チーギュ・エルドレッド
「チーギュ、支度はできた?」
「あー、たぶん。一応」
「ふふっ。何とも頼りないお返事ねぇ」
そう言われるのも仕方ないんだけど、俺はそもそも女性の服を着たことがないし、何を持って出ればいいのかもわからないし、この世界の文化も知らない。
全体的にダボッとした服と、それなりに丈夫そうな革の靴と、最後は母が手伝ってくれた髪や首の飾り。懐に忍ばせた小さな剣。
「さっきの地図でわかりそう? ブラウン長老の家」
「わかんなかったら誰かに訊きます」
「ヨシ! 準備万端ねっ」
何を見てヨシって言ったんですか? まず俺、股のあるスカートみたいなやつの下、パンツ穿いてないんですけど。
……どうも、それがこの「カプワイードランド」という国の通常らしい。めちゃくちゃ違和感あるので誰かパンツ製造してほしい。
「長老さんなら、あなたの往くべき道を指し示してくれるはずよ。たぶん。知らないけど」
俺の出発が近付くにつれ、だんだん雑になってきた気がする母。逆になんかリアルだな。
「じゃあ、先に外で待っててね! エルドレッド家の『とっておき』を取ってくるわ」
そう言う母に背中を押され、俺は初めて家の扉を開けた。あとチーギュ・エルドレッドなんだな俺の名前って。
……そこはファンタジーの世界だった。
いや、それは理解していたつもりだったんだけど、いざ視界に広がる広大な緑の山々、芝生と石畳の道路、現代日本のものとは明らかに違っている建築物。
その全てが絶妙な小綺麗さを放っており、これだけ「リアル」でありながら俺の「現実」とはズレている。ヨーロッパとかの観光地をそのまま持ってきたような違和感。
俺は空気を吸い込んでみた。あまりにも爽やかだった。
「るんるーん! お待たせしました凄いやつ!」
弾んだ声に振り返ると、母は勝手口みたいな所からカラカラと音をたてて、何か引きずってきていた。
自転車だった。前にカゴが付いた普通のママチャリ。
「チーギュ、これに乗って行きなさい!」
「世界観が理解できないんですけど大丈夫ですかね」
「我が家の家宝『エルドレッド号』よ!」
「はいもうわかりましたありがとうございます」
俺は棒読みで礼を言い、エルドレッド号に跨がってみる。スカートの裾めっちゃ巻き込みそうなんだけど。この服ダメだろ。
その時、俺はペダルの軸付近のフレームが不自然に大きく造られていることに気付く。
「あれ? これって」
「そう! 漕ぐ必要はないのよ、魔動自転車だから!」
グゥンッ!
「うわっ!? 勝手に進んでいくんですけどォ!」
「行ってらっしゃーい! 元気でねー!!」
母の声は一気に遠くなり、自転車は唐突に暴走を始めた。速いって!怖いって!! 裾巻き込むって!!!
「ちょっ停まれ! 停まれェェ!!」
ブレーキはキイイィィと凄まじい音を鳴らすばかりで全然利いていない。整備不良じゃねえか!
背筋がぞわっと冷たくなり、無いはずのキンタマがヒュンと縮む感覚。加速を続けるエルドレッド号。
ヤバい、死ぬ。
あ、そうか! 芝生の深いとこに突っ込んでいけば減速するかも! 最悪、横転して停めればいい。
裾が可動部に触れるのを怖れて両脚を開きつつ、俺は道を外れ、芝生の上り傾斜のほうへハンドルを切った。
「減速! 減速してッ!! できたら草とか巻き込んでッ!! あ」
上りきった先は、大きな川だった。
「あああああッッ!!」
ジャパーン。
沈没! 今までありがとよエルドレッド号ッ!!