雪解けキッス 1/2ページ
就職先も一応決まり、卒業に必要な単位も取り終わった。
大学生としては最後の春休み。気持ちよく卒業を迎えたいのだが、秀一にはいまだに決断できないわだかまりがあった。
それは、咲希といまだにキスをしたことがない。
咲希とは、幼馴染で、中学の頃から付き合い始めた。ハグや手をつないだりした経験は数えきれないほどあるが、キスだけは俺から拒絶してきた。
もう時間がない。
咲希と就職先が異なって、なかなか会えなくなるということもあるが、俺達の仲が終わりに近づいている。なぜキスをしてくれないのか、本当は嫌いなのでは、と疑っているのである。
咲希の気持ちはごもっともだ。
だが、俺にはできない理由があった。
チャイムが鳴った。気づけば亮輔と約束した時間になっている。
秀一は、飲んでいた缶ビールを流しの隅に置いて、玄関に向かった。ドア先に立っていた亮輔の両手は、大きく膨らんだ買い物袋でふさがれていた。
「おい、俺がこんな苦労して買ってきたのに、先に飲んでんじゃねぇよな?」
重くて、亮輔の両手が震えているように見えた。
「お、おう」
アルコールの匂いが口から出ないように、鼻で呼吸をする。
何事もなかったような顔をしながら亮輔を招き入れたのだが、流しの側を通ったとき、がっかりする声が背後から聞こえてきた。
秀一はワンルームのマンションに住んでいる。
昼間は大学で過ごして、夜はラーメン屋でバイト。まかないで腹を満たすこともあれば、帰りにコンビニで夕飯を買って帰ることもある。キッチンは狭いが、たまに自炊をするだけだし、家賃も安くすむのでワンルームを選ばない理由はなかった。
亮輔は、クッションの上で胡座をかきながら、折り畳み式のテーブルに買ってきた酒を並べていた。
「今夜だけでこんなに飲めるかよ」
「あまったら冷蔵庫に入れて、次の日にでも飲めよ」
「じゃあ、ありがたくもらう」
俺も亮輔も、酒にはめっぽう強かった。
「野菜炒め食うだろ?」
秀一は、亮輔が来る前に適当に作った肉のない野菜炒めを、大皿に盛りながら言った。
「お、秀一の野菜炒めうまいんだよな」
「そうそう、俺はこういうの作るのうまいんだ」
もやしで埋め尽くされた皿を、亮輔の前に置いて、秀一も胡座の姿勢になる。早く飲ませてくれと、亮輔が駄々をこねているので、とりあえず缶ビールで乾杯することにした。
交わしてもグラスのようないい音は鳴らないので、掛け声だけは大げさにやる。
「あれ? この野菜炒めさ、肉ないし、もやしばっかじゃない?」
「そうだよー」
「まじかよ。……でも味はうまいからいいや」
亮輔の口元からシャキシャキと音が鳴っていた。そして、うまい、うまいともやしを箸でつつき、二缶目のビールを飲み始めていた。
「あれ、やってくれよ」
「……まじ? まあ、そう言うと思った」
亮輔は一気に飲み干すと、子供が物欲しがるような表情をする秀一に、にやりと笑った。
「あれ見ると、俺、元気が出るんだよなあ」
「しょうがねえな」
亮輔は、缶をテーブルに置くと、両手を下に広げて目を閉じた。大きく深呼吸を数回繰り返す。
すると、だんだんと部屋中に重苦しい空気が漂い始めた。突然テレビが勝手に付きノイズが入る。さらにはテーブルの上の皿や缶も揺れ始めた。
そろそろ来るぞ。
「ワ…タ…シ、キレイ?」
決め台詞を言った後、亮輔は両方の人差し指を、自身の口の両横に引っかけた。そして、耳もとに向かって強く引っ張っる。ビチビチと、筋が切れるような音と、獣のような唸り声をあげて、ついに両方の人差し指が、耳もとまで届いた。ゆっくりその指をぬくと、先端が真っ赤に染まっている。
「おい、シュウイチ! 何度もやんねえぞ。よーく見とけよ!」
「おう、頼むぜ!」
割けた口もとから滴る血を見ながら、秀一は興奮していた。
ガンガンとベランダの窓が強く揺れ、台座にのっていたテレビも暴れていた。ラックから本やCDも落ちてきそうである。
目を血走らせ、亮輔は右手で上あごを掴むと、骨のきしむ音を響かせながら、ゆっくり持ち上げていった。下あごはそのままで、目線が天井の方を向く。大きな口内が、秀一の目の前にあった。
これなら、俺を一口でやれるだろうな。
「はい、これ」
秀一は、口元についた血を拭き取るよう、しんどそうな顔をした亮輔に布巾を手渡した。
