表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
縫い針娘スン  作者: 柳沢哲
4/13

旅一座と手がかり

 スンは不安になって女の人を見た。女の人はスンを木の小屋に連れて行った。小さな物置のような大きさで、小屋の中は道具や服でいっぱいだ。

「恐がらないでね。ひどいことはしないから。」

 女の人はそう言ったけれどスンは恐かった。女の人も不安そうだった。スンを怯えた目で見ている。

「私、森に連れて行ってもらわないといけないの。ここから出して。」

 スンが言うと、女の人は無理やり笑顔を作った。

「待ってて、ほら、お菓子でも食べて……おいしいのよ。」

 扉が開く音がした。太った顔の男がスンを見下ろしてにこにこ笑った。

「君に頼みたいことがあるんだ。ナノと一緒にお菓子をあげておくれ。大丈夫、誰も君をいじめたりしないよ。ほんの少し手伝ってくれれば、君の欲しいものをなんでもあげるから。」

「なにもいらない。なにもいらないから、森に連れて行って。」

 スンが言うと、にんまり笑って男はうなづいた。

 スンはそっと妖精の女の人を見た。笑った顔が悲しそうに見えた。

 スンをカゴに乗せると、女の人は外へ連れて行った。人がたくさんいる。子供が多い。はしゃいだ声や笑い声、何かが破裂する音がする。スンは怖くて縮こまった。こんなにたくさんの人達が一斉にスンに向かってきたら、あっという間にバラバラにされてしまう。

「明日のお昼に見世物をします。空中ブランコもやりますので、見に来てください。」

 女の人がお菓子を子供達に配る。身を乗り出した子供がスンの姿を見つけて叫んだ。

「小人だ! 小人がいる! 」

 スンはぎこちなくお菓子を抱えて差し出した。子供達がスンに手を伸ばし、掴もうとする。慌ててスンはカゴの中に飛び込んだ。お菓子の下に隠れて、女の人が籠を高く上げて立ち去ってくれるまで丸まって小さくなった。

 小屋の中に入り、支配人がスンを摘み上げた。

「よしよしありがとう。しばらくここで待っていると良い。すぐ森に行く準備をするよ。」

 スンが入れられたのは虫かごの中だった。部屋の机の上に置かれ一人にされた。スンは針金で作られたカゴの中を見渡した。あちこちに短い毛がほんの少しはさまっていた。部屋の中には生物のにおいがいっせいにする。窓の外は日が暮れ、部屋の中は暗く不気味だった。外では大きなネコのような顔をした、黒い縞模様のある茶色の獣が、檻と一緒に運ばれていた。森にはいない獣だった。クマのように大きい。

 スンがカゴから顔覗かせると、ぐわんっとカゴが揺れた。スンは眼を回して倒れた。

「小さくてひらひらしてて美味しくなさそうね。」

 真っ黒な毛並みをした猫が、前足でスンの入っているカゴをつついていた。

「私、貴方のご飯じゃないわ。」

「ふぅん。でも、この中にはいっつも私のご飯が入ってるのよ。あっちのは芸をするから食べちゃだめなんだけど。」

 ネコが鼻先でネズミ達の入っているカゴをさした。ネズミ達は一瞬こちらを見て、それからまた鼻をひくひく動かしながらこそこそ何かを話していた。

「あんたご飯じゃなかったら何なの? 」

「私は女の子よ、スンていうの。」

 ネコはじぃっと金色の目でスンを見た。スンが見つめ返すと、ネコは長い舌でぺろりとスンの顔を舐めた。

「あたしはディディ。あんたも何か芸をするの? 」

「私森へ行くの。芸はしないわ。」

 黒い長いしっぽがひらっとなった。

「じゃ、何をするの? ここじゃ働かないのは置いてかれるのよ。」

 前足で窓の鍵をはずして、するんっとディディは降りていった。スンは針金をぎゅっと握って外を見ていた。

 ディディの出て行った窓の間から、ひゅーっと風が吹いた。スンの目にじわりと浮かんだ涙がほんの少しだけ乾いた。スンは暗い部屋の中で支配人が戻ってくるのを待っていた。かたんと音がして、ネズミがこっちを見ているのに気付いた。

