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縫い針娘スン  作者: 柳沢哲
8/13

魔法遣いと王子

 スンは夢の中で森の中に居た。木の床の上を歩いてもいた。体が温かくて、顔や頭や、足の上を何かが包んでいる。

 スンは、自分は今何かの胃袋の中にいるんじゃないのだろうか、とはっきりしない頭で考えた。このまま自分は死んでしまうんだ。そして別の何かになるんだ。土にもなれるし、木にもなれる。森で死ぬことは、そういうことだとおばあちゃんは教えてくれた。

 スンは体が溶けてなくなってしまったんだと感じた。手も足も動かない。温かいだけだ。死ぬことがこんなに心地よかったなんて、もし知っていたら一生懸命生きようなんて誰も思わないだろう。

 スンが夢も見ない深い場所に落ちそうになっていた時、何かがあごをぎゅっと押した。すかさず、口の中に糊のようなものが入る。柔らかいものが混じった、塩味のものだ。

 スンは眼を開けた。ペンダントに彫られた女性の顔が見える。夢だと思った。ペンダントが動いて、自分を抱きしめているなんて、夢に違いない。 

  温められたあごが動く。のどをごくりと動かした。頭に何かが触れる。おでこから鼻を滑っていき、唇に触れる。スンは雛が餌を催促するように、ぱくぱく唇を動かした。また口に何かが入ってくる。唇から漏れて頬に落ちると、柔らかいものが顔に当たった。

 喉がぴりっとして、スンはせきをした。胸が動く。頭も動く。温かいものが頬に触れる。スンは無意識に触ろうと手が伸びた。手足もある。自分は溶けていない。

 ねばねばした温かくて柔らかいものがスンの顔に当たった。スンは細く開いた眼でそれを見た。雪のような、雲のような、綿のようなものがぼんやり見える。今度は温かく湿った布が、そっとそっと顔に当たった。

 こんな不思議な夢は初めて見た。

 次に眼を覚ましたとき、スンは懐かしい匂いに包まれていた。ジャムと薬草の匂い。着ているのは真っ白な寝巻きだ。寝ていたのは柔らかい布を引いた箱の中だ。スンは部屋の中を見渡した。本棚、裁縫箱、縫いかけのキルト。

「め。」

 下から声がした。立ち上がってみると、足に力が入らない。ふらふらしながら、スンは宝石箱の置かれている棚の下を覗いた。

「めぇえ。」

 ふわふわの毛に、黒い眼の小さなヒツジがいた。

「あなた誰? 」

 スンは声をかけた。高くて小さな声だった。ヒツジは言葉がまだしゃべれないようだ。スンを見つめる眼は好奇心で満ちて輝いている。

「めえ、え、えぅ。」

「ムー。静かにしなさい。」

 スンは顔を上げた。ことんと音がして、部屋の向こうから誰かがやってくる。白く、ところどころふわふわのレースがついた、清楚な服だったけれど上質な布だ。金色のきれいな髪を後ろで丸く束ねていて、顔がはっきりと見える。

 スンは今までたくさん驚くことに出会ったけれど、今が一番驚いた。

 声がでなくてスンはせいいっぱい手を伸ばした。落ちそうなほどだったので、その人はスンの体を両手で抱き上げてくれた。

「おばあちゃん……。」

 スンは眼に涙をためて、瞼の下に抱きついた。

 きれいな服ときれいな髪留め、ほんの少しするお化粧の匂い。でも温かい手の中は変わらない。

「こんなに喉を痛めて。もう熱はないみたいだね。」

 おばあちゃんは確認するように、スンの顔を見る。小指でそっと、おでこやほほを撫でてから、布を敷き詰めた箱に置いた。箱ごと持って机の上に置く。

「待ってなさい。ジャムを温めるわ。」

 瓶の中からジャムを出しておたまでほんの少しくつくつと温める。甘い匂いが部屋中に漂ってきたころ、スンの口の中に唾液がいっぱい沸いた。おばあちゃんの足元には子ヒツジがいてことこと、と踊るように踏みした。

 スンは甘い匂いを胸いっぱいに嗅ぐ。スプーンに一すくい、火傷しないように冷まして、一口食べた。熱くて甘くて、顔中がいい匂いで包まれている。夢中で食べていると、おばあちゃんは裁縫箱の中から何かを取り出した。

