旅立ち
森の中で空を眺めたり木のてっぺんに登って空気を吸ったりするのがスンは大好きだ。町から漂ってくる匂いも嗅ぐことが出来る。パンの焼ける匂い、洗濯石鹸、あちこちの家で作られたスープ。スンは森の向こうには何があるのか、不思議でたまらない。
「おばあちゃんはいつか町まで連れて行ってくれるかしら。」
スンは誰に話すわけでもなく呟いた。
おばあちゃんは楽しい話をたくさんしてくれる。星の物語や魔法の道具の話。スンがみたことのない動物の話も聞いた。おばあちゃんが話してくれるもののほとんどを、スンは知らない。スンは毎日森の外が気になってしかたなかった。町にいるのは若い人、小さな子供、おばあちゃんよりも歳をとった人、いろんな人がいるらしい。会ってみたい、話してみたい。
鳥は町は森よりもいろんな味の食べ物があるという。けれど畑の中には恐ろしいものが立っていて入れない。人間の代わりに見張り番をしているそうだ。ウサギも、人間の育てるものはおいしいという。けれど、一歩間違えればパイにして食べられてしまうと。
「それでも行かずにはいられないんだよね。」
ウサギが笑って言ったのがスンの頭の中に残っている。行った事のないへの期待はどんどん膨らむ。 森の鳥が巣に戻っていくのに気付いたスンは、家に帰ることにした。幹に絡まった蔓を掴んでネズミやリスのようにするする降りる。じめじめした滑りやすいコケは避けて、固くしっかりとした皮を掴む。地面に降りると巣に戻っていくキツネの姿が見えた。一緒になって草のアーチを通り、葉っぱの上を跳ねていく。
「やぁ、小さな娘さん。お帰りかい? 」
泉に向かう途中の年寄りキツネが話し掛けた。 若いキツネは悪戯好きだけど、年寄りの狐はスンにもおばあちゃんにも優しかった。
「貴方はこれからご飯? 」
「そうだよ。よかったらベーコンを分けてもらえないだろうかな。」
キツネが優しいのは、おばあちゃんが分けてくれるベーコンが好きだということもあった。
「頼んでみるわ。」
キツネはスンを背中に乗せると風のように走った。若かった頃はもっと速く走れたんだ、と年寄りキツネはよく言う。今でも充分速いとスンは思った。 あっという間に家についた。スンはお礼にベーコンをくれないかおばあちゃんに頼んだ。おばあちゃんは快くベーコンをキツネに分けた。
「スンとこれからも仲良くしておくれ。私がいなくなっても寂しくないように。」
キツネを見送りながらおばあちゃんが言った。スンはおばあちゃんの肩に乗って、横顔を見つめた。 おばあちゃんがそう言うたびにスンは悲しくなった。おばあちゃんがいつかいなくなるなんて、スンには信じられないことだった。おばあちゃんがいなければ、一人で食事をして、子守唄を聞かずに眠らなくてはいけない。森の動物は友達だけれど、おばあちゃんの代わりにはけっしてなれない。おばあちゃんがいなくなると、スンは一人ぼっちになるのだ。
「おばあちゃん、私の傍にずっといて。私、おばあちゃんがいなくなったら、どうしていいかわからない。」
おばあちゃんと一緒に食べるスープの中には、野菜の端っこが入っている。固い皮もことこと煮込めば柔かくて、おいしく食べられる。スンはおばあちゃんの作ってくれるスープが大好きだ。
スンの頭を指の先でそっと撫でて、おばあちゃんは言った。
「みんないつか死ぬんだよ。花が枯れ、夏のセミが死に逝くように私の命も終わるんだよ。」
悲しそうに、スンを見つめておばあちゃんは溜息をついた。
「お前が人の中で生きたほうが良いのか、良くないのか、私にはわからないよ。」
おばあちゃんの目から大きな涙がこぼれた。スンは、じっと涙を見ていた。
「おばあちゃん、眼にゴミが入ったの? 痛いの? 」
おばあちゃんは、少しだけ笑った。
「そうだね。少しだけ。でももう流れたよ。」
おばあちゃんがどうして笑ったのか、どうして笑っているのに悲しそうに見えたのか、スンには解らなかった。
