人が最期に乗る最終電車
これは、残業を終えて夜遅くに電車に乗ろうとしている、ある若い男の話。
その若い男はサラリーマン。
仕事で忙しい日々を送っている。
今日も残業で仕事が終わったのは夜遅く。
電車に乗るために地下鉄の駅に到着した時には、
既にホームにはその日の最終電車が到着していた。
「まずい。このままじゃ終電に乗り遅れてしまう。
待ってくれ!その電車、乗ります!」
その男は電車に飛び込まん勢いで、ホームへ続く階段を駆け下りる。
急ぐ足が階段を一段飛ばしになり、
二段飛び、三段飛び、階段を飛び跳ねていく。
そんな無茶が破綻するのに、さほど時間はかからなかった。
固い革靴が階段に引っかかって、その男は体勢を崩してしまった。
「う、うわっ!」
つんのめって真っ逆さまに階段を転がり落ちていく。
ホームの床に後頭部を強打して、その男は目の前が真っ暗になった。
目の前が薄ぼんやりと明るくなって、視界が開けていく。
見慣れない角度からの光景。
それが通い慣れている地下鉄の駅だと気がつくのに、
たっぷり数拍の猶予が必要だった。
その男は恐る恐る体を探ってみるが、どこにも痛みは感じなかった。
「僕、階段から落ちたのか。
怪我は無いみたいだけど、人に見られたら恥ずかしいな。
それよりも、早く電車に乗らなきゃ。」
見ると地下鉄のホームには電車がまだ止まったまま。
「最終電車」
そう表示された電車に、その男は駆け込んだ。
まるで迎車のようにその男が乗り込むのを確認してから、
最終電車は扉を閉めて走り始めたのだった。
最終電車の車内は、シン・・と静まり返っていた。
賑やかな酔っぱらいがいたり、居眠りのいびきが聞こえてきたり、
最終電車でよく見かける光景がそこにはない。
車内にいる乗客は静かで、老若男女様々。
その男と同じ背広を着ていたり、
あるいは部屋着のような薄着だったりと統一感がない。
皆、何をするでもなく一様に黙りこくっていて、
座席に座ってじっと前を向いている。
時おり電車の振動に合わせて皆揃って体を揺らす。
下ろしたてなのだろうか。
真新しい電車の設備は白々しいほどに綺麗だった。
座席にはいくらかの空きがあるが、いずれにせよ人の隣に座ることになる。
いつもと違う様子にその男が気後れしていると、ふと視界内に変化が。
斜め前の座席に座っている中年の男が手招きをしている。
中年の男は全身白い服を着ていて、
人懐っこそうな笑みを浮かべてその男を呼んでいる。
その男が自分の事を指差すと、中年の男はうんうんの頷いて返した。
そこまでされては無視するわけにもいかなくなって、
その男は中年の男の前に近付いた。
「僕に何か用ですか?」
すると、中年の男は、人懐っこそうな表情のままに話し始めた。
「座らないのかい?
ここ、私の隣の席が空いてるよ。」
「いえ、遠慮しておきます。
疲れているので、座ると眠ってしまいそうですから。
寝過ごしたくないんです。」
「そうか。
君はどうしてこの最終電車に乗ったんだい?」
「仕事で遅くなって、こんな時間になってしまいました。」
その男の至極まともな応えに、中年の男は違う違うと首を横に振った。
「いやいや、そうじゃないよ。
君は若くしてこの最終電車に乗ることになった。
それには、何か特別な理由があるんだろう?
それを聞いてるんだ。
病気か?それとも怪我かい?」
「病気?怪我?何のことでしょう。
最終電車に乗るのに、時間以外の理由があるんですか。
言われてみれば、さっき階段で転びましたけど。」
「ああ、じゃあきっと原因はそれだろうな。
まだ若いのにかわいそうに。
ここで会ったのも何かの縁だ。
ちょっと話をしようじゃないか。」
「は、はぁ・・。」
曖昧な返事をするその男に、中年の男は嬉しそうに話すのだった。
そうしてその男は立ったままで、座っている中年の男と世間話をした。
聞けば中年の男は数年前に体調を崩し、
それからは入退院を繰り返しているという。
「何度も生死の縁を彷徨っていてね。
おかげで最終電車に乗るのも慣れっこなんだよ。」
「そうなんですか、お気の毒に。」
毎日病院に通っていて、治療が遅くまでかかるという意味だろうか。
その男は適当に相槌を打って話を合わせていた。
「それでね、今回ばかりはどうも駄目そうで。
観念していたところだったんだ。
最期に君のように若い人と話せてよかったよ。」
それっきり、話題が途切れてしまった。
相変わらず最終電車の車内は静かで、他の誰も身じろぎ一つしない。
・・・次の駅はまだだろうか?
