と威張り散らしては社員にパワハラするからとにかく名目上の役職を与えられて無視されてるんだ」
それを聞いてぼんやりと頭にペルピーズが思い浮かんだ。
「彼が社長になった際も実質会社を動かしていたのは秘書だった。社内の幹部がそうする様に仕組んだから。彼を会長にしたのは三郎グループの意向だった。ネットで置物社長と揶揄されてる事に気付いてからは自身の威光を示すために経営方針を無理にボトムアップからトップダウンに舵切りをしようとして精鋭揃いの会社が総崩れになったんだ。で、会社ごと買収した三郎グループが彼を会長にしたの」
「まあ…その、なんだ。会長になれただけまだマシか」
「そうでもないよ。社長の座を降りる際は後任を指名させてもらえなかったし社内での彼の発言力もない。体のいい厄介払いをされたんだ。そして暇を持て余した挙句にああして誰かに当たり散らして憂さ晴らししてる。誰かを叩くための大義名分を探してる様な奴だ、機嫌を伺っても仕方がないよ」
つまりクレイは俺の作中のファイマーの扱いがどうあれマドアキは不満を言うし、そのマドアキの機嫌をどう損ねようがトライアスタ―から取り引きを停止させられる様な事もないとそう言いたいらしい。飽くまで彼の話を鵜呑みにするのなら確かにマドアキに怯えながら筆を執るのは馬鹿馬鹿しい。
「でもこれからはリンザーからのチェックが入るんだ。どんな風な書き直しを要求されるか考えると頭が痛いよ」
「今のままで通りに書けばいいじゃないか。ファイマーはちゃんと生き返ったしその正体は女神だ。充分にいい役だろう。どの道マドアキはキレるんだからそのうちリンザーも諦めるだろう」
「そう…だな!ありがとうクレイ。ちょっと弱気になってたよ」
「いいさ。僕は君のファンだ。しっかりしてもらわなければ困る」
それからクレイの描いたと言う挿絵を見た。2つの骨が向き合い抱きしめる様に重なり合っている様が悲劇的で美しく描かれている。描き込みは細かいがあまりおどろおどろしくならない様に光や線の描き方で工夫が凝らしてある。
正直に言って思い付きで書き殴ったエピソードだったのでリービスでの一部始終やアナテンタスがどうした経緯で想い人と出会って地下の牢獄で密かに愛を育んでいたかとかそういう深く掘り下げた設定は全く考えていない。しかしこうして見ると何か物語の背景にこんな事があったんじゃないかとか少し考えさせられる。原作者が俺なので何だか変な気持ちではあるが。クレイは色んな自己解釈を含めて絵に描いたのだろう。猜疑心旺盛で毎日誰かを処刑していた残虐非道な王様の最期だ、もっと独裁者の末路といった具合に描くかと思った。
「これはこれでいいな」
「そうか」
クレイは満足気に笑った。俺は朝食を食べてない事を思い出すと1階に降りて朝食を作り出した。クレイは荷物をまとめて帰る準備をする。ラグドールが見当たらず辺りを見渡すとソファで寝ている様子だったのでブランケットをかけておいた。ラグドールの食自分は取っておくことにしてクレイと俺で朝食を済ませた。
それから駅まで彼を送る。電車を待つまで券売機で乗車券を買ってベンチに座って待つ。時刻表を見る限りそろそろなのだが今日は少し遅れている。
「…僕は君をここへ残して行くのが心配だよ」
クレイは足をぶらぶらさせながら言った。
「何でだ」
「そりゃ心配にもなるよ。執筆最中にいきなり『書けないいいいい!!』って叫び出したり、いきなり立ち上がって壁に頭をぶつけ始めたり、エナドリをガブ飲みしだしたり、あらぬ所を見ながら硬直したり…。ラグドールはいつもの事だって言うけど」
「最近はストレスが凄いから頻度が高くなってるが元からこんな感じだ。最初はラグドールも困惑してた」
「慣れちゃいけないんだよ君もラグドールも。やはり心配だ、用事を済ませたら戻って来る」
「クレイは優しいな」
「ふ、ふん。勘違いするなよ。僕は君の書く新作が出なくなったら困るだけだ」
それからお互いに黙っていた。俺はぼんやりと遠くを見て木々の葉が僅かに揺れるのを眺めている。クレイもきっと俺と同じ所を見た。
「…クレイ、俺はいつか筆を折るかもしれない。分かるんだ、心が軋む音が」
電車が来た。クレイは立ち上がり歩き出す。ドアの前で立ち止まった。
「君は筆を折ってもまた新しい筆を執るだろうさ。君は小説を書く以外に生き方を知らない人間だ。僕も絵を描く以外に生き方を知らない。ボーン、僕達はそういう人間なんだよ」
