とある少年の日常③
その時、男には何が起きたかわからなかった。
突然の衝撃と、遅れて響く悲鳴。
男と同じように混乱した周囲の乗客が困惑した声を上げ、答えを求めて見回している。
状況を把握する暇もなく、再びの衝撃。
大きく揺れ、片方にぐらりと傾いたのが男にもわかった。
瞬間的に全ての照明が落ちて、周囲は暗闇に包まれる。上がる悲鳴。傾いた一方へと、体勢を崩した誰かが悲鳴を上げながら滑り落ちていく。
何が何だかわからず、男は混乱した。
それでも咄嗟に、座席シートを精一杯握りしめて重力に抗った。何かを感じたわけではない。本能的な無意識の反応だ。彼の頭の中は「なぜ」と「何が」だけで埋め尽くされ、状況を判断するだけの余裕など皆無だった。
もし緊急事態に慣れていれば、その次にとるべき行動もわかったかもしれない。
だが、彼は凡人だった。戦争のない国に生まれ育ち、社会の歯車として日々を生きるサラリーマン。状況を把握するだけの能力もなければ、打開するための方策など浮かぶはずもない。
けたたましい警告音が機内に響く。
天井から勢いよくぶら下がった酸素マスクが、男の眼前で激しく揺れた。
衝撃に凍り付いていた男の思考が、ようやくからりと回る。
海外からの出張帰りの、国際線の飛行機の中。
正確な時間はわからないが、離陸してから相応の時間が経過している。男の記憶が確かならば今頃は洋上を航行中であり、母国はまだ海の遙か向こうだ。
そして、この異常な状況。
――墜ちる。
男の脳裏にぽつりと浮かんだのは、端的な絶望だった。
周囲は既に阿鼻叫喚だ。
警告音と老若男女の悲鳴。正体のわからない何かが壊れる音。添乗員の、叫ぶような制止の声も微かに聞こえる。
夜のフライトだったことも災いして、照明の喪われた機内は何一つ見えない。窓があるのか、窓すらも破壊されているのか、それもわからない。
ただ全身を襲う浮遊感としがみついたシートから伝わる激しい振動、地獄のような周囲の悲鳴が、男の世界のすべてだった。
「ああ、神様」
絶望の滲んだ誰かの祈りの声が、暗闇に落ちて。
途端に強い衝撃が全身を打ち据え――男の意識はブツリと切れた。
◆◇◆◇◆◇
「師匠! 朝です!」
師匠の朝は遅い。
趣味が筋トレといっても過言ではないくらい脳筋思考の師匠だが、朝はめっぽう弱い。筋トレするタイプの人種は早寝早起きだという先入観があったから、最初は少し驚いた。
今ではすっかり慣れて、日差しが師匠の部屋に差し込む時間帯に起こしにいくのが日課になっている。声をかけたくらいでは起きないし、毛布を引っぺがしても起きない。肩を揺すって叩いて、何度も何度も耳元で騒いで、それでようやくベッドから出てくれるのだ。
「……ああ、おはようございます……元気ですねぇ……」
「おはようございます! いいお天気ですよ!」
手早くカーテンと窓を開け、空気を入れ換える。
明るくなった室内は、まるで空き巣にでも入られたかのような散々な有様だが、割とよくある光景なので驚きはない。
どうやら昨夜は遅くまで研究に没頭していたようだ。
床に散乱する紙を拾い集め、机の上に纏める。紙に描かれた幾つもの魔方陣と数式は、一見しただけでは何が何やらわからない。ただ難しそうだなと思うだけだ。
同じようにあちこちに脱ぎ散らかされた服も纏めて、部屋の隅に置かれた籠に放り込む。クローゼットから洗い立ての服一式とローブを取り出して、未だベッドの上で茫洋としている師匠の隣に置いた。
「着替えはこちらに置いておきますね。朝ご飯は下で食べますか?」
「……ええ、そうしましょうか。この惨状で食事はちょっと危険ですし」
「わかりました! じゃあご用意して待ってますね!」
