10、幼女になります!
どろり――
ビーカーの中、音もなく液体が揺れる。それは人が飲むとは思えない泥水のような濁った色をしていたが、イリーナの眼差しは美酒を前にするかのようだった。
「ふふっ……私、天才じゃない? 知ってたけど!」
アレンの前では怯えて悲鳴を上げるばかりのイリーナも自らの功績の前では威勢がいい。
「いよいよ計画を実行に移す時が来た。この日を待ちわびたわ」
注がれる眼差しには長年の悲願成就を目前に控えた喜び、そして自身の天才的な功績への称賛が込められている。
「そう、これこそが私の導き出した破滅回避の答え!」
――いざ!
腰に手を当ててからの一気飲みという、令嬢らしからぬ煽りっぷりである。何しろこの見た目だ。正気になっていたら飲めたものではない。
最後の一滴まで飲み干すと手からビーカーが滑り落ちる。喉を押さえてのたうち回り、机の資料を巻き込みながらイリーナは倒れ込んだ。
「まっっず!!」
内側からわき上がる衝動にもがき苦しむ。前世も含め、未だかつてこれほど不味いものを摂取した記憶はない。
(えぐい渋みからの舌を焼く辛みに飲み干しにくいとろみ!)
我ながら大変な物を開発してしまったと思う。前世に存在した青汁を軽く凌駕する飲みにくさだ。次に何を食べても同じ味に染められるような絶望感と、今後美味しいご飯が食べられるかという不安がつきまとう。
それでもイリーナは最後まで飲み干した。舌は「これやばい!」と訴え続けていたが、涙目になろうとこれが運命を変える鍵になると信じていた。
もう一年猶予があれば無味無臭に改良できたかもしれないが、運命の時は迫っている。これ以上、研究に猶予は残されていなかった。
「うっ……?」
絶望的な味わいに身体を支配されていると、奇妙な目眩に襲われる。見慣れた研究室の景色がぐるぐる回り、机に縋り付いても立っていることが難しくなった。苦しみや苦痛は感じないが、ただひたすら世界が回っている。
崩れ落ちるように床に倒れると、まるで時間が巻き戻るように幻を見ていた。これが走馬燈ではないことを祈ろう。
~☆~★~☆~★~☆~
長い夢を見ていた。悪夢のような運命を悟ってからの、血の滲むような努力の日々を。
「ううっ……」
声帯は潰れていなかった。それもうめき声を上げられるだけの力はあるようで安心する。
(私、完成した薬を飲んで……?)
落ち着くまで目を閉じて不快感をやり過ごしていると、一分ほどで症状が止まる。今後の改良のため、経過観察にも抜かりはない。
仰向けの状態から手を伸ばすと、伸ばした手は自分のものとは思えぬほど小さかった。
「やった!」
イリーナは起き上がり、身体にまとわりつく衣服を引きずって進む。やがて歩くのが面倒になり、這いずって鏡の前までたどり着いた。
そこに映っているのは十七歳の少女ではなく、六歳ほどの幼女だ。思わずぺたぺたと顔をさわってしまう。
「うそ若い! 研究続きで寝不足の肌はつやつやだし、目つきの悪さに拍車をかけてたクマも消えてる!」
等身は縮み、瞳は大きくあどけない。
「けど、やっぱり魔力の巡りは悪くなってる」
試しに魔力を掌に集めてみるが、十七歳だった頃よりコントロールが悪くなっている。
「この身体だと大きな魔法は使えないかな。でも!」
勝った――
イリーナは小さくなった拳を突き上げた。
「ここからは私の演技次第ね」
にやり……
その表情はとても幼女が醸し出せる邪悪さではなかった。
~☆~★~☆~★~☆~
イリーナは割れたビーカーの破片を踏まないように注意して部屋の外へと向かう。慎重に扉を開け、外の様子を窺ってから屋敷のエントランスへと歩いて行った。
「あ、あ、あー」
軽く発声練習をしてから、存在を主張するため大声で泣き喚く。
うわぁぁぁん!!
