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縫い針娘スン  作者: 柳沢哲
3/13

森の外の家族

 歩きながらスンは空を見つめた。時々、まだ焦げ臭い匂いがした。ウサギがスンを見て、また去った。キツネがウサギを追いかけていった。しばらくして、ぷんっと血の匂いがした。 スンは止まらず歩いていた。二回つまづいて、こけた時ひざをすりむいた。起き上がろうとしたとき、何かがこつんとスンをつついた。

「なんだ? 変わったネズミだな。」

 大きな黒い鼻がスンの目の前にあった。ひくひくと動いている。スンは鼻をそっと手で触った。

「私、ネズミじゃないわ。女の子よ。」

 茶色いキツネの目がスンを見た。

「女の子ってのは、もっと大きいものじゃないのかい? 」

「私は小さくても女の子なの。」

 キツネの鼻に手を置いてスンは立ち上がった。ぷわんと、キツネの口の周りから血のにおいがする。

「貴方の口汚れているわ。」

「今食事したばっかりさ。」

 キツネの鼻はパンのにおいとチーズのにおいを嗅ぎ取った。

「パンとチーズ、人間の匂いだ。小さくても人間らしい。こんな森の奥で何をしてるんだ? 」

 スンはじっと眼に涙をためて黙った。

 何をしているのか、スンにもわからない。

 キツネは突然スンの針をくわえた。背中に針を背負っていたので、スンごと持ち上げる。

「人間は人間のいる場所に帰ってくれ。あんたを探しにわらわらこられちゃたまらない。」

「やめて。私、ここにいたいの。」

 キツネは知らないふりをして、スンを咥えて走った。スンは血の匂いでクラクラして、キツネの足の早さに目を回した。

 昨日までの自分は、今ごろおばあちゃんと一緒に朝ごはんを食べていた。温かい野菜のスープを飲んで、今日は何をしよかと、わくわくしていたのに。

 スンはぼろぼろ涙をこぼしながら、キツネが立ち止まるまで目を回していた。立ち止まったキツネはスンをぽとっと地面に落すと、立ち去った。  スンは頭の中がぐちゃぐちゃで、しばらく立てなかった。くらくらとして気持ち悪いが悪く、食べたものをもどしてしまいそうだった。それがおさまるとようやく立ち上がった。

 ふらふらと、スンはまた歩き出した。すっかり疲れてしまった。おばあちゃんは、宝石箱の中にふかふかの綿とハンカチを敷いてベッドを作ってくれた。あの寝床が懐かしい。今は床の上でも良かった。踏み潰される心配のない場所なら、地面の上でも。

 がぁがぁ鳥の鳴く声がした。白い、羽の短い鳥が歩いて行く。スンの眼に、鳥の出て行った小屋があった。男の子がいる。卵を抱えていた。気付かれては大変、とスンはふらふらしながら男の子から離れたところにある花壇に近づいた。ここなら、見つからないかもしれない。スンは花壇の囲いに登ると、横になった。硬くてごつごつしている。おばあちゃんのしてくれる、寝る前のお話や子守唄が聞きたい。眼に涙が浮かんだ。

「あら、なにあんた。」

 ぷにっとしたものが、スンの顔を押した。スンはほんの少し開いた瞼の間から、真っ黒なつやつやの毛並みのネコを見た。

「私、とても眠いの。ここにお邪魔させていただけないかしら。」

 スンはネコに頼んだ。

「そんな硬い所で? 私のベッドに案内するわ。」

 ネコはスンの背負った袋をくわえて、窓に戻った。スンには汚れた木の床しか見えなかった。ネコの案内したカゴの中は抜け毛だらけだったが、レンガの上よりは温かくて柔らかかった。

「お休み、小さなお客さん。」

 ネコのごろごろ鳴る喉の音が、少しだけ心地よかった。


 家の中は朝ごはんの時間になって騒がしくなった。家に住んでいるのはお父さんとお母さんと男の子と女の子。お母さんは病気で寝込んでいるので、女の子が食事をベッドに運んだ。お祈りを済ませ、食事を終えると男の子がネコの餌を持ってきた。

