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縫い針娘スン  作者: 柳沢哲
7/13

金色髭の友達

 バンデラさんは食事の時、大きなテーブルにたくさんの料理を運んで、手の届く場所にスンを置いてスンが食事をするのを見ていた。嬉しそうな笑顔を浮かべるので、スンも笑った。使用人達はスンをじろじろ見ていた。

 スンはここで久しぶりにお風呂に入った。たっぷりのお湯の中に足を思いっきり伸ばして、石鹸で身体中を洗ってもらった。スンの身体に合う大きさの寝巻きはなかったので、スンは洗った服を暖炉の火で乾かしてもらった。

「明日にはお前の服をたくさん作らせよう。下着や寝巻き、ドレスも作らないといけないな。」

 バンデラさんはそう言ってスンの頭を優しく撫でた。

 寝る前に執事がやってきて、一匹の真っ白なネコとスンを会わせた。

「コッテ、お前は賢いネコだ。この子は私の大切な娘だ。ネズミに襲われたりしないよう守ってやってくれ。」

 バンデラさんはそうネコに言い聞かせた。スンは青い丸い目のネコをじっと見た。

「あなた、とても毛が長いのね。」

スンが言うと、ネコはしげしげとスンを見た。

「夜、出歩くクセは? 」

ネコが尋ねた。

「ネズミと間違えて襲いかねないので、くれぐれも出歩かないでいただきたい。」

 執事と同じような厳しい口調でネコは言うと、するっと扉をくぐってでていった。 スンを宝石箱で作ったベッドに寝かせた。針を枕元において、じっと暗闇の中で目を開けた。広い部屋だった。スンの住んでいた家ほどの大きさの部屋、もてあます。

 スンはころりと寝返りを打った。中々眠れない。かちゃりと音がした。とこ、とこ、と静かに歩く音がする。見下ろすとコッテがいた。見回りをしているのだろう。

「あなたいつからここにいるの? 」

  スンが尋ねるとコッテが振り返った。けれどすぐにそっぽを向いた。

 スンは宝石箱の中から出ると、机から降りた。コッテがびょんっと飛んで、スンの前に来た。

「出歩かないでいただきたい。」

 スンはぴかぴかの、コッテの目を見た。

「少しだけ、周りを見るだけよ。あなたも一緒に来て。」

 コッテのみけんにしわがよったように見えた。

「あなただって、初めてここに来た時は不安で眠れなかったでしょう。ほんの少しでいいの、安心したら寝るから。」

 コッテが不機嫌そうにしっぽを振った。

「私が食べたと思われたらたまらない。どこに行こうというんです。」

「バンデラさんのところよ。お母さんの話を聞きたいの。」

 スンはコッテに道案内を頼んで部屋を出た。

 コッテはスタスタと、スンをバンデラさんの所に案内した。バンデラさんは昼間スンとであった部屋にいた。まだゆっくりとした椅子に座って、クナが持って来た服を眺めていた。昼間とは違う上着を羽織っていて、それはとても古いもののように見えた。立派な寝巻きを着ているのに、着古した上着なんて、なんだか変だった。

