刺繍入りのハンカチ
おばあちゃんの庭はこの以前よりもずっと広い庭だった。緑の木があり、垣根もある。こんもりとした葉、畑いっぱいに実った青野菜や土から覗いた根菜、スグリもある。食べ物だけではない。おばあちゃんが育てていた薬草もある。解熱、咳止め、ハーブや香辛料。窓の外は鮮やかな色で満ちている。空気も熱くなってきた。夏がすぐ側に来ている。
おばあちゃんは出て行く前にシーツと仕事着を洗って干した。水くみ場の水槽にスンのために木で作ったいかだを置いてくれた。紐が木の枝にくくりつけてあるので、流れて落ちてしまうこともない。窓から出入りするための梯子も二人で作った。
スンはおばあちゃんを見送った後、庭に出て野菜を見て歩いた。アブラムシがついていないか、雑草は生えていないか、葉の下を歩いて回る。やがて太陽が高く上った頃、スンはお昼ご飯を食べることにした。机の上にある黒パンとチーズを持ってきて、水くみ場の木陰で食べる。その時、急に強い風が吹いた。スンは木陰だったので飛ばされなかったが、おばあちゃんの仕事着が物干し竿より高く跳ね上がり、バタバタと揺れた。
季節が変わるのを風が伝えている。スンは風が収まってから立ち上がると、空を見上げた。
真っ青な空に雲ひとつ無い。済んだ青色はとても綺麗だ。と、ひらひらと何かが落ちてきた。花のたくさん咲いた畑にふわっと落ちる。布のようだった。
水くみ場から降りるとスンは駆け寄った。茎の登って布の端っこを掴む。飛び降りるとずる、ずる、と布が下がり、地面に足がついた。青い花が刺繍されたハンカチだ。細かい繊維の上等な布、クナの店にあった物の中でも高い布だった。どこから飛ばされてきたのだろう。
スンがもう一度空を見上げた時、また白いものが降ってきた。今度はふわふわの丸いもので、地面に降りると足カポ、コポと鳴らしてスンの側にやって来た。
「ムー、いらっしゃい。」
ムーはスンの前で止まり、頭を下げた。スンと鼻をくっつけあって挨拶すると嬉しそうに鳴いた。
「ムー、私より鼻がいいでしょ? このハンカチの持ち主を知らない? 」
スンがハンカチを差し出した。ムーは匂いをかいだ。おばあちゃんが帰ってくるまで待とうと思っていると、ムーがスンを後ろから鼻で押した。頭に乗せようとしている。
「私をどこに連れて行く気? 持ち主を知っているの? 」
スンは振り返って尋ねたけれど、ムーはまだうまく喋れなかった。スンは少し考えた。今日は雨が降らないだろうし、そう暑くもならない。スンはハンカチをたたんで、ムーの背に乗った。
ムーは地面を数歩走って空に向かって駆け上がった。高い緑の塀を越えて、雲羊達のいる草原に向かった。スンはこんなに高い場所にいくのは、鳥の背に乗せてもらったとき以来だ。ムーは思ったよりもずっと速かったので、スンがあちこち下を見る暇もなく群れの中に降りた。ムーの母親は昼寝をしている。
「また母ちゃんの目を盗んで行って来たな。」
低い声が近づいてきた。大人の雄の雲ヒツジだった。ムーはカポっと足を鳴らして下がった。大人の雲ヒツジはムーを叱るわけでもなく、スンに気付いた。
「ずいぶん小さいのを乗せているな。」
「こんにちは。」
スンはムーの背から降りてお辞儀をした。牡ヒツジも軽く頭を下げた。
「私このハンカチの落とし主を探しているの。あなたわからない? 」
「ん? ああ、こりゃだめだ。石鹸の匂いしかしやしない。」
牡ヒツジは匂ってから顔をしかめた。
「今日の風は南の方から吹いてきたからな、南にある二本足たちの住んでるところから飛んできたんだな。」
牡ヒツジが顎でさした場所には林があった。その向こうに、塔のような先のとがったものが少しだけ見える。街があるのだろうか。スンは少し不安になった。
「さっき見たけど騒いでたな。何をなくしたかしらないがね。」
「このハンカチかしら? 」
スンはハンカチを見る。ムーと顔を見合わせる。近くまで置きに行ったほうがいいのだろうか。牡ヒツジはふんっと笑った。
「わしらんにはかんけないね。」
そして行ってしまった。ムーはスンをじっと見る。好奇心に輝いた目で、行こうと訴える。スンはハンカチを握った。