「いつもすみません。そういえば今朝の当番はシルフィでしたか?」
「はい! 燻製肉をおまけで頂いたので、今朝はベーコンエッグトーストです」
別に珍しいことではない。俺が買い物にいくと高確率でおまけや値引きをして貰えるのだ。兄弟子たちもそれを心得ていて、買い出しは主に俺の仕事になっている。俺が可愛いばっかりに。
ちなみに量が多かったり重そうだったりすると、店の人が一緒に運んでくれる。手が空いてない時は近くの住人に声を掛けてくれる好待遇。『シルフィ』の非力設定は、あくまで設定なので芋の袋のひとつやふたつ問題にもならないのだが、与えられる好意は100%享受する主義なので致し方ない。いやはや、可愛いって罪だな。
「それは美味しそうですね。では冷めないうちに行きましょう」
「はい、お待ちしてます!」
着替えを手に取ったのを確認して、俺は笑顔で頷いた。そのまま開けっぱなしの扉から出ようとすると、どこか困ったような師匠の声に呼び止められる。
「シルフィ、その。私は昨夜鍵を掛けていたように思うのですが」
「掛かっていましたよ?」
「鍵はどうやって?」
「蹴破りました」
扉越しに声を掛けたところで師匠が起きるはずがない。ならば師匠を起こすためにこじ開けるしかないではないか。盗賊系のスキルはないため、物理でどうにかするのが妥当なところだと思う。
「……そうですか……シルフィ、鍵が掛かっていたら開けてはならないのですよ」
こめかみを揉みながら、師匠が言う。
何を言っているんだろうか。そもそも施錠している場所を鍵なしで開けるなんて、常識的にアウトに決まっている。人間の常識は未だ勉強中だが、そのあたりは竜族でも常識だ。
「はい、知っていますけど……?」
それが何か? と首を傾げると、師匠は長々と溜め息をついて「知ってるなら良いです」と困り顔のまま視線を彷徨わせた。
何だろう、壊れた蝶番なら後で俺が修理するから心配しなくて良いのに。この程度の修理なら割とよくあることなので手慣れたものだ。予備のパーツもいくつかストックしているし、師匠が食事をしている間に終わるに違いない。後で修理道具を取ってこなければ。
「ええと、じゃあ失礼します」
師匠に挨拶をして階下の食堂に向かうことにする。背後で師匠が再び溜め息をついた気配がしたが、本日の予定を脳裏にメモするのに忙しかったのでスルーした。
「やっぱりあの子は少しズレてますね……それにしてもあの細い体でこの力……きちんと身体強化の鍛錬をさせれば或いは……」
なので、師匠の不穏な独り言は完全に聞こえていなかった。
必死で作り上げた「非力でひ弱で無害な子ども」の設定が思わぬところで綻んでいることなど、この時の俺は知るよしもない。一度は流れた筈の筋トレメニューが師匠手ずから提示されて、逃げ回ることになるのはまた別の話である。
「お、師匠起きたか?」
「おつかれさま~」
食堂に降りると、食卓で思い思いにくつろぐ兄弟子たちの姿があった。
彼らは師匠とは逆に早起きである。毎朝、職場である王立魔法院の本館へ出仕する前に、各自修行やら研究やらに勤しむので、平均して師匠よりも3時間は早く起きる。食事の時間も彼らに合わせてあるため、既に食卓の上は綺麗に片付いていた。厨房に残されているのは師匠の分の食事のみである。
彼らは朝食のあとも、大抵はギリギリの時間まで食堂にいる。別にこれといって飲食するわけではないのだが、恐らく師匠に挨拶をするために待機しているのだろう。
「今朝はどうするって? 持ってくのか?」
「いえ、もう暫くしたら降りてくるそうです。師匠の部屋、ちょっとすごい状態でした」
師匠の食事を用意しながらロイドの問いに答える。
