第一夜:おかえりなさい②
夜にだけ開く星喫茶は地図にないお店。
そんなお店のお客さまは、ひょんなことでご来店されることばかり。
そのなかでも"昨夜のお客さま"は特別に珍しい出来事でした。
カランと鈴の音がして木の扉が開くと、お客さまご来店の合図。
「いらっしゃいませ」
まずは支配人のシリウスが声をかけて店内にご案内します。
「あの、ここは……?」
店内を落ち着かない様子で見回す老女がおひとり様でご来店。
老若男女が訪れる店ではあるものの、だいぶ高齢に見える女性ははじめてのことでした。
「ご紹介が遅れてしまい申し訳ございません。わたくしは支配人を務めております」
店内を所狭しと飾る天体観測にまつわる渾天儀、望遠鏡、星座早見盤、アストロラーベ。
砂時計やコンパス、古書、鉱石などの古びた骨董品たち。
満月形の洋燈や星形の電飾―――順に手を翳しながらシリウスは説明を続けます。
「当店はご覧のように真夜中をお楽しみいただける星喫茶、そしてお客さまお好みの煌めきをご提供する喫茶店でございます」
シリウスは落ち着いた優しい声で語り、老女の不安を和らげようと微笑みました。
「星喫茶……」
「どうぞ、こちらに」
シリウスは老女が座りやすいようにと足を乗せる台を準備して、背の高いカウンターチェアをくるくる回し調節をして老女の荷物を預かりました。
「ありがとう」
強張っていた老女もいつしか穏やかな表情になり、促されるまま椅子に座りました。
「星喫茶へようこそ、いらっしゃいませ」
店主キピアはカウンター越しに微笑むと、ガラスポットからコロコロと煌めく粒をガラスの小皿に注ぎ、老女の右手側に差し出します。
「こちら今夜のチャームです、どうぞ」
「まあ、金平糖?」
「星糖といいます。外側はシャリっとしますが中身は柔らかいものです」
普段はチャームとして金平糖を出すことが多い星喫茶。
キピアは優しい止まり木として、年齢や雰囲気に合わせてささやかな気遣いを欠かしません。
「なんだかとても懐かしい味」
「寒天を乾燥させて作った和菓子のようなものですね」
「美味しい……和菓子なんてとても久しぶりに食べたわ」
様子を伺いながらひょっこりとリゲルがカウンターから出てくると、老女に冊子を手渡しました。
「メニューです!」
「あらあら、可愛らしい店員さん」
パラパラとめくりながら老女の表情が少し曇りました。
ふうと溜め息をつき言葉を絞り出すように口を開きます。
「私ね、どうして今ここに居るのか、覚えていないの」
「あ、大丈夫!みんなそう言!フガッ」
「お客さま、よろしければ少しお話をされませんか?」
シリウスはリゲルの口を塞ぐように支えると老女の横に立ちました。
支配人にはお店に訪れるお客さまにおもてなしをする者としての心得がありました。
どんな些細なことでもしっかりと受け止める役割が使命と感じているのです。
「どのようなことでも、些細なことでも構いません」
「そうね、今さっきまでのことは何も覚えていないのよ。
でもなぜだか昔のことは昨日のことのように思い出してしまう。
例えばね……」
老女は生まれ育った街の話をはじめました。
海が近いその街には大きな火山の島が観える場所があり、お茶畑がたくさんあること。
そして少女時代に戦争が始まって生活がとても大変だったこと。
当時基地の近くに住む女学生は兵隊のお世話をする係を担うことがあり、それは兵隊が戦地に赴く直前まで行われていたということ。
当時お世話をするなかでひとりの凛々しい軍人に恋をして、そして後悔していることがあると語ります。
「最後のお別れの日にどうしてもお見送りができなくてね。
飛行機で征く軍人さんたちを、女学生みんなでお見送りするの。
桜の花が咲いた枝を振って……でもいざ彼の時が来ても私は行けなかった」
キピアは言葉に詰まる老女の手元に、満月のような輪切りのレモンを浮かべたハーブ水の入ったグラスを置きました。
老女がグラスを口元に近づけると爽やかな柑橘の香りが広がります。
「あの人を見送れなかったの。
もう帰ってこない人に"いってらっしゃい"って。
その一言がどうしても言えなくて」
「どうして?」
リゲルはカウンターに小さな身を乗り出して不思議そうに尋ねます。
「いってらっしゃいはね、おかえりなさいと合わせて言わないと。
そう思うとね、とても言えなかった。もう帰ってこない、二度と会えない人には―――」
「そっか……」
リゲルは老女の悲しそうな顔を見つめています。
"もう帰ってこない、会えない人"がどういう人であるのかはリゲルにはよくわかりません。
ただ、今目の前にいるシリウスやキピアが居なくなってしまうとしたら―――
そう考えると心がぎゅっとするような気持ちでいっぱいになりました。
「玄関で立ちすくんでいたら飛行機の音が聴こえてきて。