暖かくなった日、スンはおばあちゃんが野苺のジャムを煮るのを手伝っていた。スンは小さいけれど、野苺のジャムの蓋に日付を書いたり細かいゴミをのける手伝いをした。
「さて、これを町まで持っていこう。」
おばあちゃんがいくつかカゴに入れたとき、スンは自分も町へ連れて行ってもらえないだろうか、じっとおばあちゃんを見ていた。おばあちゃんはスンには気付かない様子で、大きな瓶を二つカゴにいれた。それを背中に背負うと、窓が閉まっているかを確認した。最後に、テーブルの上でずっとこっちを見ているスンに掌を伸ばした。
「おいで。お前も、町がどんなところかそろそろ知っておかないとね。」
スンは、小さな口をめいいっぱいあけて笑った。おばあちゃんの硬い皮の掌に抱きつくように飛び乗った。固くて、温かくて、苺の甘酸っぱい匂いがした。
胸のポケットにスンを入れると、おばあちゃんは家を出た。鍵をかちゃんと閉めると、銀色の鍵を首から下げた。
スンは、おばあちゃんのポケットから見える葉っぱや木を眺めて、段々近くなる町の匂いにうきうきしていた。日差しが気持ちよくて、ポケットの中が温かくて、スンは町の門をくぐったときじぃっとそれを見上げた。町名の端っこに虫のさなぎが裏側についていた。
「いいかい、あんまり大きく身を乗り出したり声を出しちゃいけないよ。」
おばあちゃんに言われ、スンはなるべく深くポケットにもぐりこんだ。眼から上だけを少しだけ出すようにして、肉屋や走り回る子供達、軒下の猫を見た。おばあちゃんよりしわの少ない女のひとたちがこっちを見てこそこそ何か喋っている。雑貨屋でジャムとコインを交換して、薬屋で薬草とコインを交換した。
「今年も不作だったらおしまいだな。」
「これじゃ薬草もダメかもしれない。」
店の隅で男の人達が話していた。
去年、おばあちゃんの畑もあまり作物がとれなかったけれど、二人が食べる分には充分だった。おばあちゃんがきちんと蓄えを取って置いているのも役に立った。 スンはおばあちゃんの手が自分の傍をぐーっと伸びてテーブルの上にあるコインを掴み、お袋にしまうのをじっと見た。
「森の奥は相変わらず豊作かね? 」
「去年よりはいくらか少ないですが、暮らすのには充分です。」
スンはおじいさんの眼鏡の丸いピカピカ光る銀色のふちを見た。
「あまり景気がよくないよ。昨年不作だったから薬草も足りない。今度も不作だったら冬を越すのが難しいかもしれない。」
溜息をついておじいさんは言った。 棚いっぱいに入った薬瓶と、ぶらさがった乾燥したはっぱ、木の根っこの入った瓶、茶色い変な色の中にはいった根っこは、くの字に曲がっている。 おばあちゃんの後ろにいる人達がこちらをちらちら見ていた。おばあちゃんは手早く荷物をしまってそのお店を出て行った。
おばあちゃんは肉屋でベーコンを買った。ぶらんと下がったおいしそうなソーセージを、スンは数えた。二十まで数えたけど、全部数え終わらないうちにおばあちゃんは出て行った。買い物をしている、顔にしわのない女の人達が、こっちを見てこそこそ話していた。さっき入ったお店でも、窓の外からこっちを見ている人達がこそこそと話していた。その顔は冷たくて、心がきゅっとなる顔だった。
スンの想像とは違う。誰も笑っていない。小さな、スンよりは大きな女の子が、女の人のスカートをぎゅっと握っていた。
「お母さん、おなかすいた。」
冷たい顔をして話していた女の人が、優しい顔になった。
「帰ってご飯にしよう。」
女の子がにっこり笑って抱きついた。
お母さんの話をおばあちゃんは時々してくれた。スンを残してすぐ死んでしまったこと、でもスンを気にかけていたこと。スンと同じ、黒い髪と黒い目をしていたこと。でも、スンにはお母さんはよくわからなかった。 スンとおばあちゃんが初めて出会った場所に行くと、スンはいつも温かい気持ちになった。おばあちゃんに抱きしめられた時と同じ気持ち。日向ぼっこをしているのに、少し似ていた。