パンをスライスし、軽く火魔法で炙るように焼く。トースターがあれば楽だが、この世界にはそんな便利家電なんてものはない。代わりに便利な魔法があるので、そちらで適宜代用するしかないのだ。
パンが良い感じに焼けたところで、フライパンを火魔法で熱してベーコンエッグを手早く作る。
燻製肉の正体はあまり考えてはいけない。
この世界、豚と名の付く生き物は、俺の記憶にある豚と少し違う。外見はもろにイノシシで、魔法も使えば気性もめちゃくちゃ荒いという家畜には不向きそうな生き物である。魔力の属性によって体毛の色が変化し、味も微妙に違うらしい。風属性が爽やかな風味だと聞いたが、ただの属性イメージではないかと疑っている。
豚に限らず、牛も馬も鶏も、家畜化されてはいるが記憶のそれとは乖離している。どれも魔法を使ってくるのでなんだか動物というより魔獣なのではと思わなくもない。その魔獣も、割と普通に食肉として市場に出回るので、加工肉となると正体不明の肉であることも多かった。
魔獣とただの動物との境目は、案外曖昧である。
そんなわけで、今調理しているこの燻製肉も正体不明だったりする。おまけで貰ったものに文句を言うわけにもいかないし、身体に毒なわけでもないのでなるべく考えないようにしている。
実際、肉としてはとても美味しい。燻製になっていてもわかるジューシーさに、生肉だったらまた違う食べ方が楽しめそうだなと思う。これだけ脂が乗ってるなら、肉自体も柔らかいだろう。ステーキもいいな。ただわざわざ燻製に加工しなければならないのなら、相応の理由があるだろうけれど。
「昨夜遅くまで明かりがついてたみたいだもんなあ。仕事かね」
「いやいや、師匠のことだしまた研究に没頭してたんじゃない?」
兄弟子たちの考察が続いている。部屋に散らばった書類を思い浮かべ、仕事というよりは研究だったんだろうなと思う。
作り置きのスープを温め直し、師匠の朝食を準備し終えたところで、兄弟子たちの方を顧みた。
「あれ、今日お休みですか?」
いつもはそろそろ出仕の支度を始める頃なのに、相変わらずの様子でくつろいでいる三人へ、首を傾げた。一応決まった休日はあるのだが、王立魔法院の就業規則は割と緩く、申請すれば突然の休暇もあっさり通ってしまう。所属の魔法士は基本的に研究職であり、没頭すると就業時間なんてあってないようなものになるのが原因らしい。要は休める時に休んでおけということなのだろう。
「そうだよ。昨日決まったから、シルフィには言ってなかったね」
「今日はシルフィの杖を見に行く休暇だって決まったんだよ!」
ヨシュアとエリンがにこにこと言い放つ。
弟弟子の杖を見に行くためだけに三人とも休暇を取ったらしい。兄弟子たちはほんとに面倒見が良い。付き添いは一人でもいいと思うのだが。昨日師匠に言われたからだろうか。
「まあ俺らも素材が要るからな、ついでだついで」
俺がちょっと戸惑ったことに目敏く気づいたロイドが、ひらひらと手を振る。
魔法士の研究には、様々な素材が必要となるものが多い。大半は馴染みの商人から購入しているがマイナーどころの素材となると自力で調達するしかなくなる。とはいえ、文字通り自ら冒険に出る魔法士は稀で、大抵はあちこちの店を回って集めているらしい。
「なんの素材ですか?」
キッチン横の棚から茶葉の缶を取り出す。ぱかんと蓋を開けると柑橘系の香りがふわりと漂い、僅かに気分が上昇する。中身の茶葉をティーポットにひと匙入れて、フライパンと同じ用法で熱したケトルからお湯を注いだ。魔法で直接お湯を注ぐこともできるのだが、ちょっと加減がしづらいので迂遠な方法をとっている。……昔から細かい調節は苦手なのだ。