  ネコがカゴの中から出ると、男の子はスンを見つけた。

「なんだこれ。」

 男の子はスンを摘み上げた。

「お前の人形かい? 」

 女の子も食事を終えて覗きに来た。スンは、ぼんやりと眼を開けた。男の子と女の子はわっと叫んだ。スンはぽとんとネコのカゴの中に落ちた。

 隠れる場所も逃げる道もなく、背中をカゴにくっつけて、スンは小さくなった。

「小人だ! お父さん、お母さん、小人だよ! 」

 女の子が叫んで、男の子がスンに手を伸ばした。スンはガタガタ震えて、摘み上げるように持ち上げられた。男の子はコップの中にスンを入れると蓋をした。真っ暗になった。

「本当だよ。この中にいるんだ。」

すぐに、蓋を開けられた。お父さんとお母さんと女の子と男の子がスンを見下ろしていた。

「小人だ。こいつはすごい。」

「生きているの? 」

お母さんが言って、男の子がまたスンを乱暴に出そうとした。

「やめてよお兄ちゃん、ひどくしたら可哀想。」

 女の子が男の子を押しのけると、カップを傾けて掌を出した。けれどスンは出て行かなかった。外に出たらどんな目に遭うか、考えるだけで恐かった。

「ほら、お兄ちゃんが乱暴にしたから。」

 女の子が男の子を睨んで、コップを元に戻した。八つの目に見下ろされながら、スンはしくしくと泣いた。

「お腹すいてない? お母さん、残ったパンあげていいよね? 」

「ええ。こんなに震えて、可哀想に。」

 女の子がパンを一口大に切って差し出した。スンはどうしていいかわからず、受け取った。のどがつまっていて、ちっとも欲しくなかった。

「お前金貨を出したりできるのか? 」

 男の子が言ったけれど、スンは首を横に振った。男の子はつまらなさそうに、スンを見るのをやめた。

「貴方名前は? 」

「スン。」

 スンが応えると皆目を丸くした。

「喋った。」

「生きてる。」

 女の子は嬉しそうに笑った。けれどスンは怖くて、パンを握ったまま眼に涙をためた。

「おうちの中に入ってごめんなさい。すぐ森に帰るから。」

「森って、その足でか? 」

 男の人が驚いて言った。スンはこくりとうなづいた。

「お父さん連れて行ってあげて。明日、母さんの薬を買いに行くでしょう。馬車で森の中を通るじゃない。」

 女の子が男の人を振り返った。男の人は、しばらく考えていた。

「そうだな。昼前には着ける。」

 スンは男の人をじっと見た。考え事をしているのか、目線が宙を漂っていた。

 やがて男の子が動物達の世話をしに行き、女の子は掃除や洗濯を始めた。スンは段々とここが安全だと思い始め、とっても眠かったので、女の子が作ってくれたマッチ箱で眠っていた。

 眼が覚めたとき、咳をする声が聞こえた。お母さんがベッドの中で咳をしていた。

「ごめんなさいね、眼が覚めちゃった? 」

「もう、たくさん寝たから平気。」

 スンは苦しそうにしているお母さんの顔を見上げた。そして、縫い物をしている手を見た。

 細い指だけど、おばあちゃんと同じ土仕事をしている手だとわかった。皮膚が硬くて、日に焼けた手。最初からベッドで過ごしていたわけじゃないのだろう。

「貴方、お母さんとお父さんは? 」

 スンは口を開きかけて閉じた。ほんの少し考えて、口を開いた。

「お母さんは、いないの。お父さんは、知らない。おばあちゃんが、いた、から。」

 スンの目に涙が溢れた。おばあちゃんの顔が目に浮かぶと、恐くて悲しくて、言葉が出なくなった。  そっと、スンに向かって指が伸びた。

「ごめんなさい。悲しいことを思い出させてしまったのね。」

 おばあちゃんによく似た指だ。土仕事をしてお日様を浴びて、たくさん働いて、ガサガサした優しい指になっていく。

 頭を優しく撫でてくれる指のせいで、お祖母ちゃんのことばかり思い出す。いつもなら撫でてもらうと痛いことも悲しいことも段々小さくなっていくのに、苦しさがどんどん膨れ上がっていた。