きっと彼だわ、現れなかった私のことが気になって家の上を飛んで行くのね、と。
慌ててお布団をかぶってわんわん泣いたわ」
「とてもお辛い出来事でしたね」
キピアは優しく言葉をかけます。
老女ははっとした表情で何かを思い出したかのように言葉を続けました。
「そう……最近ね、孫が子どもを産んでね、それで幼稚園に行き始めて。
お迎えバスのお見送りの時間に外に出ることがあって」
身体の不調もあり、すっかり家に引きこもり外出をしなくなった老女が唯一、朝のゴミ捨てをすることがありました。
その時間にひ孫が利用する幼稚園バスの送迎に遭遇する機会があるといいます。
「バスには珍しく若い男の先生が乗っていてね、行ってきますって言うのよ。
それが記憶にあるあの人のよく通る声にとてもそっくりでね、驚いたわ。
思わず振り返りそうになったのだけど、いつも背中を向けたまま。
どうしても勇気が出なくて……」
「お客さん、勇気が欲しいの?」
リゲルはわくわくする心を隠せないくらいに目を輝かせて老女に尋ねました。
先ほど手渡したメニューを逆さまにペラペラとめくりながら身を乗り出して「これ!」と老女に見せます。
「鉱石……カクテル……?」
「キピアはお客さんが欲しいものを作れるよ!なんでも!」
「こら、リゲル」
キピアは調子に乗って忙しなく捲し立てるリゲルに「落ち着きなさい」と軽くチョップをします。
リゲルは「ごめんなさい」と恥ずかしそうに、あわててシリウスの後ろに隠れてしまいました。
老女はその姿が可愛らしく見えたのか「うちのひ孫のようね」と思わず笑みが溢れました。
「失礼いたしました。
鉱石カクテルとは当店の特別なメニューです。
今夜のお客さまに相応しいお飲み物をわたくしがお作りします」
「まあ素敵。ではそれを頼みましょうか」
カラカラと氷を鳴らしいくつかのシロップを入れて。
シャカシャカと小気味の良いリズムでシェイカーを振る音だけが、しんみりとした空間に響きます。
オーロラに光る宝石形のグラスにそっと注ぎ、仕上げに柑橘の風味づけをして完成。
「お待たせいたしました」
「まあまあ……なんて綺麗な青色」
「今夜のお客さまには藍方石のカクテルを。石言葉は"過去との決別"です」
「まあ……ほんと、あの時のような、雲のない、青空のような……」
自分が流した涙のような―――。
その言葉を飲み込んだ老女の気持ちを察したキピアは続けます。
「新たな光、勇気、そして希望。これも藍方石の石言葉です」
「美味しい。爽やかな後味、柑橘かしら?」
「ライムを絞りました。ライムの花言葉は、あなたを見守る」
「今の私にぴったりな言葉ね、ありがとう」
老女は藍方石のカクテルを味わいながら自分の人生を振り返りました。
「明日、晴れたら。征きます」
まっすぐな瞳でそう告げられて、ただ頷くことしかできなかった。
この雨がいつまでも続けばどんなに良いか、それを口にすることは許されない時代のお話。
少女はただ願うことしか出来なかったのです。
軍人の青年が飛び立ってから長い時は経たずに戦争は終わりました。
街が復興して、仕事について、結婚をして、子どもが授かり、孫が生まれ、ひ孫を抱いて。
生きることは苦楽の繰り返しであるとこの人生はいつだって教えてくれました。
悲しみを乗り越えた先には自分にしか観えない、あたたかな青空が広がっていたことを思い出しました。
ただ、ただ一言だけ、あの人に伝えることができたなら。
長い時を経て記憶に靄がかかっても、消すことはできないいつかの想い。
今さらどうにもできず何が正解であったのかわからない後悔。
少女の頃、まだ幼い自分に愛しさや切なさという感情の機微を教えてくれた大切なひとのこと。
老女は昨日や今をすっかり失ってしまったことで、心の奥に隠していた、自分だけしか知らないひみつを引き出してしまったのでした。
それを誰かに話を聞いてもらうことで、老女は自分の心を改めて整理できたかのような清々しい気持ちになっていました。
「お客さん、勇気もらえそう?」
シリウスの後ろからひょっこりと顔を出したリゲルが心配そうに尋ねます。
老女はこの上ない柔らかな表情を浮かべました。
「ええ、素敵なカクテルをありがとう」
へへへ、と恥ずかしそうに隠れるリゲルの頭に、シリウスがぽんと優しく手を置きわしゃわしゃと撫でました。
老女はゆっくりとカクテルを飲み干すと「今夜のことは決して忘れないわ」と満足そうに店を後にしました。
「ありがとうございました。道中どうかお気をつけて」
支配人シリウスは暗闇に吸い込まれるよう消えてゆく老女の背中を見送ります。
ふと空を見上げると、そこにはいつもよりも強い光を放つ満天の星たちが煌めいていました。
「月が見えない……新月の夜。何かを始めるのにぴったりな夜、か……」
シリウスがポケットから古びた懐中時計を取り出すと針は0時を示していました。