 スンは声をかけようか迷っていたが、執事が入ってきたので長い椅子の後ろに隠れた。コッテがスンの横にぴたりと張り付く。

「旦那様、お体が冷えます。」

 執事が呼びかけたが、バンデラさんは黙っていた。ドレスにじっと目を奪われている。

「旦那様。」

 執事が今度は、少し強い口調で呼んだ。けれど、うつむいて弱々しい声で言った。

「あの娘はお嬢様のためになりません。」

 スンは椅子影からバンデラさんの顔を見た。

 怖い顔だった。昼間、ドレスを眺めていた優しそうな顔とは違う。眉間に皺が寄り、怒っている様にも見える。

「エーミリアーナ様に、あの娘がどんな影響を与えるかわかりません。離縁でもされたら……。」

「スンは私の娘だ。」

 きっぱりとバンデラさんは言った。

「セリマが生きていれば養女にむかえるはずだったのだ。セリマの娘は私の娘だ。あの子はどこにもやらない。」

「では、たった一人のお嬢様はどうなります。あんなに小さい……まるで呪われているような娘ではないですか。第二王子のお話もありますし……。」

「マフ。」

 バンデラさんが怒鳴った。スンはぎゅっとコッテの毛を握り締めた。

「セリマの娘を冒涜する気か。」

「エーミリアーナ様のためです。あんなに小さい娘、社交場に出すこともできません。どんな悪い噂が流れるか。」

 スンはそっと部屋を出た。足音をたてずにコッテがついてくる。

「主と旦那様の口論を見るのは初めてだ。」

 スンと並んで廊下を歩きながらコッテが呟いた。

「主が旦那様に逆らったことはない。あの方はいつも正しい方だったから。主も正しい方だった。二人の意見が違えるなど、初めてだ。」

 スンは、立ち止まった。

「わたしのせいだわ。」

 コッテは目をぱちくりさせた。

「あなたの? どうして。今日きたばかりのあなたが、何十年と連れ添った二人の仲をどうやって悪くするという。」

 コッテは首をかしげた。

「わたしここにいてはいけない気がする。」

 スンは溜息をついた。

 執事が何を言っているのかスンにはさっぱりわからなかったが、執事はスンにここにいて欲しいとは思わないのだろう。バンデラさんはスンを娘だと言うけれど、あんなに怖い顔でどうしてドレスを見るのだろう。

 スンの前では優しかったのに。

「私、森に帰るわ。」

「あなたの背丈ではこの屋敷を出ることすら難しそうだ。」

 スンは少し考えてから、コッテに言った。

「手伝ってくれない? 」

「私が? どうして。翌朝あなたがいなくなって真っ先に叱られるのはわたしなのに。」

 コッテは冗談じゃない、と髭をゆらせて笑った。

「私が小さな侵入者を始末しているのは、みんな知っている。あたなも胃袋におさめてしまったと思われる。」

「手紙を書くわ。私が一人で行ったとみんなにわかるように。」

 スンが言うと、コッテはひくっと鼻を動かした。

「それは良い考えだ。」

 コッテが納得してくれたので、スンはさっそく準備を始めた。

 カーテンの糸をほどいて、それを文字のように並べた。コッテが背中に乗せて連れ出たので、朝一で遠くに向かう馬の手綱の影にスンは隠れた。

「これで、あなたがどこで何に食べられても私のせいじゃない。一安心だ。」

コッテがぺろりと鼻を舐める。スンは馬の手綱の影でにっこり笑った。

 朝日がのぼる前に馬車は出発した。遠くにいるバンデラさんの娘を迎えにいくためだ。スンは人々の声と揺れで目を覚ました。馬車は屋敷を出ると、人気のない街道をゆっくり進んでいった。朝もやの匂いを嗅ぎながらスンはぼんやりと、空を見た。

 長かった。おばあちゃんと離れ離れになり、見世物小屋に売られ、お母さんの家までの道のり。泥だらけになったり、ネコに襲われたり、硬い石の上を走り回ってもうクタクタだ。森に帰ればどこか大きな木の上に住もう。冬になる前に木の実を蓄えて、雪が積もったら戸口をふさいで春を待とう。もうすぐ夏がくる。今から準備をすればきっと間に合う。スンはずっとこれからの生活のことだけを考えるようにしていた。

「お嬢様はおきれいになられただろうなぁ。」

「そりゃそうさ。なんせ王子に見初められたんだ。仕立て屋が持ってきたのだって、今まで見たことないくらい華やかできれいなつくりだったってさ。白一色で作ってるのに、ルルッシュの店の奴真っ青になって帰っていったらしい。」