そういえば、この電車は一度でも駅に止まっただろうか?
中年の男と話をしていてすっかり失念していたが、
どうも駅に止まった記憶が無い気がする。
間違えて特急電車にでも乗ってしまったのかもしれない。
その男は最終電車の車内を見渡した。
通常の電車の車内であれば、行き先を示す電光掲示板や路線図があるはず。
そのはずなのに、この最終電車にはそれが一つも見当たらない。
車内には張り紙一つなく、まっさらな木製の車体があるのみ。
乗り慣れているはずの電車とは様子が違う。
やはり乗る電車を間違えたのかもしれない。
うろうろするその男に、中年の男が声をかけた。
「君、どうかしたのか。」
「次はどの駅でしょう。
そろそろ僕の家の最寄り駅じゃないかと思って。」
「最終電車は止まらない。終点まで走り切るだけだ。」
「・・・どういうことです?」
「その通りの意味さ。
最終電車はどこにも止まらない。
最終電車は人間が最期に乗る電車だからね。
最期はみんな火に焼べられてしまうんだ。
ここで会ったのも何かの縁。
一緒に終点まで行こうじゃないか。」
そう話す中年の男の顔には、もう人懐っこそうな笑顔はない。
割けんばかりに開かれた口からは、いやらしそうな笑みが溢れていた。
人が最期に乗る最終電車。
最終電車はどこにも止まらず、最期は火に焼べられるという。
何かの冗談にしか思えない。
しかし、現に今その男が乗っている最終電車はどこにも止まっていない。
それに何だか車内が暑くなってきた気がする。
進行方向を見ると、最終電車の車内を真っ赤な炎が迫っていた。
「なんだ!?電車の中を炎が走っている。
電車が燃えている!火事だ!」
慌てるその男とは対象的に、最終電車の乗客たちは動かない。
皆が椅子に座ったまま、やはり身じろぎ一つしない。
その中で一人、あの中年の男だけが、
いやらしい笑みを浮かべて言うのだった。
「何をしても無駄だ。
最終電車に乗ったら最後、絶対に逃れることはできない。
君も大人しくして最期の沙汰を待つんだな。」
中年の男からの無情な言葉に、しかしその男は諦めなかった。
諦めろという言葉には耳を貸さず、
最終電車の車内を駆け回って、あちこちをいじくり回し始めた。
「この電車が何なのか、今はいい。
曲がりなりにも電車なんだから、非常停止装置があるはずだ。
あの炎だって、ただの火事かもしれない。
とにかくこの電車を止めなきゃ。」
壁のボタンを押し、呼び出し機のボタンを押し、
どうしてこんなものがあるのか、
受話器やリモコンのようなものを手に取って、片っ端から操作していく。
中年の男がいる車両から後ろ隣の車両へ移動する。
後ろの車両にも乗客がいるが、やはり皆黙って座っていて動かない。
今は他人に構っている余裕はない。
その男は各車両を巡って、片っ端から装置を操作していった。
すると、効果があったのか、最終電車は徐々に速度を落とし始めた。
そうしてその男が最後尾の車両にたどり着いた頃には、
最終電車はひっかくような金属音をあげて停車したのだった。
最終電車は停車したが、扉が開く気配はない。
扉を開けようにも、今度は何の装置も見当たらない。
その男は仕方がなく、最後尾の車両にあった乗務員室の扉から外へ出た。
最終電車の外は地下鉄のトンネルで、明かりもなく真っ暗かと思われたが、
進行方向からやってくる炎が今は灯りとなって、
真っ暗なトンネルの中を赤く照らしてくれていた。
進行方向の先はもう火の海で進むことはできないが、
逆方向の遠く離れた先には淡白い光が見える。
その男は急いで最終電車の乗務員室に取って返すと、
乗務員室のマイクを手にデタラメにボタンを押して話し始めた。
「火事です!みんな逃げてください!