振り返りもせずにそう言って電車の中に入って行った。俺は電車が発車する前に歩いて自宅に向かって歩き出した。
…色んな物に板挟みになって小説が書けない。それでも書くしかない。1文字でも多く。読者がいる限りは。俺はトボトボと家に向かって歩いているとラグドールが家から飛び出し、こちらを見つけ次第駆け寄って来た。
「馬鹿、外に出るなって…」
「それどころじゃないんだ!来てくれ!」
ラグドールは青ざめた表情で俺の手首を掴むと自宅まで走った。一体何だと言うんだろう。連れて行かれたのは自宅のリビングルーム。テレビの電源が入ったままだ。見ると建物に大きな穴が空いて中が燃えている。D地区にメディアが来てるのか。爆発があったぐらいで来るのは珍しいな。なんて思った。
右のテロップにはこう書いてあった『トモツキ社が襲撃、ミサイルの様な物が撃ち込まれる』とあった。トモツキ社!??B地区??!俺はテレビの目の前に立って全身の感覚を研ぎ澄まし情報を聞き取る。
狙われたのはトモツキ社の週刊一秋のある所だ。ネットには襲撃を行った事を自称する人物が犯行声明を出している様だ。その文章が読み上げられる。
『やあ、社会の腹話人形のトモツキ社の皆さん。私はディギンス。先ほど伏魔殿にミサイルを撃ち込んだ者だ。挨拶は気に入ってくれたかな?では犯行に及んだ理由を説明させてもらおう。動機はシンプルだ。君達の作品とクリエイターに対する扱いの軽さが非常に気に入らない』
俺は我に返ってスマホを取り出すとすぐにキールケに電話をかけた。しかし電話に出ない。頼む、頼むと何度も頼んだ。コール音は無機質に鳴り続ける。電話が切られた。電源が切れている、故障しているならそうメッセ―ジが来る。一定時間鳴り続けた場合は現在出られないと言う旨のメッセージが流れる。つまりキールケは生きていて電話を自ら切った訳だ。俺はホッとする。生きている…。
『いいかい?コンサートホールは焼き肉をする場ではないし、外食店はボウリング場ではないし、大衆娯楽は啓蒙活動の場ではないし、創作家は企業の拡声器ではない。啓蒙活動をしたいのならきちんとした場を設けそこで行うべきだ。そうだね?』
キールケからチャットによる返信が来た。ひとまずは無事という内容だ。色々と対応に追われているためしばらくはまともに会話できないとの事。
『もうお分かりだろうが…私が怒っているのは双眸の涙の件についてだ。もし、今後も会社の勝手な都合で双眸の涙を歪め表現の自由を脅かすつもりなら…。私は君達を使って巨大な広告を打つとしよう。インテリ気取りの文明人にはいい啓蒙活動になるはずだ』
犯行声明がニュースキャスターに読み上げられている途中でまた緊急速報が入った。今度はトライアスタ―の本社が襲撃を受けたというニュースだ。リアルタイムの生中継映像が映る。トライアスタ―の本社の3階と2階の窓から煙が出ている。つい先ほどヘリコプターがあり得ない程の低空飛行でやって来て窓に小型ミサイル2発を撃ち込んで行ったらしい。それからはずっと原因不明の爆発音が鳴りやまないとか…。
トライアスタ―の本社は海を隔てて数千km先にある。偶然にしてはあまりに話題の渦中の人物に関与するもので、必然にしてはあまりに現実離れし過ぎている。
「あわわ、あわわわわ…」
珍しくラグドールが青ざめて狼狽えている。
「大丈夫だラグドール。ミサイルが撃ち込まれた西館のあの辺は確か現在は使われていないはずだ。被害者はいないはず…」
「ほほ、本当…?」
「ああ…」
当たり前だが俺はトライアスタ―の会社の事は全く知らない。確かな情報が出るまでは何も言えないが今はひとまずラグドールを落ち着けなければ。彼があまりに顔色悪くして怯えるので俺は逆に少し冷静になっていた。
一先ず落ち着かせようとテレビを消し、コーヒーを淹れて来ると言って台所に向かった。俺はディギンスを名乗る犯人に心当たりがあった。ペインだ。あいつならやりかねない。
「くそ…マジで何してくれてんだあいつ…」
声明そのものには共感できる点は多いがあいつは別に本気で創作家を軽んじている会社を憎んでいる訳ではない。創作家の事を大事に思っている訳でもない。俺のファンでもない。D地区の惨状を見れば分かる様にペインはただただ人々を混乱に陥るのを面白がってるだけなのだ。