 馬車に乗った二人が話しているのがスンにも聞こえた。

 バンデラさんの本当の娘。どんな人なんだろう。バンデラさんにとって大切な人に違いない。執事にとっても、あの屋敷の中で働いている全ての人にとって、大切な人だと思う。

「そういえば、セリマの娘がきてるってオットーが言ってた。」

「セリマの娘? 十年も前にいなくなった仕立て屋の? 」

 ドキっとスンは震えた。姿を見られる心配はないのに、小さく縮こまった。

「もともとクーデルカだったからなぁ。よその国に流れていって結婚してたのか。」

「それがそうじゃないらしいんだ。」

 男が声を潜めた。

「なんでも、掌に乗るくらいの小さな娘らしい。」

 息を呑むのがスンには聞こえた。二人はしばらく黙っている。

「なんてこった。」

 一人が溜息をついた。

「そんなことが国王様にでも知れたら……。」

「ああ、バンデラ家はおしまいだ。王子様とのせっかくの結婚もどうなってしまうか……。」

 二人はぼそぼそと話しはじめた。

「セリマもなんだってこんな恩知らずなことを。旦那様はセリマをお嬢様と同じくらい可愛がっていたのに……。」

「クーデルカの考えることはさっぱりだ。」

 二人の話声は声を潜めているのに、スンにははっきりと聞こえた。

 スンのせいで、お母さんが悪く言われている。それが苦しくて、涙がこぼれた。

「クーデルカといえば最近人気の見世物小屋がこの街にもくるらしい。空中ブランコがすごいらしくて……。」

と男が言いかけたとき、馬車が停まった。車輪がぬかるみにはまったのだろう。二人は降りて馬車を調べ始めた。

 この隙にスンは馬から降りた。走って、茂みの中に姿を隠す。森の間の小道。スンは森を見上げた。真っ暗で生物の声が聞こえる。湿った風が吹いてくる。森に向かって歩き出した。もうすぐ夏だから、森の中は恵みで満ちている。食べ物には困らない。針を背負わなくなった身体はとても軽くて、心細かった。ぽろぽろとスンの眼から涙がこぼれた。


 森の中は実った木の実があり、虫や動物の気配があちこちでした。スンは木の根の上で泣いていた。とても悲しくて、心細くて、涙が後から後から出てきた。スンにはその悲しさがどこからくるのかさっぱりわからなかった。どうして涙がこんなにこぼれるのかもわからなかった。

 スンが泣いていると、ウサギが茂みから出てきて自分を見た。鼻を小刻みに動かして、スンの目の前まで寄ってきた。

「……こんにちは。」

 スンが声をかけると、ウサギは素早く後ろに下った。スンはごしごしと涙を拭いた。ウサギは再び、注意深く寄ってくる。

「あなたここに長く住んでいるの? 」

「な、がくって? おりゃあ満月五つ分くらしか住んでないよ。」

 頭を低くしてスンの脇から近づく。

「私、スンっていうの。女の子よ。恐いものじゃないわ。」

 ウサギの鼻がスンの頭に寄って匂いをかぐ。スンは犬や馬みたいに大きく穴の開いていない鼻を見つめる。

「女の子の匂いだ。初めてこんな小さい女の子を見た。」

 ウサギがぺろりとスンの頭をなめた。

「しょっぱい。女の子ってしょっぱいのか。」

「私新しいおうちを探しているの。どこかに空いたおうちないかしら? 」

 ウサギはスンを茶色の目で見つめた。

「最近、カケスが巣立っていなくなった穴を一個知ってる。」

「案内してもらえる? 」

「ああ。あんた小さいから、背中に乗ってくれてもいいさ。」

「ありがとう。」

 スンはウサギの茶色い毛を掴んで乗った。ウサギの走り方は縦に揺れるので、スンは首に力を入れて頭の中身がぐっちゃぐちゃにならないよう気をつけた。

 大きなもみの木を越えたところで、ウサギがぴたっと足を止めた。

「……変なにおいがする。」

 ウサギの背骨が大きく動いて、スンの体も上に揺れた。

 ウサギがポンっと走り始めた。背後のしげみから大きな動物が飛び出した。真っ黒で灰色と茶色のまざったような毛をした、狼だ。二頭、ウサギを追ってくる。ウサギの背かあまりにも揺れるので、スンの手が震えた。指の間を毛がすり抜けそうだ。