「スン、少し大きくなったわね。服の寸法が変わっていたよ。」

 おばあちゃんが見せてくれたのは新しいスンの服だ。靴もある。嬉しくてスンはスプーンを置いて駆け寄った。靴を触って、服に頬ずりする。

 おばあちゃんはスンを嬉しそうに見ていた。

「おばあちゃん、おばあちゃん、私とても嬉しい。」

 おばあちゃんの手がスンに触れて、唇のジャムをとった。

「たくさん、話さなきゃね。たくさん。」

 ジャムを食べ、顔を洗って、スンは服を着た。靴も爪先をとんとん、叩くと足にぴったりだった。スンが飛び跳ねたり、くるくる回ると、花のようにスカートがふわりと揺れた。

 おばあちゃんは瓶の蓋を柔らかい布で包んだ、スンのための椅子を置いた。スンのお尻にぴったりだった。

「スンのことが気にかかってしかたなかった。一度、見世物小屋で縫い針ほどの大きさの娘を見たという話を聞いたけど、翌日にはもういなかった、と……。」

 おばあちゃんの指がスンのほほをなでた。

「スンがあの子を見つけてくれたから、スンも見つけることが出来た。」

「めぇ。」

 こんこんと音がした。

 おばあちゃんは子ヒツジを抱き上げた。子羊は机に無理やり乗って、スンに近づいた。

「この子はムー。雲羊ヒツジだよ。」

 普通のヒツジよりずっと真っ白な毛だ。光っていてあまり油が出ていない。

「日向ぼっこに行きたがってるね。スンと行きたいみたいだね。」

 ムーはスンを鼻でつついた。スンは尻餅をついた。

 おばあちゃんは窓を開けると、日差しにムーを当てた。ヒツジの毛は空気を入れた風船のように膨らみ始めた。毛のつやが段々よくなっていく。

 ムーは名残惜しそうにスンを見ていたが、ふわふわと窓の外に出て行ってしまった。

 スンはぽっかり口をあけてそれを見ていた。おばあちゃんと一緒に外を見ると、空にはぷかぷかとたくさんのヒツジが浮かんでいた。おばあちゃんが窓を開けたままにしてもどってきたので、涼しい風がさしこんだ。

 今度はスンが話す番だった。

 スンはおばあちゃんと離れた後のことを詳しく話した。森の外の家族、見世物小屋で出会った人達。そこからお母さんの家を辿っていった。きれいなドレス。お母さんを慕うクナ。自分を娘と受け入れてくれたバンデラさん。

 おばあちゃんは悲しそうなスンを見つめ、同じように悲しそうな顔をした。

「お前のお母さんは、長く喋っていられないほど衰弱していた。私は事情を聞きだす気にはなれなかったけれど……お前を苦しめてしまうことになってしまったね。」

スンは首を横に振って立ち上がる。

「私おばあちゃんが私を見つけてくれて嬉しかった。一緒にいてとっても、楽しかった。おばあちゃんのこと、大好きだもの。」

 おばあちゃんがスンをなだめるように優しく頭に触った。

「友達ができたの。素敵なひとなの、私がいなくなったら、またひとりになっちゃう。」

顔を真っ赤にして叫んだので、スンは尻餅をついた。おばあちゃんは慌ててスンを両手で包み、ベッドの準備をした。

「無茶をさせてしまったみたいだね。今日はもう寝なさい。」

 干しておいた寝巻きに着替え、スンはベッドに入る。おばあちゃんがそばにいてくれる。シーツからはお日様のにおいがした。スンは鼻までシーツをかぶった。

「薬を一口のみなさい。よく眠れるから。」

 小さな耳かきほどのスプーンに入った、油っぽい匂いのする薬をスンはぎゅっと眼を閉じて飲んだ。苦く辛い、変な薬だけどこれを飲んだ翌日はすっかりよくなる。

「スン、お話しをしてあげようか。」

 スンは眉間に皺を寄せるのをやめた。おばあちゃんは椅子を持ってきて、キルトを縫いながら話し始めた。

「ある国に、一人の王子がいた。王子には世界で一番大切なものがあったけれど、それがある日なくなってしまった。お城の中も、庭の隅々も探したけれど、大切なものは見つからない。」