 スンが見つめ返すと、ネズミはまたカゴの奥に戻って何かをこそこそ話し始めた。扉が開く音がし、光と影が差し込んだ。

「まったく、あいつは本当に使えない。空中ブランコの一つもまともにできないなんて。」

「おじさん、イズも一生懸命やってるんだから。」

「うるさい。私に口答えするな。」

 怒鳴り声がして、スンはびくっと震えた。

 支配人が部屋の中にくると、スンに焼いたソーセージとパンを一口分切って入れた。

「今日はもう遅いから、休んでくれ。何、明日には君を連れて行くよ。」

 スンは油でテカテカしたソーセージを見てから、顔を上げた。

「一人で行けるわ。ここから出して。」

 こんなところで一晩過ごすのは嫌だ。スンの顔を見て支配人は大げさに手を振って言った。

「一人で、だって? それはよくない。君みたいな小さな女の子がこんな大きな街で歩くなんてとても危険だ。イヌだってネコだってうろついているんだ。人に踏み潰されるかもしれないよ。」

 優しそうに支配人は言っているが、スンには優しそうに感じられなかった。

「私、ずっと一人で歩いてきたもの。」

 支配人は手をあごに置いて少し考えてから言った。

「よしわかった。それじゃあ明日だけ手伝っておくれ。そしたら君をちゃんと森まで送るから。」

 支配人が小指を差し出した。

「ほら、約束の握手をしよう。」

スンはそっと小さな手を伸ばして、支配人のまん丸の指先に置いた。

 けれどそれは嘘の約束だった。支配人は最初からスンを自由にする気はなく、一座の宣伝係としてこきつかう気だった。今日だって子供だけでなく通りがかった大人達も足を止めてスンを見ていた。明日にはスンを見たくてもっとたくさんの人が集まる。支配人にはスンが金貨のつまった袋に見えた。

 支配人はにっこり笑ってスンから手をひっこめた。スンはそっとカゴの中から支配人が出て行くのを見ていた。

 部屋の中には、妖精の格好をしていた女の人だけが残った。スンは女の人の顔を見て、少し顔が違うことに気付いた。顔にはそばかすがあるし、眼もさっきの方が大きい。まつげもない。

「ごめんなさい、こんなところ窮屈でしょう。でもディディに食べられるといけないから……。」

 女の人が悲しそうに言った。

 スンは、声を聞いてやっぱりあの妖精の人だと思った。服装は灰色で質素だけど、きれいな声は同じだった。

「戦争でおじさんは家も家族も全部失ったの。だから今、おじさんはお金のことばかり考えているの。前は、もっとたくさんのお客さんが入っていて、儲かっていたから機嫌が良かったけど、今はあんまり良くないの。」

 スンは女の人の頬にある青い染みのようなものあるのに気付いた。

「それどうしたの? どこかにぶつけたの? 」

 女の人はそっと頬を触って笑った。スンの質問には応えなかった。

「明日は、貴方にも色んなものを見せてあげる。虎の火の輪くぐりや、ネズミたちの玉乗り。空中ブランコだってやるのよ。イズっていう肩に鳩の刺青がある男の人がやるの。今は少し不調だけど、明日にはきっと成功するわ。それからピエロのジック、彼は玉乗りをして失敗ばかりするけど、最後はちゃんと玉の上に乗って帰っていくの。お客さんは気付かないけど、彼はとっても玉乗りが上手なのよ。ナイフ投げのビヤンカもね、毎日練習してるわ。最初は練習しすぎて腕が上がらなくなったんだって。獣使いのアジーおじさんも、もう何年も続けられないから次が最後かもしれないっていつも頑張るわ。」

 楽しそうに言っているのに女の人の目は悲しそうに伏せたままだった。

「貴方は物知りなのね。」

スンが言うと女の人は顔を上げた。

「そんなことないわ。私、両親がいないから、皆とずっと旅してた。それだけよ。」

「ずっと? どうしておうちに帰らないの。」

 旅を続けていたなんて、スンには信じられない。たくさん歩いて、安心して眠ることも出来ない。スンは早く森に帰りたかった。もう家は焼けてしまったけれど、森丸ごとがスンの家だった。森に帰ればスンは安心して眠れる。