「私、降りるわ。少しは軽くなるでしょ? 」

「ダメだ、捕まって一飲みにされる。」

 けれど狼がすぐ迫っている。スンは心の中で一、二、三、と数えて手を大きく広げて飛び出した。狼のおでこにぶつかって、狼は悲鳴を上げた。のけぞったので、スンは後ろに居たもう一頭にぶつかった。狼の毛はうまくつかめない。スンの指先がすべって、力が入らない。

 狼が激しく頭を振ったので、スンは高く跳ね飛ばされた。飛ぶように森の景色が遠ざかっていき、空が見えた。そして地面。崖の下の黒々とした森。スンは崖を下から見上げ、また空へと視界が動きながら木の実のように落ちていく。

 眼が回り、背中が何かに叩きつけられた。身体中が震え、スンは気を失った。


 眼が覚めた時静かに鳴く虫の声が聞こえた。スンは身体中が痛くて、ゆっくり目を開けた。靴が片方なくなっている。

 スンの手が固いものに当たった。クルミだった。鼻歌が聞こえる。ごそごそ、動く音もした。スンは暗闇の中で体を起こした。ボンっと炎が音を立てて宙に現れた。黒々とした岩の壁と天井が見え、その中に大きな獣がいた。今まで見たことのない、黄金の毛並みと大きな羽。太い手足に広い背中。顔の周りに長い毛が生え、横顔は見世物小屋の大きな獣に似ていた。

 炎がゆれ、スンはここが洞窟だとやっとわかった。鼻歌は獣が歌っている。

「あなた誰? 」

 スンが尋ねると、獣が自分を見た。大きな頭だった。口の大きさも、スンが豆のように小さく見える。スンなど飲んだうちに入らないだろう。獣は鼻歌をやめた。スンに近づいてくる。足が長い。

「ご機嫌いかがかな? 」

低い声で獣は言った。

「平気みたい。」

 獣がにぃっと笑った。

「あなたが私の背に落ちてきた時は驚いたが、無事で何より。そこにあるものは好きにして良いぞ。」

スンは体を起こした。体が痛い。

「ありがとう。」

お礼を言ってスンは野苺を食べた。乾いた口の中にじわりと甘酸っぱさが沁みる。スンはやっと落ち着いてきた。

「それにしても、若い娘さんが何故森へ? 」

「ここしかくるところがなかったの。」

 獣はスンを炎の傍に誘った。

「どこか空いているお部屋ないかしら? 私の住めそうな場所。」

「私は知らない。だが、よければしばらくこの洞窟にすまないか? 」

スンは洞窟の中を見渡した。

「ええ。お邪魔でなければ。」

 獣が顔をほころばせた。

「私、スンって言うの。あなたは? 」

 立ち上げってスンは手を伸ばした。

 獣は前足を伸ばしたので、スンは小さく縮んだ指のような場所をそっと掴んだ。

「私は色々なことを忘れてしまった。自分の名前も、どこから来たのかも。」

 目を伏せて獣は言った。

「だが、一人で生きていると名などなくても良い。ここではずっと一人なのでね。」

 スンは緑色の宝石みたいな獣の目を見つめた。

「何も覚えてないの? 」

「いつからここにいるかも覚えていない。ただ、なんだか大切な何かを置いてきた気がする。結局私には、それが何なのか解らないままだ。考えないようにしていれば、それも忘れてしまう。」

 スンの胸がぎゅっと絞られたように痛んだ。

 忘れてしまう。おばあちゃんと分かれた寂しさも。裏切られた悲しさも。今まで体験した恐いことも。そして、色んな人と出会った思いでも。お母さんの白いドレス。おばあちゃんの歌。ジャムの味。バンデラさんのがさがさした大きな手。