スンはベッドの中からおばあちゃんのキルトを編む手をじっと見ていた。

「だから王子は入ってはいけない部屋の扉を開けた。そこには不思議なものがたくさんあって、けれど使うと必ず不幸になる道具ばかりだった。」

 スンは入ってはいけない部屋を想像した。スンが今まで見たものよりも不思議なものがたくさんあるのだろう。暗い色の不気味な部屋かもしれない。

「王子はその中で見つけたいものが見える鏡を使った。中を覗きこむと、そこには王子の捜し求めていたものがあった。遠い、城から離れた森の中に。」

「じゃあ、めでたし、めでたし? 」

 おばあちゃんはにこっと笑った。

「ところが、王子には魔法がかかってしまった。王子の眼は出会う人々が心のままの姿に見える。恐ろしいことを考えている者は恐ろしい姿に、恐がりで気の弱い者は小さく怯えているように見える。王子は、自分の周りにいたものがちっとも自分を尊敬せず、欺こうとしていることや馬鹿にしていることに気付いたしまった。すると、今度は王子自身の心に恐ろしい考えが芽生えてしまった。」

 おばあちゃんは覗き込むようにスンを見た。

「自分を欺こうとする者は全て死んでしまえば良い。」

 スンはシーツを握り締めた。

「王子は鏡を覗いた瞬間、自分が恐ろしい獣の姿に見えた。途端、王子自身は獣になってしまった。いっそう周りの者は王子を恐れ、王子の周りは恐ろしいものだらけになってしまったように見えた。」

 おばあちゃんが玉留めをした。

「王子は自分自身を恐れ、人々を恐れ、今度は自分を隠してしまった。そして、自分が獣になりきってしまうまで、苦しみ続ける。王子の魔法を解く方法はたった一つ、受け入れること。自分も周りも、受け入れて生きていかなければならない。この世界は怖いものだらけで、そこが自分の生きる場所だということを。」

 スンはおばあちゃんがその先を続けてくれるのではないかと待っていたが、おばあちゃんは続きを言わなかった。

「それでおしまい? 」

 この物語は終わってしまったのだろうか。獣の物語とは逆に、良い方向に続いてないのだろうか。

「そう、おしまい。でも、救いもあった。」

 スンは瞬きせずにおばあちゃんを見続ける。

「王子が帰ってくるのを待っている人がいる。どんなに離れても、ずっと呼びかけているんだよ。帰っておいで、愛している。と。」

 おばあちゃんがにっこり笑った。

 スンは物語を自分の中で繰り返し考えた。とっても悲しい話だ。大切なものを見つけようとしただけなのに、こんな大きな苦しみを背負わなくてはいけないなんて。王子を待っている人も可哀想だ。

「王子はいつか元の姿に戻れるかしら? 帰ってこれるかしら? 」

 スンはおばあちゃんを見た。

「自分を受け入れることができれば、きっとね。」

おばあちゃんの指がそっとスンの頭をなでた。スンは眼を閉じて、獣のことを考えた。彼は森に戻ってきたのだろうか。いなくなった自分を探してはいないだろうか。それとも、もう自分を忘れてしまったのだろうか。


 翌朝眼が覚めると、ふらふらせず歩けた。ジャムもパンもチーズもたくさん食べた。おばあちゃんは着替えたスンを掌に乗せて、ポケットに移動した。スンはきれいな指輪のはまったおばあちゃんの指を見て、靴をぬいでポケットに入った。

「スンにどうしても会ってもらいたい人がいるんだよ。」

 スンはおばあちゃんの笑顔を見つめ、ポケットに深く潜り込んだ。

 おばあちゃんは灰色のローブを着ると玄関を出て行った。緑色と鮮やかな花の間を歩き、緑で囲まれた門の向こうを見上げる。大きな建物が見えた。

 門を一歩出ると、もっと大きな白い壁がずっと遠くに見えた。きれいに整えられた芝生がずっと続いている。何もないのにこんなに広いなんて、眼が回りそうだ。おばあちゃんが歩き始めると、スンはローブを手でのけて見えるもの全てに驚いた。鉄の鎧を着た兵士達が槍をかついで隊列を組んでいる。遠くのほうで歩いているのに、鎧がこすれあう音がここまで響いた。