「疲れた――ッ」
亮輔は甲高い声をあげながら顔を強く拭いていた。
亮輔とは、中学生のときに知り合った。初めて顔を合わせたときの印象は、暗いやつで、あまり友達はいないように感じた。だが、なんだか口には出さなくても、互いの心が通じ合う何かがあった。家族共々に交流が深くなると、ある日、俺達の隠し事を話すときがあった。
それは、俺は雪女で、亮輔は口裂け女の末裔だった。
もちろん、それを聞いたときは、俺も亮輔も驚いたが、正直、同じ境遇のやつがいて本当にうれしかった。
妖怪は存在する。もう往年のことだが、普通に民家の家に出て、一緒に食事を取り、仲良くしていた時代があった。中にはその住民に恋する妖怪もいて、逢いに通い、遂には結婚して子を産むこともあった。だが、そうやって人間との混血を繰り返していくと、次第に血筋が弱くなっていく。そうなると妖力も弱まり、昔だったら簡単に口を裂けられたことが、今回の亮輔のように、指で引っ張らなければならなくなってしまった。このまま繰り返せば、いつかは普通の人間に戻ってしまうのかもしれない。
飲んだり食ったりしてだいぶ時間が経った。互いに酒はオレンジジュースだという仲だったが、テーブルや床に散乱した缶の量から、流石に酔いがまわり始めていた。
「そ、そういえばさ、まだ秀一の悩みを聞いてなかったじゃん」
「うん……なかなか言い出せなくてさ」
「俺が当ててやろっか?」
頬を赤くさせて、亮輔は薄笑いを見せていた。
秀一は、缶を口元に付けながら視線を送る。
「咲希のことだろ?」
「……」
ピタリと的中してしまう。
秀一は缶を口元から離して一見したあと、勢いよく一気に飲み干す。空になった缶を机に置くと、頭がふわりとした。
「……うん」
「だろ。で、どうした?」
亮輔は、机に両手を置いて身を乗り出していた。
「もしかしたら、俺ら別れるかもしれない。咲希が疑ってるんだ。本当に好きなのって」
「ふーん。……俺も咲希と同じクラスだったけど、秀一と咲希は中学のときから付き合ってたよな。こんなに長く付き合っているのに、今更何を疑うんだよ」
「……俺、咲希とキスができないんだ」
「すればいいじゃん。キスぐらいよ……」
再び胡座の姿勢に戻すと、次は何を飲もうか机の上を見回していた。
缶や瓶を持ち上げて銘柄を確認する亮輔を、秀一は睨みつける。
「わかってねえな!」
「……え、なにが?」
亮輔は驚いた表情をしながら振り返る。
その顔に向かって、秀一は右手人差し指を突き出した。
「い、イーティー?」
あの映画のワンシーンでもやるのかと無遠慮に笑い、亮輔も同じように突き出した。
その瞬間、秀一は亮輔の手首を掴み引き寄せて、自身の唇にくっつけた。
「なっ……冷たっ! 凍る!」
亮輔はとっさにその手を引っ込める。
「俺、どうしても唇の温度だけコントロールできないんだ。絶対、咲希も驚くから」
「冷てぇ……。これじゃ、冬にキスはできねぇな。夏なら冷たくて喜びそうだけど」
軽い笑みを浮かべながら、秀一の唇に触れた人差し指の先端を、反対の親指でしきりにこすっている。
秀一の視線は、空になった皿に向いていた。
「……そうだなあ、正直に言ったらどうだ。俺は雪女の一族だって」
そう言う亮輔に、秀一は何も答えなかった。
……正直に言えたら悩んだりしない。
俺の一族の掟では、人間に自身の素性がバレた場合、知った相手を殺すか、あるいは縁組をするしかない。縁組と言ったって、判子を押して役所に提出するという単純な話ではない。代々伝わる雪女のエキスが入った秘伝の水を飲み、俺のように妖怪になってもらうのである。
だが、万一できなかった場合、掃除班というやつらが、バレた者と知った者の両者をあの世に葬り去る。
「もし、正直に話して、咲希が雪女になることを断ったら……。俺、別れたくないし、咲希のことを手にかけたくないんだよ……」
咲希のことを考えれば考えるほど、どうしようもできない自身に悔しさを感じて、何だか急に涙がこぼれてきた。
「……適当なこと言ってごめん。秀一の一族は、掟に厳しかったんだよな」
「……いや、気にしないでくれ」
「ほんとごめん」
互いに酔いが覚めてしまって飲み直したが、どんなに飲んでも気分が良くなることはなかった。