「満月草がそろそろ切れそうでよ」
「僕はあれだね、水蜥蜴の皮」
「あー冒険者ギルドからの納品が少ないって聞いたね。じゃあ依頼だしにいくの?」
「冒険者ギルドに素材が残ってなかったらそうしようかなって」
ロイドの言う満月草は、よく材料に使われるものだ。魔力含有量の多い植物で、満月の夜に収穫されたものほど高価らしい。ヨシュアが挙げた水蜥蜴の用途はあまりよく知らなかった。知っているのは、水場に棲息していることと、駆け出しの冒険者にとってはとても良い獲物だということくらいだ。
だがそれよりも。
「冒険者ギルド! 行くんですか?」
「お、いい食いつきっぷり。なんだ、憧れるお年頃か? 格好いいもんなあ、剣士とか」
「そういうんじゃないです! 僕は魔法士になるので」
冒険者となる魔法士がいないわけではない。魔法士には魔法士のギルドがいくつか存在しており、冒険者ギルドと提携しているところもある。他にも、そういった組織に属さない魔法士が冒険者ギルドに登録することで生計を立てることも多い。
なので魔法士になることと冒険者登録をすることは両立しない話ではないのだ。
ただ、俺にその気はさらさらないのだけど。
あと剣士がかっこ良く見えるのは理解できるが、個人的には好きじゃない。あいつら遠慮なく殴ってくる。いくら剣で傷つくような柔な鱗はしていないとはいえ、殴られたらそれなりにこちらも痛いし鬱陶しい。たまにゲームみたいな謎の波動攻撃をしてくる剣士もいるから、完全に無視もできないのだ。
この世界の冒険者にあまり良い思い出はない俺だが、人間となっている今は話は別だ。
俺なら絶対に入れない冒険者ギルドの中を、堂々と見られる。
やっぱり受付嬢とかいるのだろうか。ギルドマスターがめちゃくちゃ強いとかあるんだろうか。
かつての記憶がそわそわと楽しげに囁くから、ついつられてそわそわしてしまう。
「ちょっと興味あるだけです。ほら、えっと、強い魔獣とか倒すんでしょう? 皆さん強いんだろうなって」
あながち嘘でもない適当な言葉で誤魔化しながら、人数分のカップを用意する。
ティーポットから薄く緑に色づいたお湯を注ぐと、柑橘系の香りと共にほんのり甘い香りが広がった。リラックス効果の高いハーブティーの完成だ。この茶葉はいつもの買い出しの際に気に入って、自らの小遣いで購入したものである。
「まあ……そのへんはピンキリじゃねぇ?」
「王都だから金クラスの冒険者もいるだろうしね。運が良ければ見られるかも」
「そこらの冒険者より師匠のほうが強いよ~」
ああうん、それは知ってる。身をもって知ってる。
内心激しく頷きつつ、3人へハーブティーを振る舞う。是非気に入って欲しい。そして次は経費で購入したい。
下心ありきで振る舞ったハーブティーは、概ね好評だった。3人は礼を述べたあと、かわるがわる頭を撫でてくる。嬉しくなって締まり悪く笑っていたら、身支度を終えた師匠が食堂へと現れた。
兄弟子たちと挨拶を交わしているそばで、俺は急いで厨房に戻り、用意した朝食を運ぶ。
せっかくなので冷めないうちに食べて欲しい。今日も俺のタイミング調節は完璧だ。
師匠がまだ半ば寝ぼけながら食事を始め、俺は自己満足に浸りながら自分の席でハーブティーを飲む。うーん、ちょっと蒸らしすぎたかもしれない。少し渋い。
「今日はこの後街に向かう予定です。シルフィの杖を見に行こうかと」
「グラダさんの所ですね。わかりました。他には?」
「素材がいくつか足りないので、商店とあと冒険者ギルドへ」
「ふむ……ではついでに私の分もお願いしても良いですか? 竜の鱗なんですけど」
「いやそれは無理でしょう」
食後、ヨシュアの報告を淡々と受けていた師匠が、とんでもない素材名を告げた。