 忘れられない。スンにはとても忘れられない。

「あなたは、大切なことを忘れてしまって、いいの? 」

 大切だったのだ。バンデラさんの手はとても優しくて、スンは好きだった。

 獣がふふっと笑った。

「良いか悪いかではない。記憶は常に褪せていき、風化するものだ。私はそれを受け入れる。」

 スンは手の中に残った野苺を噛んだ。すっぱくて甘くて、眼を閉じるとジャムを作るおばあちゃんの姿が浮かんだ。


 スンの新しい家探しを獣は一緒に手伝ってくれた。明るいところで見る獣の姿は、大きくて輝いていて、スンは見とれてしまった。

 獣は頭にスンを乗せて、あちこちを歩く。スンは木の穴を覗いたり、ふもとの茂みをうかがったりして空き部屋を探した。中々見つからない。どこも子供を抱えた動物達で満員だ。

「ウサギが、カケスの行ってしまった巣があるって言ってたけど、そこもきっと誰か住んでいるわ。」

 スンは木の実をもいだ。獣が下で受け止めてくれる。

「当分あなたの所にお世話にならなきゃいけないわ。」

 最後にスンが飛び降りる。獣の頭はふかふかの毛で覆われているので落ちても柔らかい。

「私はかまわんよ。小さな友人。」

 獣は腹ばいになって果物を食べる。スンも一口かじった。

「ただ、あの洞窟の奥にはいかないでもらえるか? 水が溜まっているので、私は少し足が濡れるだけだが、君は溺れてしまいかねない。」

「ええ。行かないようにするわ。」

 スンは獣の前足と握手した。

 二人は森の中を歩き木の実を集め、夜になると火をおこして眠った。獣は口から炎を出せる。スンは便利だなと思った。獣は時々鼻歌を歌う。スンはおばあちゃんから教わった歌を歌った。

「私おばあちゃんからよく星の物語を聞いたわ。」

 火を消して、獣のたてがみの中で眠りながらスンは呟いた。

「私のおばあちゃん、町の人達に連れて行かれてしまった。何もしていないのに、魔女だからって。」

 獣がじっとスンを見る。スンは胸が痛くなって、獣のたてがみに顔をうずめた。

「あなたは何かお話は知らないの? 」

 スンが尋ねると、獣はふむっとうなってから、呟いた。

「ある国が戦争をしたことがあった。森が多く、水も豊富なその国は、他の国から見れば恵まれ過ぎていた。」

 スンは顔を上げた。獣は考え込むような顔をしていた。

「他の国々は力を合わせてその国を支配しようとした。国王はまだ若く、未熟だったが懸命に戦った。国中の人々が力を合わせたが、相手の力も強く、国境は侵された。ついには国の民すら危うくなった。しかし、王に味方をしたものがいた。」

 獣の緑の眼がスンを見た。

「賢く聡明な魔法遣いが、その国にはいたんだ。」

「魔法遣い? 」

 おばあちゃんから聞いたことがある。

 魔法を使う人は、魔法に遣える。この世界に満ちた力に遣える人達のことをいうのだと。人に見せるためではなく、私服を肥やすためではなく、世界を知るために魔法に遣える人達。

「聡明な魔法遣いは王を助け、国を守った。未熟だった王は魔法遣いに支えられ、立派な王となり国を治めた。」

「めでたしめでたし、ね。」

 素敵な物語の結末を締めくくる言葉を、スンは呟いた。

「そう、めでたしめでたし。だが、この物語は終わらなかった。人が生きる限り物語は続く。今度は国の中で諍いが起きるようになった。国のためではなく自分が豊かになるために人々は企みを始めた。

