とある少年の日常①
またも見切り発車ですが宜しくお願いします。亀更新&ストックはあまりありませんが、完結させるという強い意志はあります。ほんとです。
「おい、何してる」
頭上から降ってきた声に、顔を上げる。
くすんだ髪色の男が見下ろしている。黒い詰め襟の服の上に灰色の地味なローブを纏う、中肉中背の男。一見なんの変哲も無いローブだが、その背には双頭の虎の紋章が描かれている筈だ。王立魔法院所属の魔法士の証である。
「ロイドさん」
見知った顔に笑みを浮かべて、安堵する。気配には気付いていたが、それが誰のものかはわからなかったのだ。
「師匠に呼ばれてただろ?」
「はい、すぐ行きます。あとはもう干すだけなので」
手元にあるのは水の張った桶。中で真っ白なシーツがゆらゆらと揺れている。泡が落ちきったことを確認して、水の中から引っ張り出した。
立ち上がっても大半が水の中に沈んだままのそれを目の前に掲げて、お決まりの詠唱をひとつ。ふわふわと集まってくる柔らかな気配を感じつつ、最後にそっと囁いた。
「お願いします、精霊さん」
途端、水浸しでずっしりと重かったシーツが、重さを感じさせない勢いで宙を舞った。
掴み上げた手を支点として宙にたなびいた白い布は、一瞬で水気を失って風の中をくるくると踊っている。
「おお、随分上手になったじゃん。もう干さなくてもいいんじゃねぇ?」
褒めてくるロイドに礼と笑みを返して、脇に設置された物干し竿へとシーツを誘導していく。そのまま精霊に頼んでシーツを物干しに引っかけて貰った。後は自分の手で皺を伸ばしつつ形を整えるだけだ。
「このままでもいいんですけど……今日はお天気がいいので。そのほうが温かくていい匂いがします。師匠、お日様の匂い大好きだって」
ふかふかのシーツで幸せそうに目を細める師匠の姿を思い浮かべ、きっと喜んでくれるに違いないと思う。正直、あまり共感はできないけれど。"お日様の匂い"はちょっと埃っぽいと思っているし、何となくそわそわして落ち着かない。ただ、師匠の感覚が一般的なものだと理解しているから、口にも態度にも出したことはなかった。
「お前……ほんとイイコだな」
飛ばないように手際よくシーツの端を留めていくその後で、ロイドがしみじみと言う。いつものことなので大して気にもならない。その声にからかう響きはないから、恐らく言葉通りの褒め言葉でいいのだろう。
「終わったか? なら一緒にいこうか」
「はい。……あれ、ロイドさんも師匠に呼ばれているんですか? また何かしたんです?」
「またってなんだよ。今回はなんもしてない、俺は無実だぞ」
心外だというように顔を顰めるロイドを見上げ、首を傾げる。
「だって先週は3人の女の人がきましたし……」
ロイドはトラブルメイカーである。特に女性関連が酷い。女性に無体を働くわけではないのだが、女好きなため二股三股を気軽に繰り返してしまう。そのため、女性に刺されそうになったのも数知れず。美人局で酷い目を見たのも数知れず。どういうことだと女性がロイドの職場であるここ――王立魔法院へ怒鳴り込んでくるのも、もはや日常風景だった。
「ああうん、それについてはもう怒られてきたから大丈夫」
大丈夫な要素がどのへんにあるのか疑問だが、それを指摘しても意味がないので口を噤む。
「俺は単に付き添いだろうな。今回の主役はお前だよ」
「僕?」
確かに今朝、午後になったら来るようにと呼ばれたけれども。
朝晩、むしろそれに限らず常に師匠の傍にいる自分をわざわざ「呼び出す」なんて珍しいとは思っていたが、気まぐれなどではなかったらしい。それほどの重要案件を思い出せず、首を捻る。
「もうすぐ14歳だろ。来年は成人だからな。意思確認っていうヤツじゃないのか」
言われてぱちりと瞬いた。
そういえばそうだった。設定上の誕生日は数日後に迫っている。年齢を気にするようになったのはここ数年だったから、咄嗟に思いつかなかった。何しろそれより以前の年齢など数えてもいない。