確かに竜の鱗は立派な素材である。竜と延々と戦争を続けている国だから簡単に手に入ると他国では思われがちなのだが、実際はそう簡単に手に入らない。そもそも前線に竜族が現れること自体がそう多くないのだ。大抵は竜族配下の魔族や魔獣が先鋒として現れ、ある程度殲滅したところでようやく現れる、要はちょっとしたボスである。そしてその頃には人間側もかなり疲弊しているので、倒しきるには至らず、撤退させるのが関の山。
過去に数頭の討伐例が残っているが、それも激戦の末に人間側の犠牲がかなり出たものだったようだ。現在市場に出回っている高価素材としての竜の鱗はその時のもので、やや安価なものは竜族の配下である飛竜や竜人族、飛蛇などのものである。
素材としての効果は程度の差はあれ、そこまで変わらないので代用がきくらしい。
「いや本物じゃないですよ? そんな高いもの買えませんし……飛蛇のものでいいんで、もし冒険者ギルドで取り扱いがあったらお願いします」
「まあそれなら……」
師匠が何が何でも欲しいというなら、鱗の一枚、爪の一枚惜しくもなんともないのだが。正体をばらすわけにいかないのでもどかしい気持ちである。
「さて、シルフィ」
「はい」
ヨシュアとの話が終わり、師匠がにこやかな顔で俺を呼ぶ。
「買い物の前におさらいです。杖を選ぶのに重要なところはどこですか?」
これまでの6年間で幾度も教えられてきたことなので、深く考えずともするりと答えが出る。
「魔石の大きさと回路です」
「そうですね。では今のお前にちょうど良いモノはどんなものでしょう?」
「ええと、魔石は小指の先くらい。回路はなるべく少なくまっすぐしたもの、です」
魔石は杖などの武器に嵌められている魔力を帯びた石のことだ。大きいものほど保有量が多く、魔力消費の激しい魔法を使う魔法士には重宝されている。だが、何事も適量というものがあり、俺のような魔法初心者に大きな魔石は向かない。魔法を行使する際に魔石から魔力を一度体内に取り込む必要があり、慣れない内はそこで酩酊したような症状がでてしまうのだ。酷い場合はその場で昏倒してしまうらしい。
そして回路だが、こちらは職人の手で武器に掘られた魔力を流し込むための道のようなものである。
こちらは外見にはっきりと見えるものではなく、魔力を流し込むことで装備者にのみ見えるようになるものらしい。回路が単純であればあるほど魔力が通りやすく、初心者向きの仕様となる。逆に複雑な回路は、同時に複数の魔法を使うような上級者向けの仕様だ。
『シルフィ』のレベルでは初心者も初心者なのでこのくらいの回答が正解だろう。ちなみに仮に『俺』が杖を使うならば、少なくとも回路はもう少し複雑化したものになる。竜族は総じて魔力保有量が多く、同時に3つ4つの魔法を使うことは日常だった。とはいえ、師匠が使う人間の魔法と俺が使っていた魔法はどうも違うようなので一概には言えないのだが。そもそも杖自体使ったことがないし。
「うん、問題ありませんね。お金の心配はしなくて良いので、後は気に入った意匠のものを買っていらっしゃい」
「はい。ありがとうございます!」
昨日はあれから、初心者用の"見習いの杖"も様々なデザインがあるらしいとエリンから聞いた。貴族の子息向けに展開された商品のようだが、そこまで値が張るわけでもないようだ。「足りなかったら出してあげるから」とは弟弟子に甘々のエリンの弁だ。さすがにそこまでしてもらう訳にはいかないので手頃なところで妥協するつもりではあるが、どうせならちょっと格好いいのが欲しいと思ってしまう気持ちは止められない。尚自分で稼いで買うという選択肢はない。僕まだ成人前の14歳なので!
