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まよなかのアトリエ  作者: 大貫理音
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第一夜:おかえりなさい③

「おおばあちゃん……!」


ミンミンと鳴き始める声がかすかに耳の奥に届き、誰かに呼ばれているような、自分を起こそうとする幼い少女の声がします。

ただ眩しい光がまぶたに降り注ぎ、ぴくりと反応しながらゆっくりと目をあけようとしても、身体がとても重く動くことができません。


「よかった……お母さん」


ようやく薄目をあけることができると覗き込むたくさんの顔がありました。

その光景に駭然とした老女は、状況が飲み込めないまま「おばあちゃん」「お母さん」「おおばあちゃん」と次々と声を掛けられ、障子の開く音とともに駆け寄るたくさんの足音が響きました。

状況が飲み込めないままでいると、ちいさな子どものやわらかな手がおそるおそる老女の頬にそっと触れました。


「おおばあちゃん、わかる?」

「お母さんたら一昨日からずっと眠っていて……もう目が覚めないのかと思ったじゃない」


そっと触れられた右手に何かを握っていることに気がつきました。


「私……どこへ行っていたのかしら?」

「もう、お母さんたら」

「おおばあちゃん、起きる?」


「おおばあちゃん」と自分に呼びかける幼い少女。

この子は誰だったかしら———わからない。


自分を支えながらゆっくりと体を起こしてくれる「お母さん」と呼ぶ中年の女性。

この方も誰だったかしら———思い出せない。


「長く……とても、とても、長い夢をみているようだわ」


老女はまっすぐと前を見てぽつりと呟きました。

さっきまでの暗闇が嘘かのように眩しい陽射しが木造の古い家屋を照らします。

日陰で涼しい部屋にいてもわかるくらい、強く注ぎ込む陽射しは廊下に反射して、布団の中にいてもほのかにその暖かさを感じます。


縁側からちらりと覗く空は雲ひとつない青色。


「綺麗な青色……そうだわ」


右手に握られたもの、それは青い鉱石でした。


「おおばあちゃん、それなあに?」


幼い少女が右手に握られた青い石に興味を示します。


———懐かしい。そう、青々とした夏の朝の香り。


「これは私の、勇気の証」


老女は少しだけ長い眠りから目覚めてから、日に日に以前のような穏やかさを取り戻しました。

昨日や今の記憶はすぐになくなってしまうけれど、そのたびに周りの人たちは「私は娘」「僕は孫」と自己紹介をしてくれます。


「おおばあちゃん!一緒に行こう」


ちいさな手で自分の右手を引くのは幼稚園の制服に身を包んだ幼い少女。

左手にはちいさなゴミ袋を持ち、老女の曽孫の登園をお見送りすることにしました。

その様子を曽孫の母親である老女の孫は、穏やかな表情で後ろから見守るようについていきます。

足腰が弱ってきた老女を少し心配しているようです。


老女と少女が立派な門扉を出ると、斜向かいにある地域のゴミ捨て場。

その近くには可愛らしい子どもたちとその保護者が並んでいます。

少女は老女のゴミ捨てを見守ると「一緒に並ぼう」と列の一番後ろにつきました。


「今日はね……」少女は誰と遊ぶ約束をしているなど楽しみにしている様子で園の話をします。

曽孫と会話をしながら一緒に並んで少し待つと、通りの向こうからバスの姿が見えました。

バスが到着すると一人の青年が降りてきて、元気に「おはようございます」と子どもと保護者たちに挨拶をしました。


———あの人だわ、あの人がいる。


「おはようございます!」


列の最後に並んでいた少女が走り出し、元気に挨拶をしてバスに乗り込みました。


「おはよう、さくらちゃん」


幼稚園教諭の青年は少女に声をかけました。


———さくら、そうだわ、この子はさくら。私と娘と、孫が大好きな花から名付けたの。


「おおばあちゃん!行ってきまーす!」


手を振るお下げ髪の少女、さくら。


「それでは、行ってきます!」


青年は老女に凛々しい微笑みを浮かべました。


「いってらっしゃい……いってらっしゃい!」


ああ———やっと、やっと言えた。


あの夏の日に置いてきぼりにしていた大切なものを、ようやく取り戻したような気持ちになりました。


老女は縁側に座り、聴こえてくる夏の声に耳を傾けます。

じりじりと声を響かせる蝉。

さわさわとそよぐ生あたたかい風。

ちりちりと優しく鳴る風鈴。


「同じね、何も変わらない」

「お母さん、どうしたの?」

「行かなきゃ、あの人が待ってる」

「さくら?あら、もうすぐ幼稚園バスが帰ってくる時間ね」


老女は縁側から立ち上がると、娘に支えられながらゆっくりと歩き出しました。


最後に交わした言葉をふと思い出したのです。

まだ少女だった頃に、はらはらとする気持ちを抑えて、出撃命令が下された若い軍人を見上げました。


「無事を願っては……ご帰還を祈ってはいけないのですか」

「祈りはね、隠れてするんだ。こんな世だからこそ。俺はね、ここに隠して、明日征く」


青年は真っ直ぐな目で自分を見つめて微笑むと、少女の手をそっと握るとそのまま自分の胸にあてました。


「見送ってくれるかな」

「でも……」


それでも————


「いってらっしゃいとおかえりなさいは、合わせて言わないと」


思わず口に出した老女は、はっと我にかえりました。

あの時の青年の澄んだ声が耳の奥で響いたのです。


「そう?じゃあ一緒にバスを待ちましょうか」


老女はっとした老女はポケットに手をやり青い石を握り締めます。

体温にふれていたからか、ほんのり温もりを感じるようです。


送迎バスのドアが開くと朝見かけた青年の顔がありました。

「あ」と男性教諭は見覚えのある老女の姿に軽く会釈をしました。

朝のお迎えにきたあの彼のようです。


「ただいま戻りました」

「お、かえりなさい……」


「おおばあちゃんだ、ただいまー!」

「おかえり……さくら」

「え、おおばあちゃん、さくらのことわかるの?」

「ええ」

「わああ!さくらのこと待っていてくれたの?」

「ええ、待っていたわ、ずっと」


ずっと————


あなたが守りたかったもの。

それは長い長い時間。

胸の中に隠した真の心。

平和であれと願った日常。


どんなに時を経ても、二度と逢えなくても。

私とあなたを繋ぐこの言葉。


「ただいま!」

「おかえりなさい」


これだけで私は生きてこられた。

これが私の幸せな人生。


老女の目に映る世界にはあたたかな景色が広がっていました。

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