是非を簡単に断言できない非常に繊細で複雑な問題を、ただ社会を混乱に陥れて遊びたいだけの人格破綻者が表現の自由を掲げてテロを行う醜悪さに強い憤りを感じた。
コーヒーを淹れていると電話がかかって来た。社長からだ。
「社長、ご無事ですか!?」
『ミサイル一発撃ち込まれたぐらいで私が死ぬか。これからキールケを編集者として君の所に送る。仕事と言う名目上でだが実質的な所は保護だ。職員は皆避難させてるが彼は君の傍に居た方がいいだろう。小説が出来たら一応キールケの目を通させ私に送ってくれ。そんな状態じゃなきゃ直接私に送るといい。テロリストの脅しには屈するつもりはないが会社の一存で君の作品をどうするかは判断できない。君はこれまでの方向性通りに書き溜めて1話ごとに送るんだ。テロリスト野郎には私のスーツのクリーニング代が決して安くない事を教えてやる』
リンザーはほぼ一方的に俺にそう言って電話を切った。俺は出来たコーヒーをラグドールに届けるとキールケを迎えに来ると言って駅に向かった。ラグドールは外は危険だと言って引き留めるが俺はテロリストにとっては俺は攻撃対象じゃないと冷静に伝えてから駅に向かった。
駅に向かっていると空がヤケに賑やかだ。見上げるとバルカンを積んだ戦闘ヘリがD地区に向かって来ている。家から出て来たラグドールが慌てて俺を連れ戻そうとしている。
「ボーン、戻ろうよ!君が死んだら僕は…」
「だから死なないって…」
しかしこれは一体何事なのだろう。ヘリコプターから菅笠を被った三本毛族が大量降りて来る。あの姿は…三郎?…のコスプレ集団??数十メートルの高さから生身で着地すると各々笠から取り出した黒い物体をさっさと組み立てて銃にする。ヘリコプターが飛んで来ては次々に三郎が降りて来る。更にはジェット機から飛び降りて来る三郎まで…。
「さ、三郎監督が沢山…?」
ラグドールは混乱している。
「ラグドール、少しだけお留守にしててくれ。すぐに戻る」
「まあ…来たのが三郎なら…????」
彼が混乱するのも無理はない。周囲を見る限り突如やって来た三郎軍団が道路やら家の屋根やらに200人近くいるのだ。夢でも見ている様な光景だ。梅の花の柄の服装をした三郎がこちらにやって来る。
「やあボーン。君のお勤め先が大変な事になったね。ちょっと賑やかになるから自宅でじっとしててくれる?」
「実はその…キールケって人がB地区から来るんです。その人を駅まで迎えに行かなきゃ」
「オッケー。それじゃ僕が付いて行こう」
そう言うと三郎の1人が俺と同行して駅までついて来てくれる。次々にやって来る三郎軍団があらゆる場所に増えて行く。
「すみません、これは一体…」
「テロリストの大捜索に来たんだ。D地区の治安の問題は前々から知ってたけど着手が遅れちゃって。まあこれからこの地区を正常化させるよ」
「あ、ありがとうございます…。あの…ここにいる三郎さんによく似た集団は…?」
「よく似たも何も全部三郎だよ。僕も三郎だし。いちいちPRして回ってないだけで世界中に沢山の三郎がいるんだ」
「?????」
聞かなきゃ良かった。ますます意味が分からない。…しかし考えてみれば三郎と言う三本毛族が複数いる噂は前々からあった。複数の場所で同時に目撃される事があったのだ。しかしこれほどの大人数はない。
駅に着く前になると戦闘機から降りて来る三郎も現れた。もう何百人いるか分からない。ひょっとすると千人はいるかもしれない。
「一体何人いるんですか…」
「平行世界に送り込んだ三郎も含めて?それともこの世界に駐在してる三郎限定の話??」
「平行世界に派遣…?」
あり得ない事はない。三郎は超勇者なのだ。別世界に行く方法は知っている。しかし…。
「平行世界を含めてなら総数は70億を超えた先は分からないなぁ。他の世界でも僕は量産されてるだろうし。この世界では大体3500人から5000人ぐらいいるよ」
「やっぱり聞かなきゃ良かった…」
やっとの思いで駅に着くとちょうど来た様でキールケが電車から降りた。顔色は悪く足取りもおぼつかない。彼の手を握って引っ張り自宅まで向かう。護衛の三郎に送ってもらい自宅にはいつもより無事に着いた。道中でいつもおかしな言動をしているD地区民が逮捕されている様子は新鮮だった。
自宅ではラグドールがコーヒーも飲まずにそわそわして玄関で待っていた。帰って来た俺を見るとホッとする。