後片付けと修理と、その他雑用を済ませて、昼前には街へと送り出された。
門を出て、今し方出てきたばかりの『家』を仰ぐ。
細長い、円筒形の建物。ここは、王立魔法院の敷地内に建てられた研究塔だ。元々、師匠のために建てられたもので、最上階と寝室以外はただの空き部屋だった。俺が弟子入りしたのをきっかけに、兄弟子3人が共にこの研究塔で生活するようになったのだ。
基本的に王立魔法院に所属している魔法士は、施設内に建てられている共同宿舎で生活している。兄弟子たちもこれまではずっとそこで生活していたらしい。
宿舎の方が設備は充実しているし、何より食堂には専門の料理人もいて、家事に煩わされることが殆どない。不便になっただろうに、兄弟子たちは俺を責めたりはしない。
なので、せめてできる限りは頑張ろうと思った。正直、家事はそんなに得意ではないけれど。
「まず最初にグラダさんとこだな。その後素材探し」
「素材さ、先に冒険者ギルドから行ってみる? 品質はばらつくだろうけど、そのあたりは判るでしょ」
「まあな。師匠の言ってたやつもそんな良質でなくて良さそうだったし」
王立魔法院の敷地を出て、街へと向かう道を歩く。王立魔法院は小高い丘の上に建てられており、敷地はとてつもなく広い。王都の市街地が眼下に広がるが、なんでも揃うと言われる街へ向かうまでに坂を下りきらねばならないのだ。
両手をエリンとヨシュアに引かれ、すぐ後ろをロイドが歩くという、なんというか捕獲された感がすごい布陣だ。別に突然走り出したりするほど子どもではない。わくわくはしているけれど。
新しい杖を手にできる上に、冒険者ギルドも見ることができるのだ。楽しみで仕方ない。
俺が楽しい妄想をしている間に、頭上を飛び交う兄弟子たちの会話は、夕飯の話題に変わっていた。
「キノコのシチューがいいなあ。キノコ買って帰ろうよ」
「あー今朝の燻製肉も少しだけ残ってたしちょうどいいかもね。ロイドはどう?」
「いいんじゃねぇ? 作るヤツの意見が優先だろ」
「じゃあけってーい。帰りに寄ろう」
今日の夕飯の当番はエリンだ。どうやらキノコシチューが確定したらしい。キノコは好きなので嬉しい。
所帯じみた会話がとても「家族」っぽくてなんだか胸が温かくなる。
そういえば家族はこんな感じだったなあと遠い記憶がぼんやりと呟いた。
竜族の、ではない。
竜族として生まれた200数年に、こんな穏やかな時間はなかった。王子だなんだと言われていても、所詮は弱肉強食の魔族。弱者は強者に文字通り食われるのが常だ。まして、俺はそう出来の良い王子ではなかった。幼少期から忌み嫌われていたのだから、むしろ今まで生きられたのが不思議なくらいである。
だからこの懐かしさと穏やかな感情は、それよりずっと前、この世界に生まれる前の記憶だ。
死にかけた6年前のあの日、何がきっかけだったのか、俺は前世を思い出した。
この世界ではない異世界で終えた、短い人の一生。
ほんの50年にも満たない平凡な記憶が、殺伐とした200数年を生きた俺にはまぶしく思えた。
どれだけ生きても手に入らなかった温かな記憶が羨ましくて。
"もう一度"欲しいと願った。
すべてをやり直したいと、そう思ってしまったのだ。
◆◇◆◇◆◇
竜は魔族の中でも長命な種族だ。
人との戦いが始まったといわれる千年前、俺の父、もとい竜王は既に生まれていた。今なお現役で存命である。よぼついてもいないあたり、放っておけば世界が消滅するまで生きていそうな気配だ。
その血族である子どもたちも当然長命だ。第一王子は700歳越え、俺を嵌めた弟ヘルバードすらも150歳は超えていた記憶がある。
