133KOBAYASHI
小林家には秘密の地下室がある。
といっても、そこは道場になっており主に母親のトレーニング場と化している。
グシャぁ。
普段母以外に立ち入らぬ場所に、二つの影があった。
小林家長女綾香、小林家次女ユリカである。
二人はお互い切れ切れの息で、口からは血を流し、目には痣を、頭にはたんこぶを作りながら殴り合っていた。
グシャぁ。
互いの拳が頬にめり込む。
もうフラフラであるのに、二人は何度でも体勢を立て直すと再びファイティングポーズを取っている。
これは罪滅ぼしであった。
イヴが記憶を失ったのには小林家に責任がある。
二人ともがそれを実感し、二人ともがその心に大きすぎる十字架を背負っていた。
(そもそも私が別荘に行こうなんて言わなければ――イヴは記憶を失わなかった!)
綾香の右ストレートがユリカに炸裂する。
(私がバカ姉をもっと制していれば――、もっとイヴさんに寄り添っていれば助けられたのに!)
ユリカの右ストレートが綾香に炸裂する。
数十。
数百。
数千。
もうイヴにどんな面をして会えばいいのか分からなかった。
その責任の全てを自分たちにあると感じた小林姉妹は、他に感情の行き所を無くし、ただ拳を交えた。
屈強に鍛え上げられた身体は、渾身のストレートにも耐え続けた。
これだけ殴られても記憶は飛ばない。
これだけ衝撃を受けても頭は正常のままである。
ならば――。
イヴがすっころんだ衝撃はどれほどのものだったのだろうと思う。
想うと涙が溢れる。
記憶を飛ばすほどの衝撃。気を失うほどの衝撃。
イヴも普段は鍛えている。それは誰もが知っていることである。
そのイヴが記憶を飛ばしてしまうほどの衝撃を頭部に受けた。
どれだけ痛かったことか。
どれだけ辛いことか。
どれだけ困惑していることか。
どれだけ不安になっていることか。
「もしイヴに何か後遺症とかあったら――私は一生をかけてイヴのお世話をする」
綾香の言葉は目の前にいるユリカにかけられたものではない。
今は病院にいるイヴに、そして自分に言い聞かせる言葉だ。
ゴシャッ。
拳がめりこむ。
「もしイヴさんに何かあったら、私が一生イヴさんを養うから」
ユリカの言う言葉もまた、目の前の綾香に向けられたものではない。
今は病室にいるイヴに、そして自分に言い聞かせる言葉。
今は夏休みである。
故に時間はいくらでもある。
例え普段は寝る時間になろうとも、二人の拳はいつまでも相手を殴り続けた。
◇ ◇ ◇
「こ、この作品は……見たことある?」
「うん、懐かしい。結構前にお母さんが書いたやつだよね」
病室を訪れていた美里が持ってきていたのは、六道母が書いたBでLな同人誌である。
ページをめくるとイケメン男子がゴリゴリ筋肉系男子に迫られると、雌顔になってあらまぁな展開になっている。
「ゎ、ゎたしがね、同人漁ってるときに、声かけてもらったんだよ……へへ……」
「そうだったんだね。えっと――小寺さんもこういうの好きなんだね」
「ぅ、ぅん。へへ……」
控えめな美里とは趣味も合いそうでなんだか落ち着いてしまう。
吃音ぎみではあるが、その話口調はまったりとしたものであるし、空気感ものんびりとしている。
今のイヴと美里とでは波長が同じ周波数になっていそうだ。
「じゃぁ、やっぱり小寺さんともこういう趣味で仲良くなったのかな?」
ページを捲りながら答える。
おっとりとした空気の中、母の手掛けた漫画の中は大変なことになっている。
「趣味は……ぁ、ぁんまり関係ないかな……なんというか……き、気にかけてもらったというか」
へへへと笑いながら美里は前髪を分けるヘアピンを撫でた。
リーフ型の煌びやかなヘアピンは美里にとてもよく似合っている。
「そっか……ごめんね、忘れちゃって」
「ぅ、ぅうん、いいの。忘れたほうがいいことだってあるかもだし……そ、それに私もまだ……新参だから……」
「新参?」
「ぁ、ぁのね、私が仲良くしてもらった頃には……もぅイヴちゃんの周りには人がいたからさ……」
空気感のせいか、それとももういい加減なれたのか『イヴちゃん』なんて美里はいう。
イヴもちゃん付けされるのを悪く思わず、儚げな笑顔で返す。
「誰がいたの?」
「えっと、凛ちゃんと、綾香さんと、千鶴さんもいたかな……南沢先輩はわかんにゃい」
「そうなんだ……」
「ぁ、あの頃のイヴちゃんは……よ、陽キャぽかったな……わ、私は今の方が話しやすい、なんて」
「そうなの? あたしが陽キャなんて信じられないな」
「その金髪で陰キャはないでしょ……」
「確かに!」
笑いかけられると、美里も笑えてしまう。
記憶をなくす前がキライなんてことは絶対にないが、美里としては今のイヴのほうが親しみやすい気がしていた。
同じ陰のモノ同士というか――同じ趣味を持つ友人と話せている気がする。
「ゎ、私さ引きこもりだったんだけど……い、イヴちゃんとか友達が出来てから学校イケるようになったんだ」
「美里ちゃんが引きこもり? えー信じられないな」
「ほ、ほら私おっぱいデカいのがコンプレックスでさ……あんまり外出ると視線が刺さるの分かるし……
それにおうちでネトゲしていた方が楽でさ……」
「あんまり大きすぎるのも大変?」
イヴの視線はそのデカすぎるおっぱいへと注がれる。存在感は確かにありすぎる代物だ。
男子じゃなくても思わず見てしまうのはうなずける。
「そ、そうだね……サイズあんまりないし……」
「あー確かにサイズ選び大変そうだね」
「へへ……小さくなりゃいいのに……」
ぎゅっと乳房を隠すように抱きしめると、それはそれが乳房が強調されてしまう。
「ねぇ、美里ちゃん、あの……もう連絡先は知ってるじゃない?」
「うん」
「あたし時間ばっかり余っちゃってるからさ……暇なとき連絡してもいいかな?」
「も、勿論だよ」
「嬉しい。ありがとね」
「あ、そうだ……ねぇ、イヴちゃん」
「なぁに?」
「き、キライ」
「えぇっ!?」
今しがたいい雰囲気だったのに、美里はいきなり『キライ』なんていうものだから、イヴはあからさまに驚いて涙目になってしまう。
いったい今までのやりとりはなんだったのか。
というか嫌いだったのかと思うと、イヴはショックを隠せない。
「ち、ちが、違う! うそうそ!」
「うぅ、いきなりキライなんて……」
「違うの、ご、ごめん、好きだよ。好きだから……
え、えっとね。いつも私がキライっていうと……その……」
指をもじもじしながらもにょる。
いつもだったら「キライ」と言えば「好き」が返ってきていた。
もしかしたら、今のイヴにも通じるかと思い美里は口にしてみたが、どうやら今のイヴにはそのままストレートに伝わってしまったようだ。
「イヴちゃんはいつも好きって返してくれたからさ……」
「そうだったんだね。ごめんね、私こそ」
「い、いや、今のは私がイケナイ……ごめんね、イヴちゃんのこと好きだからさ。
気にしないで」
「うん、私も――美里ちゃんのこと好きだな」
「へへへ」
「次キライって言われたら好きって返すね」
「へへ、ありがと……でも、もうキライって言わないよ」
「そう?」
「だ、だって、今のイヴちゃんは今のイヴちゃんだから」
「?」
「へへ」