 おばあちゃんは、大きなお城に向かって歩いていく。お城の前の囲いには門番兵士がいた。おばあちゃんが指にはまった、蒼い宝石の指輪を見せると、背筋を伸ばして門を開けてくれた。

 心配そうに見上げるスンを、おばあちゃんが微笑み返す。階段を登って会う人全てにお辞儀され、大きな部屋で待たされた。

 おばあちゃんはスンをポケットから出して、窓枠や壁一面ほどの大きさの羊飼いの絵や窓からの景色を見せてくれた。塀の向こうに池があり、もう一つ大きな塀がある。光るほど磨かれている。窓枠はスンの眼から見ても埃がなかった。絵は近くで見ると、何だかよく解らない、濃い色の塊の絵の具がかたまっているのに、離れて見えると雲やしばふがふわふわと柔らかそうで、空が段々薄くなっていくのが本物みたいで、スンはびっくりした。

「すごいものがあるのね。お城って。」

「ここで暮らしてみたい? 」

 スンはすぐに首を横に振った。

「森の方が良いわ。こんなに広いと迷子になっちゃう。」

 おばあちゃんはふふっと笑った。

「ここに住んでいる人はおばあちゃんのこと知ってるみたいだったわ。おばあちゃん前もここに来たことがあるのね。」

「昔ね。ここに住まわせてもらったこともあるよ。でも私には広すぎた。お前と過ごした場所や今の小屋の方がぴったりあっている。」

 おばあちゃんは懐かしそうに目を細めた。

 扉が開いて立派な服装の男の人が入ってきた。艶のある金に近い茶色の髪をして、肌が白かった。服も汚れが一つもなく、パリっとしていて赤い刺繍が綺麗な尾のある鳥を描いている。

 スンは机の上からおばあちゃんの服の裾を握って、後ろに隠れるようにその人を見ていた。

 おばあちゃんに頭を下げて、その人は鍵を出した。

「新しい薬ができたんですか? 」

 おばあちゃんは首を横に振った。

「薬では治りません。」

 おばあちゃんは鍵を受け取った。

「気をつけてください。もう、ほとんど……。」

 背中を向けてスンを両手に乗せて、ポケットにしまう。男の人はスンに気付かなかった。ずっとおばあちゃんの顔を見ていた。不安そうに歪んだ綺麗な眉毛と、不思議な色の瞳はどこかで見たことがあった。

 おばあちゃんは大きな扉の両脇にいる番兵に鍵を出した。番兵達が扉を開ける。中は真っ暗だった。誰もいない。カーテンの隙間から入った、長い光の線の向こうに何かいた。

 苦しそうな声がした。スンは暗い部屋の中を覗きこむ。金色の毛並みが見えた。深くうつむいている。

 スンはおばあちゃんが手を出してくれる前にポケットから出ようとしていた。靴も履かずに掌に降り、おばあちゃんの指の間から顔を覗かせる。床に着くとスンは駆け足で金色の毛に近づいた。

「あなたなの? 」

 スンが尋ねると、毛が動いた。眼の下に大きなクマが出来ているのが、毛皮なのに解った。スンはからからに乾いた鼻を触って、顔をしかめた。

「あなたも風邪をひいたの? こんなに鼻が乾いてる……。」

 眼を見開いて、獣はスンを見た。眼が優しく微笑む。

「……良かった、また会うことができた……。」

 獣の毛に顔を伏せた。

「あなたは大切なお友達なのに……。こんなの、悲しいわ。」

 獣がのどを鳴らした。嬉しそうにスンの顔にキスをした。

 獣は顔を上げた。スンから一歩下ると羽を広げた。苦しげに震えると、真っ白な羽が部屋中に広がった。背中を反らせ、叫び声を上げる。おばあちゃんが、獣に近づこうとしたスンの身体を両手で包み込んだ。

 毛が抜け、体が縮み、牙が抜ける。爪も落ちて短い肉球が段々伸びる。スンは瞬きもせずそれを見ていた。獣の息が荒く、震えながら体が縮む。途切れ途切れに聞こえる苦しげな声が静まり、金色の長い髪が付いていた。