「ああ、良かった。2人共無事だったか」
「心配かけてごめん」
「お邪魔します…」
ラグドールは顔色の悪いキールケを見るとキッチンに向かった。俺はキールケを客室に連れて行く。そこのベッドに座らせた。彼にはまずリラックスする時間が必要だ。外がこんなに騒がしくて落ち着くのは難しいだろうが…。
「シャワー室はここを出て右側だ。着替えは…持って来てる?」
キールケは静かに首を横に振った。参ったな。キールケが着るには俺の服は少し小さい。しかしこの様子じゃあまり外も出歩けない。
「俺はお前が裸で家を歩いても気にしないぞ!」
なんて冗談交じりに言ってみる。キールケは静かにうなずいて俯いた。
「あー…」
駄目だ。こんな時に何か気の利いた言葉の1つも思い浮かばない。小説家として色んな言葉を学んできたつもりだがそれでもこんな時にどんな言葉をかけるのが最適なのか全く何も思い浮かばない。俺は自身の無力さに心の中でため息を付いた。
「それじゃ何かあったら呼んでくれ。食べ物とか飲み物とか…。まあそんなの。できる限りの事はするよ。それじゃ」
そう言って部屋を出ようとするとキールケが俺の名前を呼んで呼び止めた。
「待って、ボーン…」
「…何だ?」
俺は返事を待つ。しかしキールケは何も言わない。困った。どうして欲しいのか言ってもらえなきゃ俺はどうしていいか分からない。そこに温かいコーヒーを持って来たラグドールが現れる。会話は聞いていた様で彼は客室の方を一瞥する。それから視線を俺の方に向けた。
「しばらく一緒にいてあげて」
ラグドールは小声でそう言った。
「あ、ああ…。分かった」
ラグドールからコーヒーを受け取ると飲むか尋ねる。彼は静かに首を横に振ったので近くのテーブルに置いた。キールケは相変わらず何も言わない。俺は隣に座ってただただ一緒にいた。10分経ったか、20分経ったか、あるいは数分しか経っていないのか。キールケは口を閉じたまま何も言わなかった。
キールケを見るとまだ仕事服のままなのに気が付いた。それもそうだ、彼は先ほどまでトモツキ社にいて突如ここへ来る様に言われたのだ。プライベートな用事でここに来た訳ではない。しかしこの服じゃとてもリラックスなんてできそうにない。見れば所々修繕はしているがほつれたり汚れたりしていてボロボロだ。よほど忙しかったのだろう。
着替えられないにしたってせめて上は脱ぐべきだ。しかし一体どんな言葉をかければ説得できるのか…。
『その服じゃリラックスできないだろ、脱げよ』
『いや…僕はその…今のままで大丈夫…』
頭の中でシミュレートしたが断られた。ではどうすればキールケの服を脱がせられるだろう。そうだな…。俺は思い付いてその場に立ち上がると服を脱ぎ出した。キールケはギョッと驚いて目を見開く。
「ぼ、ボーン…?」
「(その服じゃリラックスできないだろ)脱げよ」
テンパり過ぎて大事な所が抜けてしまった。キールケは顔を赤くして両手で顔を覆う。
「しょうがないな。じっとしてろよ」
そう言って俺はキールケの服のボタンに手をかける。
「ぼぼ、僕1人で脱げるからっ!」
キールケは立ち上がって服を脱ぎだす。俺はベッドの中に入った。後はキールケを寝かしつけてやるだけだ。多分これが正解なはず。…あれ、キールケの奴下着まで脱ぎ出したぞ。キールケは振り返るとシャツとパンツを履いてる俺を見て首を傾げた。
「あ、あれ?何で全裸じゃないの?」
「(むしろ何で全裸になったんだ…)いいから来いよ」
ベッドをポンポンと叩く。しばらく棒立ちしていたキールケだったが急にそわそわする。
「ま、待って…。シャワー浴びて来る」
ヤバい。事情も知らずにすっぽんぽんののキールケが客室から飛び出して着たら流石にラグドールも困惑する。俺は小走りでシャワー室に向かうキールケの手首を掴んだ。抵抗するキールケを何とか抑えようとしていると勢いあまってベッドに押し倒してしまう。
キールケは顔を赤くしたまま目尻を涙で潤わせで俺を見つめる。
「もう、脱げと言ったりシャワーは浴びるなと言ったり無茶苦茶だな君は…。もう知らない、好きにしてよ…」
「それじゃ寝るか」
「??」
「???」
「?????」
俺達は何事もなくぐっすりと眠った。
この間小道から出て来た車、運転手がちゃんと右、左、右と確認した上で飛び出して来てびっくりしたゾ…