2、攻略対象襲来
(怖い、怖い! アレン様が怖い!)
イリーナは蒼白になりながらも庭園を駆け抜ける。ところが角を曲がると冷静さを欠いていたせいで人とぶつかってしまった。相手は自分と同じ年頃の男の子だが、先に体勢を立て直した彼が手を取って助けてくれた。
「大丈夫!?」
前を見ていなかったのも、庭を走っていたのも自分だ。それなのに先に謝られては申し訳ない。背後にアレンの姿がないことを確認してイリーナは謝った。
「ごめんなさい。急いでいて、きちんと前を見ていなかったの」
ところが相手の男の子はイリーナに非があるにもかかわらず、柔らかな空気を変えることはなかった。
「僕は平気ですよ。お嬢様に怪我がないのなら良かったです。それに、こうして会えて良かった」
イリーナがぶつかった相手は薄いシャツにズボンという軽装で、明らかにパーティーの招待客ではない。イリーナをお嬢様と呼ぶのだから、屋敷で働く誰かの息子だろうか。
(そういえば、庭師の息子が私と同じ年頃だと聞いたわ)
遠くからではあるが、父の手伝いをしているのを見たことがある。そんな彼が何故イリーナに会えたことを喜ぶのだろう。
「会えて良かったって、私に?」
「はい。僕もお嬢様にプレゼントを渡したくて! 僕、庭師ヘンリーの息子でジークっていいます。パーティーには出席出来ませんが、僕もお嬢様をお祝いしたかったんですよ。お嬢様、誕生日おめでとうございます!」
言葉と一緒に差し出されたのは小さなスミレの花束だ。結ばれたリボンが子どもらしくて可愛い。
「この花、僕が育てたんです。お嬢様に似合うと思って摘んできました」
「ありがとう」
あのプレゼントの後だ。花束のプレゼントが平和的に思えてイリーナは深く考えることなく受け取っていた。
小さな花を集めた素朴な贈り物が微笑ましい。微笑ましいが、その様子を見つめていると何かを思い出しそうになる。
「……ジーク? 貴方、ジーク・ライオット?」
「驚きました。お嬢様、僕の名前を覚えていてくれたんですね」
驚きと喜びに頬を染める姿を前にイリーナはごくりと唾を呑む。覚えていたというか、知っていた。
ジーク・ライオットは攻略対象の一人。精霊に憧れて学園に通う、誰にでも人当たりの良い好青年だ。貴族ではないジークは主人公にとっても親しみやすく、等身大の同級生として交流を重ねていた。
(確かにジークの父は貴族の屋敷で庭師をしていたと語られていたけれど。だからってなんでうち!?)
この世界にどれだけ貴族の屋敷があると思う。何故よりにもよって悪役令嬢の実家か。
「まさかお嬢様に名前を呼んでもらえるなんて、僕とても嬉しかったです。僕の方がプレゼントをもらってしまいましたね。後で父さんにも自慢します!」
たった一言名前を呼んだだけなのに、ジークはとても嬉しそうだ。まさかイリーナが庭師の息子の名前を記憶しているとは思わなかったのだろう。ゲームでのイリーナはプライドが高く、貴族とそうでない人への態度の差は歴然としていた。
(ゲームでは特に接点はなかったと思うけど……はっ!)
イリーナはジークのエンディングを思い出す。
ジークルートで主人公は永遠に目覚めることのない呪いを受ける。もちろん呪いの元凶はイリーナで、本人もまた夢の世界を彷徨い続けることになるのだが。
けれど主人公はジークと精霊の力を借りて目を醒ます。目覚めた先で微笑む最愛の人は最後に見た姿よりも少し大人びていて、主人公はジークの愛に微笑みをもって応えるのだ。
そしてバッドエンド。呪いを破ることは叶わず、眠り続ける主人公に花を手向けるジークの姿が描かれていた。主人公を見下ろす眼差しに込められた想いとは? 最後に見せた微笑みの正体とは?