「お、その顔は忘れてたな。まったく、たまには羽伸ばせよ」
真面目に働き過ぎて忘れていたと思われたようだ。あながち間違いではない。とはいえ暇だったとして覚えていたとは思えないが。
「ほら、いくぞ」
ロイドが手を差し伸べて、ふらりと揺らす。手をつなぐぞ、の合図だ。
それに特に抵抗なく手を伸ばして、軽く握られる温度に胸の内が少し温かくなる。
人の体温は嫌いではない。昔は苦手だったそれも、ここで過ごすうちに抵抗なくなっていった。生きている、命の温度だ。
ただ、時々ふと思う。
人の14歳はそろそろ思春期というやつだろう。この手を繋ぐという「子ども扱い」にはそろそろ抵抗を示すべきなのかもしれない。普通は、恐らくそう。
それを理解しながらも、思春期らしく反抗するのは躊躇いがあった。ぬくもりを離すのが惜しい気持ちもあるし、それ以上に反抗期のような行動を取ることに後ろめたさもある。
演技であるから、尚。
ロイドと手を繋いで歩く、窓の前。
鏡のように磨き上げられた硝子には、平均的な体躯のロイドとその後を追う小柄な姿が映る。首のあたりでサラサラと揺れる金糸と、大きな緑の目。長めの睫毛にふっくらと丸みを帯びた頬は、まだ子どもの域を出ていないと強調しているかのようだ。少なくとも、14歳になろうという少年にしてはいささか頼りない。
かつてなら軟弱だと顔を顰めそうなその容姿だが、今は結構気に入っていた。
頼りなく弱々しく、とても無害にみえる。
同じ師を仰ぐ仲間、もとい兄弟子たちからも「天使のよう」と評判が良いのだ。師匠は容姿で差をつけるような人物ではないが、それでも手触りが良いのだとよく頭を撫でてくれる。それだけでもこの容姿は十分に価値があった。
いつまでも天使のような姿でいたかったが、成人ともなればそうも言っていられない。前を行くロイドのように、いつかは男性らしい背格好になるだろう。そうなっても、師匠や兄弟子たちは可愛がってくれるだろうか。――答えはきっと否だ。
成人し一人前と見なされれば、相応に厳しく扱われる。
対等に扱われることは嬉しい。認められることは誇らしく、とても良いことだ。けれどこの手の温もりが与えられなくなるのは、やはり惜しい。
「どうした? 元気がないな」
無言で進むこちらに気付いたのか、ロイドが気遣う声を投げてくる。
「……すこし、考え事を」
「緊張してんのか? お前あれだけ威勢良く言っといて、今頃怖じ気づいてんのかよ」
「違います!」
「じゃあどうした。お前がやっぱやめるって言っても、師匠は怒らねえぞ。むしろお前にやめるように説得するつもりかもしれんし」
「いやです、やめません。僕は師匠の役に立ちたい」
魔法士としてはまだまだ半人前。小さな精霊にようやく「お願い」をきいて貰えるようになっただけの、ほんのひよっこだ。兄弟子たちにの足元にも及ばないし、師匠に至ってはもはや雲の上にも等しい。
師匠や兄弟子たちは、不定期に旅に出る。
場所や期間、時期は変則的だ。年に数回、近場の街を巡ることもあれば、一年間全く動かないこともある。かと思えば、旅立ったきり半年以上も戻らないこともあった。
すべては魔族の動き次第。
人と魔族が戦いを始めたのはおよそ千年前と言われている。小さな部族ごとの小競り合いが村ごと町ごとと規模が大きくなり、今は多くの人間の国家が協力して魔族の軍勢と戦い続けている。
中でも、最も戦場に近い国がこの『アンヘルム王国』だった。
魔族の軍勢は頻繁に国に攻め入り、そのたびに騎士団や冒険者、そして国の誇る勇者たちが退けてきた。師匠は、国が擁する7人の勇者のひとりだ。
魔族の侵攻の一報があれば、師匠は他の勇者たちと共にその地に向かう。勿論、向かうのは勇者たちばかりではない。王国の軍隊や、各領地の精鋭を集めた騎士団、勇者たちがそれぞれ所属する組織の有志がそこに加わる。過去にも、師匠の指揮のもとに兄弟子たちが複数名参加していた。