「家はあったけど焼けたの。初めは父さんと母さんと一緒だったけど、二人共食べ物をもらってくるからって、行ったきり帰ってこなかったの。」

 スンは目をぱちくりさせて驚いた。この人も、自分と同じだ。

「何日もたってお腹がすいて、何も考えられなくなった時、おじさんが拾ってくれた。旅をして、芸をして、色んな人が笑ってくれて、楽しかった。皆家族よ。また、あの日みたいにたくさんの人に笑って欲しい。今みたいな立派な車なんかいらないから……。」

 女の人がぎゅっと口を閉じた。叩かれた頬が痛くなったのだろうか。スンはカゴからできるだけ顔を出して、言った。

「楽しいなら、ここが貴方のおうちなのね。」

「ええ、ここが私の家。」

 森にいたスンをおばあちゃんが見つけた。一緒にするのは嫌だけど、あの支配人はそれと同じように、この人を見つけたんだと、スンは分かった。

「でも今は楽しくないの? 」

 ぱちっと女の人が瞬きした。涙がぽつっと流れると、女の人は悲しみだけではない、何かぽっと光が灯ったような眼をした。

 女の人は頭を低くして、スンを見つめた。

 スンの中には恐い気持ちがもうなかった。代わりに、この女の人もたくさんの恐いことや不安なことがあったんだと感じた。

 スンは小さな手をそっと伸ばした。女の人も、そっと人さし指を伸ばした。

「私、スンっていうの。」

「スン、可愛い名前ね。私はナノ。貴方、やっぱり生きているのよね? 本物の妖精かと思ったけれど、こんなに小さな手なのにちゃんと温かいもの。」

 スンはきれいな真っ青な目のナノを見つめた。

「貴方は一体どこから来たの? 」

「森よ。そこでずっとおばあちゃんと一緒だったの……。」

 スンの目の奥に、赤く燃える空が過ぎった。町の人の恐ろしげな顔、カーテンに燃え移った炎や部屋の中にぱらぱら舞う火の粉。おばあちゃんの笑顔。

「私、おうちに帰りたい。」

 ナノはスンの悲しそうな顔に、複雑な事情を読み取った。スンの手に自分の手を重ね合わせた。

「明日は森に返してあげるわ。おじさんがダメだと言っても、私が必ずここからだしてあげる。約束するわ。」

 スンはこくっとうなづいた。


 ナノはスンの小屋の中に良い匂いのするハンカチをいれてくれた。スンはハンカチに包まって眠っていた。石鹸の匂いとお日様の匂いは、おばあちゃんの匂いだった。明日もし支配人がここから出してくれなかったら、ナノが手伝って出してくれても大変なことになる。そのためにもたくさん寝て力を蓄えなくてはいけない。

 スンはぎゅっと目をとおじていたけれど、大きな音がした。何かが檻を叩いている。

「おい、おい、そこの新入り。おい、お前だよ、そのひらひらちっこいの。」

 スンは顔をあげた。ネズミがスンを見ていた。ネズミは自分の入っているカゴをゆすっていた。

「食わないのか? それ。だったらくれ。食わないんだろう? 」

 ネズミはスンが一口も食べなかったソーセージのことを言っているらしい。

「私そこまでいけないわ。」

「食わないんだな? よし、じゃあ待ってろ。今行く。すぐ行くからな。おい、ガジ、手をかせよ。ソーセージだぜ。ソー、セー、ジ。」

 ネズミたちがカタンコトンと動き始めた。一匹が扉を支え、一匹が這い出した。

「おい、俺にもくれよ。一口でいいからさ。一口。」

 するするっと棚から降りるとスンの前にあっと言う間にやってきた。

 スンがソーセージを差し出すと、ネズミはスンを見てからもぎ取り、匂ってからスンをもう一度見た。そしてかぶりついた。

「お前はどんな芸ができるんだ? 玉乗りか? 台車ころがしか? 綱渡りか? それにしてもずいぶんひらひらしているな。お前どこから来たんだ? 変わった奴だな? 虫か? 」