おばあちゃんは野菜と果物のたくさんある市場に行った。大きな声のおじさんが野菜を売っている。小さな猫がにゃあと鳴いて、おばあちゃんの足に擦り寄った。おじさんの手には不思議なとげとげのついた果物があった。
「これは昨日仕入れたんだ。甘くてとろけるような味がする、異国の果物だよ。」
スンは顔を半分だけ出して見た。とても不思議なカタチだ。卵みたいなのに、棘がいっぱいある。もっとよく見ようと、夢中で身を乗り出した。
おばあちゃんの後ろで馬車が大きく傾いて通り過ぎた。道の端にいた女の人が後ろに避けて、おばあちゃんをドンと押した。ころんとスンは、前のほうに倒れて、つやつやのリンゴの上に落っこちた。
おじさんの目がまん丸になってスンを見た。スンは、スカートの裾をそっと押さえておじさんを見上げた。
「こんにちは。」
スンは挨拶しようとしたけれど、おばあちゃんがスンを両手で覆ってかごに入れるまで、あっと言う間だった。 おばあちゃんは駆け足で町を飛び出した。家に帰り、誰もついてきてないか外をうかがう。スンはポケットの中から出てきて、おばあちゃんの後姿をじっと見た。
帰り道、おばあちゃんは何も言ってはくれなかった。忙しそうに早歩きで、ときどき後ろを伺うだけだった。スンはスカートの裾をぎゅっと掴んで、じわっと眼に浮かんだ涙の熱さで顔中が真っ赤になった。
「ごめんなさい。」
何がどうなってしまったのか、スンにはさっぱりわからなかった。けれどとても悪いことをしてしまったのだと、解った。
おばあちゃんは机に腰掛けて、スンを見下ろした。人さし指で優しくスンの頭を撫でた。スンはおばあちゃんの人さし指に顔をくっつけて、涙をこぼした。涙は熱いものだと、スンは知った。
「……スン、ここを出て行かなきゃいけない。今すぐに。」
スンは顔を上げた。
「どうして? 」
スンは驚いて涙が止まった。
「町の人達は私を余所者だからあまり好きじゃないんだよ。中には魔女と疑う人もいる。不作なのに、あんなにたくさんの薬草を持って行ってしまった。」
「おばあちゃんは薬草だけじゃなく、他のものも育てるのが上手だわ。土のことをよく知っているからだわ。それはいけないことなの? 」
おばあちゃんはそっと微笑んだ。
「小さなハンカチがあったね、それを出しておいで。パンを一つまみ、チーズも持って。私とお前が離れてしまっても、お前が遠くまで行けるように。」
おばあちゃんが立ち上がると、したくを始めた。スンは机の上で立ち尽くして震えて叫んだ。
「そんな怖いこと、言わないで。私おばあちゃんと離れるなんてできない。そんなことになったら、どうやって生きていけばいいかわからない。」
棚の引き出しの中から、おばあちゃんは何かを取り出した。スンの背丈と同じくらいの細袋。中から銀色の針を出してスンに見せた。
「これはお前のお母さんの形見だよ。お前はこれを離しちゃいけない。」
スンは首を横に振って暴れるが、おばあちゃんは無理やりにでも針を背負わせた。恐くてスンの身体はガタガタ震えた。 乱暴に扉をたたく音がした。外には、光がちらちら見えた。おばあちゃんの眼は震えていた。お腹を空かせたキツネとであった、ウサギのように。 けれどにこっと笑い、スンを床に下ろすと言った。
「愛しているよ。お前は私の大切な娘だから、幸せになっておくれ。」
スンを振り返りながら玄関に行った。扉を開けた瞬間、乱暴におばあちゃんが連れ出された。
スンの眼から涙が溢れ出た。つぶれた声で叫んで、玄関に駆け寄ろうとした。突然火が投げ込まれた。窓ガラスが割れ、キラキラ夕焼け色に光りながら机やカーテンや、おばあちゃんの作りかけのキルトの上に落ちた。火の粉が舞う。火は次々に投げ込まれ、スンは小さく悲鳴を上げて台所に走った。
カーテンが燃え上がって、背中が熱かった。 結び目をつけた紐を登って、乾してある布巾の隣にある、スンの手にぴったりの風呂敷を掴んだ。ふわふわのパンの上に飛び降りて、できるだけ大きくちぎった。チーズもちぎって入れると、窓から黒スグリのしげみに飛び移った。