 翌朝スンはカゴの中に入れられた。スンは急に不安になったけれど、猫に襲われたら大変だからだと言った。

「お父さん、スンを絶対危ない目にあわせちゃだめよ。ちゃんと送ってあげてよ。」

 女の子が念を押すように言うと、男の人はカゴを大事に抱えた。

 町に品物を出す人がいたので、馬車に乗せてもらった。馬は時々溜息をついていた。

「もう、荷物が増えて嫌になっちゃう。田舎の道は歩きにくいんだもん。」

 スンはこっそり馬を見た。憂鬱な顔をしている。広い道に出ると、少しはましね、というような顔をしていた。

 男の人が乗せてくれたおじさんにお礼を言っている間に、スンは馬車の持ち主に見つからないようにカゴの隙間からこっそりと馬に囁いた。

「乗せてくれてありがとう。良い日を過ごしてね。」

 馬はスンの声がどこからするのか分からなかったのでぎょっとしていた。

 カゴの隙間からたくさんの人が見えた。町に行ったときよりもたくさんの人がいた。人それぞれ服装が違った。粗末な服を着た人もいれば、厚くてしみ一つない、鮮やかな色をした服を着ている人もいた。道の端っこには、痩せたぼろぼろの布をまとった人がいて、手を出していた。

 誰も振り返らない。哀れな姿をして、ぼろぼろの服を着て、枯れた枝みたいに痩せているのに。

 スンは胸がぎゅっと押しつぶされて、食べたものを戻したくなるような奇妙な気持ちになった。恐いというのとも、悲しいというのとも違う。ただ、これ以上外を見たくなくて奥のほうに身体を寄せた。早く森に帰りたい。

 男の人は一軒のお店に入った。スンが以前行ったお店よりももっとたくさんの瓶があり、天井も高くて広い。清潔な白い服を着た人達が、部屋の奥にいて秤で慎重に薬の量を分けている。

「去年よりも少ないな。」

がっかりしたような、男の人の声がした。

「不作で薬のほとんどが値上がりしてるんだよ。」

 何の感情もこもっていない声だった。言いなれた言葉なのだろう。スンはたくさんの人を見れば見るほど、つらくなっていく気がした。

 お店の外に出ると、雪が降っていた。よく見ると雪より白くて軽いものだった。男の人は立ち止まる。ひらひらした薄い布を重ねた服を着た、綺麗な女の人が微笑みかけた。おばあちゃんの話に出てきた、妖精みたいだ。金色の髪をしていて、肌が雪みたいに白い。次から次に、不思議な姿の人達が通っていく。

 金色のピカピカ光る輪をたくさん付けた、真っ黒な肌の人。首が長い。耳たぶにも大きな輪がぶら下がっていた。赤と白のしましまのへんてこな服を着て、眼に星型の絵を描いた顔。ひらひらした服を着た女の人達。

 一体何が始まったんだろう。スンが目をぱちくりさせていると、男の人が歩き始めた。  

 子供達がはしゃいで付いて行く。町の人達も見ていた。歳をとった人も、若い人も。

 奇妙な集団は街の広場に集まった。星型の絵を描いた顔の人が玉の上に乗っていた。細い身体をした男の人が玉をいくつも手の中で転がしている。妖精の姿をした女の人が見世物の知らせをし、子供達は小銭で動物の形をしたお菓子を買っていた。鳥や犬や馬の形を、老人が水あめで作っていた。

「ここの支配人に会いたいんだが。」

 男の人はスンのいるカゴを大切に抱えたまま、荷物を運んでいる男の人に尋ねた。スンは色鮮やかな三角の布を見ていた。黄色い毛並みの黒い縞模様のある巨大な、猫みたいな顔をした生き物がいるのにも気をとられて、自分が一体どこに運ばれているのか気付かなかった。

 周りの人のはしゃぎ声で騒がしかったせいもあり、森に連れて行ってもらう約束も忘れていた。

 何かの上に置かれた時、頭の上から溜息が聞こえた。

「すまない。」

 スンははっと顔をあげた。

「薬がもっと買えれば……治るんだ。死なずにすむんだ。アイニはまだ十一歳で、ダヤナも去年七歳になったばかりなんだ。すまない。」

 スンの視界が、黒いズボンで隠れた。

「見せてもらおうか。」

 スンの周りが急に明るくなって、見上げると大きな顔が見えた。口の周りに髭を生やした、太った男の人。スンを見て驚いて、それからにたっと笑った。スンは怯えて、縮こまった。

「あぁ、恐がらなくていい。ほら、お菓子を上げよう。」

 バターの匂いがして美味しそうなお菓子だった。けれどスンには魅力的に見えなかった。

「ナノ、この子をお前の部屋に連れていけ。丁重におもてなしするんだぞ。」

 ひらひらしたスカートを履いた女の人が来て、スンを見てびっくりした。

「ほら、急げのろま。」

 躊躇いがちに抱えられた。スンは振り返った。太った顔の男が、金色のコインを男の人に三枚渡すのが見えた。

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