「私何もしないわ。森から来たの、スンっていうのよ。虫じゃないわ。女の子よ。」

 ネズミはじぃっとスンを見た。それから鼻を動かしてソーセージをかじった。するするっともう一匹のネズミが降りてきた。ソーセージをひったくった。がぶりと噛み付く。

「俺はカジ、こいつはガジだ。」

 カジのほうが少し出っ歯でガジの方が少し尻尾が長い。

「うん、こいつはいいソーセージだ。こいつは旨い。こんな気前よさ久しぶりだ。」

「貴方達、カゴを開けられるの? 」

「そうさ、こんなのちょろいもんだ。いっつも同じなんだから、開け方くらい覚えたさ。」

「なのに、大人しく入ってるの? 」

ネズミ達は向き合った。

「ディディに食われるのは嫌だからな。あいつなんでも食うんだぜ。たまんないよ。」

「支配人は俺達がしくじるたびにあいつで脅かすんだ。たまんないよな。」

 そして二匹はソーセージをかじりあう。

「私をここから出してくれない? 私森に行きたいの。」

「森? どこだそれは。まぁ出してやってもいいけど。」

ソーセージをほおばりながらガジは言った。

「誰か森に行く道を知っているひとはいない? 」

「さぁな。外には居るかもしれないけど。俺は知らない。」

「俺も知らない。」

 カジとガジは顔を見合わせた。

「私をここから出してくれない? 」

 スンはドキドキしながら言った。二匹はしばらく口を動かした。

「ディディに俺達を食わないようにしてくれるならいいけど。」

 スンに向きなおって同時に言った。

「約束するわ。」

 二匹はソーセージを食べ終わり飲み込むと、スンのカゴの上にするするっと上った。そしてあちこちをぱちんっとはずすと扉が開いた。スンは出た。けれどすぐカゴに戻り、きれいにハンカチを折りで、机に降りた。

 机の脚にはらせん状の模様がついていたので、ネズミたちが足をかけて降りる。スンも真似して足からゆっくり降りた。小屋の中は隅っこに穴が開いていて、外に出て木と木の間に足をかけて小屋から降りた。

「今日はソーセージの残りがまだあるはずだ。」

「取りおきがあるはずだ。あのケチの支配人のことだからあるな絶対。」

 ガジとカジが隣の大きな小屋に行った。小屋に車輪がついているなんて、全然気付かなかった。中に入るとドンドンっと足音がし、男の人が部屋の中に入っていく。肩には鳩の絵が描かれていた。

「イズだぜ。また溜息ついてら。」

「失敗したんだな。支配人はすぐ怒鳴ってあいつにプレッシャーを与えるからいけないんだよ。」

「そうそう。俺達にもプレッシャーを与えるからいけないんだ。あんなの逆効果だぜ。褒めて伸ばさないとな。」

 イズの入った部屋の扉は少しだけ隙間が開いていた。スンは足早に部屋の中に入った。ベッドが二つあって、もう一つの方は既に誰かが寝ていた。

「何するんだ? イズは旨いもの持ってないぜ? 」

「そうだぜ。あいつが持ってるのは手の豆くらいなもんさ。」

 スンはベッドの中でうなりながら、横になるイズを見上げた。床の間にはほこりと砂が溜まっていて、大きなぼろぼろの靴があった。スンは床まで垂れたシーツにしがみ付き、ベッドの上までよじ登った。イズがベッドの上についた時は、イズが大きな声をだしてうなった。イズはびくっと震えてシーツの中に隠れた。けれどイズは寝返りしただけだった。

 スンは枕まで近づき、イズの耳元に着いた。耳には大きな金の輪がついていた。

「大丈夫よ。明日はちゃんと成功するわ。明日には何もかもうまくいくわ。ナノは貴方を信じてる。」

 小さな声でそっとスンは言った。シーツを掴んでゆっくり降りた。

 ネズミの後を追って入った場所は台所だった。

「おい見ろよ。またナノがまたこんなところで寝てるぞ。」

「またかよ。この前の町で泥棒が入って以来ずっとここで寝かされてるな。いくら拾ってきた孤児だからって支配人はこき使いすぎだよ。食料の番までさせるんだから。」

 台所の隅っこでナノが眠っている。袋を枕にして、コートをシーツにしていた。

「知ってるか? ナノは別人になるんだぜ。粉を塗って自分の顔に絵を描くんだ。」

 スンはゴミ箱の中のパンやリンゴをかじっているカジとガジのそばを離れて、ナノに近づいた。彼女の顔は疲れきっていて、眼の下には黒いものが浮かんでいる。

 小さな手でナノの頭を触って、スンは耳に近づいた。

「貴方は優しい人だと思うの。あの偉い人は優しいふりをするけど、私は優しいなんてちっとも思わなかったわ。本当は、貴方みたいにみんなの良いところをたくさん知っている人がここで一番偉い人になるほうが良いと思うわ。」