何度自分も連れて行ってくれと主張しただろう。役立たずだと分かっていたけれど、師匠が戦地にいくのに安穏としていられなかった。荷物持ちでも何でもやるから、連れていって欲しいと懇願した。
だが師匠が首を縦に振ることはなかった。苦い顔で絶対に駄目だと言い切り「成人までは我慢しなさい」と言った。成人したらちゃんと検討するからと。
その年齢を、あと一年先に控えている。
魔族の侵攻は予測がつかない。一年先とはいえ、時間があるうちに「きちんと」話をするつもりなのだと思った。
きっと、師匠は諦めろと言うに違いない。
何しろまだ初級程度の魔法しか使えない、未熟者。そんな子どもを戦場に放り込んだところで、足手まといになりこそすれ、盾の役割すら果たせないことは経験上知っている。
自分が指揮官なら、寝言は寝てから言えと蹴り出すレベルだ。
それでも諦めるわけにはいかない。
「あと……僕は師匠の魔法が見たいんです」
「は? いつも見てるだろ」
「そうですけど……ずっと憧れてるので」
天空に描かれた巨大な光の魔法陣。繊細で緻密な文字と式。光を纏って揺らめく、蒼い魔力。一瞬にして頭上に描かれたあの魔法陣に、魂ごと魅せられた。
文字通り全身を貫いた灼ける熱と痛みを、今でもありありと思い出せる。
あの瞬間、世界が弾けた。
何もかも色褪せて、ただ生きるだけだった生に、初めて色がついた。
そうなってはもうかつての生活には戻れなかった。戻りたくなかった。
この広く美しい世界を楽しもうと決めた。
血と灰と炎ばかりの日々に飽きていたのだと、そう気付いたから。
「師匠のように素晴らしい魔法士になりたいんです」
「おう、お前ならなれるよ。頑張りな」
繋いでない方のロイドの手が伸びて、くしゃりと髪を混ぜられた。少し乱暴なそれにぐらぐらと首が揺れる。
「ろ、ロイドさ、」
「まだ一年はあるんだ、気負いすぎるな。どんな超人だって一足飛びに上達しやしねぇんだよ」
「……はい」
「それよかお前、もうちょい食え。いくらガキだっつっても細すぎる。魔法士も体力勝負だって知ってるだろ」
繋いだ手を引き寄せられ、じろじろと観察される。さすがに居心地が悪く、視線が泳いだ。
「えと、はい、知ってます。ちゃんと食べてますよ! ちょっと成長期が遅いだけで……」
むしろ成長期は来て欲しくない派だったりするが、言うわけにもいかない。その理由が「皆に可愛がられなくなるから」などとは口が裂けても言えなかった。
「14歳か……うーん、ちょっと遅いな。よし、師匠に言って身体強化の鍛錬も修行に加えて貰おう」
「えっ」
「安心しろ。魔法士向けの鍛錬はあるんだ。まあ元々師匠がやってたやつなんだが……」
師匠は魔法士なんて職業の割に脳筋である。仕事の合間に運動不足解消の名目で身体強化の鍛錬――要は筋トレをしているのは知っていた。実技の指導でも「杖は鈍器になるものを選ぶように」と穏やかな笑顔で言っていたこともある。
そんな師匠監修の筋トレメニューなど、信頼はできるが安心はできない。
マッチョになる気は欠片もないので。
「ああああの、ロイドさん! 筋ト、鍛錬はちょっと早いというか……ほら! 過剰な運動は成長を阻害するらしいですし!」
「大丈夫大丈夫、そのへんも師匠とちゃんと相談するから」
「大丈夫じゃないですー!!」
ロイドの隣に並んでやめてくれと縋り付くが、ロイドは快活に笑って取り合わない。彼も大概脳筋である。恐らく師匠の脳筋が伝染ったのだ。
脳筋思考は伝染病らしい。そろそろ自分も感染しそうで怖いなと思考して、内心笑った。
弟子入りして、人真似をして、なんだか理知的なオトナになった気でいた。
けれど、本来の性格は決して理性的なタイプではない。
どちらかというと脳筋寄りだろう。
力と恐怖で周りを従えて、ただ言われるがままに力尽くで全てを破壊してきたのだ。
意思のない人形、心ない冷血王子。
――『死炎の邪竜』
それが、かつて『俺』に付けられた二つ名だった。