 そしてついに、魔法遣いを妬む者達が卑怯な手段を使った。魔法遣いが王を暗殺しようとしている、という噂を流したのだ。」

 獣は深く溜息をついた。

「魔法遣いは心を痛めた。王をそそのかそうと、様々な者が悪い噂を吹き込んだが、王は魔法遣いを遠ざけようとはしなかった。なぜだと思う? 」

「王様は魔法遣いを信じていたからじゃないの? 何度も自分を助けてくれた人でしょ? 」

 獣が笑った。

「王がずるがしこい人間だったからだ。」

 スンは目をぱちくりさせた。

「どういうこと? 」

「王は恐ろしかった。魔法遣いが他の国の手助けをしたら、今度は自分がひどい目に遭う。それならいっそう、魔法遣いを閉じ込め、見張っているほうがいい。魔法遣いはついに心を痛め、一人去った。素晴らしい魔法の道具や、知恵の詰まったたくさんの書物を王の城に置くことを条件に自由の身になった。魔法遣いはほとんどの力を失った。王が身包みをはいで追い出したのだ。」

 獣の目にじわっと怒りが満ちる。

「その国はいつか滅びる。魔法遣いにした仕打ちを、王は受けるのだ。そしてそれを黙殺した国民も。やがて作物がとれなくなっていき、雨は枯れ、子供が死に始める。滅びに向かう。」

 スンは目を閉じる。獣のたてがみをそっと撫でる。

「物語は続いているのね。まだ、おしまいじゃないのね。」

 獣が不思議そうにスンを見た。スンは眠たそうに、目を閉じていた。

「魔法遣いが王様を助けにくるかもしれないわ。聡明で優しい魔法遣いは、たくさんの人が苦しんで死んでしまうのをほっとけないもの。」

「馬鹿な……それでは魔法遣いはただのお人好しだ。いくら、魔法遣いが慈悲深くとも……。」

 スンは瞼が重くて、獣の最後の言葉が聞き取れなかった。獣が泣きそうな顔で自分を見ていたことも、愛しげにスンにほおずりしたことにも気付かず、眠ってしまった。


 雨が降った日、獣はスンを洞窟に残して食べ物を採りに外に出た。スンは洞窟の中で、果物を干す準備をしていた。

 しばらくたつと洞窟の奥で不思議な音がした。カツン、コツンと硬い音がする。

 水が漏れているなら、高い音が響くはずなのに。スンは果物をしばる手を止めて呼びかけた。

「誰かいるの? 」

 外からする雨音の中にまじって、小さな足音がした。

 洞窟の固い石の間から、ネズミの顔が覗いた。

「あんた、初めて見る顔だね。ここは金色の獣が住んでるんじゃないのかい? 」

年寄りのネズミだった。

「ええ。一緒に住んでいるわ。貴方何しているの? 」

 スンが近づくと、ネズミは何かを引っ張り出していた。ネズミはスンをじろじろ見て、匂いをかいで言った。怪しいものじゃないと思ったのだろう。

「食べ物かと思ったら違ったんだよ。がっかりさ。」

 暗闇の中、手探りで触ってみた。ぼろぼろの布だ。けれど厚くて丈夫な布だ。引きちぎられている。ネズミが持っていたのは、鎖がついた石のようなものだった。すべすべしている場所と、何かが彫ってある部分がある。暗くてよく見えない。

「はぁ、年寄りには雨はこたえるねぇ。」

「木の実があるの。食べる? 」

 スンが言うと、ネズミは二回も三回もうなづいた。

 ネズミは木の実を食べて、洞窟の奥に戻っていった。小さな穴が開いていて、外に出られるらしい。 ネズミが去ると、スンは持ってきた石のようなものを改めて見た。長い首からさげるための鎖がついて、彫られていたのは女性の顔だった。眼を閉じた顔のまわりにきれいな髪の毛が波打っている。土や埃を手でのけて、スンはたてにしたり横にしたりしてみる。優しそうな微笑を浮かべた顔に親しみを感じた。