 スンはそっとナノから離れた。

 ネズミ達は満足いくまで食べて、スンを外に案内した。外には大きな檻があって、中にはあの不思議な縞模様の大きな獣がいた。身体を伏せて眠っている。

「ここまでだな。」

「そうだ、こんなでかいおっさんじゃ、お前も一飲みにされるからあんまり近づくなよ。」

 スンはそっと檻の中に入った。ふんっと鼻が動き、髭がぴくっと震えた。まだぐっすり眠っているようだ。藁は変えたばかりで、ぱりぱりに乾いていた。

「ありがとう。私ここにいるわ。」

「おいおいおい、本気か? ここで寝るのか? 」

「やめとけやめとけ。朝眼が覚めたら胃の中だぞ。」

「大丈夫よ。」

 ネズミ達は顔を見合わせて、さっさとスンを置いていなくなった。スンは腰を降ろすと藁を身体にかけて眠りについた。


 眼が覚めるとスンの背中には固いものがあった。藁はなく、スンの身体は木のお椀の中に入っていた。背負っていたはずの針の入った袋は隣にあった。

 明るくて騒がしい。スンはむくっと起き上がると、顔に大きな傷のある老人の横顔が見えた。老人の持っている木のお椀の中には大盛りの生肉が入っていた。スンはドキっとして小さく縮こまった。

 獣に肉を出すと、スンのほうに近づいてきた。スンは寝たふりをした。薄目で見ていると、老人の膝から下が段々見えてなくなってきて、それから腰が近づき横切っていった。老人が背を向けると、スンは身を乗り出して獣を見た。

「おはよう。」

 獣はスンを見たが、すぐに肉に眼を戻した。

 スンは、そばにパンが置かれて驚いた。老人と眼があった。

「ありがとうございます。」

スンはとっさにお礼を言ったが、老人は何も言わなかった。

 老人は酒の瓶の先を潰した蓋の中に水を入れ、スンに出した。スンは頭を下げたが、やっぱり老人は何も言わなかった。

 大きな声がした。スンはお椀の中に慌てて隠れた。

「早く探せ! あの娘がいなくなると大損だ! 」

 支配人の声だった。スンは老人を見たが、彼は静かに支配人のほうを見ていた。スンはそろっとお椀から出てテーブルの後ろのほうに下がった。けれど老人が気付いてスンを両手で覆った。老人の指の間からスンは顔を出した。

「お前さん、昨日こそこそ動いとったな。イズのベッドに上がっただろう。」

 老人はぎょろっと眼を動かした。スンは腰を落として顔を指の間に沈めた。老人は自分をつまみあげて、支配人の所につれていくのだろうか。

「おじさん、もういいじゃない。あの子は森に行きたがってたもの。元々おじさんが騙して連れてきたんじゃない。」

 ナノの声がした。スンは老人の二の腕越しにナノがぶたれるのを見た。スンはぶるっと震えた。 ナノはちっとも悪くないのに、ひどい。

「お前がちゃんと閉めないからだ。ハンカチなんか入れて、この役立たず。」

 支配人が怒鳴った。 ナノはしばらくぶたれた頬を押さえていたが、突然手を振り上げて、支配人を突き飛ばした。 支配人が驚いてナノを見る。見ていた一座の皆も驚いた。ナノはこれまで支配人に逆らったことがなければ、殴り返したこともなかった。