「私、人が怖いわ。あなたも捕まったら怖いわよ。」
スンが言うと、聞こえていたのか牡ヒツジが答えた。
「すぐそばに住んでいるやつらは捕まえないさ。わしらんことを見慣れてる。」
スンはムーを見た。ムーの足踏みがもう飛び立ちたくてうずうずしている。
「大事なものだったら、大変よね。でも降りる時は人のいない所ね。」
スンはムーに言い聞かせると、ハンカチと一緒に背中に乗った。
雲ヒツジの群れが遠くになるに連れ、林の向こうにあったものが段々と見えてきた。スンはそれを街の一部だと思っていたが違った。スンが見たのはお城の一部で、小さな村ならすっぽりと包んでしまうほど大きかった。スンはびっくりした。上から見たらこんなふうになっているんだ。
白くピカピカ光る外壁と尖って突き出した屋根、それらをぐるっと囲む固そうな塀は、雨風ではびくともしないだろう。
ムーは少しずつ地面に近づいた。下で動いている人たちの姿が段々と見える。さっきの牡ヒツジが言っていたように、たくさんの人たちが慌ててあちこちに走っていた。みんな似たような格好をしている。バンデラさんのお屋敷と一緒だ。
「どこかに、誰もいないお庭のような場所はないかしら。」
スンが呟くと、ムーが急に速度を速めて空に向かって走った。尖った屋根の上の方に、小さな庭があった。土を持ってきて庭を屋根の上に作ったのだろう。スンは青々と茂った葉や赤や黄、ピンク色の綺麗な花を眺めた。そこには誰もいなかった。
「あそこに行きましょう。あんなに綺麗な花なんだもの、誰か見に来るわ。」
ムーはスンの指さした、花の茂みに隠れるように降りた。
花の茎には刺が生えていて、花を触ろうとすると刺で傷がつくようになっている。ムーはそれに当たらないよう気をつけた。スンはハンカチを綺麗に広げて、飛ばないように石で押さえようとした。その時、ぎぃぃぃっと木の扉が開く音がした。スンは動くのをやめて耳をすませた。しげみの間から、光沢のある茶色の靴が動くのが見えた。
スンはムーの足に近づいて逃げようとしたけれど、風がざわわっと吹いた。ハンカチが飛んでしまわないよう両手で押さえる。風はスンの髪の毛をゆらゆらゆらし、スンの鼻はむずむずとした。我慢しなければ、と思ったけれど口を押さえる暇もなくスンはくしゃみをした。
「誰かいるのか。」
低い、老人のような声が上からした。
スンは身を固くした。ムーも頭を低くしている。
「誰だ。何をしている。」
足がこっちにつま先を向ける。スンは思い切って叫んだ。
「ごめんなさい。私ハンカチを届に来ただけなの、すぐ行ってしまうから。」
返事が幼く愛らしい声だったせいか、光沢のある靴をはいた人は近づくのをやめた。
「何を届けにきた? 」
スンはムーを見た。ハンカチを押し出すようにして、ムーの頭も借りて茂みの上にそろっと出した。皺のある手がハンカチを掴んだ。
しばらく、相手はハンカチを見ていた。スンはそろ、そろ、とムーの背中に乗ってすぐにでも逃げ出そうとした。
「これは私のハンカチだ。どこで見つけた。」
急に声をかけられたので、スンは危うくムーの背中から落ちるところだった。ふわふわの毛にしがみ付いて、うわずった声で返事をした。
「畑で、林の向こうの。」
ムーの背中に戻ってぎゅっとしがみ付く。胸がどきどきして、ムーの背中もびくびく震えていた。
「礼がしたい。出てきなさい。」
スンの身体中から冷たい汗が噴出した。強い風が吹くと、ムーは走り出していた。いつもより速く、風に乗るように。スンはムーの背中にもぐりこんだ。ムーはあっという間に空に駆け上がり、庭は豆のように小さくなっていった。
ハンカチの持ち主は、突風がふいたかと思うと何か白いものが駆け上がっていったのを見た。薔薇の茂みの中を覗くと、白い毛がところどころ残っていた。手に残ったハンカチを見ると、青い花の刺繍に黄色い花粉がついている。もっとよく見ると、ちいさな手の形のような黄色の跡があった。
ムーはそのまままっしぐらに畑の水くみ場に降りて、息が整うと水をたくさん飲んだ。スンも胸がドキドキしていて頭がぼわーんとするほどだった。ムーの母ヒツジがやってきて、つれて帰った後、スンは洗濯物をしまうために窓枠で歌って踊った。畳み終わった頃、おばあちゃんが帰ってきた。
