8、引きこもりの侯爵令嬢と婚約者候補
本気のタバサによってイリーナはパーティーに出席してもおかしくないほど完璧な装いへと磨き上げられた。王子の隣に立っても見劣りしないというのは仕上げた本人からの感想で、とても満足そうである。
誕生日から数日が過ぎた中庭の庭園は新しい蕾を付け始めている。これからは庭になら出てみるのも悪くないかもしれない。そんなことを思いながらイリーナは外の空気を満喫していた。
一人になりたいからとタバサの付き添いを断り、バラのアーチを潜る。噴水を背景に見上げる侯爵邸は物語に出てくるお城のようだ。
(本当に私、ゲームの世界に転生したのね)
魔法はないけれど、平和な世界に生きていた頃が懐かしい。
(魔法がなくてもあの頃の私は幸せだった。でも今は、毎日が怖い)
魔法が使える世界。食べ物は美味しい。侯爵令嬢という身分。お姫様にも見劣りしない容姿。平凡だったあの頃からすれば夢のような人生だ。なのに怯えて引きこもるだけなんて悲しい。早く十七歳になってシナリオなんて過ぎ去ってしまえばいいのに。
「お嬢様!」
庭園を散策していたイリーナはタバサの呼びかけに振り返る。お茶の支度が出来たと声を掛けてくれたのだろう。
「ありがとう。今い――」
ところが振り向いた先に佇んでいたのはアレンだった。
「イリーナ」
「ひいっ!」
恐怖に顔を引きつらせ、飛び上がるほど驚いてしまうのも無理はない。どうしてそこにアレンがいるのか。疑問たっぷりの眼差しにアレンは答えた。
「君に会いに来たよ」
朗らかに言うアレンに目眩を覚えた。庭を歩き回っている姿を見られては体調が悪いとも言い訳出来ず、タバサによって支度されたティーセットを前にアレンとお茶をする羽目になってしまった。やはり迂闊に外に出るべきではなかったと後悔する。
「その髪飾り、良く似合っているね」
目敏く指摘されたイリーナはたじろぐ。タバサが言った通り、本当にこの髪飾りには呪いがかけられているのかもしれない。
イリーナは引きつる口元でなんとか笑顔を作った。タバサによって用意されたクッキーがどんなに美味しくても心が晴れることはない。
「君はクッキーが好きなのか?」
手を止めることなく食べ続けていたので誤解されたらしい。特別好きというわけでもないが嫌いでもないお菓子だ。じっとしていると落ち着かないので手を動かしてしまう。なのに勘違いしたアレンは見当違いなことを言った。
「次はおすすめのお菓子を贈るよ」
何故? というのは純粋な疑問だった。
「アレン様、私はもう誕生日のプレゼントをもらっています」
「誕生日のプレゼントが一つなんて誰が決めたんだ?」
「私は一つだけで嬉しいです」
「そう、喜んでもらえているんだね。良かった」
(どうしてそうなった!?)
誘導のような会話に緊張して言葉を返せない。あとはただ、早くこの人が帰ってくれることを願うのみと、無心になってクッキーをかじり続けた。
「その髪飾りはお守りにもなるらしい。それが君の身を守ってくれることを願っているよ」
(嘘! この髪飾り多分呪われてます!)
だが相手にしては負けである。こうして大人しくしていればアレンも諦めて帰るはずだ。紅茶を飲むイリーナは無心を決め込んだ。
あれこれと話題を変えて居座るアレンも、お菓子が尽きる頃にはようやく席を立ってくれる。
「それじゃあイリーナ。またね」
「また?」
(またって言った?)
髪飾りを忘れるなという脅しだろうか。抜き打ちチェックのお知らせである。
イリーナは去りゆく背中を睨み付けるも特に効果はなく、アレンは優雅な足取りで帰路に就いた。
~☆~★~☆~★~☆~
その宣言通り、アレンは定期的にバートリス家を訪ねるようになった。元々オニキスに用がある時は訪ねていたが、以前よりも頻度は増したように思う。それはオニキスへの訪問であったり、イリーナ個人を指名されることもあった。
そのうちの何度かは体調が悪いと言って誤魔化したが、散歩中や読書中に襲撃されては逃げ場がない。結局イリーナは常に髪飾りとともに過ごすようになり、いつしかタバサも指示を出す前に慣れた手つきでセットするようになっていた。
「今日も本を読んでいるのか。イリーナは勉強熱心だな」
何故向かいの席に座る。何故話しかけてくる。言いたいことはたくさんあるのに、見つめられているだけでも心臓に悪い。
「たくさん勉強しないといけないんです」
だから早く帰って欲しいと訴えた。
「オニキスから君が部屋に閉じこもって出てこないと聞いた。部屋でも本を読んでいるのかな?」
「気分の良い時はですけど」
本当はずっとだけれど、体調が悪いという設定も忘れてはいけない。
「そんなに急いで学ぶ必要はないと思うけどね。俺たちはいずれ学園に通うことになるんだ。学園でも魔法は学べる」
「私には時間がないんです」
薬の開発に残された猶予は十七歳、魔法学園の入学式までだ。
「だが今この時も一度しか訪れはしないよ。同じ年頃の令嬢たちは外で遊んでいるけれど?」
「アレン様。父様と母様に何か言われたんですか。もしくは兄様に?」
引きこもるイリーナを見かねて両親がアレンに頼んだのかもしれない。たとえば娘を外に連れ出してほしいとか。アレンのいうことなら聞くと思われているのなら心外だ。
けれどアレンの反応には手ごたえがない。
「いや、何も。ただ君のことが気になってね」
「遊び相手が欲しいのなら他を当たって下さい」
「俺は遊び相手が欲しいわけじゃないよ。君のことを心配しているんだ」
「心配されるようなことはありません。ここにいれば私は安全なんです」
「外に出たいとは思わないの?」
「思いません。外は、怖いので」
「怖い?」
「危険がいっぱいなんです」
諦めさせるためだからと情けないことを言ってしまった。だが問題はないだろう。いずれアレンもイリーナに飽きて姿を消すはずだ。お見舞いの手紙が一枚、また一枚と減っていったように、アレンもそのうちイリーナを訪ねることをやめるだろう。
「ならいつか、外に出たいと思う日が来たら俺を呼んで」
「どうしてですか?」
「外は怖いんだろう? 怖いものから俺が守るよ」
目を丸くするイリーナにアレンが微笑み念を押す。本気か嘘かを読ませない笑みはこんな時に厄介だ。どう受け取ればいいのかまるでわからない。
「大丈夫です。思いませんから」
けれど少し冷静になって考えればわかる。きっとそんな日は訪れない。だからイリーナはいつもと変わらない調子で答えた。