「おじさんには感謝しているわ。恩人だと思ってる。飢え死にしそうだった私を、両親に捨てられた私を、助けてくれたんだもの。」

ナノの肩はぶるぶる震えていた。

「でも、もう我慢できない。おじさんは皆のことを考えずにお金のことばかり考えているわ。だからこの一座もうまくいかなくなったのよ。」

 ナノは仁王立ちで支配人にまくし立てた。眼に涙が滲んで、苦しそうに息をした。

「もう、おじさんはここから出て行って。お金を持っていって二度とこの一座に近づかないで。」

「それでどうする気だ、お前が支配人になる気か。馬鹿をいうんじゃない、この小娘が。わしがいなくなったらこの一座は潰れちまうんだぞ。」

 ナノが黙った。スンはいつの間にか、老人の指の間から大きく身を乗り出していた。

「潰れないわ。」

ナノはきっぱり言った。まっすぐに、支配人を睨みつけた。

「皆で力を合わせて、前みたいに楽しい一座にするの。おじさんはほとんどの仕事を私に任せて何もしてこなかったじゃない。」

 支配人は青くなったり赤くなったりした。

「嘘だと思うなら皆に言えばいいのよ。おじさんと一緒に働きたい人は、おじさんについて行くはずよ。」

 ナノは一晩ですっかり変わってしまった。スンは老人のかさかさした親指と人さし指の間からじっとその様子を見ていた。 老人はスンを振り返って、手を離した。

「お前さんどうする。森に行くのか? 」

 スンは老人の低い声が頭の上から降ってきたので顔を上げた。老人はスンを捕まえるつもりはないようだった。

「やめておけ。お前さんは賢い。森の生物とは一緒になれないぞ。」

「そんな。」

スンは立ち上がった。

「私今までずっと森にいたもの。これからも森にいたいわ。」

 老人はふぅむ、と溜息をついた。

「それは、正しいかもしれん。お前のような珍しい姿をしている娘は、あの支配人みたいなのに見つかったらひどい目に遭うからな。」

 スンは老人を見上げた。

 老人は大きながさがさの手でスンの頭を軽くなでた。

「お前さんの針に小さく名前が書かれている。セリマと。」

 スンはドキンとした。

「これと同じ名前の店がここに来る前の街にあった。ここよりずっと大きくて、人の多い街。国王の住む城の街だ。森に行くのは、そこに行ってからでもいいんじゃないのか? この針はお前の家族と関係しているものだろう? 」

 スンは、針はお母さんの形見だと聞いていたけれど、しっかりと見たことはなかった。この針が、今はいないお母さんの示しているなんて、ちゃんと考えたこと無かった。 お母さんと繋がりがあるものが、自分以外にこの世界のどこかにある。スンの身体はぶるっと震えた。

「針に書かれているのと同じ名前? 」

 スンは針を出した。針の糸とおし穴の所に、よく見ると名前が書かれている。

「おじいさん、眼がとっても良いのね。」

 スンは老人を見た。老人は腰を上げた。

「わしはそいつと仕事がある。お前さんは好きにすると良い。森に行くなり、家族を探すなり、決めるといい。」

 老人はスタスタと支配人とナノの所に行った。

「何故私の所に来たんだ。」

 声がしてスンは振り返った。獣が檻の中に座っていた。

「貴方が森のある場所を知っているかと思ったの。」

「知っている。ここよりはるかに遠い。その足ではいったい、いつつくことやら。」

 獣はふんっと笑った。

「お前は何者だ。人間にしては小さいが、人間の匂いがする。」

 スンは机の足を伝って降りると、檻に近づいた。獣の足元まで登る。

「いや、少し違う。」

 獣はスンに顔をぐっと近づけ、においを嗅いだ。

「お前は太陽のにおいと木の匂いがする。ぽかぽかする匂いだ。懐かしい。」

「貴方はどこから来たの? 」

 スンは獣の鼻の頭に手を置いた。

「旅をした。海を越え、森を抜け、山も登った。母は人間に殺された。」

 獣の大きな眼の中に、彼のお母さんの姿が見えた気がした。

 優しそうな町の人達が、恐い顔をしておばあちゃんを連れて行ってしまった。スンの体がほんの少し震えた。

「兄弟は何人かいたが、皆死んだ。私は狩を忘れ、今は火の輪を飛ぶことで生きている。毛をじりっと焼く熱さ、耳が砕けるほどの人間達の声。頭が割れそうだ。一つのことに心を注がないと、逃げ出してしまいたくなる。」