屋敷中に響いたであろうその声に、異変を感じた大人たちが集まって来る。何故ならこの屋敷に幼い子どもはいないのだから。
「何事です!?」
最初に駆けつけたのは屋敷を統括している執事だった。それから侍女のタバサと、屋敷で働く人間たちが次々と顔を出す。
「この子は……」
しかし誰もがサイズの合わない服を着て泣きわめく子どもに困惑していた。その後ろから遅れて現れたのは屋敷の主人たちだ。
「なんの騒ぎですか」
イリーナの母オリガが優雅に足を運ぶ。その背後から姿を見せた父ローレンも同じことを言った。
しかし誰も答えを持ち合わせていないため困り顔を浮かべるばかりだ。彼らを代表して主人の質問に答えたのは信頼の厚い執事だった。
「それが、私たちにもわからないのです。声に駆けつけたところ、この子が泣いていたのですが」
「子どもだと?」
「あなた待って!」
オリガは不審な眼差しを向ける夫の横をすり抜けイリーナの前で膝を折る。そして改めて確認するように顔をのぞき込んだ。
「この髪飾り、それにこのドレス……貴女まさか、イリーナ!?」
「なんだと!?」
オリガの言葉に動揺が広がる。
イリーナは推測が当たっていることを示すために頷いた。
「魔法の薬、失敗しちゃったの……」
あらかじめ差しておいた目薬を手の甲で拭いながら幼く言葉を繕う。
「魔法の薬? 薬って、貴女まさか、魔法でその姿になったというの!?」
オリガが驚愕の声を上げると周囲にもどよめきが走る。
「馬鹿な! 若返る魔法など聞いたことがない!」
ローレンの言葉にイリーナはその通りと内心笑顔を浮かべていた。魔法省で働くローレンが宣言したことで信憑性はぐっと高くなる。
「でもあなた、こんなこと他に説明がつかないわ! それにこの子の髪飾りはイリーナが大切にしていたものと同じよ!」
(別に大切にしてたわけじゃないんですけどね!?)
どうしても物申したいイリーナであった。
どこにしまっても枕元に現れるいわくつきの髪飾りだ。大切にしなければこっちが大変な目に遭うからと敬意を持って接していることを知ってほしい。結果的に身分証明の役に立ったのならいいけれど。
ローレンは未だに信じられないという顔でイリーナがこもっていたという部屋を調べに向かった。知識がある分、他の人よりも信じ難いのだろう。学園に通ってもいない十七歳の娘が若返りの薬を完成させたというのだから。
執事に案内されたローレンが目にしたものは、変わり果てた倉庫と膨大な魔法の研究資料だった。
研究室から戻ったローレンはオリガに抱きしめられた娘の前に膝をつく。
「イリーナ、元に戻る薬はあるのか?」
幼くなった効果か、険しい表情を浮かべながらも怖がらせないようにと振る舞っていることが感じられた。
「ない……」
イリーナはしゅんと眉を下げて見せる。
(なんてね! もちろん元に戻る薬は作ってありますよ。私天才なんで!)
実は解除薬を作るのは若返りの薬を作るより簡単だ。込めた魔法を片っ端から打ち消す作用を集めればいい。元に戻る薬はキャンディ状にしてすでに部屋に隠してある。
けれど薬を使うのは主人公が学園を卒業してからと決めている。それまでは幼女のふりをしてシナリオをやり過ごす作戦だ。誰も悪役令嬢が幼女だとは思うまい!
「あぁ、なんてこと……!」
娘を抱きしめ愕然とする妻を支えるようにローレンが寄り添った。
「とにかく今後について話し合う必要がある。みな、このことは他言無用だ」
「かしこまりました」
「誰か学園に使いを。オニキスに至急帰宅するように伝えてくれ!」
ローレンが指示を出したことで止まっていた時が慌ただしく動き出す。
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また後程更新予定となりますので、続きもお楽しみいただけましたら幸いです!