町の人が裏口にもいた。炎で照らされた顔が、恐ろしくてスンはガタガタ震えた。
「魔女を火あぶりにするんだ! そうすればきっとまた作物は元に戻る。」
「いいや、国王に突き出すんだ。魔女を連れてきたものには金貨が五十枚もらえる。皆飢え死にしなくてすむぞ。」
「薬も買えるわ。」
村に人たちが口々に話していた。スンはおばあちゃんを見た。棒を持った人たちがおばあちゃんを囲んでいる。スンは叫んでおばあちゃんに抱きつきたかった。
背後で大きな音がした。身体から汗が噴出す。スンが震えていると、しげみの中にいたネズミが、こそっと動いた。
「お腹がすいたんで来てみれば。一体全体何があったんだい? おばあちゃんは? 」
「町の人に……私、どうしていいか……。」
スンの声がぶるぶる震えていた。野ネズミはスンを見て、町の人達を見た。
「いいかい、このままじゃ丸焼けだ。僕についてきな。君一人じゃどうにもこうにも分が悪い。踏み潰されて終わりだ。」
野ネズミが飛び出したので、スンは涙をこぼしながらネズミの後を追いかけた。ぐわっと踏み下ろされる靴の間を抜け、森の中に駆け込んで町の人の姿が見えなくなっても、スンの口から泣き声が漏れ、震えはおさまらなかった。
暗くなったのに、空は赤くなってごうごうと燃えている。物の焼ける匂いが身体中にまとわりついて、ずっと鼻の奥に残っている。スンはとぼとぼ歩きながら、木の枝につまづいてころんだ。起き上がれなかった。
町に行かなければ良かった。果物に夢中にならなければよかった。
スンは胸が痛くて、恐くて、歩けなくなった。大好きなおばあちゃんはいない。一人ぼっちだ。これから先どうしていいかわからない。
ネズミがスンの顔を匂った。
「早く早く。風向きが変わったらここも燃えてしまうよ。もっと奥へ行かなきゃ丸焦げさ。急いで急いで。」
スンは顔を上げてネズミを見た。
「私、もうどうしていいのかわからない。おばあちゃんがいないなんて、こんな日が本当にくるなんて。」
ネズミは鼻をひくひくさせる。スンの顔をぺろりと舐めた。
「僕らみたいな小さいのがあちこちでわんさか生きてるんだ。君だってなんとかなるさ。ほらほら行くよ。」
スンはよろよろ立ち上がると、後ろを見た。
おばあちゃんと一緒に食事をしたテーブル、作ったジャムや干した果物、全部燃えてしまった。
スンは前を見た。ネズミが催促するように、スンを見ては少し走り、また走る。スンは追いかけた、草があちこちに伸びて、木の枝や根っこを乗り越えて、少しずつ家から遠ざかる。おばあちゃんと行った小川を越えると、そこは今まで行った事のない森の中だった。
最後にもう一度振り返って、スンは小川の上に倒れた大木の上によじ登った。コケがぬるぬるしてなかなか登れなかったけれど、ネズミが背中の袋を引っ張って手伝ってくれた。
「いやはや、ここまでくれば大丈夫さ。しかし、腹ぺこのままだ。これからご飯を探さなきゃ。」
鼻をひくひくさせるネズミに、スンは言った。
「私、チーズを持ってるわ。」
スンは持ってきたハンカチを開き、自分の両手ほどの大きさのチーズを出した。
「あげる。私一人だったらここまでこれなかった。」
「だって、いや、それはよくない。君の分じゃないか。うん、よくないよ。」
スンは首を横に振った。
「食べられないの。さっきから胸が苦しくて、少しでも軽くしたいの。」
ネズミはそれでもまだ手を引っ込めていたが、スンが差し出したまま動かないので、受け取った。
「ありがとう。いいのかい? 本当に。君はどうするのさ? 」
「私にはまだパンがある。ここまで連れてきてくれて、ありがとう。」
ネズミと別れた後、寝ずにスンは歩いた。涙はやっと枯れて、スンのまぶたはひりひりと痛んだ。気がつくと空は段々赤紫になって行き、澄んだ青色が見えていた。
朝が来た。