132あたしは〇〇モノ。
まだ記憶の戻らぬイヴを気遣い、凛の滞在時間は短かった。
凛が病室からいなくなると、室内にはまた静寂が訪れる。
ベッドは二つあるが、隣は空のためイヴだけがそこに存在る。
(何しようかな……)
時間ばかりがあまるこの現状、イヴはぼんやりと空を眺めたり時折書物に手を伸ばすが何かが足りない気がしていた。
普段していることが出来ていないような、いつものルーチンワークが抜けているような。
(身体でも動かそうかな……)
ベッドにうつ伏せになるとそのまま腕立て伏せを開始する。
(……13、14、15)
1セットやって少しのインターバル。
2セット目を開始。
(……13、14、15)
同じように小休止して、ラスト3セット目。
(13、14、15。……ってあれ?)
ごくごく自然に行っていた動作にイヴは疑問を抱く。
腕立て伏せなど――以前はしなかった。インドア派であったイヴが腕立て伏せをするなど、考えられないことである。
しかも当たり前のように3セットをこなしている。
少し筋肉が張っている感じはあるが、疲れた気分がないのも不思議だ。
疲れるどころか身体は喜びの声をあげている気さえする。
(記憶がなくなる前はしてたのかな?)
頭からは記憶が抜け落ちていても、身体は覚えているのかもしれない。
(他に覚えていることはないかな?)
手のひらを握り、そして開く。
自然と力が入る。表面は脂肪が覆っているが、内側には確かな筋肉が感じられる。
(あたし――こんなに筋肉ついてなかったのにな。記憶があるときは何していたんだろう?)
◇ ◇ ◇
やることがなさ過ぎて、昼食を終えるとイヴは昼寝をしていた。
外は暑そうな景色が広がっているのに、病室は随分と涼しい。
そんな涼しい空間で、しかもおなかいっぱいの状態では眠くなるのもしかたないこと。
イヴはすやすやと寝息を立てると夢の中にいる。
早送りの映像が乱れて映されていた。
銃声。竜の声。友達の声。
パァン。
『イーちゃん♡』
グオオオ――……
『イヴ』
パァン。
『イヴ』
パァン。
目の前にいたいかにもなヤクザが懐から出した銃を向ける。
グオオ――。
『イヴ』
パァン。
『イヴ』
『パァン』
イヴ――……。
ベンチに腰掛けたイヴの隣には先ほどの少女、前園凛がいる。
目の前には広々とした公園と飛行機。
「イーちゃんは前世」
「……」
飛行機のプロペラが回っている。
右の空から降り注ぐ銃声。
「イーちゃんのこと好きなの」
「……あたしたち女の子同士だよ」
「男勝りなのに、可愛くて綺麗なイーちゃんが好き」
「あたし、今は女だよ?」
「それでも好き」
二人の唇が重なる。
嫌な気持ちはない。むしろ唇が柔らかくて、あったかくて、ドキドキする。
「イーちゃんは」
パァン。
凛が走り出す。
「イーちゃん、記憶を探しにいこう」
「どうやって?」
「勿論、飛行機に乗ってだよ」
「操縦できるの?」
「この飛行機は意思があるからね自動操縦だよ」
まるで不思議の国のアリスのようだと思いながら、イヴは飛行機へ。
◇ ◇ ◇
見覚えのある公園。
あれはどこだったのだろう。
目が覚めたイヴは気になってスマホで検索してみる。
飛行機のある公園はいくつかヒットしたが――、具体的にそのどれかという確証はない。
「あの人なら知ってるかな?」
夢の中に出てきた凛は何か知らないだろうかと、ラインを開く。
『凛さん、飛行機のある公園知らない?』
返信はすぐにでもきた。
『航空公園のことかな?♡ 以前イーちゃんと一緒にいったんだよ♡
写真あるから送るね♡』
送られてきた写真には飛行機が映っている。
間違いない、夢に出てきた公園である。
『この公園はどこにあるの?』
『埼玉だよ♡』
『今度ここに行ってみたい』
『いいよ♡ 退院したらいってみよう♡』
『ありがとう、凛さん』
『♡』
イヴから久々に個人ラインがきたのは嬉しかったが、凛としては切ない気分がしていた。
ベッドに横になりながら、テーブルの上の写真を見る。
写真の中にはイヴと凛。テーブルだけでなく、コルクボードにもイヴや友人たちの写真が数多く飾られている。
「凛さん、かぁ……」
いつも言ってくれていた『凛』という呼び捨てがない。
呼び捨てでいいとは言ったが、今のイヴはどうしてもさん付けで凛のことを呼ぶ。
あの頃のイヴには戻れないかもしれない。
そう思うと心がキュンとする。
記憶を失うのはどんな気分だろうかと想像する。
凛は切なすぎる自身のことよりも、イヴの今の状況を考えた。
抜け落ちた記憶、訳も分からない状態のまま病院。
(きっと、イーちゃん不安だろうな)
自分に何か出来ることはないだろうかと考える。
手にしていたスマホで記憶障害について検索し始める。
「イーちゃん、凛ずっと好きだからね。愛してるからね」
自分に言い聞かせるの半分、本当の気持ち半分。
凛の恋は、まだ終われない。