「お帰りなさい。」
スンは夕食用の干した豆を殻から出しながら言った。
「ただいま。スン、今日外へ行ったのかい? 」
おばあちゃんが尋ねたので、スンはドキっとした。
「ええ、ハンカチを届に外に行ってきたわ。」
「ムーと一緒に? 」
「……ええ。」
スンがうつむいているので、指先で頭を優しく撫でた。
「怒っているわけじゃないんだよ。」
おばあちゃんは椅子に腰掛けて、肩から下げた鞄の中から果物をだした。オレンジ色の皮の、スンの知らない果物だ。
「スンが届けてくれたのは王の大事なハンカチだった。王妃様が刺繍してくれたものでね、今日干している時に飛ばされて大騒ぎになっていた。」
スンは大慌てて走り回っていた人たちを思い出した。
「そんなに大切なものだったの? 」
「王妃様はもういらっしゃらないからね。」
スンの胸がきゅっとなった。もういない、という言葉がスンの咽に蓋をして、ぎゅうっと胸を締め付けた。
「王はとても喜んでいたよ。なのに、届けてくれた者がお礼を言う暇もなく消えてしまって残念がっていた。手がかりは白いふわふわの毛と、ハンカチに残っていた小さな手形。」
おばあちゃんの指先がスンの手をそっと押し上げた。スンの手のひらがおばあちゃんの指先に乗った。
「今度会いに行きなさい。お礼を受け取るのも、大切なことだよ。」
スンは少し考えて、うなづいた。 翌朝おばあちゃんは朝一番に摘んだ花の棘をとった。それを花瓶に数本飾る。部屋の中はそれだけで鼻の奥がすぅっと通る匂いでいっぱいになった。この匂いをかぐと頭の痛みがとれるのだ。
「今日は体調の悪い兵士を診てくるけれど、スンはどうする? 」
「ここにいるわ。」
おばあちゃんはスンのためにジャムを小さなお皿に入れて、パンも机においてくれた。スンは行ってらっしゃいと言って、おばあちゃんを見送った。
おばあちゃんの姿が窓から見えなくなると、棘の折られた花を花瓶から一本ぬいた。水が滴るので布巾でふき取る。自分の背の二倍はある。重い。これからどうしようかと思っていると、いつ来たのか、ムーが庭からじっと見ていた。
「乗せてくれるの? 」
ムーが背中を出したので、スンは乗った。
「ありがとう。」
ムーは日の光をたくさん吸って膨れた。ムーが空中で足を蹴ると、びゅんっと進んだ。昨日と同じ庭から、ダド王子の言っていた王様の部屋の窓を見ながら、スンは王様がいないか確認した。金色のお髭の男の人がいた。胸にバッジがついている。右頬の上に青い羽を開いた鳥のような痣がある。
一番大きな窓の大きな部屋の中に、その人は居た。スンは、花を持ったまま窓の枠に隠れていた。 王様は揺り椅子の上で眠っていた。ムーが足音をたてないようにゆっくり入る。王様のゆり椅子の傍には小さな机があって、分厚い本があった。紙のしおりがあって、棘のない花の押し花がしてあった。スンは自分が持っている花と見比べて、花弁の数も葉の形もまったく同じことに気づいた。壁にはとてもきれいな女の人と、二人の男の子の絵があった。
スンは花を花瓶に刺すと、王様の肩に失敬して耳元に囁いた。
「あなたを好きな人からの贈り物を置いていくわ。私はその人が好きなの。王様がその人ともう一度一緒に食事をしたり、お茶をしたり、お散歩したりしてくれる日が来ると、嬉しいわ。」
足早にスンは立ち去った。
王様が花に気づいたのはしばらくたった時だった。王様は花を手にして窓の外を見たが誰もいなかった。ただ、窓枠のわずかに砂がたまったところに、豆ほどの小さな足跡がついていた。
おばあちゃんは花が一本ないときに気付いて、スンに尋ねた。スンは渡したい人がいたので、渡してきたと言った。おばあちゃんは不思議そうにスンを見たけれど、深く尋ねなかった。
おばあちゃんは忙しく働き、家を空ける事が多かったけれど、いつもたくさんのお土産を持って帰った。スンはおばあちゃんの代わりに庭を整理したり、洗濯物をしたり、雲ヒツジ達とのおしゃべりも楽しかった。
雲ヒツジは旅をしているので、たくさんの森を見てきて花や木や森の匂いの話をした。
「北は寒いがあの木の匂いはたまらないね。葉を噛むとそりゃあたまらないいい匂いがするのさ。」