目覚めることのない主人公をそれでも愛し続けるという覚悟か。あるいはこれで君は僕だけのものになったという歓喜か――というのは未だにファンたちの間でも論争が繰り広げられている。
(この花はあの時主人公に手向けていた花と同じ! つまり、お前も主人公のように永遠の眠りにつかせてやろうかということ!?)
ジークは日常の象徴のような攻略対象だった。だからこそ異常を感じさせるシナリオにファンは動揺した。彼が純粋な人だったからこそ、狂気を感じさせたのだ。
とたんに目の前で無害そうな笑みを浮かべるジークの表情が読めなくなった。
「わ、私は、永遠の眠りになんてつかないからー!」
「お嬢様!?」
縁起でもない。イリーナはまたしてもその場から走り去っていた。
(この短時間に二人も攻略対象と出会ってしまうなんて!)
誕生日だけど厄日だ。イリーナは迂回し、正面から玄関へと向かった。
門番たちは外から走って現れた主役の姿に驚いていたが、イリーナは扉の開閉を急がせた。
「扉を開けて! 早く!」
だが何かに追われるような慌てぶりがかえって大人たちを混乱させてしまう。
「イリーナ様!」
そうしているうちにイリーナを呼び止める者が現れた。相手が格上の家柄であった場合、無視をしては失礼にあたるため、イリーナは貴族としての矜持でなんとか振り返る。
真剣な眼差しでこちらを見つめる男の子は小さく震えていた。その表情は明らかに不安そうで、今にも泣きだしてしまいそうだ。
「俺、あ、いえ、私はエルマ家の、マリス・エルマと申します。イリーナ様におかれましては本日も大変お美しく、誕生日のお祝いに駆けつけられたこと、心より嬉しく思います!」
遅れてやって来たのだろう。マリスは本日初めてイリーナに会うという挨拶を披露した。それも誰かの言葉を借りたような文面で。
「マリス・エルマ?」
その独特の容姿には覚えがあった。ふわりとした茶色の髪は襟足だけ赤く色づいている。
名前を覚えてもらえたことが嬉しいのか、マリスの緊張は解れたようだ。けれどイリーナの顔はますます青くなる。またしても攻略対象が目の前に現れたのだ。
マリス・エルマは伯爵家の生まれで主人公の級友。自分にあまり自信の持てないマリスだが、主人公と出会うことで自分を信じられるようになっていく。
最初こそ自分が世界一哀れだと思っているマリスだが、ゲームの最後で彼が哀れだと言うのはイリーナだ。愛する人のいない、愛されることのない可哀想な人だと。
(こんな震えた小動物のような態度をして、最後には私を哀れむのよこの男は!)
「お祝いの言葉、ありがとうございます」
イリーナは当たり障りのない返答をして扉を開けさせた。
「お待ち下さい! イリーナ様!」
「話は済みましたよね!?」
追いすがられたイリーナは必死だった。しかし負けじとマリスも追いすがる。
「待って下さい! あの、母が、イリーナ様と仲良くするようにと!」
マリスの母は侯爵家との繋がりを欲しているらしく、息子への教育は徹底しているようだ。だがイリーナには親しくするつもりはない。
(誰が攻略対象と関わるものですか!)
決意は固かった。
「大丈夫! 私たちとっても仲良しよ! だってほら、私たち、もうお互いの名前を言えるわ。それでね、私とても急いでいるの!」
立派な顔見知りである。これで彼が母親からお叱りを受けることはないだろう。またどこかのパーティーで顔を合わせることがあれば知り合いくらいの顔はしてやるつもりだ。だから解放してほしい。
イリーナは扉の隙間からエントランスへと駆け込む。ところがマリスが追いかけてくるのは予想外だった。
(なんでついてくるの!?)
大人しそうに見えて動きは俊敏らしい。イリーナは追いつかれまいと夢中で目の前に見えた階段へと向かう。ここさえ登りきればその先にあるのは家族だけのプライベートなエリアだ。
しかしイリーナの前に現れた人物は、立ちはだかるように進路を阻む。
感想ありがとうございました! とても嬉しかったです。
評価、閲覧、お気に入り、本当にありがとうございます。引き続き、励みに頑張ります!