 金色のぴかぴか光る目がスンを見た。

「私は、アイボウの声だけを聞いている。彼のたてる乾いた音を頼りに飛ぶんだ。」

 獣が見た方向には細長い皮がついた棒があった。

「あれで私を叩く奴がいたが、アイボウは一度も叩かなかった。」

「叩かれたの? あれで? 」

 スンは、あれがどんなものか解らないけれど、とても痛そうな物に見えた。

「どうして。ひどい。」

「知らん。人間のことは解らない。アイボウは、別だが。」

 獣は頭をゆっくり上げた。

「ここは人間ばかりだ。だから私のようなものは珍しい。お前も同じだ。人間の赤ん坊よりずっと小さい。とても珍しい。」

「私も、あれでぶたれるの? 」

「知らん。だが、アイボウじゃないやつはわかる。金の匂いがする。からからに乾いて冷たい、嫌な匂いがする奴は、アイボウにはならない。」

「でも、私貴方みたいに鼻が良くないの。」

 獣はスンの顔をもう一度覗きこんだ。

「自分を信じろ。嫌な人間には近づくな。」

 老人が戻ってきた。スンが檻の中にいるのに気付くと、両手ですくうように抱えて机の上に置いた。

「わしらはこれから仕事だ。客に見つかるようなへまをするなよ。」

 スンはこくっとうなづいた。

「じゃあ行くか。今日も頼むぞ、相棒。」

 老人が獣の背中を檻越しにそっと叩いた。

 檻は下に車がついていたので、老人と若い男の人と一緒に運んだ。スンはテーブルの上で連れて行かれる獣と老人を見ていた。

 スンをここに置いていってしまった人は、嫌な感じがしなかった。親切だと思った。最初に住んでいた場所の、町の人だってそうだ。皆が皆嫌な感じがしたわけではない。仲良くなれればいいなと思った。

 獣の言うことはとても難しい。スンは針を持ってじっと見つめた。自分がこれからどうすればいいか、わからなくなった。一人ぼっちで、恐くて、どこか誰も居ない場所に行って静かに暮らしたい。

 スンは、また目がじりっと熱くなるのを感じた。視界がぶわんと見えなくなって、針が何倍にも膨れて見えた。

「あら、あんたここにいたの? 」

 下から声がした。スンは机の下を覗きこんだ。ディディがぴょんっと椅子に乗り、テーブルに飛び移った。

「大変だったのよ。ナノが支配人を追い出して、おもしろかったわ。誰も支配人をかばわないんだもん。あの人、怒ってたけど今にも泣きそうだったわ。で、有り金全部持っていっちゃった。今日お客さんが来なかったらこの一座はおしまいね。」

 おしまい、という言葉にスンはぞっとした。

 あの大きな獣はどうなってしまうのだろう。おじいさんももう働けないらしいし、ナノやイズも働く場所が見つからないのかもしれない。

「私のせい? 」

 自分がナノにあんな言葉をかけたからだろうか。彼女を励ましたかっただけなのに、とんでもないことをしてしまったのだろうか。

 ディディはきょとんとした。

「知らないわ。自分でやったことなんだから、自分のせいよ。」

 ディディは前足をぺろりと舐めて、小さな紙をまるめたものを見つけた。

「ねぇ、これあんたの背中にちょうどいいんじゃない? パンとチーズの匂いがするわよ。」

 スンは近づいて見た。紙にくるまれたそれは、スンの背中に背負える大きさだった。

「……自分でやったんだから、自分のせいよね。」

 スンは自分の口の中で繰り返した。

 紙の包みを針と背中の間に挟み、机の上にあった木炭と紙でお礼のメモを残した。

「私王様の住む街に行きたいの。どうすればいいかしら。」

「決まってるわ。一番立派な馬車に乗ればいいのよ。大きな街に行っても恥ずかしくないようなやつね。」

 スンは机の足を伝って降りた。ディディもぴょんっと降りた。

「その足で行くなんて、大変よね。」

 スンはにこっと笑った。

「でも私歩くの好きよ。じゃあね、ディディ。さよなら。」

「さよなら、スン。誰かに踏み潰されないようにね。」

 ディディは尻尾をくるりと回した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