 ふっと暗くなって顔を上げた。髭や喉から水を滴らせる獣がいた。咥えた枝には木の実がついている。獣は、スンの手にしているものを見て、吠えた。

 スンの体がびりびり震え、勢いで後ろにひっくり返った。獣の吐いた炎が洞窟の天井を焦がした。獣は大きな足をスンの横に振り下ろして言った。

「私の約束を破ったな! 」

 ぎらぎらした眼をむいてスンを睨む。スンは眼をぱちくりさせて獣を見つめた。

「洞窟の奥に、行くなと言っただろう! お前も、その首飾りの持ち主のように私に引き裂かれて食い殺されたいのか! 」

 鋭い牙がスンの鼻先に近づいた。真っ赤な舌と洞窟のような口の中。スンはペンダントを手にしたまま言った。

「ごめんなさい。」

「謝れば許されるものではない! 私に一飲みにされたくなければ消え失せろ! 」

 スンは、徐々に眼に涙をにじませた。それでもペンダントを離さず、小さな手で小さな顔をぬぐった。

「私、貴方との約束をやぶったわ。ごめんなさい。でも、どうして嘘をつくの? 」

 スンが言うと、獣の眉間に大きな皺が寄った。

「貴方、このペンダントを持ってる人を食べていないわ。」

「何を、勝手なことを。知りもしないくせに。まだ私が恐ろしくないのか。」

 獣がスンから眼をそらした。スンは体を起こして言った。

「だって、あの服ぼろぼろだけれど、血なんかついていないわ。このペンダントも、鎖は千切れているけれど、きれいだもの。」

 獣が一歩下った。スンは立ち上がった。

「あなた、この人のことを忘れたくなかったの? 」

スンは首飾りを差し出した。

「黙れ。」

 獣が吠えてもスンはひっくり返らなかった。スンは首飾りを抱きしめて言った。

「私あなたの鼻歌好きよ。貴方のふかふかのお髭も好きよ。」

 スンは獣に近づく。獣は足を突っ張って顔を背けた。獣の方がスンを恐れているような素振りだ。ペンダントを置いて、スンは獣の髭を引っ張って顔によじ登った。

 スンの頭より大きな眼の傍まで登って、スンはふかふかの毛に顔を埋めて抱きしめた。

「あなたは私の大切なお友達よ。恐がらないで。」

 獣が膝をついた。小さなスンを抱きしめるように、前足でそっとつつみ込む。

「火をおこしましょう、あなた風邪引いてしまうわ。」

 スンは木屑を集めて火をつけた。乾いた木の枝を獣が前足で入れて、大きな炎になった。二人はよりそって炎の前に座った。

 獣はずっと黙っていたけれど、日が段々沈んでくると、ぽつりと呟いた。

「……あの服も、この首飾りも、私にはとても恐いものなんだ。なぜだかわからない、けれど捨てることができなかったんだ。」

 スンは、獣はいろんなことを忘れたかったんだろうと思った。でも忘れられなかったんだと、解った。

「最近、耳の奥で何かが聞こえる。私を呼ぶ声がする。私の頭の中は真っ白になって……気がついたら時間が流れている。」

 スンは顔を上げて獣を見つめた。

「私は恐いものばかりでここに逃げてきた。一人になってほんの少し安心した。」

 獣が自分を見降ろした。スンの顔に鼻先を近づける。

「スンのように若い娘がこんな森に来るとは思わなかった。私を恐がってすぐに逃げると思ったのに、ここに居続けてくれた。」

 スンは微笑んだ。

「あなたの目とても優しいもの。恐くないわ。」

 照れくさそうに獣が笑った。いつのまにか日は沈み雨は止んでいる。二人は木の実を食べて、獣の毛が乾くまで待った。

 髭がピンとっはる頃、獣は言った。

「スン、一緒に散歩に来てくれないか? 」

 スンは不思議そうに顔を傾げたが、うなづいた。スンを頭に乗せて獣が歩く。影がくっきり見えるほど明るい。しげみの中に輝く目があるが、うかがうだけですぐにいなくなる。

「私の影、小さいけれどちゃんとあるわ。」

スンが言うと、獣はふふっとわらった。

 森の間をしばらく行くと、大きな泉が見えてきた。獣は四つん這いになってひざをついた。スンは頭から降りて、泉を覗き込んだ。自分の顔を久しぶりに見た。髪はぼさぼさ、服も、ずいぶん汚れている。靴も片方ない。そろそろ新しい服を作らなくてはいけないかもしれない。