 おばあちゃんの指を乗り越えて、スンは近づいた。伸びてきたのは長い、人間の指だった。指の先に、小さな自分の手を乗せてスンは顔を見つめた。蒼と緑の混ざった不思議な目が金色の髪の間から見えた。

 叫び声を聞いて兵士が入ってきた。おばあちゃんはローブを外してむき出しの背中にかけた。

 やがてたくさんの人が駆けつけ、スンはおばあちゃんの手に包まれて、またさっきいた部屋に行った。とても驚いたスンは呆然と、言葉を失っていた。鍵を渡してくれた、高貴な身なりの男の人が息を切らしてやってきた時は、おばあちゃんはお茶を一杯飲み終わっていた。スンも口の中がからからだったので、スプーン一杯分もらった。

 男の人はスンに気付かない様子でおばあちゃんに駆け寄り、抱きついた。

 スンは、カップの後ろにこそっと隠れた。

「先生が見つかった時、もうこれほどの奇跡は起きないと思いました。けれどもう一度起きた。」

 おばあちゃんが優しく男の人の背中を抱いた。

「貴方がずっと、私や彼を信じてくれましたから。少しでも諦めていたら、起きなかった奇跡です。」

 男の人から離れると、おばあちゃんは机の上を見た。カップの後ろから見えるスンのスカートの裾を見つけ、カップをどけた。

 男の人は、口を大きく開けてスンを見つめた。スンはおばあちゃんの手に乗って、男の人の顔が良く見える場所についた。

「この子が私の大切な娘。スンがいてくれなかったら、ジャムを作る楽しさや誰かのために靴下を編む幸せを忘れてしまっていた。」

 おばあちゃんが頬ずりしたので、スンはくすぐったくて眼を細めた。

「スン。この方はダド殿。ナゥナの兄上。」

 おばあちゃんが手を伸ばしたので、スンはその上に立ち上がってお辞儀した。

「はじめまして、私、スン。」

男の人はぽっかり口を開けた。

「金色お髭さんはお友達なの。」

 男の人はやっと口を閉じて、ためらいながら右手を出した。スンも右手を出して、指に握手をした。

 二人の手が離れる。ダドは自分の指を見つめ、スンをもう一度見た。

「……お客人の部屋を用意しましょうか? 」

「スンは私の部屋においています。この子が住みやすいようにしていますし。普通の部屋では迷子になってしまうかもしれません。」

 スンも是非そうしてほしいと思い、うなづいた。

「薬を持ってきます。まだ体が痛むでしょうし、栄養のあるものも摂らなくては。スン、ダド殿と一緒にいなさい。あなたに聞きたいことがあるでしょうから。」

 おばあちゃんがにこっと笑う。ダドははっとした。

 スンは初めて会ったこの人を信用していいのか、困ったが、おばあちゃんが信頼しているのだから、きっと大丈夫だと思った。

 おばあちゃんが去りスンはダドと二人きりにされ、ダドを見た。ダドは少し困っていたが、スンに手を伸ばした。

「失礼でなければ、あなたを運びたいのだが……。」

「ポケットに入ってもいい? 」

 ダドは自分のポケットを触って、中を開けて見た。スンが靴を脱ぎ準備をしたので、ダドはスンを恐る恐る掌に乗せた。ダドの手は今まで見たことのないほどきれいだった。かすかにインクの匂いがする。

 運び出してもらったスンは広い廊下を見上げたり、左右を見たりした。ダドはすれ違う人々が自分をどう見ているか気にしていたが、小さなスンは誰にも気付かれず、逆にきょろきょろしているダドの方が怪しかった。

「実は、先生から聞き知っていたのだが……その、本当に……。」

掌に乗るほど小さな娘だとは思っていなかったようだ。スンは大きな眼をくりっとさせてダドを見つめた。

 驚いているけれど、ダドの眼はスンを怖がっているわけでも、怪しんでいるようでもない。優しい眼だ。階段を登ると人が少なくなった。立派な肖像画が並んだ廊下の窓からは、向かいにあるもう一つの建物が見える。