歳をとった雲ヒツジがもくもくと口を動かしながら言った。この雲ヒツジはいつも何かをほおばっている。ムーのほかにも子ヒツジはいて、あちこちで跳ね回ったりじゃれあったりして、大人しくしていなかった。ムーも、自分より身体の大きな仲間とじゃれあっている。スンはその中では踏み潰されそうなので、年寄りヒツジの話を聞いていた。
「最近は子供らはわしの話よりも遊びたいとよ。お前さんはわしの話が好きかい。」
「この前の森の人の話が、また聞きたいわ。」
スンが言うと、年寄りヒツジはふむ、ふむと鼻の穴を動かした。
「森の人か。懐かしい、あんな人達はもう、めっきりと少なくなった。」
少し悲しそうに言った。
「わしの子供の頃は、山にも森にも、あの人らはおったよ。緑の葉でできた服を着ていて、皆穏やかに笑ってる。お前さんを見てると思い出すよ。土と太陽と森の良い匂いが懐かしい。」
雲ヒツジがスンの顔に鼻を近づけ、吸い込みそうなほど匂う。スンはくすぐったくて笑った。
かぽかぽっと走る音がしたかと思うと、一匹の雄の雲ヒツジが走ってきた。頭に葉っぱを乗せて、どろどろに汚れていた。そしてスン達の前まで来ると、滑り込んで倒れた。
「またアッサーだ。」
「今度は長かったなぁ。」
雲ヒツジ達が倒れたヒツジをかこむ。年寄りヒツジが頭に乗せてくれたので、スンも駆け寄った。
「だれ? 私、初めて見るわ。」
「アッサーだよ。いつも、群からはぐれるんだ。」
子供のヒツジがはしゃぎながら、倒れたひつじをつついた。
「アッサー、今度こそだめか。だめならお前はここに置いていくぞ。」
大人のヒツジが薄情に言った。けれど仕方ない。いろんな場所に流れていく雲ヒツジ達は、動けなくなったものは置いていくしかない。スンは心配になって雲ヒツジの顔を覗きこんだ。
アッサーと呼ばれたヒツジは、薄目を開けてスンを見た。
「……あんたかい。なんだ、あんたここにいたんだな。」
「あなた、私を知っているの? 」
アッサーの口から、ぽろりと何かが落ちた。根っこのついた双葉だった。アッサーはそれきり、ぴくりとも動かなかった。
スンはムーと一緒におばあちゃんを呼んで、アッサーをおばあちゃんの家に運んだ。アッサーは無理やり水を飲まされると、くしゃみをして、今度はぐうぐうと眠った。
「骨も無事だし、多分疲れているだけだよ。」
すっかり日が暮れ夜になっていた。おばあちゃんは小さな鉢植えを準備してくれたので、スンはそこに双葉を植えた。
「この双葉、いい匂いがするわ。」
スンにはふわんとした、優しい匂いがした。
「この葉をどこかで見たことあるけれど、さてどこだったかね。」
おばあちゃんがメガネを取り出して本を開く。スンはアッサーの様子を見て、水を替えたりしながらおばあちゃんのそばにいた。気がついたら眠ってしまっていて、朝おばあちゃんが朝食を作るころに目を覚ました。
「私、寝ちゃったわ。」
スンは寝癖のついた髪の毛をなでつけた。
「お前は小さいから、たくさん寝ないといけないんだよ。」
おばあちゃんは優しく笑ってから、双葉を撫でた。
「この葉、お前と初めて会ったとき、雪の中を割って生えていた花の葉によく似ているよ。次の日にはからからに枯れて、持つとバラバラになってしまったあの葉にそっくりだ。」
かぽっと音がして、アッサーが立ち上がっていた。目をぱちくりさせてから、おばあちゃんとスンを交互に見た。それから、窓際にある双葉を見た。
「なんだ、間に合ったのか。」
アッサーはふむ、と鼻を動かした。
「てっきりもう無理だと思った。こんな広いところから、豆みたいに小さいのを探せなんて。葉も枯れないなんて、予想していたのと違う。」
「あなた、私を知ってるのね。」
アッサーは目をぱちっとさせて言った。
「雨をしのがせてもらったからな、それをあんたに渡せといわれた。それだけさ。」
アッサーはじろりとおばあちゃんを見た。
「あんたにも世話になったな。薄汚れちゃいるが、質は落ちてないぜ。」
そしてふわふわの毛を差し出した。おばあちゃんがスンを見る。
「お礼にどうぞって、ことね。」
スンが言うと、おばあちゃんは笑った。