 スンは森の中の素材で何か服が作れないか考えていた。獣は、じっとスンを見ていた。泉に写ったスンを、驚いた眼で見ていた。

 強く風が吹いた。スンは飛ばされないよう、しゃがんで草をつかんだ。

「スン、お前は、そんなに小さかったのか。」

 スンはきょとんとした。獣の目の色が、緑と蒼がまざったような不思議な色で、光っていた。その奥に、見たことの無い若い娘がいた。

 風がいっそう強く吹くと、獣は吠えた。苦しげに頭を振り、よろよろとスンから離れる。

「どうしたの? 」

スンは駆け寄ろうとしたが、獣がおぼつかない足取りで足踏みをするので、踏み潰されそうだ。

 獣は羽を広げた。苦しそうに途切れ途切れうなりながら、羽を動かす。そこで巻き起こった風が、スンを泉に落とした。

 獣の悲鳴は森中に轟いた。スンが泉から這い上がる頃、獣は空の星のように段々小さくなっていくところだった。

 スンは水を滴らせながら歩いた。靴は無くなっていた。風がまた吹いて、スンはくしゃみした。歩きながら時々空を見る。獣の姿は見えない。頭の中が真っ白になってしまったのだろう。

 獣と歩いた道は、ずっと長くて遠かった。

 日が昇るころ洞窟に着いた。スンはふらふらと歩いて、枯れた草を集めて潜り込んだ。首飾りを立て掛けて、寝ていても女性の顔が見えるようにした。優しい微笑が、お母さんにもおばあちゃんにも見えた。

 一度横になるともう起き上がれなかった。頭が重くて寒くて、喉が渇く。足をこすり合わせて、眼を閉じる。いつの間にか眠っていた。

 いつだったか、ずっと昔今のように体が重くて動けなくなった。おばあちゃんは、風邪を引いたんだと言って、温かい両手で包んでほおずりした。スンを懐に抱いて子守唄を歌ったり、どろどろの、塩味のおもゆを飲ませてくれた。苦くてのどがぴりぴりする薬を飲ませてもらうと、汗がたくさん出た。体が熱くて、真っ赤な木炭になったような夜を過ごすと、朝はすっかり良くなっている。おばあちゃんはできたての熱くて甘くていい匂いのジャムをお祝いに食べさせてくれた。

 スンは眼を開けてガタガタ震えた。水の音がする。どこかからか、水が漏れている。スンは羽を焼かれた虫のように、震えながら起き上がる。じわっと、水が足に触れた。雨音が響いていた。少しでも高い場所に行かなくては。スンは首飾りを振り返った。

 獣は戻ってくるだろうか。もう自分を忘れてしまっただろうか。

 重い頭に浮かんだ考えは、スンの胸をシクシクと痛めた。ふぅ、と息を吐いてペンダントを抱えた。

 洞窟のなるべく高い岩の上によじ登る。ペンダントを自分の下に置いたまま、スンはしばらく動けなかった。ペンダントを見つめて、泥を払いのける。スンの手は泥まみれで震えていた。

 ゆっくり身体中から力を抜いて息を吐く。意識が段々遠のく。水音と雨音しか聞こえない。スンは細い声で鼻歌を歌った。獣の歌っていた歌詞のない音楽。口ずさんでいると、おばあちゃんの子守唄と重なってくる。最後まで歌い終わらないうちに、スンの声は消えていった。

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