「先生が、何か過去自分の身に起こったことをもう話しているだろうか。身の上や……不幸な出来事を。」

 スンは眼をぱちくりさせた。

「御伽噺をたくさん聞いたわ。空飛ぶ魚のお話や、魔法の水がめの話や、星の物語を。」

 お城の中の人皆がおばあちゃんにお辞儀をした。兵士もおばあちゃんを丁寧に通してくれた。ダドも先生と呼んでいるのだから、おばあちゃんはすごい人なのだろう。

「美味しいジャムを作ってくれて、御伽噺をしてくれて、大事なことをたくさん教えてくれた。私、おばあちゃんにも昔があるなんて、今初めて知ったわ。」

 ダドがスンを見つめた。気がつけば晴れた空が見え、じわりと暑い空気をかき消すように風が吹いた。

 ダドはスンを窓枠に移動させ、風に当ててくれた。

「先生は私にとっても弟にとっても尊敬する女性だ。そして、父にとっても。子供の頃、彼女が歌うと針や糸が動き、刺繍を作るのを見るのが好きだった。水を撒くときも、同じように歌で雨のように水を降らしていた。虹を描きながら庭の花たちがきらきら光って美しかった。弟は、先生の庭で妖精を見たことがあるとも。」

 ダドが懐かしそうに言うと、スンも思い出した。

「晴れた日は水が虹色に光って、宝石みたいだった。でも、私は妖精を見たことはないわ。」

 ダドが微笑んだ。

「父のために先生は花を毎日飾ってくれた。鋭い棘のある花だが、心が安らぐ良い香りがする。うっかり手に取ったとき傷つかないよう、一本一本棘を取り除いてくれていた。母も、先生には良くして頂いたと亡くなる直前まで感謝していた。」

「お母さん、死んでしまったの? 」

 スンの問いかけにダドがほんの少しだけ愁いをこめて笑った。

「病弱な方だった。肺の病気で寝る前に息が苦しくなる病気だった。母も、先生にはお世話になったと、最期に……。」

 スンが自分を見つめていることに気づいて、ダドは微笑み返した。

 不意に、苦しげにダドの顔がゆがむ。

「それなのに……父は先生を疑ってしまった。先生は素晴らしい術の書物も、力を持った道具も、何もかも全て弟に残し、自分は殆ど力を失くしてここから去った。森にいた彼女を見つけたのは弟だ。弟は、自分に過ぎた力を使ったため、あんなことになってしまった。先生が去ってから不幸ばかり続いている。」

 スンは昨晩聞いた御伽噺が今自分の目の前に起こっていることに気付いた。それだけではなく、獣が話していたこととおばあちゃんの御伽噺がぴったりくっついたのを感じた。

 魔法遣いを疑い追い出した国王。大切なものを探すために禁じられた鏡を覗いた王子。その代償として獣になってしまった。

「父は、魔女や魔法使いが捕まるたびに金貨を払った。必ず生きたまま連れてくることを条件としたのは、先生を探すためだった。父はずっと悔やんでいた。自分を暗殺しようとしたと、母を殺したのは先生だと、疑ってしまった。」

「おばあちゃんはそんなことしないわ! 」

 スンはつい叫んでしまった。

 ダドが、身体に見合わない大きな声でスンが叫んだので驚いた。スンは顔を真っ赤にして、息を吹いた。

「おばあちゃんは、そんな恐いこと、考えたりしないもの。」

 胸がぎゅっと熱かった。声が震える。

「私もそう思う。」

 ダドが悲しそうに言った。

「私達は先生がそんなことをしないことは知っている。父も知っていたはず。けれど、戦後は国が荒れ、父の周りにも信頼できるものはいなかった。誰が自分を騙しているのか解らない状況で、父の心は蝕まれていった。先生は無欲で、城の隅に薬草畑と粗末な家を持つこと以外望まなかった。彼女を妬む者も多かった。」

 スンはじっと胸を押さえた。ダドの父親の気持ちと、おばあちゃんの気持ち、二つを一度に考えようとすると胸が苦しくなった。

「私も、幼い頃は父を責めた。父を憎んだ。父の苦しみも痛みも理解しないまま。先生の無実がわかったとき、絶望するほど後悔したのは父だった。」

 スンは眼を潤ませてダドを見た。彼の顔も苦しげだ。

「人間は歳をとると頑なになってしまう。父は自分の罪の大きさで先生に会うことができない。父に、罪と向き合う勇気が一欠けらでも良いから与えることが出来ればと思うのだが……。まずはナゥナと仲直りして欲しい。ナゥナはずっと父を拒んでいる。」