最後尾の乗務員室から外に出られます!」
声の具合からして、車内放送は機能しているようだ。
乗客たちは話を聞いてくれていただろうか。
最終電車の車内を見ると、何人かの乗客たちが、
ゆっくりと立ち上がって逃げようとしているのが見えた。
車内に戻って手近な乗客に手を貸して外へ誘導するが、
火の回りが早く、すぐに最終電車は炎に包まれてしまった。
その男は煤まみれで命からがら外に逃げ出して、
何とか助けられた数人の人たちとともに呆然と炎を眺めていた。
はっと気がついて、周囲の人たちに声をかける。
「このトンネルの中には灯りが無いようです。
残酷ですが、この炎が消えない内に移動した方が良いでしょう。」
聞いているのかいないのか、黙ったままの人たちは応えない。
皆呆然としたままで、言われた通りの方向にゆっくりと歩き始めた。
仕方がなく、その男が先頭に出て誘導することにする。
ふと気がついて、人々の顔を確認したが、
誘導している人たちの中にあの中年の男はいないようだった。
「あの男、逃げ遅れて火に巻かれたのか。
気味の悪い奴だったけど、何だか悪いことをしたな。」
そうしてその男は見知らぬ人たちとトンネルの中を歩き続けた。
背後の炎が遠くなるのと入れ違いに、目の前からは淡白い光。
どんどん大きくなる淡白い光がやがて周囲を包み込み、
その男の意識は真っ白になった。
わいわいがやがやと騒がしい。
誰かが部屋の外を慌ただしく移動していく。
そんな物音によって、その男は意識を引き戻された。
まぶたを開けて暗い視界に光を取り込む。
白い天井、白いベッド。
部屋の中に看護婦らしき人がいるのを見て、
ようやくここが病院の病室だということに気が付いた。
その男が目を覚ましたのに気が付いて、看護婦が近付いてきた。
「まあ!
あなたも目を覚まされたんですね。」
「・・・ここは、病院ですか?」
「そうです。
あなたは昨夜に地下鉄の駅で転んで頭を打って、
意識がない状態でこの病院に搬送されてきたんです。
ああ、まだ起き上がらないでください。
すぐに先生が来てくれますから。」
地下鉄の駅と言われて、その男は最終電車での出来事を思い出した。
駅で転んで意識を失ったということは、
最終電車には乗っていないのだろうか。
あの最終電車のことは夢か幻か。
一先ずその男は素直に応えることにした。
「わかりました。
ところで、何やら病院の中が慌ただしいようですが。
何かあったんですか?」
すると看護婦は手を合わせて嬉しそうに応えた。
「そうなんですよ。
この病院にはあなた以外にも、
意識がない患者さんが何人も入院されてるんですが、
その患者さんたちが今日、一斉に目を覚ましたんです。
まるで奇跡みたいだって、先生たちも驚いていて。
それで先生が来るのがちょっと遅れてるんです。
ごめんなさいね。」
目を覚ました人たちというのは、
もしかしたら最終電車の人たちかもしれない。
いや、最終電車は幻なのだったか。どちらだろう。
もしも最終電車の乗客たちだったとして、
自分と同じように逃げ延びて意識を取り戻したのであれば、
必死に誘導した甲斐があったというものだ。
その男は布団を被って顔を隠すと、満足そうに微笑んでいた。
すると、病室の引き戸が開けられる気配。
どうやらやっと医者が来てくれたらしい。
その男が布団の中で微笑んでいると、看護婦と医者の会話が聞こえてきた。
「まあ、先生。
お体の具合はいいんですか?」
「ああ、大丈夫だ。
今日は忙しいだろうと思ってな。
手伝うために来たんだ。」
「それはありがたいです。
今日は患者さんが多くて、手が足りなかったんです。
先生にはこちらの患者さんをお願いします。
わたしは隣の患者さんをみてきますので。」
「ああ、任せてくれ。」
そんな会話の後、引き戸が開けられて看護婦は出ていってしまった。
後には静寂。
医者は何の準備をしているのか、
カチャカチャと物音がするだけで話しかけてこない。
しびれを切らしたその男が、医者に話しかけようと布団から頭を出した。
すると、すぐ目の前には白衣を着た医者の姿。
何の薬なのか、手には注射器を持っている。
目の前のその医者は中年の男で、
その顔も声も、その男には覚えがあるものだった。
医者はその男の顔を見ると、
割けんばかりに開かれた口から、
いやらしい笑みを溢れさせて言うのだった。
「言っただろう?何をしても無駄だって。」
終わり。
終電、最終電車を使ったホラーを書こうと思いました。
一日の最後の電車なので最終電車。
だったら、人が一生の最期に乗る乗り物も最終電車と言えるかも。
そんな思い付きで、この話を作りました。
人が一生の最期に行くのは火葬場。
最終電車の前方から迫りくる炎は火葬場のイメージです。
人はどんなに長生きしようとも、いつかはその命が尽きる時がきます。
そういう意味では、最終電車の中年の男が言う、
何をしても無駄というのも、ある意味では正しいかもしれません。
お読み頂きありがとうございました。