そして俺は、実に228年もの間「第三王子アロイス」として生きてきた。
王宮や宛がわれた棲家での生活は、正直あまり居心地はよくなかった。「不気味」だの「不吉」だのと散々陰口を叩かれ、友人や仲間と呼べるような相手は皆無。側にいるのは従順な召使か部下ぐらいで、血を分けた肉親ですら俺を忌み嫌っていた。
やたらと面倒でしんどい任務ばかりを回されても必要とされていると思っていたが、今振り返ればわかる。あれは単なる嫌がらせだった。
他人と自分の血にまみれて、命令をこなすだけの淡々とした日々。世界は味気なく、それでも竜族として生きる俺にはそれがすべてだったのだ。
だから本来ならば、弟に命を狙われたぐらいで「じゃあ人間の街に行くか!」とはならない。
人間は敵であり餌だ。
家畜にまじって身を隠すという事態は、最後の手段にも等しい。
それに、命を狙われるのは今に始まったことでもなかった。竜族は弱肉強食。王子であってもそれは変わらない。むしろ竜王の血をひくことで余計に狙われた。
嫌われ者の慣れで、今回もやり過ごそうと思えばできた。何食わぬ顔で弟に逢いにいけば、意趣返しにも脅しにもなるだろう。
そうしなかったのは、閃いてしまったからだ。
「今なら死んだことにできる」と。
逃げたかったわけではない。竜族であることが、王子であることが、嫌だと思っていたわけではない。世界に絶望したわけでも、何かを変えたいと思っていたわけでもない。
ただ、俺は思い出してしまったのだ。
この世界に生まれ落ちる前の、いわゆる前世の記憶というやつを。
前世の俺は、ごく平凡な日本人男性だった。出張帰りに事故死した、アラサーの独身男である。両親と妹がいて家族仲は割と良好だった。恋愛にはとんと縁がなかったものの、友人にはそれなりに恵まれていたし、なんだかんだで幸せな人生だったと思う。まあ最後の最後に飛行機事故死なんてヘビーな体験をしてしまったのだが、それはそれ。
そんなごく庶民の記憶が、死にかけた衝撃で蘇った。
当然、パニックに陥った。
辛うじて呼吸をしているような身体の状態で、人ひとりぶんの人生が一気に脳に溢れたのだ。千々に砕けた思考の端で、死を覚悟した。
けれど死ななかった。強靱な竜族の肉体はギリギリの状態で俺の命をつなぎ止め、数百年を軽く生きる脳は30数年そこそこの人の記憶をも飲み込んだ。
そうして手に入れた「前世の記憶」は、アロイスのそれよりも輝いて見えた。平凡でなんの面白みもない記憶が、得がたい宝物のように思えた。
好かれることが、無償の愛を向けられることが、誰かを愛することが。
アロイスの200数年では経験しなかったそれらの記憶が、いかに美しく貴重なものだったか。
羨ましかった。
前世のちっぽけな俺が、心底羨ましくなった。懐かしくて、けれども二度と手に入らないそれに初めて涙が零れた。前世の俺は家族を残して死に、その家族もきっともう生きては居ない。なにしろ俺は200年以上もこの空虚な生を生きている。それに何より、この世界と前世の世界はまったく違う世界だという確信があった。あの世界には竜も魔法も存在しない。そしてこの世界には日本という国も、高層ビルも存在しない。
今思えば、突然沸いた前世の記憶に引き摺られていたのだろう。人恋しくなったのかもしれないし、前世と今世のあまりの落差に落胆したのかもしれない。
ともかく俺は色々な問題に蓋をして、アロイスを「死んだこと」にした。
もう一度、誰かの温もりに触れるために。
すべてを「人として」やり直そうと。