 机の上に置かれたダドの手に、スンは自分の小さな手をそっと置いた。

 二人は見詰め合って微笑んだ。

「あなたは金色お髭さんと眼が同じ色だわ。そっくり。」

 ダドは驚いて、それから苦笑いした。

「初めて言われた。似てないとよく言われる。悪い意味ではないのだが、似ていると言って貰えるほうが私は嬉しい。」

 スンは、笑った目の形も同じだと思った。

 ダドは中庭を三階の部屋から見せてくれた。上から見ると羽を広げた鳥のような形に見えることを知って、スンはもっとよく見ようと窓枠から身を乗り出しすぎて、ダドをハラハラさせた。行進する兵士の動きも規則正しくて美しかった。水が下から吹き出る噴水にもスンは夢中になった。

「あれが父の部屋だ。」

 遠く離れた渡り廊下から、端っこのほうにある大きな窓の部屋をダドが教えてくれた。

「あそこに王様がいるのね。」

 スンはちらっと見える金色の髭の男の人を見た。

「父にも近いうちにスンを紹介しなくては。弟を救ってくれた恩人だ。」

「私何もしていないけれど。お薬を作っていたおばあちゃんのほうが恩人だわ。」

 スンが本当に不思議そうに言ったので、ダドは噴出して笑った。


 翌朝、眼を覚ましたスンはおばあちゃんと一緒に薬を持って城に行った。ナゥナはおばあちゃんの薬のおかげでもう起き上がることが出来た。髪を整え、白いシャツを着ていた。

 おばあちゃんの掌に乗ったスンを見て、ナゥナは笑った。

「もう髭はないけれど、まだ友達でいてくれるだろうか。」

「ええ、もちろん。」

 スンに向かって手を伸ばす。スンは乗り移った。彼の首に下ったペンダントに気付いて、感激した。

「良かった。流れてしまったのかと思った。」

「私が戻った時、スンが一生懸命抱きしめていた。身体が冷たくて息が弱くて、それでも強く抱きしめていた。私の大切な人を象っていた首飾りなんだ。」

 ナゥナがおばあちゃんを見た。

「この顔はおばあちゃんだったのね。」

「若い頃の私の顔だよ。」

 スンはペンダントとおばあちゃんの顔を見比べて感動した。皺のないおばあちゃんの顔を見たのは初めてだったので、不思議な気持ちになった。

「おばあちゃん、私もおばあちゃんみたいにやさしい顔立ちになれるかしら。」

スンは自分の頬を掌でぐいと押してみた。

「ええ。スンもなれるよ。スンのもレリーフを作ってみるかい? 」

「本当? 私の顔小さいから、彫る人が見にくくないかしら? 」

 ナゥナとおばあちゃんはくすくす笑った。

「先生の顔をこんなに小さく彫れるんだ。スンの顔もそのままそっくりに彫ってくれる。」

 街の鐘が十一回鳴ると、おばあちゃんははっとした。用事があったのだ。スンはまだナゥナと話すことがあったので残った。スンは忙しそうに去るおばあちゃんの背中をじぃっと見ていた。

「皆先生を信頼している。手荒れが酷くならない石鹸の作り方を今日は教えに行ったんだ。」

 スンはナゥナの部屋を見た。壁にかかった肖像画には、綺麗な女の人と二人の男の子が描かれている。王子達のお母さんだろう。

「しばらくすれば城も落ち着いて、先生もゆっくり過ごせるだろう。私たちは父に似て健康だったので、先生はいつものんびりと小屋で過ごしていらっしゃった。」

 スンはお茶をティースプーンからもらった。

「おばあちゃんと王様、仲直りしていないの? 」

 ナゥナはまじめな顔をして黙った。

「ダド王子から聞いたの。おばあちゃんは昔王様と仲が良かったって。」

「そうだ。先生は母のために異国から父が招いた。先生の功績が認められ、あの指輪が贈られた。」

 スンはおばあちゃんの蒼い石の指輪を思い出した。ナゥナとダドの眼はあの石に色が似ている。

「母にも私にも父にも良くしてくださったのに。先生はあの指輪も、集めた不思議な宝物も、大切にしていた庭もそのままにして私達の前から去った。父はすぐに探そうともしなかった。」

 ナゥナは不機嫌そうに言った。

「兄は過ぎたことと思っているが、父が先生に謝罪したという話しを私は聞いていない。」

 スンは、ナゥナはダドのように王様を許していないのだと気づいた。

「頑固者なのだ。情けないほどに。」

「お父さんのことをそんなふうに言うのは良くないわ。せっかく皆揃ったんだもの。仲良くしなきゃ。」

 ナゥナは渋い顔をしていたけれど、スンがじっと自分を見つめるので、根負けしたように笑った。

 スンはナゥナの手に自分の手を置いた。ナゥナの手は獣のときよりは柔らかいけれど、ダドと比べると皮膚が硬い。おばあちゃんの掌に似ている。

「おばあちゃんの庭、荒れてなかったわ。あなたが守ってくれたのね。」

 スンが尋ねると、ナゥナは二度短く指笛を拭いた。

「聞こえる場所にいたら、すぐに来る。」

 スンを掌に乗せると窓の外を見た。ふわふわの雲がこっちに向かってくる。すぐにスンはムーだと気付いた。

 ドンっとナゥナの肩が震えた。ムーが体当たりしたのだ。ナゥナがこほっと咳をしたけれど、ムーは気にしない。嬉しそうにナゥナの頬を舐める。

「ムー、だめよ。ナゥナはまだ元気じゃないの。」

 スンが窓枠から言うと、ムーは驚いたようにスンを振り返り、ナゥナを蹴飛ばしてスンのそばに来た。スンに擦り寄りたかったのだろうが、スンは突き飛ばされて尻餅をついた。ムーに頬ずりされて、窓枠と固い感触の頭に押さえつけられ、摩り下ろされている気分だった。ナゥナはムーを掴み上げた。

「どうも、堪え性がない。叱るとその時はきくんだが次には忘れてしまう。」

スンはスカートの裾を押さえて上半身を起こした。

「ムー、悪いことをすると閉じ込められちゃうのよ。」

 スンがきっぱり言うと、ムーはびくっと震えた。ほんの少しだけ大人しくなった。

「先生が、雲ヒツジの毛を刈り取る時は木の箱に入れて、浮かび上がらないようにするんだ。母親が変わり果てた姿で出てくるんで、ムーは木箱を怖がっている。」

 スンは大人しくなったムーの頭を撫でた。

「私、おばあちゃんがつくった毛糸の玉をほぐすのが楽しくて、叱られてもやめなかったことがあったの。するとおばあちゃんは私を瓶の中に入れて真っ暗にしてしまったの。一回だけ、ほんの少しの間だったけど私すごく怖かった。」

 ナゥナがくすくす笑った。

「じつは私も。昔好奇心から宝物庫に入ろうとしてひどく怒られた。」

窓の外を見ると、大人の雲ヒツジがいた。ナゥナがムーを離すと、ムーは外に飛び出し、大人の雲ヒツジと一緒にしばらくじゃれていたが、今度は下の方に降りて行った。緑の平原に、白い雲の塊のような、雲ヒツジの群がいた。

「あのヒツジ達は先生が連れてきたんだ。雲ヒツジたちが空を駆け回るとちょうど良い雨雲を引き寄せるんだ。先生がいなくなってから私が世話をしていた。先生には、庭の手入れの仕方や雲ヒツジの世話を教えてもらっていた。」

 ナゥナの顔がふっと、むなしそうな表情を浮かべた。

「私がいない間にほとんどがいなくなってしまった。今いるのもここに居ついているわけではなく、季節風に乗ってどこかにいく。」

 スンは群の中に混じって、もうどこにいるか解らないムーを探してみた。

「でも、またきてくれるのよね。」

「そうだな。私達を忘れないでくれれば、また来てくれる。」

 スンとナゥナはしばらく一緒にヒツジの群を見ていた。

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